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葛西氏との対話部屋

葛西氏と管理人のみ入室可能としています。

若しページに50コメント以上重なった場合、別ベージを新たに作成します。

葛西さん書き込み可能状態です。お願いします。

元原稿「ブログ&コメント義

対話の外野部屋

MonLinGen管理人(2018年1月17日 19:40)

 

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葛西氏との対話部屋” への1件のコメント
  1. 葛西 より:

    まずは特設ページの設置に対して、御礼申し上げます。
    以下、本議論の典拠となるダメだしブログのURLならびに私から貴殿への質問を記載させていただきます。
    長文になり恐れ入りますが、
    ご確認ください。

    <典拠>
    ※URLはh抜き

    ・のんかつ氏、ダメ出しブログに登場(記事Aと呼称)
    ttp://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-405.html

    ・のんかつ氏による日蓮正宗批判とダメだし管理人の応答(記事Bと呼称)
    ttp://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-406.html

    ・のんかつ氏とダメだし管理人の対論(記事Cと呼称)
    ttp://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-408.html

    ・のんかつ氏とダメだし管理人の対論に関する外野用コメント(記事Dと呼称)
    ttp://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-409.html

    ・のんかつ氏が日を置いてコメントをしてきたことに対するダメだし管理人の応答(記事Eと呼称)
    ttp://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-413.html

    <質問>
    先述のとおり、本質門は議論に当たって明確にしたい情報を確認するためにするものです。

    ●記事Aについて
    ・ダメだしブログに書き込みをした理由は何ですか?

    ・貴殿のブログに書き込んだ「ダメだし」なる人物が、ダメだし管理人本人であることに対して、
    疑念はございませんでしたか?

    ・なぜ当初、自らの書き込みの意図や、
    Monlingenブログの管理人であることを明かさなかったのですか?

    ●記事Bについて
    ・「中身の無いコメント」発言について謝罪しておられますが、
    具体的になぜ謝罪の必要があると考えたのですか?

    ・貴殿は、「魔が出る」ことを宗教の判断基準にしておられるようですが、
    魔の定義とは?またその魔が出ている教団は、創価学会だけだとお考えですか?

    ・加えて、「宗教がどれだけ拡大しているか」を基準にしておられるようですが、
    「拡大」は、拡大した国の数ですか?それとも信者数ですか?それ以外でしょうか?

    ・『さらば日顕、さらば大石寺-正宗僧侶の内部告発』を典拠にしておられますが、
    そういった告発本の類は、議論の典拠として相応しいとお考えですか?
    もし「典拠になる/ならない」の判断基準がございましたら、併せてご教示ください。

    ●記事Cについて
    ・「三証を揃えて議論」という貴殿の要望に合う形で、
    ダメだし管理人の質問に回答するとしたら、どのような答えになりますか。

    ①-①「本門本尊」の定義(体)を示した上で
    ①-②「弘安二年の大御本尊」つまり「本門本尊」を受持しなくても良い。
    という文証を提示し、「本門本尊」不受持の正当性を論証してください。

    ②大御本尊も書写の本尊もすべて等しいのであれば、
    ②-①顕正会や身延の本尊でも流布したり信仰の対象としてもいいのか?
    ②-②顕正会や身延の本尊を書写した本尊も「正しい本門本尊」なのか?
    ②-③顕正会や身延の本尊が正しいのならば「創価」も「顕正会」「身延」もみな同じなのか?

    ※ダメだし管理人の質問では、「文証を提示」となっていますが、
    貴殿なりの「三証をそろえての提示」で結構です

    ・ダメだし管理人の言うとおり、文証だけで上記の質問に回答することは可能ですか?不可能ですか?

    ・「法論をしたことがありますか?」とダメだし管理人に言われていますが、
    法論の経験はございますか?

    ・対話を”キャンセル”した理由は何ですか?

    ・対話を”キャンセル”した後に、再度対話を申し入れた理由は何ですか?
    また、その対話のテーマとして、何を想定していましたか?

    ・再度の対話を申し入れた後、「糞尿連」などの書き込みをした理由は何ですか?

    ●記事Dについて
    ・2017-06-22(10:45) に、外野用のコメント部屋にコメントをされていますが、
    なぜそこにダメだし管理人向けのコメントをされたのですか?
    「ここでいいんでしょうね。ここだと書いてましたので、送付しますね。」とは、
    何を指すのでしょうか?

    ・「想像して下さいな、大人というものを。 」という発言の意図は何でしょうか。

    ●記事E
    ・記事Eにおけるダメだし管理人の見解に対する反論はありますか?

    ●その他
    ・創価学会が日蓮正宗との法論で、「文証」だけを用いて議論していることが多数であると認識しています。
    これについてはどう思いますか?私の現状誤認でしょうか?

    ・貴殿の「胸躍る仏罰」を拝見すると、
    学会の脱会者などが仏罰を受けることを楽しみにしている、ということでよろしいですか?

    ・貴殿の「罰論」では、
    創価学会に関わらない大多数の人間(外国のキリスト教徒)などは
    どのように位置づけられますか?

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      詳細な質問、お疲れ様です。
      先ず話しておきますけど、この件に関しては自分の中では既に過ぎ去った問題として処理されていますので、記憶を辿りながらの返答になります。ですので、煩瑣な答弁はする積もりは一切無いことをお断りしておきます。
      若しかして、葛西さんの意向に沿った話は出来ないかもしれませんが、上記の状態ですので許して頂ければと考えています。

      〇「ダメ出しブログへの書き込みの理由」
      …ある人がウチのブログに「ダメ出し」の名前を使用して、少々変な話をしてきました。初めは相手にしてなかったんですけど、その内に「これは何とかしないと」と言う気持ちになり、そして、ブログ名は知っていましたのでそのブログに投稿したのです。
      コメントしている間に、当ブログの管理人がウチのブログにコメントをしたと言うことではなく、詐称としてのコメントだったことが判りました。その時点でお詫びのコメントは書き込みました。
      HNは表面上では全く真偽の見分けは付きません。そう言うものなんでしょうね、ネットとは。故に、「何故、疑念が無かったか」と言う話は、かなりな愚問だと言えます。

      〇「何故HNをMonLinGenにしなかったか」
      …「MonLinGen」はHNではありません。ブログの名称です。皆さんがこの名前で私を呼でいるだけで、HNとして自分が使用したことは一切無いのです。「のんかつ」は、一種の皮肉として使用しただけです。彼等アンチ連は「バリ活」を、学会員に対して蔑称として使っていますので、それに対するものです。
      コメント送付の意図は、興味本位です。どれだけ彼等が実際に腐った連中か、中に入って直接感じてみたかったのです。その結果は、想像通りで大体満足出来るものでした。

      〇「中身のないコメントによって少々の謝罪の必要性」
      …上述の如く、これは結果論としてこちらのミスでしたので、ミスはミスとしての謝罪は必要でした。故のことです。

      〇「魔の定義等」
      …三障四魔が出来することは「御書」に明確に記載されています。日蓮大聖人の仏法を、まかりなりにでも修行している人間が、「魔」の出ないと言う事が考えられるでしょうか?三障四魔をどう解釈するかは、多分十人十色とも言えるでしょうけど、問題は御本尊を中心にした信心であれば、これは自分自身の「感得」になります。
      「僭聖増上慢」は、どんなにへ理屈を捏ねたとしても「日顕宗」の話になります。
      何故か…。
      彼等は学会を「C作戦」の実行として「破門」しました。で、現時点で学会と宗門はどうなっているか…?現在学会からは、無数の地涌の菩薩が地から湧き出でています。アフリカでも、凄い勢いで学会員が増えていて、御本尊授与も制限して入るぐらいです。韓国にも居ます。話では北朝鮮にも居るようです。
      然るに宗門の現状は…?何千万人になったんでしょうか?

      これが現実の、三障四魔からの宿業転換の「現実」なんですよ。
      「魔」(破門)が実際に出て、そしてその状態を「転換」した結果、功徳としての広宣流布の広がり。
      …自分の目で「見るか」、目を「逸らせる」か、どうかでしょうけどね…。

      〇「宗教の拡大云々」
      …よく有る質問です。問題点が全く見えていない人間の、「広布」と言うものの考え方と言えます。問題は一つしかありません。
      「幸せになった人がどれだけ増えるか」
      これだけです。ここでは人数や国の数など大した問題ではないのです。
      「折伏」とは、幸せになった人がどれだけ増えたかです。
      「人数、国の数」と「幸せになった人の数」…この二つは似て非なるものなんです。

      〇「内部告発の基準」
      …彼(か)の本も基準にします。当然です。そして「地涌」も第一級の宗教資料となります。
      貴方がアンチ連の話を基準にしているのと、同じだと言えますね。
      と書くと平行線になってしまいますから、一言。
      一度でいいから「地涌」を読んでみて下さいな。かなりな膨大な資料集ですが、「あれ?」と思う所が必ずあります。読んでいないのであれば、同じ話の土壌ではない気もしますね。

      〇「三証を揃えての定義云々」
      …はっきり言います。本尊義や本門本尊などの下らない議論には、一切興味はありません。何故なら、宗教は、特に日蓮仏法の本義は、「実証」にあります。それ以外は実証についての「説明書き」でしかありません。
      上述の「人数」の話と同期しますが、問題は御本尊の有無や本尊義などと言う些末なことではなく、「幸せになれるかどうか」だけです。
      そんな議論好きの話は、ドブの中でブクブクやっていればいいと、私は思っています。

      〇「文証だけの回答」
      …文証だけで云々の意味が不明です。日蓮仏法は「功徳」「現証」が最第一の問題です。大聖人はどんな御文にも「現証」を出されています。その意味をもう一度考えるべきなのではないでしょうか?

      〇「法論の経験」
      …こう言う形のものは初めてでしたので、かなり楽しめましたし、そして議論好きの情け無い人間の本質を垣間見ましたので、とても貴重な経験でしたね。
      ぶっちゃけ話せば、この経験で「アンチ学会」と言う連中の底の浅さがしっかり見えました。ですからこれ以後、あんな処に出入りする気持ちにはなれません。管理人の彼には非常に感謝しています。

      〇「対話のキャンセル理由」
      …余りにも無体な話に終始していました。こちらの話は一切無視。出てくるのは怒号、中傷、批判の批判…。一度止めるしか無い状態でした。で、再度こちらからの提案を出して仕切り直しをするつもりでしたけど、それも怒号の中に消えてしまいました。
      その状態は「糞尿」としか表現出来ないものでしたね。まあ、若干表現が軽かったかもしれませんが…。

      「ダメ出し」へのコメントの答えはこれだけです。一度に全てという対話は、お互いに健康的ではありませんので、これに対する貴方の考えを聞きたいですね。

  2. 葛西 より:

    回答に対し、御礼申し上げます。
    質問への回答がクリアではないのでやや理解に窮しますが、
    私の見解を述べます。

    ○”愚問”たる理由
    「HNは表面上では全く真偽の見分けは付きません。そう言うものなんでしょうね、ネットとは。
    故に、「何故、疑念が無かったか」と言う話は、かなりな愚問だと言えます」

    そもそも私の質問は「疑念がなかったか、否か」でありますが、
    「なかった」という理解でよろしいですか?

    だとしたら、「表面上では全く真偽の見分けは付」かないHNに対して、
    疑念を抱かなかったというならば、かなり愚昧であると言わざるを得ないと考えます。

    ○「何故HNをMonLinGenにしなかったか」
    なるほど。このブログのコメントで、
    「MonLinGenより」と記載されておりますが、
    それはHNではないのですね。

    〇「中身のないコメントによって少々の謝罪の必要性」
    具体的に、とお伺いしましたが、
    ミスという言葉だけではよくわかりません。
    謝罪とは相手に対して自らの落ち度を認める行為だと考えますが、
    貴殿はこのコメントにおいて、どのような落ち度があったとお考えですか?

    〇「魔の定義等」
    貴殿の話は、重要な部分を「感得」で済ませるところが多いと思います。
    要するに、「答えは僕の心の中に・・・」というような。
    もちろん「感得」が重要な要素であることは言うまでもありませんが、
    それを言語化せずに議論が成立するとお考えですか?
    また、その「感得」は、
    共同主観的に成り立つのでしょうか
    (つまり個人の主観だけではなく、多数の人間が共有できるものか)?
    もし成り立つとすれば、その理由はどのようにお考えでしょうか?

    ○広布の定義について
    ご教授ありがとうございます。
    下記が貴殿のダメだしブログでの記載でしたが、
    そのような認識なのですね?

    「その基本がズレると、現実のお話になりますけど、現在のSGIの広がりが見えて来ません。
    190国以上に広がっている大聖人の仏法が厳として存在する事、そしてこの仕事を今もやり続けている組織が創価学会だと言う事を無視するのは、
    さて正しいものの見方なのかどうか? 」

    さて、となると「幸福になった人数」を尺度として用いるべきとお考えなのですね?
    貴殿は「創価学会には幸福になった人が多い」というご主張でしょうか?またそれは、どのような根拠に基づくものでしょうか?
    またそれは牧口会長の「実験証明」という社会科学的方法にも関係するものですか?

    〇「内部告発の基準」
    この質問でお伺いしたかったことは、
    「貴殿が資料選定の基準をどのように定めているか」という点です。
    これに対する回答が「地湧を読めばわかるよ」であるということは、
    特に基準をお持ちでないということですか?

    ちなみに私も地湧通信は図書館で数冊読みましたが、
    これを対論で出すとなると、
    日蓮正宗側に矢野や藤原の本も資料として使うことを許すことになると思います。
    場合によっては、杉田かおるなんかも。

    内部告発合戦になるとお互いの恥部が晒されるばかりなので、
    地湧については、「会員の日蓮正宗離れを促進するためのツール」くらいに捉えるのがよいのではという考えです。

    〇「三証を揃えての定義云々」
    これについての解答は、「興味ない」なのですね、よくわかりました。
    となると以下の疑問が2点。

    ・なぜ「興味ない」とダメだしブログで発言しなかったのか
    ・ダメだしブログでは「三証を揃えての議論」を提示しておられたが、
    結局その議論のスキームでも、ダメだし管理人の質問には答えられなかったということか?
    (これについては答えられる/答えられないのいずれかの回答でお願いします、
    答えられる場合はどんな回答になるかもお伺いしたいです)

    〇「文証だけの回答」
    これについては貴殿のお考えとして尊重します。
    ただし貴殿は「三証そろえての議論」を提示しておられたので、
    もしその議論のスキームだったらどのような回答をしていたのか気になるところです。

    〇「法論の経験」
    これは貴殿の感想を聞いているのではなく、
    「法論の経験の有無」をお伺いしています。
    リアルで法論の経験はありますか?

    〇「対話のキャンセル理由」
    怒号の中に消えたとありますが、
    外野部屋はともかく、貴殿とダメだしの対話部屋での議論は続行可能だったのでは?
    特に記事Cにおける2017-07-01(20:05) の投稿は、
    「怒号に消えた」では説明できないのではと考えます。

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      〇愚問たる理由
      …一つ聞きます。貴方はあるブログ唯読んだだけで、管理人のあれこれを特定出来ますでしょうか?
      貴方はどうか知りませんけど、私には不可能です。数年お付き合いして初めて、何となくのイメージは湧きますが、それでも「特定」は決して出来ません。ウチのブログに唯コメントを寄せた時、そしてそれだけを元にコメント主の正体は、掴めるものではありません。私は、超能力者ではありませんから…。

      〇何故HNを…
      …何故そんなにHNに拘るのかが理解不能です。
      あのブログには「のんかつ」と言うお気に入りのHNで入ったという、それだけの事実です。それ以上の話はありませんよ。
      それを追求すると、何か賞金が当たるのでしょうか?

      〇中身のないコメント云々
      …自分が犯したミスを、謝っただけの話になります。これも追求していること自体が理解不能です。

      〇魔の定義
      …信心は「感得」が大きなウエイトを占めています。
      他の例を出しますね。合気武道で「合気」と言うものが存在します。この事実は経験者でないと決して理解出来ない技になります。この技を身に付けるには、武道のセンスと、武術の「感得」の高さが必要となります。感得という意味は非常に重要なものなんです。
      題目の功徳も「感得」です。御本尊への信心の深化も、当に「感得」と言えます。
      この「感得」は一般化出来るでしょうが、しかし、感得するには、全ての人が学会の話す通りの活動をしないと「感得」は決して出来ません。信心は方程式だと言われます。だとしても「数式を解く努力」をしないと、いつまで経っても何も変わらないのです。
      その典型が、彼等というわけです。故に、話は続けられなかったわけです。

      〇広布の定義
      …細かいことは話しても無駄のようですので、ただ一つ言います。
      信心の感得の無い人間に対しては、「幸福」の本当の定義を説明する事は不可能です。

      〇基準
      …それぞれ寄って立つ基準というものはあるようです。私の場合、「地涌」は非常に大事に出来る第一級の基準と考えています。しかし、唯それだけ後生大事にすると言うことではありません。他の書籍等も当たり前に基準の一つにしています。当然の事、題目はその基準を見極める基礎的な基準なのです。
      基準の選定、その違いなんでしょうね。

      〇三証を揃えて…
      …貴方は、なかなか煩瑣な思考方法の持ち主のようですね。
      本気で下らないと思った時点で、そのブログに対しては少々いい加減な気持ちになるのは、人間として普通なことだと、私は思っています。あそこはそれだけの価値もない所だとはっきり理解出来た故に、こちらから身を引いただけの話なのです。これは個人的な話になりますので、これ以上は止めましょう。

      〇法論の経験
      …ありませんよ。折伏は、別ですけどね。

      〇対話のキャンセル理由
      …真面に相手にする価値も、理由もないブログだったから、「対話をキャンセル」したわけです。これが理由としてなり立たないのであれば、何を理由にすればいいのか理解不能です。

      取り敢えず上記の貴方からの質問に対しての、私からの回答は以上です。
      長い期間は覚悟していますので、次回からは問題点を分離して、一つひとつにしましょう。
      私も仕事持ちで、更に、今このブログでの新企画もやりつつです。なかなか時間が取れないのです。
      そこを分かって頂けると、とても有難いのですが…。

  3. 葛西 より:

    追加で一点。

    貴殿のコメントa
    「彼等は学会を「C作戦」の実行として「破門」しました。で、現時点で学会と宗門はどうなっているか…?
    現在学会からは、無数の地涌の菩薩が地から湧き出でています。アフリカでも、凄い勢いで学会員が増えていて、御本尊授与も制限して入るぐらいです。韓国にも居ます。話では北朝鮮にも居るようです。
    然るに宗門の現状は…?何千万人になったんでしょうか?」

    貴殿のコメントb
    「…よく有る質問です。問題点が全く見えていない人間の、「広布」と言うものの考え方と言えます。問題は一つしかありません。
    「幸せになった人がどれだけ増えるか」
    これだけです。ここでは人数や国の数など大した問題ではないのです。
    「折伏」とは、幸せになった人がどれだけ増えたかです。
    「人数、国の数」と「幸せになった人の数」…この二つは似て非なるものなんです。」

    コメントaでは「三障四魔を打ち破った学会の隆盛/日顕宗の衰退」を「海外への拡大や信者の人数」で評価しながら、
    コメントbでは「人数や国の数はたいした問題ではない」と仰っています。
    両者は貴殿の中で、どのような整合性を有しているのですか?

  4. 葛西 より:

    大変ご多忙な中懇切なご対応御礼申し上げます。
    1つずつ、とのことなので、
    貴殿の「感得」云々で引っかかるポイントを記載します・。

    〇魔の定義
    …信心は「感得」が大きなウエイトを占めています。
    他の例を出しますね。合気武道で「合気」と言うものが存在します。この事実は経験者でないと決して理解出来ない技になります。この技を身に付けるには、武道のセンスと、武術の「感得」の高さが必要となります。感得という意味は非常に重要なものなんです。
    題目の功徳も「感得」です。御本尊への信心の深化も、当に「感得」と言えます。
    この「感得」は一般化出来るでしょうが、しかし、感得するには、全ての人が学会の話す通りの活動をしないと「感得」は決して出来ません。信心は方程式だと言われます。だとしても「数式を解く努力」をしないと、いつまで経っても何も変わらないのです。
    その典型が、彼等というわけです。故に、話は続けられなかったわけです。

    →「信心で感得は重要」、これについては異論ありません。ですが、1点お伺いしたいのは、あなたは「自分は感得出来ている」とお考えなのですか?貴殿の記事やコメントを見ていると、「信心がわかっていない連中云々」という記載が多いですが、それは「わかっている自分が物申す」というスタンスなのですか?

    〇広布の定義
    …細かいことは話しても無駄のようですので、ただ一つ言います。
    信心の感得の無い人間に対しては、「幸福」の本当の定義を説明する事は不可能です。

    →あなたの論法は全てこれですね。「お前には信心の感得がないからわからないよ」、と。そういう回答に対しては、私も「知的怠慢」と思うばかりで、特に言うことはありません。死ぬほど本を読んでいるって、どんな本を読まれているのでしょう?幸福を完全に言語化できなくとも、幸福がどのように言語化されてきたかくらいは学ばれていますよね?

    〇基準
    …それぞれ寄って立つ基準というものはあるようです。私の場合、「地涌」は非常に大事に出来る第一級の基準と考えています。しかし、唯それだけ後生大事にすると言うことではありません。他の書籍等も当たり前に基準の一つにしています。当然の事、題目はその基準を見極める基礎的な基準なのです。
    基準の選定、その違いなんでしょうね。

    →ここでも「感得」ですか?あなた個人的に好きな本を楽しむだけならいいですが、議論において引用する際に、それで通用すると思いますか?

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      そう言う意見もあるやもしれないかな、とも思っています。
      はっきり話しますが、アンチ学会のアンチたる由縁は、学会の活動も最後まで出来ない人間の集合体故の事だと言えるのは、誰にも否定は出来ないはずです。活動が出来なかった故に、学会から離れたり、批判の批判をする立場に立っているわけですから、自己否認は出来そうにありませんよね。
      で、学会の活動を全う出来ない人間に、どうして学会の信心の感得、体験、信心の凄さが理解出来るのでしょうか?貴方達は、学会とは全く別の世界に身を置いている訳ですよね。その事実をもう一度考えて見るべきです。貴方達は学会の訓練も、体験も、更に言えば題目、信心等々の全て(と迄はともかくですが)、またはほとんどに対しての「不信」を持って創価学会の全てを見、感じ、そしてその信じられない「体験」を元にこう言うアンチ系の言動をしていることは、事実です。その不信の人間に、学会で話す「信心の体験・感得」が果たして理解出来るかどうか…。
      これはどんなに言葉を寄せ集めようとも、決して理解出来ものではありません。
      事実、「合気武道」の話を貴方達は理解しようと努力すらもしていません。これが貴方達の現実のすがたなのです。
      若し言葉で理解しようとすると、それこそ膨大な書籍を読む羽目になりますよ。しかし、それだとしても、多分無理だと思います。

      信心は、「体験」でしか感得出来ないものです。
      その体験を身につけるには、創価学会の体験でしか身に付きません。
      そして、それを信じるかどうかは、さて誰の責任でしょうか。

      信じられない人に対して、あと、一体何を話して、何もして貰うのがいいのでしょうか?
      逆に聞きたいですね。何が必要なんですか?信心体験を理解して貰うには…。

      勘違いしている人がほとんどかもしれませんね、ウチのブログの根源の趣旨は、「現証」をどう分かり易く説明するかを中心にして運営しています。その為の説明が、教学や体験、更にはアンチからのオモシロ話なんですよ。貴方にもそれなりの話は、ずっとしています。それを感じるかどうかは、貴方の問題です。

      貴方は「信心が判っていない連中云々」という解釈で見ています。その一点が、解釈の違い、体験の無さ、信心の無さという話になるような気がしますけど、どうでしょうか?

  5. monlingen より:

    葛西さんへ

    いつも聞きそびれてしまって、反省しながらの話合いになっていますので、今回はここで聞いておきます。

    葛西さんの今回の「対話の目的」をお聞きします。簡単でも、要約でも、また詳細でもどれでもいいですので、書いて頂けると、お互いに非常に事が巧く進むのではと思っています。

    で、私の今回の対話の「目的」を記します。

    目的
    1, アンチ系の、個々の事項に関しての具体的な考え方、発想方法を知りたいと思っています。
    2, アンチ系の全体の考え方は理解していますけど、一つひとつの問題の具体的な処し方が今少し理解不能ですので、葛西さんの具体的な返答や質問方法によって、具体的に理解したいと考えています。
    3, その基本的な考え方で、私も質問したり、答えを返したりします。

    間違いがあると申し訳ないので、以上の話をここに記しておきます。

    で、繰り返しになりますけど、出来れば質問は1~2程度の少量ずつにして頂けると、非常に有難いと思っています。その方が大量生産・大量消費よりは、ずっと価値的な問答になりそうな気がしています。

    宜しくお願いします。

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      若干の入れ違いがあったようですね。気にしないで下さいな。次の時にお答え下さればいいです。

  6. monlingen より:

    葛西さんへ

    単数での「質問・答」のままであれば、貴方の都合に合わせたタイミングでコメント下さい。こちらはこちらで時間の都合を見ながら行いますので。
    その方が、会話の流れが途切れずにすみそうです。

    宜しくお願いします。

  7. 葛西 より:

    まずは「対話の目的」に対する質問でしょうか?
    それは最初に書いたとおりです。
    (どなたかが親切にコメントしてくれておりましたが)

    「ブログ・コメント義」より
    ———————————————————
    ・参加者
    貴殿のダメ出しブログでの言動がかなり愚昧だったと考えている私と、
    それが誤っていると思う貴殿。

    ・目的
    上記の意見の相違が、
    どのような具体的なコメントに対する評価から生じているのか明らかにする。
    議論の進行によっては、双方自らの誤りを認め意見を修正する
    —————————————————————–

    そもそもの対話開始の経緯は、以下と言う認識です。
    ここにきて全く違う目的を提示されても、どうすればよいのかわかりません。

    ①貴殿が「コメント義」という記事を公開
    ②貴殿のダメだしブログでの行為は、
    自語相違に当たるものなのではないかと、私が指摘
    ③それに対して、
    「最後まで責任をもてるなら何でも回答する」と貴殿が回答。
    ④私が対話の目的を提示し、
    対話を開始

    突然、3つの目的を提示されましたが、
    私はどうすればよいのでしょうか?
    何をトピックにしたいのでしょうか?

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      対話の目的は了解しました。この件は私のミスですね。他のことに気がいっていて、いつもバタバタしながら、肝心な話が疎かになってしまいます。

      基本、葛西さんの質問に私が答えるという感じで進めるのがいいですね…。

      話の終わりの①~④の意味が、よく理解出来ませんので、若干の補足をお願いします。

      「外部部屋」での話は、一切気にしないで下さい。こちらは、対話とは直接の関係の無い場所です。所謂、ガス抜き部屋になります。「質問」は正式な対話部屋にてお願いします。
      故に、外部部屋での話はこちらに持ち込むつもりはありません。

      出来るだけシンプルに、そしてスマートに質疑応答が出来ればいいと思っていますので、宜しくお願いします。

  8. monlingen より:

    葛西さんへ

    質問は基本的に一つひとつ、貴方が疑問に思うことを聞いて頂ければ、何となく上手く行くのではないでしょうか?

    …どうぞ。

  9. monlingen より:

    葛西さんへ

    どこで盛り上がるのも自由です。でも、ケジメは付けて行くべきだと思います。

    今回の件は、この「対話部屋」が中心だと私は思っています。もし、そちらの「外野部屋」を完全に優先したいのであれば、この部屋は貴方にとっては何の意味も無い場所だと、そう解釈せざるを得ません。

    対話自体を拒否するのであれば、完全に当部屋は削除しますけど、どうします?

  10. monlingen より:

    葛西さんへ

    再度話します…。
    気持ちのズレを調整、修正する為に、そしてシンプルにする為に「一つひとつ」という提案です。

    葛西さんの目的は理解出来ました。しかし、①~④の質問が少々理解出来ませんでしたので、その旨を聞きましたけど、どうなんでしょうか?何を言わんとしているのか理解不能の言葉ですので、聞きました。若し、この質問が理解して頂ければ、再開したいと思いますが?

    かみ砕いて説明します。
    ただの質問攻め、それに対しての返答返しの繰り返しは、不健康ですし、そこからはどこまで行っても意味のある結論は出てきません。何故なら、そんな機械的な「対話」方法では一つひとつがいい加減になり、そして結局無駄な話に終始してしまいます。「外野部屋」はそれでもいいと思います。「ガス抜き」のために用意したものですから、何でも言い放題、無責任な話等でも構いません。しかし、ここでは「一つひとつ」お互いに「理解」し合いながら進めるべきだと、そう思っています。
    ここは、勝ち負けの場所ではありません。一つの「合意」(そこまでお互い歩み寄る)、または「平行線」(努力した結果、合意不能)の話を徹底的に追求していく場だと思っています。その確認の場です。
    その為には、基本在り方はシンプルにすべきです。他の場所ではどうか知りません。しかし私はそう思っています。一つの質問に対して一つの答えを、お互いに模索しながら、また、出来得れば歩み寄りながらの方法です。
    冒頭に「長くなりそうだ」と言いました。それがこの方法の意味です。「外野部屋」の雰囲気を、敢えて「アンチ風」にしたのもその為です。事実、葛西さんは結構楽しそうに他の人との対話をやっています。アウェイ一本の雰囲気では、辛いだけなんですよ。
    これをどう思うかはそれぞれの考え方です。
    しかし、ケジメは付けましょう。ここ中心地である事を忘れると、俯瞰中毒者の対話のように結局何も進まない結果になってしまいます。

    理解出来ますでしょうか?

  11. monlingen より:

    葛西さんへ

    再度、分かり易く記載します。

    ① 葛西さんからの私への質問(出来れば一つ、または同種を纏めたもの)
    ② →葛西さんからの質問に対して、私からの答え
    ③ →それに対して葛西さんの感想なり納得、でなければ再度の疑問提出
    ④ →私からのそれに対する返答(…この繰り返し)
    ⑤ ~お互いに納得すれば当問題の対話は終了し、若し平行線を辿るようであればそれ以上繰り返しても無駄だと判断し、強制終了します。そして、次の質問に移ります。(以降その繰り返しとなります)
    最終的に質問事項がなくなればこの対話は完全終了します。
    若しかして、私からの質問も提出するかもしれません。その時は上記の方法でお願いします。

    上述の質疑応答方法を踏まえて、貴方からの質問を早速お願いします。
    出来れば再度整理して、貴方にとっての最重要項目優先で出して頂けると有難いです。

    当コメントの理由。
    葛西さんからの質問の直近の日時は、1月22日(月)のpm4:37です。それから一週間少々経過しました。
    多分忙しさに紛れてのことだと想像しますけど、若し良かったら、余り日取りを開けないようお願いしたいと思っています。若し長期に渡ってコメント出来ない事が起きた場合は、一言でいいので、次のコメント送付の大まかな日取りを記して頂けると、非常に有難いと思っています。当然私も、数日以上過ぎる様であればその旨を記します。
    何故こんな事を記すかというと、以前経験した話し合いで、相手がほぼ全員途中消滅しています。理由は定かではないのですが、居なくなったことが判らないまま、そのまま待ち続けるわびしさは、筆舌に尽くしがたいものがあるのです。

    宜しくお願いします。

  12. 葛西 より:

    とりいそぎでもうしわけございませんが 、

    また直ぐに回答させていただきます

    • monlingen より:

      了解しました。
      特に急ぐ必要はありません。時間をかけて頂いて結構ですよ。

  13. monlingen より:

    葛西さんへ

    一言に一週間、お互いに待つ・待たせると言う「対話」は、余り健康的な遣り方ではないような気がします。「皆さん」の「常識」では、対話自体に意味は持たない、また、待つ方が悪い等と言う事のようですけど、社会的な話となるとかなりズレていると思っていますが、私個人の感覚なんでしょうか?

    葛西さんの、かなりの大風呂敷で始まった対話ですけど、早速もう嫌になったのでしょうか?忙しい為に出来ないのでしょうか?それとも、学会員との対話はやる気にもなれないという、そんな話になるのでしょうか?
    止めたいのであれば、そう書いて下さい。忙しくて出来ないのであれば、その旨を記して下さいな。私も敢えてやりたいとも思っていないものですから、貴方にお任せしますが…。
    でも、「ケジメ」はつけるべきだと思っています。それが最低限の礼儀だと思っています。さて、どうでしょうか?

  14. 葛西 より:

    ご返信が遅くなり、大変失礼しました。

    私が質問する段ですね。
    専ら「感得」についてお伺いできればと思います。

    ▼貴殿の「感得」を理解できないのは、
    理解できない人間が悪いとお考えですか?
    たとえば、「信仰心の無さ」「努力不足」など。

    上述の文章を読むと、そのように読解できます。

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      先ず、若しこれからも本気でここで話合いをする気持ちがおありでしたら、相手の身になってものを考える癖を付けるべきです。(その気持ちが理解出来なければ、アンチ学会員以外の誰かに相談して、しっかりしたアドバイスを受けて下さい)

      先のコメントにも書きましたが、再度記します。「週一」期間の対話は非常識過ぎます。特に長い文章でもないし、そんなに難しいものでもないはずです。
      事実、今回頂いたコメントも、全部で7行程度、文字数も140文字程…。これだけのことにどうして一週間近くもかかってしまうのか、個人的にはとても不思議に思えます。

      で、再再度お聞きします。まだ続ける気持ちがありますか?若し続けたいのであれば、少なくともコメントサイクルをもっと短くするべきです。(忙しいのであれば、その旨をコメント下さい)
      いいですか?
      上記の疑問に対しての「回答」が届かない限り、これ以上の話の展開は拒否します。また、「この話」の回答に対しても更に一週間以上放置するのであれば、この部屋を即刻閉鎖します。

      以上の提案は至って常識的なものです。「アンチ系」の常識とはかなりなズレがあるかもしれませんけど、世間一般からすると特に問題のない平和な提案だと思っています…。

  15. 葛西 より:

    継続の意思は、あります!
    ちゃんとコメントします!
    いろいろすみませんでした!

    • monlingen より:

      葛西さんへ

      了解しました。貴方の言葉を信じます。これ以後、この種の出来事はないものと確信します。

      …さて、葛西さんからの質問、

      「感得」の理解出来ない人は、「信心の無い人」そして「努力の不足している人」との決め付けは言い過ぎではないか、というお話です。

      これは当に、書いた文章のそのままの意味です。特に誇張した表現も、馬鹿にした云い方でもありません。全くそのままの意味に取って頂いて結構です。
      以下にその理由をお話しします。

      「感得」の意味とは、「感じ方」「受け取り方」更には「体験」等も含む語彙と言えます。リンゴが甘い、酸っぱいと「感じる」事は、文字通りの「感得」「体験」のことです。また、「リンゴを食べて美味しかった」という話は、「リンゴを食べて美味しかったという体験をした」との云い方も出来ます。少々ぎこちない物言いではありますが、そんなに非常識な表現でもないはずです。
      と言う事は、下記の等式が可能と言う事が出来ます。

      感得=体験(※意味に微妙な違いがある事も認めますが、それでも大同小異と言えます)

      …この前提を中心に以下の話をします。

      信心、例えば「唱題」の「効果を自覚する」と言う事は、信心に於ける「題目の感得」だと言えます。更には、信心全体凄さの自覚も、同じく「感得」となります。
      「リンゴが赤い」と感じる体験(感得)は、自分の目によって初めて確認出来るものです。と同時に、リンゴを食べることによって「美味しい!」または「酸っぱい!」というそれぞれの感動も、食べるという行為に寄って初めて自分自身の「感得」となる訳です。
      しかし、同時に感得と言う感情は優れて「個人的」なものでもあります。自分が賞味したリンゴの味の感動は、赤の他人(食べた経験のない人)に対してはほとんど影響を与えません。唱題をしたこともない人やリンゴを食べたこともない人に対して、どんなに言葉を駆使したとしても、決して理解することが出来ないのです。まあ、想像することは出来るかもしれませんが、唯それだけの話で終わります。

      さてここで頭を切り換えて、「唱題とリンゴの試食」を、「信心をする」と言う言葉に置き換えてみて下さい。「信心」も全く同じ事が言えます。いくら大騒ぎをしようとも、信心を実際にしないことにはいつまで経っても信心の「感得」は得ることは出来ません。
      実際の話、「アンチ」、「元」それぞれの学会員が色々騒いでいます。彼等の騒ぎは要するにリンゴも食べたこともない人間が、リンゴの味をあれこれ騒いでいるのに似ています。その中には元学会員もいます。しかし彼等が学会でどれだけの信心の「感得」をしていたのか、問題の一つがそこにも存在しています。

      祈りは必ず叶う
      何か問題があれば、御本尊の前に…(唱題)。
      信心が深まってくると(何か問題があると)必ず壁が表れる(三障四魔)。しかしそれに紛動されるべきではない。更に信心強情な行動を取るべき(唱題、活動)。
      祈りは叶うまで信心を推し進めるべき(決して信心を止めない)。

      上記の言葉は、それぞれに学会でよく聞くフレーズです。草創期から現在まで、延々とうるさい程しつこく話されているものです。葛西さんには何のことか理解出来ない話でしょうけど、実を言うと、この文章に貴方からの質問の答え全てが含まれているのです。
      上記の文章を纏めて下に意訳してみます。

      『信心での「祈り」は必ず叶います。しかし、信心を突き詰めていくと自分の信心を壊すような壁が立ちはだかります。そんな時は先ず御本尊の前に座ること。そして、祈りが叶うまで唱題を続けること。決して魔には負けないことである。魔に信心を破られないようにしっかり気を引き締めるべきである』

      洗練された文章ではありませんけど、大体こんな意味になります。
      そして問題は、『どんなことがあっても信心から離れないこと』という話を、心肝に染めることです。決して信心から退転せず、且つ遣り切った結果が、信心の「感得」「体験」となるのです。
      途中で信心から逃避(覚醒)した人は「信心の感得」など出来る訳はありません。理の当然です。信心を「最後まで遣り切」れなかった人に、一体どうして信心の凄さが理解出来るでしょう? リンゴを食べたからこそ、その美味しさが「感得」(体験)出来る訳ですから…。
      これが私の言う「体験・感得」の意味です。

      学会指導をもう一度見て下さい。繰り返しになりますが、この指導は今まで何千回何万回と繰り返して学会員に話されている言葉の数々です。少なくとも「元」学会員であるなら、この種の話を先生や幹部から、間違いなく聞いたことがあるはずです。何故彼等はその話を真面目に心に留めようとしなかったのでしょうか?彼等はその話をいい加減に聞いていたか、でなければ馬鹿にしていたんでしょうね。信心の「体験」(感得)が出来なかったことは当然至極の話となります。学会で教えられた話を聞こうともせずに、自分で勝手な信心の決め付けをして、結局学会から逃避を決め込んだ人間に、一体何が理解出来ていると言うのでしょうか?
      彼等には、信心の話題を持ち出す資格も権利もない、とはっきり断言出来ます。

      上述を踏まえて、貴方の疑問を私なりに結論付けてみます。

      信心の「感得」が出来ない人は「信心の無い人」です。そして、学会の指導を聞き流して何も信心体験を積めなかった人は「(信心活動の)努力の不足(と言うより皆無)の人」なのです。

      これは私の「決め付け」でも「慢心」でもありません。創価学会の常識から言うと当然の話なのです。特別に私が「決め付けている」ものでも、「慢心」して話している事でもありません。

      「信心は最後の最後まで遣り切る事です。途中どんな魔が出たとしても、決して退転しては駄目なのです。それが信心修行の究極の在り方です」
      この言葉をもう一度自分自身に確認して下さい。

  16. 葛西 より:

    ご連絡いただきまして、
    誠にありがとうございます。

    貴殿の見解に対し、
    私なりの見解を述べさせていただきます。
    ご意見やご質問等いただけますと幸いです。

    また私の反省点で、他の方からご指摘も賜りましたが、
    論点が枝葉末節に至りすぎたため、
    今後につながる本質的な(と私が考える)論点を記載させていただきます。

    ・アンチ連中について
    創価学会を脱会したアンチ連中を「学会から逃げた信心なき奴等」と規定する貴殿のスタンスは、
    一定の理があると考えます。
    日蓮系教団(特に日興門流)における唯一の正統教団と自らを規定する以上、
    脱会して日蓮正宗に行った人間を「信心がある」とすると、
    自らの正統性が論理的に破綻するからです。

    しかし、「感得」をあらゆる主張の論拠にする貴殿の論法は、
    議論/法論で用いるべきでは無いと考えます。
    アンチ連のブログに「お前らは活動から逃げた」「信心が無い」などの書き込みは、
    失笑しか呼ばないでしょう。
    また、「感得」という検証不可能なものを論拠にすると、
    「俺らは俺らなりに感得しているんだ」という相手の主張に対する反論が無くなります。
    現に日蓮正宗の人間で「癌が治った」「経済苦を乗り越えた」といった体験を語る者や(恐らく本当)、
    「大御本尊に祈るたびに大歓喜に包まれる」と話すものを何人も知っています。

    悲しい事実ですが、創価学会は長年日蓮正宗の教義に大きく依存してきました。
    「魂の独立」と言っても、本尊義では創価学会は不利な立場にいます。
    かつてわれわれは、「大御本尊に祈らなければ功徳は無い」といい、
    大御本尊を自らの正統性の根拠としてきたのですから、
    この点については緻密に議論しなければなりません。
    それを怠れば、「大聖人直結の教団」ではなく、「池田崇拝のカルト教団」とされてしまうでしょう。

    ちなみに私は、大御本尊を巡る日蓮正宗の教義は、
    後世の創作と考えておりますので、
    「自語相違」と呼ばれても大御本尊関連の教義は捨ててよいと考えています。
    とはいえこれの問題は、大御本尊に愛着を持つ年長者の会員が一定数いることですが(ブログ村のMASCAさんとか)

    ・感得による論証の矛先
    上述のとおり私は、脱会したアンチ連中を「信心が無い」と規定する貴殿のスタンスには一定の理があると考えています。

    しかし、そうした矛先を貴殿は会員さんにも向けておられますよね?

    たとえば、あべひ×ちよ対談において、
    あべひ氏を「題目を上げていない」と決め付け、それに異論を唱えたものに「わからない」云々と言う。
    さらに宮部氏にも以下のような言葉を吐く。

    ”貴方のその在り方そのものが、自分の「学会員」としての生活そのものを完全否定しているものになっています。
    そんな人に、信心上のまともな意見が、本当に言えると、信じる人が居ると思いますか?”

    正直なところ、「あなたナニサマ?」と思ってしまいます。
    「創価学会vs日蓮正宗」と言う局面では、創価学会員として他教団の人間を信心が無いというのはわかります。
    しかし創価学会員同士で、そんな認定をするあなたの神経がわかりません。

    コレに対する反論は、「あなたは過去ログを読んだのか?」でしょうか。
    読みましたが、少なくともそれを読んで「xxは信心が無い」などの認定をする気にはなれません。
    そこまで自分の「感得」やら「信心」が無謬だと信じていませんし、
    「感得」を他の会員とも共有できるとは考えていないためです。

    その「xxは題目をあげていない」「あなたのあり方が学会員としての生活を否定している」などといえるほど、
    貴殿は自らの信仰生活に自信をお持ちなのでしょうか。

    この件について私は、
    貴殿はあべひ氏や宮部氏に謝罪すべきと考えています。

  17. monlingen より:

    葛西さんへ

    あべひ、宮部・両氏に関しては、今の話題とは別次元のものなので、枠を改めてお話しすべきです。若しその対話を希望されるのであれば、準備として「~中毒者」と言う病気の事をしっかり勉強して下さい(種類は多ければ多い程いいですね)。出来ればその「実・被害状況」も合わせて調べて頂けると、対話時に話がスムーズになるかもしれません。(逆にその基礎知識がないと、話し合っても無駄と言えます)

    さて、前回のコメントで、「感得」「体験」の話を全力を込めて、又かみ砕いてお話ししたつもりでした。でも、まだ理解に至る迄進んでいません。これは偏に、私の説明力の無さが原因です。反省しています。
    で、今回は純粋な「信心の話のみ」で話の進行を行いたいと考えます。是非、貴方も「想像力」を駆使しながら、「若しかして、こういうこともあるのかも…」という気持ちを持ちつつ読んで頂けると有難いです。頑固拒否のままだと、こちらがどんなに言葉や方便を駆使したとしても、決して共通点を見いだすことは出来ないと思います。
    宜しくお願いします。

    葛西さんは「十時間唱題」をされたことがあるでしょうか…。
    なかなか難しくて、大変なものです。一日中御本尊の前で題目三昧ですから、誰にとっても難儀極まる辛い修行と言えます。声はガラガラ、膝は笑いっぱなし。オマケに頼りの時計の針はピクリとも動いてくれません…。
    私は過去に、10日間掛けてですけど「50時間唱題」の経験を持っています。勿論、仕事をしながらの唱題です。その期間、5時間の日も、また2時間の日もありました。逆に13時間出来た日もありました。そしてその合計が、50時間…。

    葛西さんに是非この唱題をやって欲しいと思っています。

    唱題行は学会信心の基本中の基本です。ウダウダ話は彼方側に置いといて、兎に角そうなのです。日蓮大聖人が言われた話です。今更否定しても仕方がありません。
    で、学会には更にその他の活動もあります。毎朝夕の勤行・唱題、月一の座談会参加、(基本)週一の地区協議会参加に加えて、本部幹部会同時中継参加や各種イベント、支部や本部等の会議もあります。
    他にも、見過ごしの出来ない折伏、面倒臭い新聞啓蒙、若干興味のある教学勉強(試験)、やりたくない法華講対策活動、誰かやるだろうと考えている友人との対話、苦手な法戦活動…等々。
    こう書いてみると学会とは奴隷組織なのか…と思ってしまうような凄い行事の数々だと、今更ながらウンザリしてきます。
    しかしこれらが、まあ、我々学会員の日常生活の活動だと言えます。
    学会員はこれを全てとは言いませんが、しかし出来得る限りやって行こう、また、何とかやり切って行きたいと念願していると言うのが現実なのです。これが創価学会員の信心の「基礎活動」なのです。
    「信心活動の基礎」の意味は、上述の活動をまかりなりにも全うして、そして初めて「信仰体験」(感得)を得ることが出来ると言う事です。
    学会活動をしない人、する気のない人は「信心の体験」は当然の話、決して得ることは出来ません。これを演繹的に考えてみると、「活動をする気のない人間」にとって、世の中に「信心体験」と言うものが存在する事も理解出来ないし、また、想像すら不可能なことだと言えます。
    真っ当な話ですよね、これって…。

    アンチやミカツと言う人種は、学会活動から目を逸らした、そして身を逸らせて中傷ばかりしている、そんな人間達なのです。
    彼等は性懲りもなく言い続けます。「学会の信心は信じられない」「信心体験などと言うものは思い込み以上のものではない」「題目をあげてどんなメリットがあるのか」「信心体験(感得)などと話す人間は思い上がりの慢心した人間だ」…。
    創価学会が「これをやりなさい。そうすれば功徳がでます」と話しているその指導を完全否定して、上記の言い草です。そして、上述の功徳否定の与太話です。
    これはどう考えても自己矛盾ですよね。

    勘違いして欲しくないことは、私は彼等の「信心否定」を問題にしているのではありません。それは個人の感覚ですし、どうでもいいことです。問題は、「学会指導されている活動を自分で否定ながら、かと言って何も行動せずに、唯ひたすら批判・中傷だけに寤(うつつ)を抜かしている」と言う、その態度に対してなのです。その行為自体を批判するのです。
    彼等アンチ・ミカツは、上述した創価学会の活動の経験も皆無、又は途中放棄の連中です。そんな人間達に、創価学会の「体験」の何が判るというのでしょう?
    経験もない、信心の「し」の字も知らない彼等に、どんな素晴らしい「信心の話」が出来ると言うのでしょうか?
    創価学会指導の、そしてもう一つの「大事な肝」は、「信心は最後の最後までやり抜くこと」です。信心体験は「やり抜いた結果」のものです。中途な覚醒(退転)で「信心体験」が得れるはずはありません。そんないい加減な、そして安易に出来る信仰活動なら、今頃日本全員「信心体験」を積んでいるはずです。

    葛西さん、本気で「体験」の話に疑問をお持ちであるなら、一度でいいので「50時間唱題」か「十時間唱題」に挑戦して下さい。これは対話の誤魔化しでも何でもありません。真っ当な私からの、真剣な提案です。
    「感得」「体験」をするには、その方法しか他に無いのです。

    また、貴方は「体験」(感得)の話を、余りにも雑に扱い過ぎます。「信心体験」とは、(極論すれば)「創価学会活動」と同義なのです。学会は「体験」(信心感得)の上に積み重なった組織だと言えます。体験を外しては、学会活動のどんな話(指導)も全く「真実性」は持ちません。
    信心体験イコール学会活動なのです。

    葛西さん、逆に貴方にお尋ねします。
    信心の組織にあって「信心体験」以上の問題が、他に何かありますか?
    若し有るならお出し下さい。一緒に検討してみましょう。
    …御本尊も言うまでもなく大事です。自分自身の十界を写してくれる「鏡」ですからね。しかし、その鏡(御本尊)を求める自分自身の「生命」の根源の場所には、「信仰体験」が隠されているのです。
    貴方はこの事実を完全に見落としています。

    「体験」「感得」は、信心の話の基本です。この大事な基本をしっかり見据えないまま話を進めたとしても、どこにも行き着くことはありません。貴方は「信心の体験」を、もっともっと死に物狂いになって考えるべきです。

  18. 葛西 より:

    ご回答いただきまして、誠にありがとうございます。
    以下、本コメントに記載させていただくのは4点です。

    ①対話が平行線になっている理由について私なりの見解
    ②ご提案、今後の進め方について
    ③貴殿の質問に対する回答

    ---------------------------------
    ①対話が平行線になっている理由についての私なりの見解
    恐らく貴殿も感じておられると思いますが、対話が平行線をたどっています。
    貴殿も私が貴殿の主張を理解しないことにいらだっておられるかもしれませんが、
    この原因は、「論点の共有」が出来ていないからだと考えます。

    この対話の基本的なパターンは、以下だと思います。

    葛西が「感得を根拠に他者の信心を判断する」ことを非難する

    貴殿が感得の重要性を、あらゆる例えを駆使しながら語る、
    また活動や唱題行をすることを勧める

    葛西が論点はそこには無いことを伝え、
    再度「感得を根拠に他者の信心を判断する」ことを非難する・・・・・・・・

    これは貴殿と私が「感得の重要性」について共有できていない(つまり私が貴殿の説かれる感得にまつわる説法を理解できない)からではなく、
    貴殿と私が違う論点を論じているからだと思います。
    すなわち、

    ・貴殿→「感得が信仰において1番重要か、否か」
    ・葛西→「自らの感得を根拠に他者の信仰心の有無を判断する行動の是非」

    です。

    この状態を抜け出すため、
    ②において今後の議論の進め方の提案を提示します。

    ---------------------------------

    ②ご提案、今後の進め方について
    以下に質問を記載させていただきます。
    このフォーマットに則る形で、
    まずはシンプルにご回答いただけますでしょうか?

    ・アンチを非難する際の根拠は、自らの感得だけで良い。YESか、NOか。
    ・感得を根拠に、創価学会員の「信心の有無」や「唱題をしているか」を判断してもよい。YESか、Noか。

    まずはこの論点を共有できればと思います。

    ---------------------------------

    ③貴殿の質問に対する回答
    とはいえこちらから質問ばかりしているのは申し訳ないので、
    貴殿の以下の質問に回答します。

    ”葛西さん、逆に貴方にお尋ねします。
    信心の組織にあって「信心体験」以上の問題が、他に何かありますか?
    若し有るならお出し下さい。一緒に検討してみましょう。
    …御本尊も言うまでもなく大事です。自分自身の十界を写してくれる「鏡」ですからね。しかし、その鏡(御本尊)を求める自分自身の「生命」の根源の場所には、「信仰体験」が隠されているのです。
    貴方はこの事実を完全に見落としています。”

    信心の組織において、「信心体験」が一番大事か。
    個人的な信仰の次元では体験が一番重要と考えます。
    しかし組織活動においては、「他者」への影響を考えるべきです。
    ですから体験・感得を常に持ち出したり、
    自らの体験・感得をを絶対化して他人とコミュニケーションするのは避けるべきと考えます。
    組織活動というコミュニケーションでは、都度都度何を持ち出すか考えるべきということです。

    たとえば、座談会や折伏といった局面では、
    体験を語ることが最重要になると思います。
    しかし、日蓮正宗の人間との議論等で体験や感得ばかり持ち出しても、
    馬鹿にされるだけです(これは何度も書いています)。そこでは教義論争が不可欠です。
    また「体験・感得が大事」と「自分の体験や感得を尺度に他者の信心を判断する」ことは全く別です。
    それは「信仰における体験・感得の重要性を認める」ではなく、
    「他者の体験・感得よりも自分の体験・感得が優れている」と考える非常に独善的なものだからです
    (あべひーちよ論争において貴殿を非難しているのはここです)。

    ---------------------------------

    以上、長くなりましたが、
    まずは②にご返答いただけますと幸いです。

  19. monlingen より:

    葛西さんへ

    私の話(記事、コメント)の中には、かなりの数として以下の要旨のものを入れ込んでいますけど、誰一人としてこの言葉に注意を向けようとする人もいないようです。非常に大事な事ですので、少々言葉を重ねながら説明しておきます。

    私は、アンチやミカツ、更には宗門系の人々の信心を、その事だけ(信心不能、信心皆無)を持って個人否定したり、組織の信心有無を論じたりしたことは今まで一度もありません。このブログのどれでもいいですので、もう一度読み返して下さい。そう読めるものもあるかもしれませんが、その「前提」として、彼等の学会批判がどこから出て、どこに向かっているかを基礎の部分には記載しているはずです。(ブログ表紙にはその旨を載せています)

    『創価学会の活動もせずに、またしていたとしても、中途半端なまま退転した人間達が、どうして現時点の学会の信心活動をあれこれ知ったように中傷出来るのか…その思い上がり、固定観念の情け無さを批判しているだけです』

    彼等アンチやミカツ、宗門系の個々の信心状態など、私にとっては何の興味もありませんし、またその信心の方向性をどうのこうのしようなどとは更に思っていません。
    思うのは、「勝手にお好きな様に生きて下さいな」、です。
    私が、彼等への批判する「唯一の理由」は、彼等の考えを自分なりに読み解き、そしてその「エキス」を現実の創価学会活動に分かり易く説明して、彼等の様な信心状態にならない為の「何か」を提示する、その事だけです。その為に彼等への批判を記事にして、個々の返答の中に「エキス」を探しているのです。(まあ、今回の「対話」も同じですが…)
    その為だけのこのブログ記事です。(昔の記事は確かにそう言う思いで書いてもいましたが、今は全くそんな感覚は、ゼロです)

    その意味においての「②」に対する答えですが、アンチ連に対する批判は、彼等が創価学会員と同等の信心確信(体験)を付けた上での批判をしているのならしっかり受け止めて、更には正当な反論もします。
    また、学会の信心の有無や唱題の有無の私的判断は、一度もこのブログではしたことはありません(過去の記事の一部はそうですが…)。私がやっている事は、上述(体験のないアンチへ)の理論的な批判のみです。
    と言う答えです。でも、理解を固めて貰う為に、言葉を換えて再記します。

    アンチの個々単独の信心には一切興味も無いし触れる気持ちもありません。又、これからも同じだと言えます。
    しかし、例えば、「十時間唱題」や「折伏」をやったことも考えたことも無い連中が、知ったか振りで書きまくる学会への中傷記事に対しては、私の信心知識の限界を持って批判し続けていくつもりでいます。
    これからも…。

    さて、この話に何か論理矛盾があるでしょうか?

  20. 葛西 より:

    ご返信いただきまして、誠にありがとうございます。

    ▼貴殿の主張
    ・アンチの批判はしているが、その批判の矛先は「活動もせず(=学会を理解しようとせず)に、学会批判を繰り返す行為」である
    ・その批判の根拠は、「理解していない対象に罵詈雑言を浴びせる行為」の不合理性や不誠実性

    と理解しました。

    ▼ご質問
    上述のご主張は論が通っているように思えますが、
    その前提には「アンチはまともに活動をしなかった」「アンチは「十時間唱題」や「折伏」をしていない」があるように見えます。

    とすると、以下の問いが浮上します。

    ・折伏や唱題といった活動をした上で脱会したアンチは、学会批判をする正当性はあるのか?
    貴殿の言う「中途半端」でない活動とは、何を指すのか?

    ・かつての創価学会の教義に則り、大御本尊への祈念を通じて信仰体験を得た後、
    学会の教義の変遷から脱会したりミカツになった者は、
    学会を非難する正当性はあるのか?

    ・日蓮正宗で「10時間唱題」や「折伏」にいそしむ会員の、
    信仰体験ならびに学会批判を認めるか?

    ▼ご依頼
    恐れ入りますが、
    以下のような明らかに矛盾した主張は混乱を招くため、控えるか、クリアな形で記載いただけますと幸いです。

    ”学会の信心の有無や唱題の有無の私的判断は、一度もこのブログではしたことはありません(過去の記事の一部はそうですが…)。私がやっている事は、上述(体験のないアンチへ)の理論的な批判のみです。”
    →「1度もない」と「過去の一部の記事はそう」の整合性が不明

    ▼追記
    私は、アンチやミカツ、更には宗門系の人々の信心を、その事だけ(信心不能、信心皆無)を持って個人否定したり、組織の信心有無を論じたりしたことは今まで一度もありません。
    →これについては、追って議論させていただければと思います。

  21. monlingen より:

    葛西さんへ

    題目を十時間あげる人が、宗門やアンチに長く留まると言うことは決してありません。折伏が出来る人が、どうしてアンチなどと言う組織体に所属し続けるのか、理解不能です。そんな事実は一切存在しません。
    その「事実」を信じる・信じないはどうでもいい話です。

    「折伏」や「十時間唱題」をしたことのある人もこのコメント群を読んでいるかと思います。そんな人に率先してコメントを頂きたい気持ちも持っています。
    これは、対話の「論点のひとつ」ではなく「中心の事実」です。
    また、創価学会の教義変更云々のお話、当にどうでもいいことですが、言えば、そんな人達は、自身の責任でその後の人生を面白楽しく生きていけばいいと、そう思いますよ。

    ちょっと気になりますが、葛西さんは題目、折伏、その他学会活動はどうなんでしょうか?今まで一切のその種のお話は出てきていません。「野干」の人々からも出ませんね…。大事な事なんですけど。出来ない人に限って、そしてやらない人に限ってこう言う対話の言葉尻を捕まえるため率先してくるようです。「嬉々として」ね。これは、このコメント群を一読すれば、事実そのものです。
    それはともかく、再度大事な事を記します。

    「創価学会から、そして信心からは、どんなことがあろうとも離れては駄目です」

    ミカツさんやアンチ連の「元学会員」は、今は学会に居ません。理由はそれぞれでしょうけど、事実学会に席を置いていないのです。
    これが重要な事です。止めた理由はどうでもいいことです。学会に居ないというその「事実」を問題にしています。

    学会に席がない=退転者
    席はあるが、何もしていない=未活動者
    学会席を置いたことがない=学会を何も知らない

    上記の等式、そんなに難しいものではありません。小学生でも簡単に理解出来る話です。

    話には「理念」があります。理念とは話の中心部のことを言います。それ以外ことを云々するのは言葉遊びでしかありません。貴方はどうでもいい私からの言葉を、様々に捻くり回ながら、そして問題点を大きく見せようとしているだけです。中心を見据えて、もっと真面目な態度で臨むべきです。
    「対話」というものは、本当に大事な事柄のみ云々することです。
    本当の大事な事とは、今回の話では、

    「何故私がこのブログでアンチやミカツ、更には宗門系の非論理性を批判しているのか」

    それに直接関連する話になりますが、「外部部屋」の2018年2月1日(1:04)の私の提案の「回答」は、2月9日(15:13)になっても、誰一人も出してきません。全員無視を決め込んでいます。
    実を言うと、この話は貴方に対しても出したものでした。読んでなかったか、理解出来てなかったようですね。この「提案」に今回の対話の全ての回答が隠されていることも、全く知ろうともしていなかったようです。

    中心、ポイント、要旨…言葉はどうでもいいですが、相手が何を言わんとしているか、相手の言葉の意図を探り続けることが、対話の究極の「答え」です。それが出来ない人間が、上記の「提案」から逃避(覚醒)した人間なんです。

    彼等は今、どこに居るのでしょう…。
    そして、貴方は今どこに居ます?

  22. 葛西 より:

    ご返信、誠にありがとうございます。
    以下のような貴殿らしさが満開に出た回答、大変興味深く拝読しました。

    ▼自分の信じる命題に反する事実を認めない
    貴殿の以下の主張は、経験的事実に基づいた反証可能性を残すものであるにも関わらず、
    その余地を一切残していないですね(読書家の貴方なら、ポパーくらい読んでいますよね?)

    ”題目を十時間あげる人が、宗門やアンチに長く留まると言うことは決してありません。
    折伏が出来る人が、どうしてアンチなどと言う組織体に所属し続けるのか、理解不能です。
    そんな事実は一切存在しません。その「事実」を信じる・信じないはどうでもいい話です。”

    残念ながら、いますよ。
    別に宗門の肩を持つわけでは無いですが、
    10時間唱題をあげる人や折伏をしている人間も、日蓮正宗にいます。
    恐らく貴殿は、「創価学会を脱会した人=折伏も唱題もやらない人」という定式を認めたくないのでしょうが、
    事態はそこまで単純ではありません。
    貴殿はアンチ連に話すときに、彼らを「活動から逃げた人間」と規定した上で言葉を発しているようですが、
    それでは当然響かないでしょう。
    また、帰納法的に主張するならば、それを反証する事実が出たときに、
    自らの命題を修正することは当然だと思います。

    ▼自分の意図が伝わらないことを、相手のせいにする
    以下の文章にはやや驚きました。

    ”話には「理念」があります。理念とは話の中心部のことを言います。それ以外ことを云々するのは言葉遊びでしかありません。貴方はどうでもいい私からの言葉を、様々に捻くり回ながら、そして問題点を大きく見せようとしているだけです。中心を見据えて、もっと真面目な態度で臨むべきです。
    「対話」というものは、本当に大事な事柄のみ云々することです。”

    「理念」という用語の使い方を知っているのかというのもありますが
    (理念とは超越的な概念として使うもの、この場合は本質とかを使うべきでしょう)、
    勝手に「中心」なるものを設定し、
    それを相手が共有しないと相手を非難するとは。

    こうした貴殿の個人的「感得」に基づいた理念だの本質だのはわかりませんので、
    しっかりと言語化していただけますか?
    そもそも議論の「本質」なるものは、
    お互いの対話の中で妥結していくものなのではないでしょうか。
    貴殿が重要に思っている問題でも私はそう思っていない、
    私が重要に思っている問題でも貴殿はそう思っていない、ということは当然あるでしょう。
    それを理解されなかったからと言って、
    容易に相手に責任を転嫁するのは怠慢といわれて然るべきです。

    また、10時間唱題や折伏をしている人なら自分の主張を理解してくれる、と素朴に信じておられるようですが、
    これも「感得」の共有に対する貴殿の無根拠な信頼ですよね。
    そして、それを共有していない人は、
    10時間唱題や折伏をしていないと判断するのでしょうか?

    ちなみに質問いただいたので回答しますが、
    10時間唱題の経験は過去にあります。
    初めては高校受験のとき、それから大学受験や就職活動、
    仕事の勝負どころなどにやってきました。
    また3年前からは1月2日に行っています(なので一番最近は今年の1月2日)。
    そして、折伏は、本尊授与は3名。活動家といえるのはその内1人だけですが。
    また現在、会社を辞めた同期に仏法対話中です(まだ対話段階)。
    貴殿にとってこういう事柄が重要なようなので、
    一応書いておきます。

    ▼追記
    2018年2月1日(1:04)の件ですが、
    議論を広げすぎてもよくないと考えたのでコメントしませんでしたが、
    それがなぜ「逃避」とやらになるのですか?

    それを議論したいならば、反論をこちらに書き込みます。

  23. monlingen より:

    葛西さんへ

    了解しました。
    平行線を進むだけのようです。貴方の思考方法ははっきり理解出来ました。貴方も私の「逃避思考」が理解出来たと思います。

    私はこれで資料収集が出来ましたので、とても満足しています。

    まだこの問題の話をし続けますか?

  24. 葛西 より:

    総括、ならば下記を記載いただけますと幸いです。

    ・貴方の思考方法ははっきり理解出来ました
    →私も貴殿の思考法を言語化したので、
    貴殿も言語化いただけますか?

    ・貴方も私の「逃避思考」が理解出来た
    →逃避という言葉は、貴殿が私や他者に発していた言葉ですが、
    それをご自分の思考法に形容詞的につける理由がわかりません。
    御解釈いただけますか。

  25. 葛西 より:

    また、一応総括ということなので、
    当初の対話のプロセスの提案にあった

    9 議論のまとめを葛西が記載。不一致点は両論併記の形で記載する。貴殿もしくは葛西が意見を修正した点についても記載する。
    10 葛西の作成したまとめを貴殿が確認し、修正。ただし基本的な修正箇所は、貴殿の意見について記載された箇所のみとし、葛西の意見ならびに事実確認の記載に重大な変更を迫る場合は、改めて議論をする。
    11 上記の完成文書を貴殿のブログにおいて、期間限定でも公開していただく。

    をしましょうか?
    私が9のまとめを作成します。

    しっかり総括しましょう

  26. monlingen より:

    葛西さんへ

    何故「総括」なのかがよく理解出来ませんけど、分かり易く再度記載しましょうと言う事なんだと解釈します。
    下記に私の、貴方への結論を記しますね。

    『アンチ系の人間は、学会の思考方法とは別の次元でモノを考える様なので、道理・理論説得等の人間本来に具わる論理的な理解力が、ほぼ欠けているようだ。故に、対話という地道な手段は不可能と見るべき。
    平行線を辿る話が非常に多いようで、一致点を見いだすことは、無理のようだ』

    と言う結論です。

    他に質問はありますでしょうか?
    あればその話をしていきましょうか…。

  27. 葛西 より:

    なるほど、明快でわかりやすいです。ありがとうございます。

    ______________________________________

    ①葛西はアンチ系の人間だ(※1)

    ②アンチ系の人間は、学会の思考法とは別の次元で思考する

    ③②を理由に、アンチ系の人間は、人間本来に具わる論理的な理解力が、ほぼ欠けている(※2)。

    ④③を理由に、アンチ系の人間との対話は不可能である

    ⑤①ならびに③、④から「葛西は人間に本来備わる論理的理解力が欠如しており、対話をしても無駄である」が帰結する

    ______________________________________

    以下、質問です。これ以上議論を拡散したくないため、シンプルに記載しますので、
    シンプルに回答いただけますと幸いです。

    ①について、アンチ系の人間の定義は何ですか?

    ②における学会の思考法とは何ですか?

    ③「学会の思考法ができない」即「人間本来に具わる論理的な理解力が無い」と考えておられるという理解でよろしいですか?

    以下、注ですが私の誤読がございましたら、申し訳ございません。

    ※1 「貴方への結論」と述べた後、主語が「アンチ系の人間」である文章を記載されたため、
       私をアンチであるとする①の命題を主張されたと理解した

    ※2 「学会の思考方法とは別の次元でモノを考える様なので、
       道理・理論説得等の人間本来に具わる論理的な理解力が、ほぼ欠けている」という文章において、
       理由を示す接続助詞「なので」を使っておられるため、③の根拠は②であると理解した

  28. monlingen より:

    葛西さんへ

    こんばんは。
    今、本部幹部会行ってきました。とっても凄い、まあ、いつも凄いですけど…、そんな本幹でした。米国SGIの人々が200人きていました。体験で、「不安は不信だよ」と言う言葉に、とても感動しましたよ。
    小さな話に右往左往する生き方は、なんて下らないのだろうと,つくづく思ってしまいました。

    何故こんな事を話すかというと、葛西さんの話は当にその「小さな話に右往左往」していると言うことです。私も少々不安になってきていましたので、これは「不信」になりかけてまして、これは心機一転せねばという思いで、今いるのです。
    葛西さん、貴方は学会員かもしれませんし,そうでないかもしれませんが、はっきり私が感じ、そして言えることは、貴方は「反学会」思想の持ち主です。それ自体は貴方の個人的な事なのでどうでもいいことですが、その思想をこういう所に持って来るべきでは無いと思いますよ。そもそも「アンチとは何?」と言う,どうでもいい話を「対話」の主要論点に持って来ること自体が、チンケすぎます。
    ここで何を話し合おうとしているのか判っていますか?
    私はアンチの非論理的な中傷を批判していることに対しての、貴方からの是非意見です。若しその事が納得出来ているのであれば、それでいいのですけど,そう言う話もないようです。否定もしていません。
    何なんでしょうか?

    ある方が仰っていましたけど、「そんな暇があるなら、題目をあげなさい!」と言う話は,とても説得力を持っているような気がします。
    貴方が「十時間唱題」も「折伏」もしたと言うお話。いいことだと思いますよ。
    が、今はどうです?
    現在進行形は,日蓮仏法には決定的に重要な話になります。

    貴方は,今,現在は何をしています?お題目は?折伏は?

    折伏、題目を現時点で苦労しながらもやり続けている人間は、決してアンチ系の思想は持ちません。これをどう思おうとも,どうでもいいことです。
    判る人は判ります。

    『理由を示す接続助詞「なので」を使っておられるため、③の根拠は②であると理解した』

    とのお話…かなり寂しく読みました。どう考えても信心の対話の話の文言ではないですね。
    私は兎に角「信心」の話をしようと必死でした。方便も,信心に繋げようと頑張りました。でも、全て無駄でしたね。言葉尻だけの「応答」を読みながら、ぐったり疲れましたよ。
    繰り返しますが、これがアンチ系の思想なんですね。このブログの表紙の記事にも斯の意味の事は書いていますが、若しかして…と言う気持ちも無きにしも非ずで今回対話に臨みましたけど、全く無理でした…。

    アンチの思考方法とは、貴方のようなチンケな会話しか出来ない,そんな人間のことを言います。言葉の,どうでもいい文言を兎に角全面に持ってきて、誇るように様々な下らない事を書きまくる,そんな人々なのですよ。

    まだ対話を続けるのであれば、何か書いて下さいな。しかし、上記の思いで私は貴方に対しますので,それは宜しくお願いしますね。

  29. monlingen より:

    葛西さんへ

    前回のコメント(2018.2.9-9:49分)、失礼しました。少々(かなりかも…)寝不足で、何を書いているのか,どうも途中で分別出来なくなっていました。申し訳ありません。

    で、再度、前回の私のコメントは無視して頂いて(書いたものは置いておきますが)、新たにお話しします。前提として以下の話を前にしました。(2018.1.29-11:19分)


    ① 葛西さんからの私への質問(出来れば一つ、または同種を纏めたもの)
    ② →葛西さんからの質問に対して、私からの答え
    ③ →それに対して葛西さんの感想なり納得、でなければ再度の疑問提出
    ④ →私からのそれに対する返答(…この繰り返し)
    ⑤ ~お互いに納得すれば当問題の対話は終了し、若し平行線を辿るようであればそれ以上繰り返しても無駄だと判断し、強制終了します。そして、次の質問に移ります。(以降その繰り返しとなります)
    最終的に質問事項がなくなればこの対話は完全終了します。
    若しかして、私からの質問も提出するかもしれません。その時は上記の方法でお願いします。
    上述の質疑応答方法を踏まえて、貴方からの質問を早速お願いします。
    出来れば再度整理して、貴方にとっての最重要項目優先で出して頂けると有難いです。』

    で、今回の話の趣旨は「感得」についてでした。
    最終的には特に一致点は見られなかったと思われます。小さな小細工話は無視します。故に、この話に関しては「平行線」だったと言う事で、お互い納得出来そうです。

    次の趣旨をお聞きします。どうぞ。

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