先月、いつかじっくりお話できたらいいな〜とずっと思っていた方と、ランチをご一緒する機会に恵まれた。
その方は、私がスコット・フィッツジェラルドの大ファンであることを知っていたので、「チェコ好きさんは、フィッツジェラルドのどこがそんなに好きなんですか?」と質問してくれた。
※こちらの店内はそのときのお店ではありません、念のため*1
この手の質問に関しては、常時答えを100通りくらい用意しているのだけど(ほんとかよ)、さすがに100通りすべてをお伝えするわけにいかないし、その100通りもいざとなると出てこなかったりして、キョドキョドしながら「ひ、人の気持ちが変わってしまうってことを、丁寧に描いているからですかね……」みたいなことを言ってしまった。すると「人の気持ちの変化を描いている小説は他にもありますよね?」と言われ、「うん、確かに……笑」と考え直し、その場ではそれ以上言葉が出てこなかった。なので、当日の帰り道に考えていたことをちょっとだけ書く。
ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
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お正月に、神奈川県小田原市にある実家に帰った。
そのとき、いつもはあまりそういうことはしないのだけど、ちょっとした出来心で、高校時代の写真のアルバムを開いて見てしまった。修学旅行のときの写真とか、文化祭のときの写真とか、体育祭のときの写真とか、卒業式のときの写真とか、あとはなんでもない日常の写真とかがあって、そのすべてに、スクールライフをそこそこ楽しくやっていそうな、かつての自分が写っていた。
その中の一枚で、高校3年の文化祭のときの写真があったのだけど、私はこの一枚を、どのようなシチュエーションで、誰とどんな会話を交わしながら撮ったのか、奇妙なほどくっきり覚えている。それは文化祭の最終日の夕方だったんだけど、クラスメイトたちと一緒に、出店したうどん屋の片付け作業を進めているときに、突然ざーっと雨が降ってきたのだ。
私たちは雨を避けるために慌てて校舎の中に入ろうとしたんだけど、そのとき、当時クラスで中心的な存在だった「廣川くん*2」が、突如テンションが上がってしまったのか、「写真撮ろうよ!」と言い出して、校舎に入ろうとしていた私たちを呼んだ。呼ばれたので雨が降る中もどってきたら、「廣川くん」のテンションにだんだんとその場にいたみんなが感染してしまい、結局ほぼクラス全員のメンバーが集まってきて、いつのまにか先生に渡っていたカメラの前で、その一枚の写真を撮った。大粒の雨を避けるように、みんな半目だったり、その場にあったテキトーなものを頭に被せたりしていて、突然だったからピースもまともにできていなくて、そんな一枚になった。
今でも覚えているんだけど、雨の中にフラッシュの光が混じった直後、私は、「この写真、撮らなければよかった」と思った。でもそれはシャッターが下りた後だったからもう遅い。その一枚はきちんと複製されて私の手元に渡り、今もこうして実家に保管してある。
この写真、撮らなければよかった。うつらなきゃよかった。だって後で見返したら、きっと悲しくなってしまうでしょ!
私の高校3年の文化祭の最終日は、私の長い長い人生の中で、たった1日しかない。私たちの出していたうどん屋は解体されて跡形もなく消えてしまうし、雨はいつか止んでしまう。一瞬はすぐに次の一瞬に移り変わって、消えてなくなってしまう。
その儚い一瞬を、大事な瞬間を、写真にしたり言葉にしたりするのは、生きている昆虫を捕まえてピンで刺して息の根を止めるようで、私にとってはどうしようもなく苦しい。ピンで止めたら死んでしまう。その一瞬が過ぎたことを認めることになってしまう。大事な瞬間は、ただ私の記憶の中だけにあってほしい。あとでいくらでも美化されればいいし、あるいは忘れてしまってもいい。そして、できれば永遠になってほしい。
世間知らずの私は、どうやら自分がこの点においてけっこう少数派らしいことを、最近になって知った。大切な瞬間は大切だからこそ、きちんと写真や文章にして残しておきたいって人のほうが、世の中には多いみたいだ。私は、大切な一瞬こそ、それがすでに過ぎ去ったものであると認めると悲しくなってしまうから、できればあまり形に残したくない。でもこの考え、今まで共感してもらえた試しがない。
自分一人で考えたことや感じたことならいくらでも書けるんだけど、誰かと一緒に体験したことは、その誰かが自分にとって大切な人であればあるほど、上手く書けないし、書きたくないのだった。
翻ってフェッツジェラルドの話にもどるけど、私はなんとなく、彼なら私のこの気持ちをわかってくれるんじゃないかなと勝手に思っている。あ〜〜でもな、そんなことないか。それはちょっとわかんないや。でもとにかく、フィッツジェラルドは、「過ぎ去る一瞬」をものすごく大切にしている作家だ。
これは、懐古趣味とは違う。私は同窓会の類は全部断る人間なので(同窓会のかほりがする結婚式も全部断る)、「昔話」には1ミリも興味がない。昔は良かったって話をしたいわけではなくて(昔なんかより今のほうが絶対にいい)、ただ一瞬一瞬が過ぎて、人の気持ちも、世の中の景色もどんどん変わっていってしまうことに、一種の切なさを覚える。この一瞬が永遠に続いてほしい。今日の後も今日がくればいいのにと、けっこう毎日まじで思う。
だから究極の理想は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』みたいに、絶対に時が過ぎない永遠ループの世界で暮らすことなのかもしれない。まあ、そうなったらそうなったで悪夢だけど……。あとは、H・G・ウェルズの『タイムマシン (光文社古典新訳文庫)』に出てくるみたいな、「極限まで発展しきってしまったのでもうこれ以上の発展が1ミリも望めない世界」とか。いずれにしろディストピアではある。
余談
この妙なコンプレックス、今年はちょっと克服しようかなと思う。ただ別の方に「チェコさんはいけない女子」と言われてちょっと嬉しかったので(嬉しがるな)、やっぱり男女関係なく誰に対してもこのまま愛人路線を貫こうかなとも思う……。
とにかく、ずっとお話できたらいいなと思っていた人と、ちゃんと会えて良かったなと思ったのでした。