「あたし おかあさんだから」という歌詞が炎上している。
ソーシャルメディアで炎上を知り、作者と歌詞について検索し、「これは炎上してもしかたないな」と思った。
すでに多くの人がしっかりとした反論を書いているので、私が書く必要はないと思って沈黙してきたが、ことに男性のなかに「愛情あふれる詩にケチをつけるのは、読解力がないからだ」「こんなことにケチつけるのはおかしい」といった反論に同感している人が多いようなので、作者が母の苦しみに寄り添うつもりで書いたという詩に、なぜ女性たちが怒っているのか、考えてみたい。
毎朝痛みの海に沈んでいるような感覚で目覚めた
私ごとだが、10年くらい前から体の節々に強い痛みを感じるようになり、「線維筋痛症ではないか」と疑ってきた。だが、線維筋痛症は、検査で異常が発見されないことが「診断基準」になる原因不明の疾患なので、これといった治療もない。だから、「痛みをがまんできるかぎりはがまんしよう」と思ってきた。けれども、これが最近悪化していて、受診と同時に仕事を減らすことに決めたところだった。
線維筋痛症は、部外者には想像しにくい病気であり、仮病扱いされることもある。しかし、最近、レディー・ガガがこの疾患で活動休止を宣言したことにより、「そんなに大変な病気だったのか」と認知度が上がった。
私は病院で「いつから症状があったのか?」と尋ねられ、「記憶にあるかぎりでは、2010年くらいから。でも、それより前から痛みはあった」と答えたら「そんなに長く?」と驚かれた。
これまで黙ってがまんしていたのは、「この程度の痛みで文句を言ってはならない」と思っていたからだ。でも、毎朝痛みの海に沈んでいるような感覚で目覚め、15分くらい動けないのはやはり普通ではない。そこで、とりあえずストレスを軽減するところから始めてみようと思ったのだ。
痛みはとても個人的なものであり、他人には理解してもらいにくい。うつなどの心理的な病もそうだ。
三十代なかばに「うつ」にはまりこんだ
先日、メディカルスクール(医学大学院)に通っている娘が訪問しているとき、これまで語らなかったことを掘り下げて打ち明ける機会があった。
そのひとつは、娘が幼いころに私がはまりこんだ「うつ状態」だ。『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)に書いたが、三十代なかばの数年間は、夜中にひとりで車を運転して大木にぶつけてしまいたい衝動と毎日のように戦っていた。
その理由は上記の本にくわしく書いているが、自分のニーズをすべて押さえ込んで「よき妻」「よき母」として生きるプレッシャーと、どんなに自己犠牲を払ってもそれを達成することができない罪悪感、家事と育児を私にまかせてどんどん出世していく夫への嫉妬などが入り交じったものだった。
そして、深い海の底に沈んでいるようなうつ状態になったきっかけは、そんな心境のときに、流産と死産をくりかえし、その内情を知らない人から心ない「母親失格」の烙印を押されたことだった。
娘はその当時のことを「うっすら覚えている」と言った。
それまでは、プレスクールで「バイバイ!」と手を降ったら親のほうを振り向きもせずに教室に駆け込むような子だったのに、私が娘を夫か友人にまかせて家を出ようとすると泣き叫んで止めるようになった。娘は、敏感に私の危うさを察していたのだろう。
「それでも、おかあさんになったことを後悔していない」
夫を含めて多くの人が心理的な泥沼から抜け出すのを手伝ってくれたのだが、そのなかに、子供を通じて仲良くなったおかあさんたちがいた。
ひとりは大学で心理学を教える教授のRで、もうひとりは都市計画の専門家Lだった。
Rさんのご主人は大学院で知り合った同業者だ。Rさんが子育てのためにパートタイムになったに対し、ご主人のほうはフルタイムで名を馳せるようになっていた。
「昔私が手取り足取り指導してあげた若造がテニュア(終身雇用資格)取得するのを見るのがつらい。私はパートだからテニュアにはなれない」とRさんは嘆いた。
Lさんのご主人は有名な教授で職場結婚だった。Lさんはフリーランスで仕事を続けていたが、「昔の部下の男性から下請け扱いされるのが辛い」とため息をついていた。
たまに会って食事を一緒にすると、私たちは、そんなやるせない心情を語り合った。こんな愚痴は、ほかの人に言ってもわかってもらえない。
夫たちにうっかりこぼすと、「では、その解決策を提示せよ」と言われてしまう。解決策がほしいわけではない。ただ、この苦しみをわかってほしかったのだ。だから、批判や評価はせず、「そうだよね」とため息まじりに頷いてくれる仲間の存在は貴重だった。
レストランの閉店時間までしゃべり尽くしたとき、私たちが必ず語り合うのが、「それでも、おかあさんになったことを後悔していない」、「私にとって、もっとも貴重な仕事が『おかあさん』」ということだった。
辛い思いを肯定できるのは、本人だけ
炎上した歌詞も「あたし おかあさんになれてよかった」という結論だ。
だが、私がこの歌詞を読んだときに感じたのは「憤り」だった。
その最大の理由は、この結論を導き出したのが「おかあさん」ではなくて男性だったからだ。
私は「社畜」と言われるような企業奴隷的な職場体験もしているので、サラリーマンの苦悩は想像できる。だからこそ、簡単にそれを美化できないし、しない。
もし、働いた体験がなく、その必要もない裕福な家庭の若い女性が、ネットで中年サラリーマンの愚痴を集め、彼らへの「応援歌」としてこんな詩を書いたら、どうだろう?
「結婚前はモテモテだった。
給料は趣味と飲み代に使えた。
休日はごろ寝ができた。
好きなことして、好きなもの買って、考えるのは自分のことばかり。
だが、今は、全部妻と子供のことばかり。友だちと飲みに行きもしない。
俺 おとうさんだから。
出世に役立つゴルフ。
ちょっといいな、と思う子を誘う。
それ ぜーんぶやめて いま 俺、おとうさん。
俺、おとうさんになれてよかった」
これに対して「愛情あふれる詩にケチをつけるのは、読解力がないからだ」と思うだろうか? 私なら思わない。サラリーマンである苦しみは、アンケートやネットの愚痴に出てくるよりもっと複雑だし、結論だってそんなに簡単につくものじゃない。
「おかあさんになれて よかった」であれ、「おとうさんになれて よかった」であれ、辛い思いや、やるせなさを体験した後で、「それでも、この結果でよかった」という結論を出すことができるのは、本人だけだ。
痛みを知らない人に言われたくない
ちょっと前に私はフェイスブックにこんな投稿をした。
「線維筋痛症っぽい症状が10年以上あるのだけれど、最近は、朝目覚めると全身が痛みの海に沈んでいる感じ。それが毎日なので、気力のほうにも影響が出ている。。。でも、痛みがあるのは生きていることの副作用だと思うので、いまのところ99%ハッピーに生きてます。」
これは、現時点で私が感じている痛みの体験についての個人的な意見であり、それを「個人的な体験」の範囲で語るのはOKだろう。
だが、私が、ガガさんやほかの線維筋痛症の人たちを代表して「痛みがあるのは生きていることの副作用だから、がまんしてハッピーに生きるべき」と言うことはできない。
私にわかるのは、自分の痛みだけだ。ほかの人の痛みは想像できても理解はできない。
ガガさんを含めて私よりもっと苦しんでいる線維筋痛症の人はたくさんいるはずなのに、私が自分の痛みやがまんを美化したり、簡単なことのように扱ったりしたら、この病気を知らない人たちに、安易なイメージを与えてしまい、もっと苦しんでいる人たちに迷惑をかける。
それは、「傲慢」じゃないかと私は思う。
「あたし おかあさんだから」は、線維筋痛症の痛みを知らない人が、ガガさんの記事を読んで感銘を受け、ガガさんの立場から「痛みがあるのは生きていることの副作用だと思うので、ハッピーに生きています」という詩を書くようなものなのだ。どんなに文献を読んでも、意見を集めても、線維筋痛症の患者を応援するつもりでも、ガガさんの気持ちを代弁するのは傲慢だ。
ひとりのおかあさんが、あれこれ体験したあとで「あたし おかあさんだから」を書いたのであれば、あれほど怒る女性は出てこなかっただろう。その場合には、「人にはそれぞれの生き方があるし、いいじゃないか」「愛情あふれる詩じゃないか」という意見も納得できる。
だが、「あたし おかあさんだから」は、当事者ではない男性が一人称で書いたものだ。
私も小説を書いたことがあるし、フィクションを書くな、とは言わない。
ここで説明しているのは、当事者の心情とこの詩が炎上した理由だ。
苦しんでいる人は、周囲の人からその辛さを想像してほしいし、思いやってほしいと願う。
でも、その苦しみを体験したことのない人に、「痛みがあるのは生きていることの副作用。がまんしよう」と言われたくはないのだ。
夜中に車を大木にぶつけて死んでしまいたい衝動を体験したことのない人に「おかあさんになれて よかった」と歌われたくないのだ。自分が体験した地獄のような苦しみを、あまりにも軽く扱われているように感じるから。
苦悩と悟りを勝手に代弁しないでほしい。それよりも、辛い人の言葉に耳を傾けて、現実面で支えてほしい。
「あたし おかあさんだから」の炎上問題が教えてくれるのは、そこなのだと思う。