翁邦雄・元日銀金融研究所長は、過去に例を見ない黒田総裁の大規模な金融緩和策に対し警鐘を鳴らしてきた。任期の終わりを迎えている黒田総裁の金融政策の総括や、今後の日本経済のシナリオをたずねた。
――黒田総裁の5年間の金融政策をどのように評価していますか。
「黒田総裁は就任当初、2%という物価目標を2年以内に達成する、と宣言し、その後も2%達成を至上命題としてきた。5年後の現在、世界経済の力強い回復で実体経済は好調だが、日銀が重視している「生鮮食品及びエネルギーを除く消費者物価(コアコア指数)の前年比上昇率は0.3%に過ぎず、物価目標達成のメドは経っていない。したがって自己採点では落第にならざるを得ない筈だ」
「私は、本来の中央銀行の責務は経済の中長期的な安定を守ることだと考えているので、上記のような目先の物価だけからみた評価は適切ではないと考えている。だが、中長期的観点の評価には、出口以降に一段と顕在化する異次元緩和の多様な副作用の影響が重要になる。その意味で、黒田時代の評価は現時点では不可能だ。しかし、極めて厳しい評価になるリスクは高いと考えている」
――翁さんは日銀時代、日銀がマネタリーベースを増やせば物価は上がると訴えた岩田規久男さん(現日銀副総裁)と「翁・岩田論争」を繰り広げました。岩田副総裁らリフレ派の政策をどう見ていますか。
「リフレ派といってもいろいろな人がいるし同じ人でも主張が変わってきているが、デフレが経済停滞の最大の要因と捉え、中央銀行は『物価目標』達成を最上位の政策とすべきだと訴えてきた人達だと思う。当初は、原油価格や金融危機などの外部環境が厳しくても金融政策が頑張れば物価目標は達成できると主張していたが、異次元緩和では目標が達成できない、という現実に直面して、一部の人達は『デフレ脱却に財政を使うべき』、と考え方を変えている」
――物価目標を達成できないまま日銀が今の政策を続けたら、どうなりますか。
「可能性は三つある。政府・日銀が期待するのは世界経済の拡大が続き、人手不足による賃金上昇、原油価格回復などによる物価上昇シナリオだ。2番目は、金融緩和による資産価格バブルの発生、3番目は物価が上がりきらないまま不況が到来すること。ただし、2番目はバブルが崩壊すれば、3番目に合流する可能性がある」
――可能性が高いのはどれですか。
「それは微妙だが、心配なのは2番目、3番目だ。すでに日銀が目いっぱいの緩和策をとっている以上、金融緩和強化で不況に対処するのは難しい。」
――そうなると、最善なのは1番目のシナリオだけです。
「たしかに1番目のシナリオが一番望ましい。ただ、この場合にも、目標到達後に物価安定を維持していけるか、という問題は残る。世界景気の好調が続くと海外の金利は上がっていく。しかし、日本の政府債務は突出して大きく、金利負担の急増は政府には重荷だ。今は円高懸念が強いが、日本だけ金利がなかなか上げられないことが明確になると、円安主導でインフレが行き過ぎる可能性もある」
――金利が急激に上がると日銀が債務超過になるという指摘もあります。
「債務超過になっても業務は継続できる。しかし、日銀への信認や政府・国会との関係に影響を与えかねない。日銀には、無利子の紙幣を発行して国債などを買うことによる『通貨発行益』があり、これが将来にわたって生じることを織り込めば、健全性に問題ない、との主張もある。ただ、北欧など一部の国ではすでに急激に現金離れが進んでいる。将来も紙のお金が使われ続け、膨大な通貨発行益を生み続ける、とは考えにくい。」
――日銀の政策委員会メンバーについてどう考えますか。
「安倍政権は、審議委員は政府と考えを共有できる人を選ぶ、としてきた。しかし、考えを共有する人ばかりを集めると、議論が偏りリスクについての議論の厚みが欠け、十分に深まらない可能性がある」
――政策委員会メンバーの任命権は政府にある一方で、罷免はできません。金融政策の独立性は保たれているので、問題ないようにも見えます。
「確かに、審議委員は自分の考えに従って投票できる。しかし、現在の人選は政府の期待を反映しすぎている」
「日銀が政府と協調することが悪いわけではない。しかし、政府・与党と意見を共有するという基準で選ばれた人たちが運営する日銀は、事実上、政府の別動隊になる。法的に独立性があるので、国会で厳しく責任を問われることもなく、政府の考えに沿った金融政策を大規模に実施できる。日銀に独立性を与え続けるならもっと様々な視点の審議委員を選任して議論の幅を広げるべきだし、政府と一体の金融政策運営を行う前提なら、政府の一部門として金融政策に責任を持たせるべきだ。」
――今の政策の問題点をどう考えていますか。
「中央銀行は歴史的には、まず「最後の貸し手」として金融システムの安定を担ってきたし、マクロ経済政策としての金融政策も、あくまで需要の前借り・先送りによる景気安定化策だ。その観点からは、完全雇用のもとでは、行き過ぎた緩和を避けて将来の前借りの余地を作っておくべきだ。中長期的な物価安定の目安として物価目標を掲げることはよいが、異次元緩和のようにその一点に目標を集約するのは問題が大きい」
――具体的にはどうすべきですか。
「(白川総裁時代の)2013年1月の『日銀と政府の共同声明』に立ち返るべきだ。日銀は2%の物価目標を掲げる一方で、政府は財政運営に対する信認を確保する観点から、持続可能な財政構造を確立するための取り組みを推進する、とした。これは金融政策の強化が財政ファイナンスにつながる懸念に配慮したと言えるだろう」
「現在の日銀は共同声明が2%の物価目標の早期達成を掲げたことのみを強調している。しかし、声明を出した当時、日銀は、総裁講演などで、その前提として金融面での不均衡の蓄積を含めたリスク要因を点検し、経済の持続的な成長を確保する観点から問題が生じていないかどうかを確認していく、ということを強調し、物価目標至上主義とは明確に距離を置いていた。現在、政府は財政規律を失い、銀行は経営を圧迫され、株式市場も日銀によって買い支えられるなど、金融の不均衡は著しく増している。共同声明の原点に立ち返れば、こうしたリスクにもっと目を向けられるはずだ」
――大規模に緩和する非伝統的金融政策は、いまや日米や世界の中央銀行の主流です。日本の金融政策に海外の中央銀行も影響を受けたのでしょうか。
「米連邦準備制度理事会(FRB)もイングランド銀行(BOE)も、リーマン・ショック後は日銀の量的緩和策の経験を精査していたから、一定の影響は受けただろう。一方で、先行した日銀はFRBやBOEなどの政策を模倣した要素は大きくない。ただ、マイナス金利政策は欧州の先例を下敷きにしている」
――デフレに苦しむ日本の例から、FRBが教訓を得たことはありますか。
「FRBはバブル崩壊後の日本からデフレのリスクを教訓として強く意識してしまった。これは、1930年代のデフレが米国の大きなトラウマとなっているためだと思う。グリーンスパン議長時代のFRBも米経済学者も、物価が上がらないデフレをバブルより危険なものとみなし、結果として、それが住宅バブルを経由して金融危機に結びついてしまった面がある」
翁 邦雄(おきな・くにお)1951年生まれ。1974年東京大学経済学部卒業、日本銀行入行。調査統計局企画調査課長、企画室参事、金融研究所長等を歴任。2017年3月まで京都大学・公共政策大学院教授。17年4月から法政大学・政策創造研究科客員教授。シカゴ大学Ph.D. 専門は金融論。著書に「期待と投機の経済分析」(東洋経済新報社、日経経済図書文化賞受賞)、「経済の大転換と日本銀行」(岩波書店、石橋湛山賞受賞)など。