1988年 ソウルオリンピックを目前に控えた韓国の雰囲気は、今でも鮮明な記憶として残っている。街中が活気にあふれ、一日一日が慌ただしく賑やかに過ぎ去っていった。
これに先立って開催された1986年のアジア競技大会を成功裏に終えたことで、未だ戦後(厳密にいえば韓国は今なお停戦下であるが)を引きずっていた国民は活気を取り戻した。更に1987年に国民の念願であった大統領の直接選挙が実現、民主化により政治的にも安定したことも国民の気持ちを高揚させていた原因の一つかもしれない。
とはいえ、当時の韓国は国際的に見れば認知度はまだまだ低く、開発途上国というイメージから完全に脱却することのできていない、途上国と先進国の間という微妙な位置に留まっていた。
例えば現在の韓国には、驚異的ともいえる輸出高、そして営業利益で世界に知られているサムスンという企業がある。だが、当時のサムスンは技術力では日本企業に対し勝負を挑むことすらできない、低価格で対抗することしかできない二流の家電メーカーに過ぎなかった。
その頃、いずれサムスンが東芝やソニーを越える日が来ることを予想できる人などどこにも居なかった。2016年自動車販売台数で世界5位にランクされた韓国を代表する自動車メーカー現代自動車も、当時は北米に自動車を輸出したという事実だけで大きなニュースとして取り扱われた。韓国の88年はそんな時代だった。
日本人の多くが、1988年の韓国を独裁国家、あるいは軍事政権下から抜け出せずにいた国だと認識しているのではないかと思う。それは、当時の日本のマスコミや知識人たちによって定着されたイメージだろう。
1988年以前の韓国に言論統制や思想弾圧があったことは事実だ。政府の検閲により反政府的な記事は消され、知識人たちが職場を追われるケースも少なくなかった。特に共産主義や社会主義的な思想は徹底的に弾圧され、書籍の販売はもちろん、講義を行うことも禁止され、大学教授や学生の活動は監視対象でさえあった。
だが、一般市民の生活を見れば、当時は現在とさほど差異のない自由な社会だった。国内の移動や旅行などはもちろん、海外留学や移民についても何の障害もなく、それ以前にあった規制についてもソウルオリンピックの開催が決まったことを契機として一層の自由化が進んでいた。
ソウルオリンピックを目前に控えた韓国は、国民全体が、社会全体が浮かれていた。ただ国際的なイベントが開かれ、全世界の注目を集めるというだけでなく、アメリカを中心とした西側諸国がボイコットした80年のモスクワオリンピック、ソ連を中心とした東側諸国がボイコットした84年のLAオリンピックという、残念な二大会に続く88年のソウルは東西がそろって参加する、8年ぶりの「本当のオリンピック」開催になるのだという自負心も大きかった。
当然、国民の関心は高く、国民皆で成功させるのだという気概も強く持っていた。交通秩序やマナー、清潔な道路を作るためのキャンペーン、政府の指導や指示が、うっとうしいほど細々と多岐にわたって国民に伝えられたが、これに対する不満の声はほとんど聞かれなかった。
例えば、大会期間中の交通渋滞の発生を防止するために、ソウル地域では自家用車2部制運行が奨励された。車両ナンバーの末尾が偶数か奇数かで、自家用車を使う日を制限しようというキャンペーンであるが、予想をはるかに上回る国民がこれに協力し、その素晴らしい成果は誇らしげに語られるところとなった。
めんどうだとか、不便だとか、そう感じる人も当然いたに違いないが、それでも当時の韓国人はそれを我慢し、協力したのだ。国民一人一人の中にオリンピックを成功させたいという気持ちが確かに存在していた。