――人を殺した人と会う。死刑囚の実像に迫る!
作家の瀬戸内寂聴(94)が日本弁護士連合会のシンポジウムに寄せたビデオメッセージで「殺したがるバカどもと戦ってください」と死刑制度を批判し、犯罪被害者らを激怒させた一件は日弁連が謝罪する事態となった。たしかに配慮を欠いた発言だった感は否めないが、実際には死刑囚の中にも犯罪被害者的な側面を持つ者もいる。これまでに筆者が取材した中では、2010年に長野市で起きた会社経営者一家殺害事件の「首謀者」伊藤和史(37)がそうだった。
■長野一家殺害事件とは?
今年4月、最高裁は伊藤の上告を棄却し、2011年に長野地裁が宣告した死刑判決を確定させた。確定判決によると、長野市のリフォーム会社の社員だった伊藤は10年3月24日、仕事を通じて知り合った松原智浩(45)や池田薫(40)、斎田秀樹(57)と共謀し、勤務先の経営者・北村博史(仮名、享年62)とその長男・礼司(仮名、同30)、礼司の内妻・香田葉子(仮名、同26)をいずれもロープで首を絞めて殺害。現金約 416万円を奪うと、3 人の遺体をトラックで愛知県西尾市の資材置き場に運び、土中に埋めて遺棄したとされている。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/10/post_11145.html】
すでに3人の共犯者も松原は死刑、池田は無期懲役、斎田は懲役18 年がそれぞれ確定したが、伊藤は犯行の「言い出しっぺ」だったことなどから「首謀者」と認定された。筆者がこの伊藤と初めて面会したのは一昨年の秋のこと。一家3人の命を奪った首謀者がどんな人物か確かめたく、東京拘置所まで訪ねたのだ。
■親しみやすい雰囲気の殺人犯と文通
「はじめまして。寒い中、わざわざありがとうございます」
スウェット姿で面会室に現れた伊藤は思ったより若く、殺人犯らしからぬクリッとした瞳をしていた。こんな言い方は少々ためらいを覚えるが、初対面の時からいかにも親しみやすい雰囲気を漂わせた男だった。
以来1年数カ月、筆者は伊藤と面会や手紙のやりとりを重ねたが、伊藤は第一印象の通り気さくな性格で、何でも率直に話す人物だった。出身は大阪で、中学時代は吹奏楽部。中学卒業後、高校はどこも受からずに専修学校へ進んだが、勉強についていけずに中退。その後はコックやゴミ回収員、風俗店従業員として働いた。サッカーやビリヤードなど趣味が多く、花も好きなのだという。
ただ、事件のことは当初、話しづらそうだった。
「今思えば、他に何かあったように思うんです。でも、あの時はああするしか思いつかなくて・・・」
取材を進めるうち、伊藤が事件のことは話しにくい事情は理解できた。この事件は加害者と被害者の関係が特異なのだ。
■死刑を確定させた最高裁も同情的
この事件の経緯は、控訴審判決がもっとも詳しく認定している。それは次の通りだ。
大阪の風俗店で働いていた伊藤が真山文剛(仮名)という暴力団組員の男に因縁をつけられて暴行され、家の合鍵を取り上げられたのは05年の夏だった。以来、伊藤は真山に言われるままに養子縁組をして姓を変え、消費者金融で借金させられたり、仕事で得た金を取り上げられるように。この間、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなどの激しい暴行も受けていた。
そして翌06年1月、伊藤は被害者の北村親子と出会う。北村礼司が真山の舎弟だった縁だ。やがて伊藤は北村博史が営む高利貸し業を手伝わされるようになるが、08年の夏、衝撃的事件が起こる。兄貴分の真山を疎ましく思っていた北村の長男の礼司が真山を拳銃で撃ち殺したのだ。
その場に居合わせた伊藤は、礼司から真山の遺体の遺棄を手伝わされ、その後は博史の営む会社で働かされることに。長野市の事務所の住み込みにされ、09年からは監視カメラの設置された北村親子宅で同居させられた。
それ以降、伊藤は朝から夜まで博史の会社で働かされ、収入を得るために深夜は別の仕事をし、1日3、4時間しか眠れない日々が続く。休日も博史や礼司の付き人や運転手として拘束され、暴力も頻繁にふるわれた。「大阪の妻子に会いたい」と再三訴えたが、「真山のようになってもいいのか」と脅かされ、帰宅できたのは盆や正月、自宅が火事になった時などだけだった。
伊藤は疲弊し、逃げ出したいと考えた。だが、北村親子が高利貸し業の債務者が逃げた際に住民票の除票から住所を突き止めたのを知っていた。逃げても逃げ切れないし、家族にも危害が及ぶかもしれない。北村親子は警察と懇意にしており、警察も頼れないと思えた。
やがて伊藤は、この生活から解放されるには北村親子を殺すしかないと考えるように。翌10年には、同僚の松原も「同じ考え」だと知る。そして松原と共に同僚の池田や取引先の斎田も引き込み、犯行に及んだ――。
以上が裁判で認定された事件の経緯だが、最終的には殺人犯となった伊藤は元々「被害者」だったと言えなくもないだろう。事実、伊藤の死刑を確定させた最高裁も判決で「動機、経緯には、酌むべき事情として相応に考慮すべき点がある」と述べたほどだった。
■律儀すぎる男
「なんていうか、僕の中では、当時は漫画の世界に引きずり込まれたような感覚でした。世間では、『怖い』とか『恐怖』とか簡単に言うけど、『怖い』とか『恐怖』とか、そういうのを超えていましたから」
伊藤は事件当時の心情をそう振り返っていた。しかし一方で、獄中では日々、被害者のために読経にいそしんでいた。それと共に支援者らのサポートをうけ、自作の絵をポストカードにする活動にも打ち込んでいたが、「伊藤和史という存在をできる限り、色々な形で残したい」という思いが創作意欲の源とのことだった。
面会に訪ねると、その後たいてい手紙をくれたが、いつも恐縮するくらい丁重な感謝の言葉がしたためられていた。
〈普段、会話の出来ない私に、会話するチャンスを与えて下さり、とても感謝しております〉
〈大切なお時間を私と向き合うお時間として費して頂いたこと、大変に感謝しております〉
この律儀すぎる男を取材しながら、筆者は何度も「仮に自分が事件当時の伊藤だったら、どんな選択をしたろうか」と自問させられたものだった。
■最後の面会
伊藤と最後に面会したのは、最高裁の上告棄却から二週間余りが過ぎた5月半ばのこと。いよいよ死刑の確定が間近に迫っても、伊藤は自分のことより弁護士や支援者、離れて暮らす家族のことを心配するようなことばかり言っていた。しかしやはり、弱気は隠せず、「正直、家族にすがりつきたいんですけどね」と率直な言葉も口にした。
「僕、何のために生まれてきたんかと思います・・・」
目の前で伊藤がしみじみそう言った時には、なんともいたたまれない思いにさせられた。「時間です」と立ち合いの刑務官に告げられて辞去した際、面会室から出ていく筆者に手を合わせ、ずっと拝み続けていた伊藤の姿が今も忘れ難い――。
(取材・文・写真=片岡健)
※写真は、伊藤が作成したポストカード
コメント