2018.02.06
女のしあわせ
女は不幸になる自由がない。女はしあわせにならなければならない。これについてはフェミニストも異議申し立てをしない、いや、あの連中の片言隻句を遺漏なく追っているわけではないから絶無かどうかは知らんが、ポリコレ的に見て、女の人生が幸福の追求にあることは否定されない。女のしあわせというノルマはまったく男女差別ではないようだ。「しあわせになって欲しい」という発言が男女差別として扱われることはあるまい。旧習に晏如としているひとびとが打ち砕かれていく自由社会においても、しあわせになりたいというのは女の本能として根源的な欲求であろうから、理想的な人生に囚われることを不自由とは思わないらしい。ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンみたいな馬鹿が27歳で死ぬのは構わないし、しあわせうんたらというのはないので、不幸になるのは男性の特権と言える。悲劇のヒロインという枠はあるが、ジミ・ヘンドリックスが悲劇のギタリストとして扱われることはないし、馬鹿が死んだというだけである。女性でもカルトな宗教や政治にかぶれれば血腥いアナキズムな死に方もありえなくはないが、軽佻浮薄な学生運動家として将棋倒しで薨じた樺美智子だと、やはり普通のしあわせを奪われた悲劇という枠だし、馬鹿が死んだという扱いはできない。ジミ・ヘンドリックスが27歳で死んだのが笑い話であるのと対比すると、樺美智子はずいぶん尊厳を守られているが、政府転覆ができなかった挫折としてではなく、女の子のしあわせを達成できなかったという理由で腫れ物になっている。おそらくこの問題は、撤廃を目指すべき話でもなかろうし、ひとまずそういう男女差がある、という指摘に止めておく。幸福とか不幸というのは、ただの快楽と苦痛の話ではなく、存在解釈として理想的な家庭を築くという側面があり、ここから外れることは男だけが許されている。そして女はまったくそれを望まないのである。おそらく女でも、男が破滅的な美学を貫いて死ぬ物語に共感はするはずだが、女の自分がそれをやりたいとは思わないらしい。
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