恋愛なんぞからすっかり遠のいて、馬鹿馬鹿しくすら感じられる年齢になりました。そういった感情に振り回される体力がないのか、もしくは経験からそれに飽きたのか、付随してくるごたごたを楽しめるには擦れてしまっているのかは、わかりませんが。
まあそもそも既婚だろと。配偶者へは愛というより家族だものね…。
でも、それは案外悪いものでもなくて、そういった感情から離れたことで、ただ憧れたり、ただ慕ったり、ただ眺めているだけで幸せな気持ちになれるようになったので、長く生きるのもなかなか良いものだなと思っています。
さて。
見返りとか、支配欲とか肉欲とか顕示欲とか全て一切なしに、誰かの幸せを心から祈れますか。
これは私がときどき自分に問いかけていることです。配偶者にというより、産んだ子供たちを育てているとき、そして、今は、私がただ眺めているだけで幸せな気持ちをもらえる対象に対して、考えていることでもあります。
バスケ観戦において、応援はさまざまなかたちで行われていると思います。多様性がある時代ですし、今ここで是非を問うつもりはありません。
好きなチームに好きな選手がいる、というごくごくよくある状況ではなくなった頃から、私の周りには「推し」や「追っかけ」という言葉が増えて来ました。誰かが使うこともあれば、私自身が表現上やむなく使うときも冗談交じりで自身を揶揄するときにも使っていると思います。
私の気持ちはあまり、好きなチームに好きな選手がいる頃と変わっていないのです。ただ一番観たいバスケのあるところに行くだけなので。
少し話がずれてしまいました。「追っかけ」に関しては、また別の機会に書けたらと思っています。
今日は「好きな選手」の話をしたくてここで書くことにしました。選手が誰で、という話ではありません。
好きな選手がいたときにどうしますか?
という話がしたいのです。
もちろんこの「好き」は、結婚したいとか恋人になりたいとかの好きではないです。そんなものはせいぜい中学生が夢を見るくらいでしか許されないでしょう。こちらは、憧憬と言えばいいのでしょうか。単にあこがれている、わあ、すごい!わあ、すてき!と思うだけの「好き!」です。
私は、見る目に自信のある(と、自分で言うからなんとなく勘に触る)女なので、素晴らしかったらもっともっと認められるはず!ほらこんなにいいの!ねえねえ知ってる?ほらやっぱりすごいんだよ。と信奉するので、その素晴らしさをどちらかというと見せびらかして共感してくれる人を探す旅に出てしまうタイプです。
なぜなら、私の憧れ(もとい、私の感情の発露全般)が強すぎるくらい強いので、この先の未来で、対象にはもっと輝いてほしいし、正当な高い評価をされてほしいし、望むことが叶うくらいお金を稼げるようになってもらいたい、ヒーローにふさわしい活躍と報酬と評価を、と思ってしまうからです。
ただ。
心の底からそう思っている私ですが、そうでない感情が存在していることを知っています。
素晴らしいから。
美しいから。
魅力的だから。
その魅力に囚われたからこそ、
だから、閉じ込めてしまっておきたい。
他の誰にも見せたくない。
以前、言われたことがあります。
SNSで情報を共有すると同時に、サポートをアピールする私のことを
「そういうことをするあなたはファンだと思ってないから」
と。ファンは厳選されるべきで、魅力は少人数で分かち合うもので、大々的に宣伝するのは控えるべきという考え方のようでした。
私の中にはほぼ、存在しないのですが、理解はできます。これも、是非を問うているのではありません。人間なので、心があるから、そう思うことも不思議ではないと理解しています。
そう、
あまりにも、
思い出が楽しすぎて、
存在が美しすぎて
他の誰かに見せるのが惜しくなってしまうのですよね。
なんてくだらない、と思う方は多いと思います。ならブログなので閉じてくださいね。
それでも、胸に手を当ててみたとき、少しだけ心当たりがある方はいませんか?…と思います。
私ですら(ほぼ、と書いたので)、試合後に私だけが話しかけていた以前とは違い、試合後にたくさんの方々に囲まれる姿を見たときに、たとえようもなく嬉しかったのと同時に、ほんの少しだけ寂しい気持ちが胃のあたりをかすめた気がします。まあパスタを食べて空腹のせいにしておきましたけども。
きっと、不安なのだと思います。
応援したことや、手を振って気づいてくれたこと、写真を撮ったこと、サインをもらったこと…
誰にも見せたくないと思う人は、その美しい存在との思い出が、大勢の人に応援されてしまったら、なかったことになってしまうかもしれないという不安に怯えているのかもしれないな、と、サーモントマトクリームパスタを食べながら思うのでした。
現在、リーグでは大勢の観客を呼ぶ施策がそれぞれのチームに必要であると感じているでしょう。市場が拡大しなければ、活性化しないのですから。バスケプロ選手が現役期間のそれだけで一生分食べて行ける時代は、まだ到来していません。
だから、無くなるでしょう。
コートで全員とハイタッチすることも、
サイン会が頻繁に行われるのも、
出待ちやバスの見送りをするのも、
いつかは全て無くなるものだと思っています。
上記のそれはルールとマナーを一人一人の気遣いと心がけで守っていかなければいけないものであり、それを周知する人数には限りがあると思うからです。
これも、今現在で、禁止にするかどうかをここで言いたい訳ではありません。言いたいのは、
それらが無くなっても、思い出は消えない、ということです。
大事なものが奪われるわけではないと思うのです。心の底から憧れて、応援したい!と思う気持ちは、自分がコントロールできさえすれば永遠です。もちろん少しだけ悲しくなることもあるかもしれません。選手の姿は物理的にも精神的にも遠くなるかもしれません。
しかし、夢を売る彼らの仕事からは想像できないような試合のハードさ、トレーニング、ファンサービスの時間…、それに見合わない低賃金…からは解放されていくはずです。
だから、損得勘定なしに、素敵な選手が、大好きな選手がいるのだとしたら、たくさんたくさん応援したいと思っていて、してみませんか?とも思うのです。
バスケで食べていく、という彼らの人生の大きな選択である決意は、籠の中の鳥では、叶わないと思うのです。
籠の中の鳥は、ずっと閉じ込めておくと、やがて、扉を開けても籠から出なくなったり、飛び方を忘れてしまったりするかもしれません。
私は、鳥は大空を飛ぶ姿がいちばん美しいと思っているのです。
2018.02