葛西氏との対話の、外野部屋です。
基本誰でも自由に出入り、コメント書き込み可能としています。当然の話をしますが、常識はわきまえた行動を取って下さい。
50コメント以上となった場合、新たなページを作成します。
元記事…「ブログ&コメント義」 外部コメント用…「対話の外部部屋」
この対話に関連性のある記事を下に記しました。もし良ければ目を通して下さい。
「人影の無い議論」
「塚原問答様法論」
「胸躍る仏罰」
MonLinGen管理人(2018年1月17日 19:47)
対話専用部屋-22017年11月11日対話専用
対話専用部屋2017年11月5日対話専用
外野席部屋-Ⅳ2017年11月13日対話専用
monligenさんへ
葛西さんの文章をコピーして太字にして、その下に回答をかいてほしいです。 葛西さんの質問と葛西さんの質問の間にmonligenさんの回答を入れて下さい。
注文つけてすみませんがどの質問の回答かわかりにくいので宜しくお願いします。
miuさんへ
こんにちは。 全て別掲載にしたいんですけど、結構質問内容の同種性があって、そこに様々な返答を加えていくとなかなか分離出来ません。 少々読み辛いですが、我慢して頂ければと思っています。
葛西さんとのコメントのやり取りを私が折伏する時の参考資料にさせていただきます。 野次馬ではありません。念の為
葛西さんとのコメントのお返事を最優先させていただいてかまいませんが、私もmonligengenさんの考えをお聞かせいただきたく宜しくお願いします。
①幸せになった人がどれだけ増えたかが実証
幸せといっても捉え方は人それぞれです。
交通事故にあっても、死なずにすんで不幸中の幸いと前向きにとらえる方もいれば、不運な事がおきた。難を乗り越える信心、難とか魔とか解釈なさる方もいます。
幸せと言うのは自分がそう感じれば良いというお考えでしょうか? 自分以外の人が幸せだと認めてもらってはじめて幸せとお考えでしょうか?
②本尊義 駄目だしさんにも言われてましたが、自分の家で安置してる本尊の説明も出来ないのはもはや宗教ではなくただ祈ってるだけ monligenさんのやってる事は祈りでしょうか? 創価学会は日蓮世界宗と言ってますが?
③実証 ①と質問が似かよってますが、実証といっても、功徳と体験発表してますが、法華講員も退会して良かった功徳の実証体験発表しています。 本人が実証と感じても全ての人がそれを実証とは思いませんし、創価を退会して良かった実証を退会者は発表してるので、実証といっても、あまりにも曖昧で不透明です。
駄目だしさんの言うように、宗教なら教義があり、その中の文章を取りだし(文証)、その文章の辻褄、すじが通ってるか(理証)、それがその文章どおり生活に役立ってるか(現証)
先ずは文証、次に理証、そして現証になると思いますが、どのようにお考えでしょうか?
何度もしつこくすみませんが、これは批判ではありません、折伏するには、何を話そうとかどう答えようとかロープレしたいだけです
もうひとつごめんなさい アンチは腐ってると言ってますが、創価を批判したら腐ってる事になるのですか? それでもかまいませんが、学会員には納得してもらえても、非会員は言葉を補足しないと納得してもらえないと思います。
Miuさんへ
ありがとうございます。 幸せの定義の十人十色と言う事は、十分承知しています。しかし、私は先生の指導の中の「幸福」の話を全て中心に考えて、そして話しています。 先生は「幸福とは絶対負けない境涯だ」という意味の事を言われています。私も、本当にそうだと思っています。個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。 この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です。
御本尊のことは、大事だと承知しています。しかし、それ以上に我々の問題として「御本尊に向かう自分」はもっと大事なんではないでしょうか? アンチで盛んな「本尊義」の決定的な間違いは、「自分」がどこにも居ないと言う事なのです。これはしっかりもう一度考えて欲しい問題です。 日蓮大聖人直筆の御本尊だとしても、自分自身の信心が御本尊に向かっているか、全くあっちを向いているか、この違いで「功徳」が違ってきます。当然宿業転換も違ってきます。 本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。
実証。功徳、と言い換えます。 功徳は非常に「個人的な感覚」です。当然です。 その個人的な功徳の体験を、更に自分の実感として深化する為に「体験発表」があるのです。(勿論これは一つの在り方ですが) 「五十展転の功徳」、耳にしたことがあると思います。最初の人の功徳の感動を聞いて、50人迄の感動の功徳は、仏陀への供養をした功徳よりも更に大きい、と言う意味の話です。体験談とはそう言う意味を持った、非常に大事なものなのです。 文証も理証も大事だと言う事には異論はありませんが、大聖人の仏法の最第一は「現証」なのです。もう一度御書を開いて下さい。必ず現証、功徳の話をされています。文証や理証は「現証、功徳」の単なる「説明書き」でしかありません。これを大事に出来ない「ダメ出しは」謗法以前の連中だと言えます。
創価学会は正しい道をしっかり歩いています。私はそう確信しています。その学会の道に立ちはだかろうとする人間は、「腐った人間」です。正しいことを邪魔するわけですから、そう言われてもし方がありません。 平和運動も学会の一つの運動です。若しその運動に対して「戦争賛成!!平和運動反対!!」と言う人間が、若しでてきた場合、貴方はどう思われます? 私は、馬鹿な連中だと思いますけどね…。
御本尊は世界中の人々を「幸せにする為」に存在します。それはまさに、現証そのものです。 現証が見えない人って、寂しい人ですよ…。
某ブログに、何度か、コメントしたことがあります。 とても、丁寧に対応してくれました。 某ブログさんは信念を持ってブログを運営しています。 ネットで話し合いをしてみようと思ったことはあります。 しかし、その前に、許されるなら、一度はお会いして 話をした方が良いと思いました。 そうでないと、ブログからのイメージが強すぎて判断に戸惑うと思いました。
管理人さんが某ブログで、どのような話し合いをしたのか、分かりません。そういう状況ですが葛西さんと管理人さんとの話し合いを読んで感じた事を書かせて頂きます。 そんな話し合いをして、何の価値があるの?疑問に思いました。 葛西氏、管理人さんの博識、教養の深さには感銘します。
私には、とても、お二人のような高度な対話はできません。 しかし、それが、実践、つまり、現実の生活の信仰に価値的とは思いません。 柔ちゃんが、大学の卒業論文で背負い投げの考察をしていました。 学術的には価値があるかも知れません。しかし、そのような論文をいくら勉強しても 実際の試合には活用できることはありません。 お二人のは話し合いを読んで、それが、どうしたの?それで、どうなるの? とおもってしまいました。 お二人にお聞きします。 お二人は、どのような思いで話し合いをしていますか?
うるとらまんさんへ
こんにちは。私の、今回の対話に関して、個人的な感想を記します。 もうほぼ記憶の彼方にある「ダメ出し」での経験の話でしたので、かなり面倒臭い気持ちでいます。葛西さんは何故こんなに燃えているのか、少々理解不能の状態でもあります。でも、まあ彼はこう言う事が好きなんだとも思っていて、お付き合いも一つの勉強なんだろうとも…。 ただ、一度に一杯の質問が出てくると、かなり厄介な気持ちにもなります。私も仕事持ちですので、少しずつ回答を書きながらの、返信コメントです。
私の考えは、うるとらまんさんと同様で、現実の功徳の話の方が大事だと思っています。また、葛西さんの返答にも同様な趣旨の話は記載しています。でも、読み飛ばしているようですね。…興味の問題なんでしょうか?
長くなりそうな予感です…。
管理人さんは重要な点を感得でごまかす。
この指摘は正しいと思います。質問に対して合気道の例を出したりで大事なところは言葉で語らない。ごまかす。
全く無価値な対話ですね、こりゃ。
しゃーかくさんへ
どれだけ深遠な内容の対話でも、ゴミのような精神状態で聞くと、「全く無価値な対話」に感じるようです。
人の真剣な対話をどう聞くか、読むか…全て貴方自身の「境涯」だと言う事を、そろそろ理解すべき年齢なのでは……?
monlingen閣下を応援しています。 まさに創価学会員の模範だからです。
>個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。 この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。<
ですよね。 小樽問答を武勇伝にはできなくなってしまったけど、題目さえあれば御本尊はなんだていいのです。あれ?身延と同じ・・・とか、そんなうるさい事を言っては前進がありません。
昨今、世間に迎合してなまっちょろい事を言う学会員が多い中、閣下のビシ!とした論調は、正しく創価学会を理解するには貴重なブログだと思います。
その調子でこれからもどうか頑張ってください(^_^)/
さくらもちさんへ
こんにちは。どう受け取っていいのか悩むような記述方法ですけど、ここは善意に受け取るべきなんでしょうね。 ありがとうございます。
「あれ?身延と同じ…」と言われています。でも私は、身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。まあ、これは個人的な考えなので、大っぴらには出来ませんけどね。
あら、「対話の目的」 は まだ決まってなかったのですか? 葛西さんが最初に書いておられますけど。
「ブログ・コメント義」より ———————————————————
・参加者 貴殿のダメ出しブログでの言動がかなり愚昧だったと考えている私と、 それが誤っていると思う貴殿。
・目的 上記の意見の相違が、 どのような具体的なコメントに対する評価から生じているのか明らかにする。議論の進行によっては、双方自らの誤りを認め意見を修正する —————————————————————–
>貴方達は、学会とは全く別の世界に身を置いている訳ですよね。その事実をもう一度考えて見るべきです。
「貴方達」って、対話の相手は葛西さん一人ですけど? 一括りに言っちゃうのはどうかと思います。 地球人は学会とアンチの2種類だけではありません。 私と葛西さんは全く別の世界に住んでいるし、 考え方もモノの見方も何もかもぜんぜん違います。
声さんへ
対話の目的 …これは、私からの「対話の目的」の提示です。何か理解不能の部分がありますでしょうか?その上で、彼の目的を聞いただけですが…。 お互いはっきりしていた方が、対話も楽しいはずですよね。
貴方達 …文脈から理解出来ない人は、再度話しても無理だとも思いますけど、「貴方達」というのは「アンチ学会員」という意味です。意味を取り違えないようにしているだけです。よくかみ砕きながら、読んで下さいね。
monlingen閣下! お返事ありがとうございます!
>身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。<
よくぞ仰ってくださいました。 これを大っぴらに言えない学会員が多いと思います。 故に、日蓮正宗に大御本尊があるのを歯ぎしりしながら見てる学会員もいるかと・・・。
閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。 (実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~)
古美術商から「御本尊」を購入されたんですね。なかなか立派な信心をお持ちの方のようです。
「信心」をどう考えるか、どう見るか…非常に難しい問題ですね。簡易な在り方では、信心の「し」の字の話も出来ないと思っています。
こういう感じの場所には、アンチ系の人間は嬉々として割り込んでくるようですね。
でも、こんな雰囲気は個人的には大好物です。全て勉強になる「お言葉」ばかりです。葛西さんも、これは皮肉ではなく、凄く力強い気持ちになっているだろうと想像します。 そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。 その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
頑張れ!!葛西さん!!
以下の記述の意味が全く意味がわかりません。 よろしければ講釈ください。
私の読解力のなさによるものでしょうか?貴殿の独特な言語感覚によるものと私は思いますが。 他の方は理解できたのでしょうか?
+++++++++++++++++++++++++++
そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。 その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
・アウェイでの対話自体が、私の根性のあり方である →「アウェイでの対話」と「私の根性のあり方」が、 主述文で等しいものであるとされているが、 「対話」という名詞と「根性のあり方」という状態を示す語がなぜ等号関係になるのか不明瞭。 「アウェイな環境での対話が、葛西氏の根性の試金石となる」とかならわかりますが。 また、「自体」の使い方もよくわかりません。
・これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。 →この論法、できればやめていただきたいのですが。 相手に主張が伝わらなかったとき、「経験がないからだ」「感得ができないからだ」・・・ 結局「お前にはわからないだろうが俺の方がわかってるんだぜ」とか自慰的な主張をされても、 反応に困ります。
・ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。 →突然「ピンスポット的」というパロメータが出てきましたが、 これはどういう意味ですか? 元来の「アウェイな環境で書き逃げではなく最後まで議論しろ」ということですか?
・その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。 →ここでまたしても「対話」という名詞が「人」という人称名詞に等しいものとされており、 理解に窮します。 「アウェイな環境で堂々とした対話が出来る人は、本当に根性がある人だ」ということですか?
・頑張れ!!葛西さん!! →アンチ系の外野が多くて、 アウェイな雰囲気ではない中で貴殿と対話する私への皮肉という解釈でよろしいですか?
葛西さんへ
正式な部屋にコメントを出しましたので、そこを読んで下さい。 ここはQ&Aの部屋として作っていません。故に、ここでの話は正式部屋には持って行くつもりは一切ありませんので、宜しく。
補足です。
葛西さんがこんなに小さな事を気にする人だとは、思ってませんでした。これに関しては、少々申し訳ないと思っています。
「頑張れ」云々の話は、信じて貰うしか方法は無いのですけど、これは本気の言葉です。貴方にとっては信じられない話でしょうけど、私はここをある意味葛西さんのホームグラウンドとして設定しようと考えました。その結果、まあ、逆向きの結果になった訳です。これは、誤りますね。
これ以後この部屋では対話はしませんので、宜しく。
更に気になったので、補足の補足です。あれこれと申し訳ありません。
常識的な思考方法があると言う前提で、上記の話をしました。でも違ったようです。これからはもっと噛み砕いた話し方をしていきますね。申し訳ありませんでした。
さて、外野席の「しゃーかく」さん、「さくらもち」さん、更には「声」さんのコメントで、「誰に対してのコメント」かをもう一度よく見て下さい。はっきりMonLinGen、管理人、また、文脈上私へのコメントである事は、間違え様のないものになっています。このコメント群は私が、「それぞれの方」に対して、個人的に自分の考えを書いたものです。この事は大事な事になります。これらの話は葛西さんには、全く無関係のものです。それを引っ張り出して、何故「質問」として積み上げるのか、私にはさっぱり理解出来ません。 「外部部屋」の意味は、ここで好きな様な話が展開出来るように設定したものです。「専用部屋」では葛西さんと私の話合いです。この部屋に影響されるのであれば、ここは閉鎖しますけど、どうしますか?葛西さんの意向通りにしますよ。
詳細を話すと、「アウェイ」の話の意味は、葛西さんが学会系に囲まれて対話に望むのは、かなりの緊張感が出てくると思い、同じ種類のアンチ系を呼び寄せる為に少々「呼び水」を出したと言う事なのです。私はアンチ系の中でその緊張感を経験した故に、貴方にはもっとリラックスして欲しかっただけなのです。(信じる信じないは勝手ですけど…) …全く意味が無い事をしてしまったようですね。これも、私のミスです。
若し、「外野」が気に入らないのであれば、即刻削除致します。
本件は私の邪推のようでしたね。 大変失礼しました。
コメ欄の閉鎖の必要はございませんし、 以降、私に対する外野の方からのコメントが無い限り、 ここには書き込みません。
お気遣い感謝申し上げます。
monlingen管理人さん。お久しぶりです。 なんだか葛西さんとmonlingenさんの対話が始まっているようなので拝見させていただております。 拙と「ちよ」さんとの対話部屋はアウェーのもの同士のもので対話のテーマも明確にしたものでしたが、今回は管理人さんとの読者(葛西)さんとの直接対話ということで成り行きに興味をもちました。 それ以前のお二人のいきさつを拙が全く知らないことを示したうえで、葛西さんにお尋ねします。
某アンチブログでの「のんかつ」(monlingen管理人さん)の対応について、いくつか質問をされているようですが、拙にはmonlingenさんと現役法華講員とのやりとりについて“破折が不十分ではないか?”とか“法華講員に言われっぱなしではないか”いったような葛西さん抱かれた御不満が根底にあるのではないかと感じました。
葛西さんがこれらの質問をされることで、どうなさりたいのでしょうか。
あべひさんへ。
横から失礼します。 彼の目的は何度もはっきり示された通りです。 それ以上でもそれ以下でもありません。
それ以上ものが無いと御不満なのでしょうか。
声さんはじめまして。 貴殿がこちらに書かれたコメントにヒントがあるのは確認いたしましたが、あえて葛西さんご本人から確認をしたくて質問をさせていただきました。
monlingenさんの記事の意図は「アンチの呼び水」、つまり挑発でブログにアンチさんを集める事にあることは明記されていましたので、質問は避けました。
あべひさん、はじめまして。 目的ではなく意図を聞いておられたのですね、 ピンボケなレスを送ってしまいました。申し訳ございません。
横から失礼しました。
あべひさま
ご質問をいただきまして、 誠にありがとうございます。 あべひさまにご指摘いただいた点は、 当たっております。
本議論の発端は、 管理人さまが書かれた「コメントや議論はかくあるべき」に対して、 「あなたのダメだしブログでの言動も誉められたものではない」とコメントしたことがきっかけです。 管理人様からは、 「貴方が、若し自分自身の批判される事に対して、自分自身責任を持てる方であれば、どんなに長い期間であったとしても貴方の疑問にお答えしたいと思います。 (中略)どうですか?途中放棄が決して無いのであればこのブログでしっかりお話しします。」 という返答をもらいました。
私は管理人さまのダメだしブログでのコメントや、 このブログの記事について、以下のような疑念を持っており、お話したいと考えています。 それは、あべひさまが記載されたことと重なる点もあるかと思います。
・自分の主張を「自分の体験/感得」によって根拠付ける ・その主張がわからない人間を「わかっていない人間」として見下す ・真剣な議論を標榜しておきながら、真剣にコメントしてきた人を腐す
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
上記によって生ずる(もしくは既に生じている)と考えられる弊害は以下です。
①アンチから馬鹿にされる 「感得、感得」と言っていますが、 しっかり勉強をし自らの考えを言語化する努力をした上で、 「それでも理よりも体験が大事だ」と言うならよいですが、 管理人さんはそもそも論理的に話そうとされず、すぐに「感得」を持ち出します。 こんな主張をすれば、 「学会員は馬鹿だ」といわれるのは当たり前。 私も学会員ですが、管理人さんのロジックは意味不明です。
②学会員に対しても暴力的になる たとえば、あべひさんとちよさんの対談で管理人さんが下した、 「祈っているか/いないか」の判断。 こういう判断を簡単に下す人の神経を疑います。 字面だけで相手を「信心が無い」だの「祈っていない」だのと判断することの暴力性に対して、 あまりに無自覚。 そしてその根拠は、お得意の「感得」。 そして、それがわからない人間を、「信心がない、感得できない人間」だとレッテル貼り。 かなり暴力的です。
さらに管理人さんは、 自らの「感得」が大勢に共有できるものだと素朴に信じているようです。 それが共有できない人は、 信心が無い、と思っているのでしょうか。 これもかなり暴力的です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 思うに管理人さんの世界観は、
「感得で信心をわかっている自分」を定立した上で、 それを共有できる(と管理人さんが思っている)人たちが周りにいる。 その人たちを「本物の信仰者」と呼ぶ。
その外周には、 感得を共有できない人たちがいる。 それを「ミカツ」なり「感得に問題がある人」なり「アンチ」なり「糞尿」と呼ぶ。
それに対する問題は、
・自らの正しさを「感得」のみで基礎付けること ・「感得」を共有できると素朴に信じていること ・共有できないと判断した人に対して無根拠な非難をすること
だと考えます。
お答えになりましたか?
あべひさん、質問させていただいてもよろしいですか?
あべひさんはこのブログでちよさんと対談されましたが、 (少なくとも私から見れば)管理人さんの独裁的なやり方によって中断(というか一方的な勝敗決定)されました。 その後展開されたのは、 俯瞰中毒分析なるあべひさんへの非難合戦です。 当該記事には、あべひさんの職業などを特定しようとするものまで発生し、 異様な様相を呈しました。
・あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか? 正当なものだと考えますか、違いますか?
・管見の限りでは、あの議論の後、 あべひさんはMonlingenさんを一切非難しておられませんよね? その理由は何でしょうか?
スレッドの消費節約の為、お二人への返答を1つの投稿にまとめることを お許しください。
>>声さんへ >目的ではなく意図を聞いておられた・・
推察いただいて恐縮です。おっしゃる通りです。 拙も長々と駄文をひねったり、逆に短文で質問をしては読者の方を 困らせています(笑) 本来ならばログなどをよく読み込んでから、質問させていただくべき なのでしょうけれども、あえて「どうしたいのか」を確認させて いただきました。
—— >>葛西さん真摯かつご丁寧な返答ありがとうございます。
>あべひさまにご指摘いただいた点は、当たっております・・
単なる学会アンチさんなら、某ブログでのmonlingenさんとの討論が打ち切りになった時点で、「なぜ逃げた」などといった対論者だけの侮蔑でなく、 「やっぱり創価学会は~」といった創価学会に対する侮蔑に切り替えてくるものですが、葛西さんの指摘されている趣旨はそうではなかったので、これは学会員さんだなと考えました。 「仏法は勝負」とよく言いますが、“言われっぱなしは負け”と葛西さんはお考えになっておられるのではないでしょうか。 拙はネットを介して法華講員やアンチさんとの討論を何度か経験させていただいてきましたが、あるテーマについて対話なり討論なりする場合、未熟で論に詰った側ほど論点をずらしたり、人格誹謗をするなど詭弁術を駆使し外聞を体裁よく取り繕うほうにばかり労力を割くものです。 いうなれば、自身の低い境涯をさらけ出してしまうわけですが、そうなってしまった 相手に感応し、同じ境涯に下がってしまうぐらいなら「やめる」のも1つの手段だと 思います。 またアンチさん側に視点を変えてみると、むしろ学会員さんを低い境涯に引きずり込むことが彼等の目的ではないかと(笑) おそらくmonlingenさんは、ネットでリアル法華講員と討論したことは今回始めてだったと思いますが、「こりゃ泥仕合になるな」と見切りを付けた点は評価できます。 ならば、自陣ででも良いからきっちり破折をすべきでは・・・と葛西さんはお考えではないでしょうか。 正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。
>あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか
他所様のブログや掲示板に出向くと、ブログ主さんのファンの方や 拙を快く思っていない方の入れ智慧によって管理人さんの方針が変質するのは よくあることです。 2年前はある掲示板で「どんでん返し」も経験しました。 monlingenさんが切に対し異常者であるかのように論じられたのは 「あ、そういうタイプの人なんだな」としか思いませんでした。 それと同時に、お忙しいmonlingen管理人さんに対しストレスを掛けていたであろう ことは申し訳なく思っています。 墨田総区の婦人部「ちよ」さんが対話(討論)に耐えられないであろうことは 経験として予想できましたが、もしかすると話が続けられるかもしれないという 淡い期待があったのこともあって、半ば強制的にはじまった「対話」イベントに 乗りました。 拙について管理人さんが個人的にどのような所感をもとうが、創価学会に悪影響のないであろう事についてまで、とやかく批評をすることは考えていません。
葛西さんの質問に対する答えになっているでしょうか(笑)
いつも楽しく拝見させていただいてます。 あべひ様の慧眼素晴らしいですね。 葛西様が学会員で、管理人様又は学会がアンチに馬鹿にされたり、 同志誹謗されるのを、お怒り或いは憂慮されていたとは…… 葛西様はてっきりアンチだとばかり思ってました。決め付けはいけませんね。 無礼なコメント失礼しました。
あべひさん
ご回答いただきまして、 誠にありがとうございます。
失礼ながら私のあべひさんに対する見方が大きく変わりました。
私はあべひさんの掲示板やブログでの活動を一部ですが見てきましたが、 その意図がよくわかりませんでした。 「創価学会の評判を落としているから批判する」という点で、 一貫されているのですね。 私はあべひさんはMoinlingenさんに怒ってもいいくらいだと思っていましたが、 「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれないんですね。
正直なところ、あべひさんのブログでの活動は、 少しやりすぎではと思いますが、その動機に対しては尊敬申し上げます。
”正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。”
この言葉は重く受け止めます。 私は、Monlingenさんを救うとかそんな高尚なものではなく、 その言論の暴力性を自覚していただければと素朴に思っているだけですので。
ちなみに、あべひさんも『相手を救うつもり』で、菊川さんやちよさんを非難しておられるのでしょうか?
たびたびの質問恐れ入ります。
葛西さんとmonlingenさんとの対話には直接関係のないことまで 言及したのにコメントをいただいて恐縮です。
>「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれない・・
今のところは・・と申し上げておきます(笑) 誰しも組織にたいするちょっとした不満はあるかとおもいますが それをネットで公言し客をあつめて徒党を組むという動きがみられない 以上、生ぬるく見守っているという状態でしょうか。
>言論の暴力性を自覚していただければ・・
おっしゃりたい気持ちは理解できます。 「自覚してもらう」といっても、短時間では難しい面があるとおもいますし たとえ表面上謝罪をされたとしても懲りない人は結構おられます。 『うすうすわかっちゃいるけどやめられない』のが「業(ごう)」たる所以では ないでしょうか。 「救うつもりのない」などと書くと、なにを偉そうな・・・などと思われるかたも おられるでしょう。 実際、テキストでポチポチやっているだけにすぎない行為で「救える」などと買いかぶるのも間違っているようい思います。 なにを言われようが「見捨てない」のが不軽の修行であるとおもいますし、いつかわかってもらえるに違いないという希望は捨てたくありません。
>菊川さんやちよさんを非難して・・
菊川さんや「ちよ」さんの場合はネットを通じて徒党を組み、リアルに「自利」を 得ている以上、本人さんらを救うというよりも、 連なるものや被害者がでないように注意を促しているという感じのほうが強いです。 菊川さん以前には別の学会員さんに特に警戒していました。 詳しくはこちらでは書きませんが、関東では名を知られた中堅幹部の方でした。 その中堅幹部のリアルの知り合いらしき方のコミュニティに紛れ込んで学会ブログの ノウハウを学びにきたのが菊川さんです。そして菊川さんにつられて台頭をあらわしたのが「ちよ」さんという感じでしょうか。
葛西さんはネット上のことはネット上だけ、リアルでのことはリアルだけでと たてわけられているように感じますが、個人の信仰のことでネットとリアル個人を深くリンクさせたい人は創価学会にとって怖い存在だと拙はおもっていますし、 ネットにわざわざ「学会員である自分」の居場所をつくり信仰の重きをおくのは当人にとって現場軽視に直結する生き方だと思います。 池田先生はよく「いまいる場所で○○を」といわれますが、“ネットも”重視の方にとっての今いる場所は「モニター(画面)の前」です。 またより楽なほうに流されるのは凡夫の常ですよね。 「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とは今月の座談会御書です。
その①~④は質問ではなくて、 今までやってきたことを番号付けて整理しただけと思われ。 ぜんぶ番号付けますと、
①貴殿が「コメント義」という記事を公開 ②貴殿のダメだしブログでの行為は、 自語相違に当たるものなのではないかと、私が指摘 ③それに対して、 「最後まで責任をもてるなら何でも回答する」と貴殿が回答。 ④私が対話の目的を提示し、 対話を開始
⑤突然、3つの目的を提示されましたが、 私はどうすればよいのでしょうか? 何をトピックにしたいのでしょうか?
⑥基本、葛西さんの質問に私が答えるという感じで進めるのがいいですね…。 質問は基本的に一つひとつ、貴方が疑問に思うことを聞いて頂ければ、何となく上手く行くのではないでしょうか?
…どうぞ。 —————————————————– ↑これが今までの流れ。 で、いま私たちは⑦番に居ます ということ。 これは質問ではありません、フローチャートです。
葛西さんはこちらで対話の意図に言及なされていたのですよ。 拒否されているのではないと思います。 対話を進める上で目的と意図、両方ともに言語化しておいたほうが スッキリしていいですよね。
葛西さん、そろそろ対話部屋に戻りましょうか。 管理人様が首を長くしてお待ちです。(^_^;) 私の投稿は全く気になさらずにスルーしてください。 再開をお待ちしています。
葛西さんへ monlingen管理人さんについての葛西さんの印象について・・
>①アンチから馬鹿にされる
学会員から馬鹿にされる場合もありますので、内容にもよりますが 相手を見下すことで論点を避けるのは、修羅の境涯が強い方ならではです。 婉曲的に「アンチさんから褒められる」場合もありますよ。 拙は「馬鹿にしなければ立場がまずいんだな」とも見ます。
>②学会員に対しても暴力的になる
ある程度の距離感が保てるブログのような文字だけのやりとりで 暴力的な言葉を使わざるをえないのは、ただ単に一瞬「イラっ」として ガスを抜いただけか、継続的に「退けたいか」のどちらかでしょうね。 ですが、言葉にせよ実力行使にせよ暴力的な人ほどその本質は「臆病」 なのだとおもいます。 “怒鳴りつければ言うことを聞くだろう”なんて考えるかたは、そういう 人生を送ってこられたのでしょうね。
ともかく、monlingen管理人さんが自分を馬鹿にするアンチを馬鹿にするという 同レベルの手法をとってみせたことは、読者の方にとって氏の評価を考え直す キッカケになったとおもいます。
さて 葛西さんは、monlingenさんの発言を区分けしたうえで、論理立てて お話をすすめようと思われているようですが、お示しのような 『言論の暴力性を自覚してもらうこと』は目的ではなく手段だと私は推察しています。 なぜ「自覚してもらいたいのか」を示されるか、葛西さんがmonlingenさんに対し 危惧されていることを明示するのも対話をすすめるためには有効かもしれません。
>理由は定かではないのですが、居なくなったことが判らないまま、 >そのまま待ち続けるわびしさは、筆舌に尽くしがたいものがある (monlingen管理人さんのコメント) —-
以前monlingen管理人さんはこんなことを書いていました。
※ブログの中に「人影が見えない」のです。人間が全く居ない場所で文字だけが飛び回っているのです。 この「事実」、とても怖い事です。 (人影の無い議論 より引用)
自分が意見発信や意見募集をして反応がないと怖いのですね。 ですが、批判的意見をもった方との対話に憔悴してくると
『何となく「「面倒臭せーな」と思うようになって』 『彼はどう考えても正常な感覚の人間とは思えなくなって』 『そんな危険物を学会の広場に置いてしまった。爆発するのは当然です。』 (いずれも“俯瞰中毒行動分析課はじめます” より引用) と 対人攻撃キャンペーンをはじめられてしまいかねない危険性があることを 葛西さんも薄々感じておられるのでしょう。
アンチさんが自分たちのナワバリに批判をする学会員がやってきて 対応しきれず「爆発する」のは問題だが 自分のナワバリに批判をする学会員がやってきて 対応しきれず「爆発する」のは問題ないというのですからね。 典型的なダブルスタンダードです。 これじゃアンチさんと本質的に変わらないでしょう。
おそらく葛西さんがmonlingenさんに示したかったのは そういうことではないでしょうか。
ネットはグレーが基本。反応しないのも反応のひとつですよ。 石の上にも3年、気長に待ちましょう。(*^-^*) ストーングレーは質素で地味な色だけど、 グレーなりの味わい深さがありますね。 管理人様にとっては筆舌に尽くしがたい美味のようで。 なるほど、「うすうすわかっちゃいるけどやめられないのが業たる所以」か… 私も気を付けよう。
それはさておき。
>以前経験した話し合いで、相手がほぼ全員途中消滅しています。 >理由は定かではないのですが
理由がなくても、意味はしっかりあると思いますよ。 仏法に無駄はありません。 今まで対話してきた相手様より貴殿に宛てて残された 幾多の「無言のメッセージ」があります。 これは否定のしようがありません。 それらのメッセージが一体何を意味しているのかを考えてみましょう。
皆さんへ(この主語は誰のことかは、理解出来るはずだと思っています)
こんにちは。 まだまだ寒いですね。北国は、都市部でも未だにマイナス10度以下が時折続く、しばれるような毎日です。私も、凍えながら、出勤するだけでもぐったりしてしまいます。 その中、皆さんの様々な御高説コメント、論理的な反論コメント…とても感謝しております。全て素晴らしい論理展開と透き通るような道理の数数…、それを読みながら目の覚める如き毎日を送ることが出来て、私は管理人として何と幸せ者なのだろうと、随喜の毎日に浸っているのです。
さて、ウチのブログの記事をそれぞれ読んで頂いている方も多いと思います。実を言うと、当ブログの記事の中にどうしても疑問点の残っているものが数点あります。当記事に全く返答の無いものも存在しています。(「感想」はありますけど、「疑問」に対しての「返答」という形のものがありません) 皆さん方のような超一流の信心と、理論武装の完璧な方々に、その「疑問」をこの場を借りて解決して頂きたいと思っているのです。感心する程の論理展開の技術をお持ちの皆さん方にとっては、こんな問題はとうの昔に回答済みなんでしょうけど、私は凡人中の凡人でして、そこまでの力量は全く持ち合わせがないのです。もし良かったら下記に示す記事類のどれでも良いので、それぞれの記事の問題点を、清水の流れる如き素晴らしい道理、目から鱗の理論を持って、すっきりと解決して頂きたいと、そう考えています。当然の如く皆さん方であれば、学会員だろうと非学会員、更には反学会員に対しても整合の取れた、間違いなく納得の出来るコメントをお寄せして頂けると、そう固く信じています。 よもや…と言うことは決して無いと信じています。あ、これは失言でしたね。申し訳ありません。
…ちなみに、これは強制ではありません。梨の礫も良し、ほうっかむりも、だんまりを決め込むのもまた良し、与太話に終始するのも、まあ良いのかもしれません。でも、出来れば、このブログで大言壮語している如きの論理を持って、爽やかな解決をしてほしいとの期待は、はち切れないぐらい持っております…。 下に、それぞれの記事の私の疑問点を記載しますので、出来ればでいいのでそれに沿ったお話が聞きたいと考えています。
〇「謗法厳戒の日蓮正宗の不思議」…アンチや宗門系からの「反論」が一切ありません。明確な、誰にでも納得出来る「反論」を期待します。 〇「本当の師弟不二の話」…師弟の在り方を中心にアンチ側(皆さん)に立った反論、そして私の記事の間違いを正して頂けると、有難いですね。 〇「学会と宗門の信心の相違」…古い記事なんですけど、未だに宗門系(含アンチ)からの反論のない記事です。皆さんにこの記事の瑕疵を正して欲しいと思っています。 〇「【対談集について】のお話」…アンチ系は兎にも角にも先生の対話に対して難癖を付けます。どうしてなんでしょうか?これも大きな疑問点ですので、宜しくお願いします。
※「」内の文を、ブログの「サイト内検索」にコピペして下さい。その記事が表示されます。「反論」コメントは各記事のコメント欄にお願いします。
皆さん方、お体には気を付けて、またコメント頂けると幸せに思います。
アンチさんや宗門向けの記事を書いて、あちらさんから反応がない記事がある。 お手すき論客の方は精査してみてください・・ということですね。
そんなに(対象者の)反応がほしいのでしたら、ブログ村宗教批判カテに登録されてみてはいかがでしょう。
最近の宗門批判記事への反論のようにコピペで返されたように、マイナーブログのソースがわかるだけでも収穫があるかとおもいます。
monlingen管理人さんの思考
>常識を持った人間にはこれは異常な内容に感じます。 >殺人を、ある意味正当化しているのです。
殺人は犯罪なのだから正当化するのは異常である・・・というのは正論だとおもいます。 殺人を正当化する人間の心理は 「オレが納得できる理由があれば、どんな酷いことを相手にしても構わない」と 考えているのでしょう。
では・・
>今回別の人との「対話」をしていますけど、その中に強引に紛れ込んで来る人間 >も、シェイフォンさんの仰る通りの、上記の人々と同じ種類の人間と言えます。
というのはどうでしょう。 別の人との「対話」とは葛西さんとの対話だとおもわれますが、一方の当事者である monlingenさんが“どうでもいい”と感じるコメントを書き込んでくる人間を異常者と断定する理由は上記の殺人肯定者の自己正当化となにがちがうのでしょう。 本質的には同じ排除の理論ではないでしょうか。
葛西さんがmonlingenさんに対し、再三個人的な「感得」に重きを置こうとすることを問題視されていたのは、そういうことが伝えたかったのだと思いますね。
皆さんへ(以下同文)
2/1(木)に提案した話には、誰も答えを出すことが出来ないようです。 これが「皆さん」方の「真の姿」です。「嬉々として参加」すると言う意味はこの事です。(普通はあの文章だけで、底に秘めた意味は簡単に汲み取れるはずなんすけどね…)
切り文への「揚げ足取り」や「言葉遊び」には、本当に「嬉々」として集まります。しかし、真に信心の教学が試される話には、全く見向きもしないという、そんな「皆さん」方です。「皆さん」がその事を、自分で認める・認めないはどうでもいいことです。これが「事実」だと言う事は、このコメント欄の流れを読めば誰にでも理解出来る話です。そんな方々と、どうしてこちらが真剣な対話を望むのでしょうか? これは常識問題です。 そもそも、貴方がたのこれらの与太話は、コメントする場所が間違っています。ここは、真面目に信心に取り組んでいる創価学会員の世界です。貴方がたの言葉で「バリ活」という人々も大勢おられるでしょうけど、私も含めて大半は、兎に角学会から離れないように必死で頑張っている人々が読者の、そんな世界なんですよ、ここは…。 貴方がたの発するゴミのような意見など、ここには入る隙間もないと言うことを、そろそろ気付いて然るべきです…。他に受け入れてくれるブログ・サイトは、世の中には腐る程存在しています。次回からはそこに投稿して、英雄扱いをされて、そして「嬉々として」更にゴミ意見をそこに掲載して貰うべきだと、私はそう確信していますが…。
数あるブログで、「ダメ出し」ブログは「皆さん」の「ゴミの意見」を大歓迎で、そして「嬉々として」受け入れてくれるはずです。 …でも、彼等には「皆さん」方の意見は「高等すぎる」かもしれませんね…。出来ればそのゴミを、更に「かみ砕いて」コメントした方がいいかもしれません…。
管理人さんの予想通りの展開になりました。 それがどうしたの?それで?としか、思えない流れです。 正直、も少し、内容ある話し合いになると思っていました。 2月1日の管理人さんの提案には答えず、意味不明のコメントです。
本題のほうも半月以上、相手からの返答はあありません。 もう、そろそろ、よろしいのではと思います。
今回はいい展開の対話が出来そうだと、私も本気で思っていました。でも、やはり「ブルータス、お前もか…」です…。
アンチ系、ミカツ系は、そもそも「本気」という文字が自分の辞書に載っていないようです…。学会活動を「本気」でやり抜く気持ちも、根性も、何も持ち合わせていないことが、今回改めて確認出来ました。彼等が精一杯の気持ちで出来る事は、揚げ足取りや情け無い錆び付いた中傷だけです。 まあ、これ以上のコメントはしても無駄だし、無意味に感じますから止めますけど…、でも、寂しい話ですね、こんなアンチやミカツ系の「論客」しか世の中には残っていないんですね。
何処かに本気の、そして本物の反創価学会論客が、いないものでしょうか………。
こんにちは
しばらくです。
monligenさんの文章を読んで疑問に思った事はお尋ねしましたので、私は現在コメント予定はありませんでした。
ゴミの意見と言うのは失礼ではないのでしょうか? 仮にもmonligenさんの文章を読んで時間を使ってコメントまでしてるのだから 明らかな嫌がらせ目的でないのなら、興味、関心を持ってくれてありがとうと真摯な対応をするのが望ましいように思います。
前にも書きましたが、駄目だし管理人は学会員ではありません。 会合も活動もありません。 一人一人のコメントに丁寧に対応しても問題はありません。 失礼ですが、創価のブログにコメント数が多い方が、題目あげてるのか?会合、活動してるのか心配になります。
当然の意見だと私も思います。しかし、もう少しここでの話の展開を読み取って頂けると、見えてくるものがあります。
以下の文章は、外野部屋でのコメントの一部を切り取ったものです。色々書かれています。まあ、こう言う文章は感情のままに書ける訳ですから、ある意味ストレス解消にはなっているのかもしれませんね。
「管理人さんは重要な点を感得でごまかす。全く無価値な対話ですね、こりゃ。 地球人は学会とアンチの2種類だけではありません。 閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。 (実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~) あべひ様の慧眼素晴らしいですね。 ネットはグレーが基本。反応しないのも反応のひとつですよ。 石の上にも3年、気長に待ちましょう。(*^-^*)」
で、2月1日(13:04)に、上記の文章をコメントしてくれた人々に対してある提案をしました。それは、私の記事を読んで、それに対するしっかりとした意見を聞きたいのですけど、と言う話です。 これは実を言うと結構真面目な提案でした。掲載した記事それぞれに、個々のかなり厄介な問題点を含んでいて、それぞれに対してはアンチ系からは何もコメント(意見)が届いてなかったものなのです。それを「彼等」に解いて貰おうと思って、こんなコメントをした訳です。 さて、2月5日になりました。誰もコメントは書いてきません。誰一人…。 どういう事なのでしょうか? 様々にいい加減なコメントは頂きます。しかし、本気の意見に対して彼等は一切無視します。
上記のコメント群と「提案」の意見、さてどう考えるのがいいのでしょうか?
間違えないで欲しいのは、私は真面目な意見やコメントに対しては真剣に自分の意見を書きますし、書いてきました。しかし、信心を馬鹿にしたいい加減なコメントを、放って置くようなそんな楽観生は持っていません。彼等は創価学会の信心をバカに仕切っている連中です。そう言う連中のいい加減すぎるコメントに対して何を持って判らせることが出来るか…問題はそこに有るような気がしていますが…。
葛西さんとmonlingen管理人さんとの対話が再開されたようで、楽しみです。 こちらのスレでの投稿者である拙自身へのご質問などには適時お答えさせていただく として、基本は「葛西氏との対話の、外野部屋」でありますので、葛西さんへの 感想なりアドバイスを中心に投稿を続けたいとおもいます。 monlingen管理人さんの「感得」についての判断基準は以外に単純なので興味深く拝見させていただきました。
①感得=体験 と定義付けた上で
>>信心の「感得」が出来ない人は「信心の無い人」 ②
と断定し、信心の感得が無い人は(学会の)“信心を批判する資格も権利もない”③と 結論をつけているところですね。
実はこれ典型的な三段論法。
“信心の体験がある人間(自分)なら信心を批判する資格も権利もある” という 隠された意図が埋め込まれているわけですね。
ちょうど、このスレのmonlingenさんの投稿に
>>普通はあの文章だけで、底に秘めた意味は簡単に汲み取れるはずなんすけどね…
という発言がありました。
あの文章というのは「葛西さんとの対話」についてなんの関係もない“ある提案”を書き込んだコメントだと察しますが、monlingen管理人さんが投稿者の反応を伺っていたことを示唆するものです。 そして、そこから導いた結論は、 『真に信心の教学が試される話には、全く見向きもしないという、そんな「皆さん」』 というものでした。 ようするに、信心の感得のあるmonlingenさんの提案(チャンス)をフイにする人間は「真に信心の教学」をもとめていない「感得のない人」であり、信心の感得のある monlingenさんの批判をする資格も権利もないと論理付けてみたかったのですね。 だから「ゴミ意見」とまでいいきれるのでしょう。
葛西さんにアドバイスをさせていただきたいのは、monlingen管理人さんが 「慌てないのでゆっくり返事まってます」と下手にでながら、時間をあけて 返事されると態度を180度変えて「またせすぎだ」と条件闘争を迫ってくる タイプであることや、自分の意に沿わない相手にはドギツイ表現も容赦ない タイプでもあることを熟知されたうえで、対話を継続されるかどうかを考え なおされたほうが精神衛生上よろしいのではないかということです。
幸い葛西さんはご自身のブログをもったり他の学会員さんブログでコミュニケーションを取っておられるようではないので、ネット上の体裁を気にされることもないでしょう。
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monligenさんへ
葛西さんの文章をコピーして太字にして、その下に回答をかいてほしいです。
葛西さんの質問と葛西さんの質問の間にmonligenさんの回答を入れて下さい。
注文つけてすみませんがどの質問の回答かわかりにくいので宜しくお願いします。
miuさんへ
こんにちは。
全て別掲載にしたいんですけど、結構質問内容の同種性があって、そこに様々な返答を加えていくとなかなか分離出来ません。
少々読み辛いですが、我慢して頂ければと思っています。
monligenさんへ
葛西さんとのコメントのやり取りを私が折伏する時の参考資料にさせていただきます。
野次馬ではありません。念の為
葛西さんとのコメントのお返事を最優先させていただいてかまいませんが、私もmonligengenさんの考えをお聞かせいただきたく宜しくお願いします。
①幸せになった人がどれだけ増えたかが実証
幸せといっても捉え方は人それぞれです。
交通事故にあっても、死なずにすんで不幸中の幸いと前向きにとらえる方もいれば、不運な事がおきた。難を乗り越える信心、難とか魔とか解釈なさる方もいます。
幸せと言うのは自分がそう感じれば良いというお考えでしょうか?
自分以外の人が幸せだと認めてもらってはじめて幸せとお考えでしょうか?
②本尊義
駄目だしさんにも言われてましたが、自分の家で安置してる本尊の説明も出来ないのはもはや宗教ではなくただ祈ってるだけ
monligenさんのやってる事は祈りでしょうか?
創価学会は日蓮世界宗と言ってますが?
③実証
①と質問が似かよってますが、実証といっても、功徳と体験発表してますが、法華講員も退会して良かった功徳の実証体験発表しています。
本人が実証と感じても全ての人がそれを実証とは思いませんし、創価を退会して良かった実証を退会者は発表してるので、実証といっても、あまりにも曖昧で不透明です。
駄目だしさんの言うように、宗教なら教義があり、その中の文章を取りだし(文証)、その文章の辻褄、すじが通ってるか(理証)、それがその文章どおり生活に役立ってるか(現証)
先ずは文証、次に理証、そして現証になると思いますが、どのようにお考えでしょうか?
何度もしつこくすみませんが、これは批判ではありません、折伏するには、何を話そうとかどう答えようとかロープレしたいだけです
もうひとつごめんなさい
アンチは腐ってると言ってますが、創価を批判したら腐ってる事になるのですか?
それでもかまいませんが、学会員には納得してもらえても、非会員は言葉を補足しないと納得してもらえないと思います。
Miuさんへ
ありがとうございます。
幸せの定義の十人十色と言う事は、十分承知しています。しかし、私は先生の指導の中の「幸福」の話を全て中心に考えて、そして話しています。
先生は「幸福とは絶対負けない境涯だ」という意味の事を言われています。私も、本当にそうだと思っています。個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。
この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です。
御本尊のことは、大事だと承知しています。しかし、それ以上に我々の問題として「御本尊に向かう自分」はもっと大事なんではないでしょうか?
アンチで盛んな「本尊義」の決定的な間違いは、「自分」がどこにも居ないと言う事なのです。これはしっかりもう一度考えて欲しい問題です。
日蓮大聖人直筆の御本尊だとしても、自分自身の信心が御本尊に向かっているか、全くあっちを向いているか、この違いで「功徳」が違ってきます。当然宿業転換も違ってきます。
本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。
実証。功徳、と言い換えます。
功徳は非常に「個人的な感覚」です。当然です。
その個人的な功徳の体験を、更に自分の実感として深化する為に「体験発表」があるのです。(勿論これは一つの在り方ですが)
「五十展転の功徳」、耳にしたことがあると思います。最初の人の功徳の感動を聞いて、50人迄の感動の功徳は、仏陀への供養をした功徳よりも更に大きい、と言う意味の話です。体験談とはそう言う意味を持った、非常に大事なものなのです。
文証も理証も大事だと言う事には異論はありませんが、大聖人の仏法の最第一は「現証」なのです。もう一度御書を開いて下さい。必ず現証、功徳の話をされています。文証や理証は「現証、功徳」の単なる「説明書き」でしかありません。これを大事に出来ない「ダメ出しは」謗法以前の連中だと言えます。
創価学会は正しい道をしっかり歩いています。私はそう確信しています。その学会の道に立ちはだかろうとする人間は、「腐った人間」です。正しいことを邪魔するわけですから、そう言われてもし方がありません。
平和運動も学会の一つの運動です。若しその運動に対して「戦争賛成!!平和運動反対!!」と言う人間が、若しでてきた場合、貴方はどう思われます?
私は、馬鹿な連中だと思いますけどね…。
御本尊は世界中の人々を「幸せにする為」に存在します。それはまさに、現証そのものです。
現証が見えない人って、寂しい人ですよ…。
某ブログに、何度か、コメントしたことがあります。
とても、丁寧に対応してくれました。
某ブログさんは信念を持ってブログを運営しています。
ネットで話し合いをしてみようと思ったことはあります。
しかし、その前に、許されるなら、一度はお会いして
話をした方が良いと思いました。
そうでないと、ブログからのイメージが強すぎて判断に戸惑うと思いました。
管理人さんが某ブログで、どのような話し合いをしたのか、分かりません。そういう状況ですが葛西さんと管理人さんとの話し合いを読んで感じた事を書かせて頂きます。
そんな話し合いをして、何の価値があるの?疑問に思いました。
葛西氏、管理人さんの博識、教養の深さには感銘します。
私には、とても、お二人のような高度な対話はできません。
しかし、それが、実践、つまり、現実の生活の信仰に価値的とは思いません。
柔ちゃんが、大学の卒業論文で背負い投げの考察をしていました。
学術的には価値があるかも知れません。しかし、そのような論文をいくら勉強しても
実際の試合には活用できることはありません。
お二人のは話し合いを読んで、それが、どうしたの?それで、どうなるの?
とおもってしまいました。
お二人にお聞きします。
お二人は、どのような思いで話し合いをしていますか?
うるとらまんさんへ
こんにちは。私の、今回の対話に関して、個人的な感想を記します。
もうほぼ記憶の彼方にある「ダメ出し」での経験の話でしたので、かなり面倒臭い気持ちでいます。葛西さんは何故こんなに燃えているのか、少々理解不能の状態でもあります。でも、まあ彼はこう言う事が好きなんだとも思っていて、お付き合いも一つの勉強なんだろうとも…。
ただ、一度に一杯の質問が出てくると、かなり厄介な気持ちにもなります。私も仕事持ちですので、少しずつ回答を書きながらの、返信コメントです。
私の考えは、うるとらまんさんと同様で、現実の功徳の話の方が大事だと思っています。また、葛西さんの返答にも同様な趣旨の話は記載しています。でも、読み飛ばしているようですね。…興味の問題なんでしょうか?
長くなりそうな予感です…。
管理人さんは重要な点を感得でごまかす。
この指摘は正しいと思います。質問に対して合気道の例を出したりで大事なところは言葉で語らない。ごまかす。
全く無価値な対話ですね、こりゃ。
しゃーかくさんへ
どれだけ深遠な内容の対話でも、ゴミのような精神状態で聞くと、「全く無価値な対話」に感じるようです。
人の真剣な対話をどう聞くか、読むか…全て貴方自身の「境涯」だと言う事を、そろそろ理解すべき年齢なのでは……?
monlingen閣下を応援しています。
まさに創価学会員の模範だからです。
>個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。
この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。<
ですよね。
小樽問答を武勇伝にはできなくなってしまったけど、題目さえあれば御本尊はなんだていいのです。あれ?身延と同じ・・・とか、そんなうるさい事を言っては前進がありません。
昨今、世間に迎合してなまっちょろい事を言う学会員が多い中、閣下のビシ!とした論調は、正しく創価学会を理解するには貴重なブログだと思います。
その調子でこれからもどうか頑張ってください(^_^)/
さくらもちさんへ
こんにちは。どう受け取っていいのか悩むような記述方法ですけど、ここは善意に受け取るべきなんでしょうね。
ありがとうございます。
「あれ?身延と同じ…」と言われています。でも私は、身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。まあ、これは個人的な考えなので、大っぴらには出来ませんけどね。
あら、「対話の目的」
は まだ決まってなかったのですか?
葛西さんが最初に書いておられますけど。
「ブログ・コメント義」より
———————————————————
・参加者
貴殿のダメ出しブログでの言動がかなり愚昧だったと考えている私と、
それが誤っていると思う貴殿。
・目的
上記の意見の相違が、
どのような具体的なコメントに対する評価から生じているのか明らかにする。議論の進行によっては、双方自らの誤りを認め意見を修正する
—————————————————————–
>貴方達は、学会とは全く別の世界に身を置いている訳ですよね。その事実をもう一度考えて見るべきです。
「貴方達」って、対話の相手は葛西さん一人ですけど?
一括りに言っちゃうのはどうかと思います。
地球人は学会とアンチの2種類だけではありません。
私と葛西さんは全く別の世界に住んでいるし、
考え方もモノの見方も何もかもぜんぜん違います。
声さんへ
対話の目的
…これは、私からの「対話の目的」の提示です。何か理解不能の部分がありますでしょうか?その上で、彼の目的を聞いただけですが…。
お互いはっきりしていた方が、対話も楽しいはずですよね。
貴方達
…文脈から理解出来ない人は、再度話しても無理だとも思いますけど、「貴方達」というのは「アンチ学会員」という意味です。意味を取り違えないようにしているだけです。よくかみ砕きながら、読んで下さいね。
monlingen閣下!
お返事ありがとうございます!
>身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。<
よくぞ仰ってくださいました。
これを大っぴらに言えない学会員が多いと思います。
故に、日蓮正宗に大御本尊があるのを歯ぎしりしながら見てる学会員もいるかと・・・。
閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。
(実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~)
さくらもちさんへ
古美術商から「御本尊」を購入されたんですね。なかなか立派な信心をお持ちの方のようです。
「信心」をどう考えるか、どう見るか…非常に難しい問題ですね。簡易な在り方では、信心の「し」の字の話も出来ないと思っています。
こういう感じの場所には、アンチ系の人間は嬉々として割り込んでくるようですね。
でも、こんな雰囲気は個人的には大好物です。全て勉強になる「お言葉」ばかりです。葛西さんも、これは皮肉ではなく、凄く力強い気持ちになっているだろうと想像します。
そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
頑張れ!!葛西さん!!
以下の記述の意味が全く意味がわかりません。
よろしければ講釈ください。
私の読解力のなさによるものでしょうか?貴殿の独特な言語感覚によるものと私は思いますが。
他の方は理解できたのでしょうか?
+++++++++++++++++++++++++++
そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
頑張れ!!葛西さん!!
+++++++++++++++++++++++++++
・アウェイでの対話自体が、私の根性のあり方である
→「アウェイでの対話」と「私の根性のあり方」が、
主述文で等しいものであるとされているが、
「対話」という名詞と「根性のあり方」という状態を示す語がなぜ等号関係になるのか不明瞭。
「アウェイな環境での対話が、葛西氏の根性の試金石となる」とかならわかりますが。
また、「自体」の使い方もよくわかりません。
・これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。
→この論法、できればやめていただきたいのですが。
相手に主張が伝わらなかったとき、「経験がないからだ」「感得ができないからだ」・・・
結局「お前にはわからないだろうが俺の方がわかってるんだぜ」とか自慰的な主張をされても、
反応に困ります。
・ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
→突然「ピンスポット的」というパロメータが出てきましたが、
これはどういう意味ですか?
元来の「アウェイな環境で書き逃げではなく最後まで議論しろ」ということですか?
・その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
→ここでまたしても「対話」という名詞が「人」という人称名詞に等しいものとされており、
理解に窮します。
「アウェイな環境で堂々とした対話が出来る人は、本当に根性がある人だ」ということですか?
・頑張れ!!葛西さん!!
→アンチ系の外野が多くて、
アウェイな雰囲気ではない中で貴殿と対話する私への皮肉という解釈でよろしいですか?
葛西さんへ
正式な部屋にコメントを出しましたので、そこを読んで下さい。
ここはQ&Aの部屋として作っていません。故に、ここでの話は正式部屋には持って行くつもりは一切ありませんので、宜しく。
補足です。
葛西さんがこんなに小さな事を気にする人だとは、思ってませんでした。これに関しては、少々申し訳ないと思っています。
「頑張れ」云々の話は、信じて貰うしか方法は無いのですけど、これは本気の言葉です。貴方にとっては信じられない話でしょうけど、私はここをある意味葛西さんのホームグラウンドとして設定しようと考えました。その結果、まあ、逆向きの結果になった訳です。これは、誤りますね。
これ以後この部屋では対話はしませんので、宜しく。
更に気になったので、補足の補足です。あれこれと申し訳ありません。
常識的な思考方法があると言う前提で、上記の話をしました。でも違ったようです。これからはもっと噛み砕いた話し方をしていきますね。申し訳ありませんでした。
さて、外野席の「しゃーかく」さん、「さくらもち」さん、更には「声」さんのコメントで、「誰に対してのコメント」かをもう一度よく見て下さい。はっきりMonLinGen、管理人、また、文脈上私へのコメントである事は、間違え様のないものになっています。このコメント群は私が、「それぞれの方」に対して、個人的に自分の考えを書いたものです。この事は大事な事になります。これらの話は葛西さんには、全く無関係のものです。それを引っ張り出して、何故「質問」として積み上げるのか、私にはさっぱり理解出来ません。
「外部部屋」の意味は、ここで好きな様な話が展開出来るように設定したものです。「専用部屋」では葛西さんと私の話合いです。この部屋に影響されるのであれば、ここは閉鎖しますけど、どうしますか?葛西さんの意向通りにしますよ。
詳細を話すと、「アウェイ」の話の意味は、葛西さんが学会系に囲まれて対話に望むのは、かなりの緊張感が出てくると思い、同じ種類のアンチ系を呼び寄せる為に少々「呼び水」を出したと言う事なのです。私はアンチ系の中でその緊張感を経験した故に、貴方にはもっとリラックスして欲しかっただけなのです。(信じる信じないは勝手ですけど…)
…全く意味が無い事をしてしまったようですね。これも、私のミスです。
若し、「外野」が気に入らないのであれば、即刻削除致します。
本件は私の邪推のようでしたね。
大変失礼しました。
コメ欄の閉鎖の必要はございませんし、
以降、私に対する外野の方からのコメントが無い限り、
ここには書き込みません。
お気遣い感謝申し上げます。
monlingen管理人さん。お久しぶりです。
なんだか葛西さんとmonlingenさんの対話が始まっているようなので拝見させていただております。
拙と「ちよ」さんとの対話部屋はアウェーのもの同士のもので対話のテーマも明確にしたものでしたが、今回は管理人さんとの読者(葛西)さんとの直接対話ということで成り行きに興味をもちました。
それ以前のお二人のいきさつを拙が全く知らないことを示したうえで、葛西さんにお尋ねします。
某アンチブログでの「のんかつ」(monlingen管理人さん)の対応について、いくつか質問をされているようですが、拙にはmonlingenさんと現役法華講員とのやりとりについて“破折が不十分ではないか?”とか“法華講員に言われっぱなしではないか”いったような葛西さん抱かれた御不満が根底にあるのではないかと感じました。
葛西さんがこれらの質問をされることで、どうなさりたいのでしょうか。
あべひさんへ。
横から失礼します。
彼の目的は何度もはっきり示された通りです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
それ以上ものが無いと御不満なのでしょうか。
声さんはじめまして。
貴殿がこちらに書かれたコメントにヒントがあるのは確認いたしましたが、あえて葛西さんご本人から確認をしたくて質問をさせていただきました。
monlingenさんの記事の意図は「アンチの呼び水」、つまり挑発でブログにアンチさんを集める事にあることは明記されていましたので、質問は避けました。
あべひさん、はじめまして。
目的ではなく意図を聞いておられたのですね、
ピンボケなレスを送ってしまいました。申し訳ございません。
横から失礼しました。
あべひさま
ご質問をいただきまして、
誠にありがとうございます。
あべひさまにご指摘いただいた点は、
当たっております。
本議論の発端は、
管理人さまが書かれた「コメントや議論はかくあるべき」に対して、
「あなたのダメだしブログでの言動も誉められたものではない」とコメントしたことがきっかけです。
管理人様からは、
「貴方が、若し自分自身の批判される事に対して、自分自身責任を持てる方であれば、どんなに長い期間であったとしても貴方の疑問にお答えしたいと思います。
(中略)どうですか?途中放棄が決して無いのであればこのブログでしっかりお話しします。」
という返答をもらいました。
私は管理人さまのダメだしブログでのコメントや、
このブログの記事について、以下のような疑念を持っており、お話したいと考えています。
それは、あべひさまが記載されたことと重なる点もあるかと思います。
・自分の主張を「自分の体験/感得」によって根拠付ける
・その主張がわからない人間を「わかっていない人間」として見下す
・真剣な議論を標榜しておきながら、真剣にコメントしてきた人を腐す
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
上記によって生ずる(もしくは既に生じている)と考えられる弊害は以下です。
①アンチから馬鹿にされる
「感得、感得」と言っていますが、
しっかり勉強をし自らの考えを言語化する努力をした上で、
「それでも理よりも体験が大事だ」と言うならよいですが、
管理人さんはそもそも論理的に話そうとされず、すぐに「感得」を持ち出します。
こんな主張をすれば、
「学会員は馬鹿だ」といわれるのは当たり前。
私も学会員ですが、管理人さんのロジックは意味不明です。
②学会員に対しても暴力的になる
たとえば、あべひさんとちよさんの対談で管理人さんが下した、
「祈っているか/いないか」の判断。
こういう判断を簡単に下す人の神経を疑います。
字面だけで相手を「信心が無い」だの「祈っていない」だのと判断することの暴力性に対して、
あまりに無自覚。
そしてその根拠は、お得意の「感得」。
そして、それがわからない人間を、「信心がない、感得できない人間」だとレッテル貼り。
かなり暴力的です。
さらに管理人さんは、
自らの「感得」が大勢に共有できるものだと素朴に信じているようです。
それが共有できない人は、
信心が無い、と思っているのでしょうか。
これもかなり暴力的です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
思うに管理人さんの世界観は、
「感得で信心をわかっている自分」を定立した上で、
それを共有できる(と管理人さんが思っている)人たちが周りにいる。
その人たちを「本物の信仰者」と呼ぶ。
その外周には、
感得を共有できない人たちがいる。
それを「ミカツ」なり「感得に問題がある人」なり「アンチ」なり「糞尿」と呼ぶ。
それに対する問題は、
・自らの正しさを「感得」のみで基礎付けること
・「感得」を共有できると素朴に信じていること
・共有できないと判断した人に対して無根拠な非難をすること
だと考えます。
お答えになりましたか?
あべひさん、質問させていただいてもよろしいですか?
あべひさんはこのブログでちよさんと対談されましたが、
(少なくとも私から見れば)管理人さんの独裁的なやり方によって中断(というか一方的な勝敗決定)されました。
その後展開されたのは、
俯瞰中毒分析なるあべひさんへの非難合戦です。
当該記事には、あべひさんの職業などを特定しようとするものまで発生し、
異様な様相を呈しました。
・あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか?
正当なものだと考えますか、違いますか?
・管見の限りでは、あの議論の後、
あべひさんはMonlingenさんを一切非難しておられませんよね?
その理由は何でしょうか?
スレッドの消費節約の為、お二人への返答を1つの投稿にまとめることを
お許しください。
>>声さんへ
>目的ではなく意図を聞いておられた・・
推察いただいて恐縮です。おっしゃる通りです。
拙も長々と駄文をひねったり、逆に短文で質問をしては読者の方を
困らせています(笑)
本来ならばログなどをよく読み込んでから、質問させていただくべき
なのでしょうけれども、あえて「どうしたいのか」を確認させて
いただきました。
——
>>葛西さん真摯かつご丁寧な返答ありがとうございます。
>あべひさまにご指摘いただいた点は、当たっております・・
単なる学会アンチさんなら、某ブログでのmonlingenさんとの討論が打ち切りになった時点で、「なぜ逃げた」などといった対論者だけの侮蔑でなく、
「やっぱり創価学会は~」といった創価学会に対する侮蔑に切り替えてくるものですが、葛西さんの指摘されている趣旨はそうではなかったので、これは学会員さんだなと考えました。
「仏法は勝負」とよく言いますが、“言われっぱなしは負け”と葛西さんはお考えになっておられるのではないでしょうか。
拙はネットを介して法華講員やアンチさんとの討論を何度か経験させていただいてきましたが、あるテーマについて対話なり討論なりする場合、未熟で論に詰った側ほど論点をずらしたり、人格誹謗をするなど詭弁術を駆使し外聞を体裁よく取り繕うほうにばかり労力を割くものです。
いうなれば、自身の低い境涯をさらけ出してしまうわけですが、そうなってしまった
相手に感応し、同じ境涯に下がってしまうぐらいなら「やめる」のも1つの手段だと
思います。
またアンチさん側に視点を変えてみると、むしろ学会員さんを低い境涯に引きずり込むことが彼等の目的ではないかと(笑)
おそらくmonlingenさんは、ネットでリアル法華講員と討論したことは今回始めてだったと思いますが、「こりゃ泥仕合になるな」と見切りを付けた点は評価できます。
ならば、自陣ででも良いからきっちり破折をすべきでは・・・と葛西さんはお考えではないでしょうか。
正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。
>あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか
他所様のブログや掲示板に出向くと、ブログ主さんのファンの方や
拙を快く思っていない方の入れ智慧によって管理人さんの方針が変質するのは
よくあることです。
2年前はある掲示板で「どんでん返し」も経験しました。
monlingenさんが切に対し異常者であるかのように論じられたのは
「あ、そういうタイプの人なんだな」としか思いませんでした。
それと同時に、お忙しいmonlingen管理人さんに対しストレスを掛けていたであろう
ことは申し訳なく思っています。
墨田総区の婦人部「ちよ」さんが対話(討論)に耐えられないであろうことは
経験として予想できましたが、もしかすると話が続けられるかもしれないという
淡い期待があったのこともあって、半ば強制的にはじまった「対話」イベントに
乗りました。
拙について管理人さんが個人的にどのような所感をもとうが、創価学会に悪影響のないであろう事についてまで、とやかく批評をすることは考えていません。
葛西さんの質問に対する答えになっているでしょうか(笑)
いつも楽しく拝見させていただいてます。
あべひ様の慧眼素晴らしいですね。
葛西様が学会員で、管理人様又は学会がアンチに馬鹿にされたり、
同志誹謗されるのを、お怒り或いは憂慮されていたとは……
葛西様はてっきりアンチだとばかり思ってました。決め付けはいけませんね。
無礼なコメント失礼しました。
あべひさん
ご回答いただきまして、
誠にありがとうございます。
失礼ながら私のあべひさんに対する見方が大きく変わりました。
私はあべひさんの掲示板やブログでの活動を一部ですが見てきましたが、
その意図がよくわかりませんでした。
「創価学会の評判を落としているから批判する」という点で、
一貫されているのですね。
私はあべひさんはMoinlingenさんに怒ってもいいくらいだと思っていましたが、
「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれないんですね。
正直なところ、あべひさんのブログでの活動は、
少しやりすぎではと思いますが、その動機に対しては尊敬申し上げます。
”正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。”
この言葉は重く受け止めます。
私は、Monlingenさんを救うとかそんな高尚なものではなく、
その言論の暴力性を自覚していただければと素朴に思っているだけですので。
ちなみに、あべひさんも『相手を救うつもり』で、菊川さんやちよさんを非難しておられるのでしょうか?
たびたびの質問恐れ入ります。
葛西さんとmonlingenさんとの対話には直接関係のないことまで
言及したのにコメントをいただいて恐縮です。
>「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれない・・
今のところは・・と申し上げておきます(笑)
誰しも組織にたいするちょっとした不満はあるかとおもいますが
それをネットで公言し客をあつめて徒党を組むという動きがみられない
以上、生ぬるく見守っているという状態でしょうか。
>言論の暴力性を自覚していただければ・・
おっしゃりたい気持ちは理解できます。
「自覚してもらう」といっても、短時間では難しい面があるとおもいますし
たとえ表面上謝罪をされたとしても懲りない人は結構おられます。
『うすうすわかっちゃいるけどやめられない』のが「業(ごう)」たる所以では
ないでしょうか。
「救うつもりのない」などと書くと、なにを偉そうな・・・などと思われるかたも
おられるでしょう。
実際、テキストでポチポチやっているだけにすぎない行為で「救える」などと買いかぶるのも間違っているようい思います。
なにを言われようが「見捨てない」のが不軽の修行であるとおもいますし、いつかわかってもらえるに違いないという希望は捨てたくありません。
>菊川さんやちよさんを非難して・・
菊川さんや「ちよ」さんの場合はネットを通じて徒党を組み、リアルに「自利」を
得ている以上、本人さんらを救うというよりも、
連なるものや被害者がでないように注意を促しているという感じのほうが強いです。
菊川さん以前には別の学会員さんに特に警戒していました。
詳しくはこちらでは書きませんが、関東では名を知られた中堅幹部の方でした。
その中堅幹部のリアルの知り合いらしき方のコミュニティに紛れ込んで学会ブログの
ノウハウを学びにきたのが菊川さんです。そして菊川さんにつられて台頭をあらわしたのが「ちよ」さんという感じでしょうか。
葛西さんはネット上のことはネット上だけ、リアルでのことはリアルだけでと
たてわけられているように感じますが、個人の信仰のことでネットとリアル個人を深くリンクさせたい人は創価学会にとって怖い存在だと拙はおもっていますし、
ネットにわざわざ「学会員である自分」の居場所をつくり信仰の重きをおくのは当人にとって現場軽視に直結する生き方だと思います。
池田先生はよく「いまいる場所で○○を」といわれますが、“ネットも”重視の方にとっての今いる場所は「モニター(画面)の前」です。
またより楽なほうに流されるのは凡夫の常ですよね。
「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とは今月の座談会御書です。
その①~④は質問ではなくて、
今までやってきたことを番号付けて整理しただけと思われ。
ぜんぶ番号付けますと、
①貴殿が「コメント義」という記事を公開
②貴殿のダメだしブログでの行為は、
自語相違に当たるものなのではないかと、私が指摘
③それに対して、
「最後まで責任をもてるなら何でも回答する」と貴殿が回答。
④私が対話の目的を提示し、
対話を開始
⑤突然、3つの目的を提示されましたが、
私はどうすればよいのでしょうか?
何をトピックにしたいのでしょうか?
⑥基本、葛西さんの質問に私が答えるという感じで進めるのがいいですね…。
質問は基本的に一つひとつ、貴方が疑問に思うことを聞いて頂ければ、何となく上手く行くのではないでしょうか?
…どうぞ。
—————————————————–
↑これが今までの流れ。
で、いま私たちは⑦番に居ます
ということ。
これは質問ではありません、フローチャートです。
葛西さんはこちらで対話の意図に言及なされていたのですよ。
拒否されているのではないと思います。
対話を進める上で目的と意図、両方ともに言語化しておいたほうが
スッキリしていいですよね。
葛西さん、そろそろ対話部屋に戻りましょうか。
管理人様が首を長くしてお待ちです。(^_^;)
私の投稿は全く気になさらずにスルーしてください。
再開をお待ちしています。
葛西さんへ
monlingen管理人さんについての葛西さんの印象について・・
>①アンチから馬鹿にされる
学会員から馬鹿にされる場合もありますので、内容にもよりますが
相手を見下すことで論点を避けるのは、修羅の境涯が強い方ならではです。
婉曲的に「アンチさんから褒められる」場合もありますよ。
拙は「馬鹿にしなければ立場がまずいんだな」とも見ます。
>②学会員に対しても暴力的になる
ある程度の距離感が保てるブログのような文字だけのやりとりで
暴力的な言葉を使わざるをえないのは、ただ単に一瞬「イラっ」として
ガスを抜いただけか、継続的に「退けたいか」のどちらかでしょうね。
ですが、言葉にせよ実力行使にせよ暴力的な人ほどその本質は「臆病」
なのだとおもいます。
“怒鳴りつければ言うことを聞くだろう”なんて考えるかたは、そういう
人生を送ってこられたのでしょうね。
ともかく、monlingen管理人さんが自分を馬鹿にするアンチを馬鹿にするという
同レベルの手法をとってみせたことは、読者の方にとって氏の評価を考え直す
キッカケになったとおもいます。
さて
葛西さんは、monlingenさんの発言を区分けしたうえで、論理立てて
お話をすすめようと思われているようですが、お示しのような
『言論の暴力性を自覚してもらうこと』は目的ではなく手段だと私は推察しています。
なぜ「自覚してもらいたいのか」を示されるか、葛西さんがmonlingenさんに対し
危惧されていることを明示するのも対話をすすめるためには有効かもしれません。
>理由は定かではないのですが、居なくなったことが判らないまま、
>そのまま待ち続けるわびしさは、筆舌に尽くしがたいものがある
(monlingen管理人さんのコメント)
—-
以前monlingen管理人さんはこんなことを書いていました。
※ブログの中に「人影が見えない」のです。人間が全く居ない場所で文字だけが飛び回っているのです。
この「事実」、とても怖い事です。
(人影の無い議論 より引用)
自分が意見発信や意見募集をして反応がないと怖いのですね。
ですが、批判的意見をもった方との対話に憔悴してくると
『何となく「「面倒臭せーな」と思うようになって』
『彼はどう考えても正常な感覚の人間とは思えなくなって』
『そんな危険物を学会の広場に置いてしまった。爆発するのは当然です。』
(いずれも“俯瞰中毒行動分析課はじめます” より引用)
と 対人攻撃キャンペーンをはじめられてしまいかねない危険性があることを
葛西さんも薄々感じておられるのでしょう。
アンチさんが自分たちのナワバリに批判をする学会員がやってきて
対応しきれず「爆発する」のは問題だが
自分のナワバリに批判をする学会員がやってきて
対応しきれず「爆発する」のは問題ないというのですからね。
典型的なダブルスタンダードです。
これじゃアンチさんと本質的に変わらないでしょう。
おそらく葛西さんがmonlingenさんに示したかったのは
そういうことではないでしょうか。
ネットはグレーが基本。反応しないのも反応のひとつですよ。
石の上にも3年、気長に待ちましょう。(*^-^*)
ストーングレーは質素で地味な色だけど、
グレーなりの味わい深さがありますね。
管理人様にとっては筆舌に尽くしがたい美味のようで。
なるほど、「うすうすわかっちゃいるけどやめられないのが業たる所以」か…
私も気を付けよう。
それはさておき。
>以前経験した話し合いで、相手がほぼ全員途中消滅しています。
>理由は定かではないのですが
理由がなくても、意味はしっかりあると思いますよ。
仏法に無駄はありません。
今まで対話してきた相手様より貴殿に宛てて残された
幾多の「無言のメッセージ」があります。
これは否定のしようがありません。
それらのメッセージが一体何を意味しているのかを考えてみましょう。
皆さんへ(この主語は誰のことかは、理解出来るはずだと思っています)
こんにちは。
まだまだ寒いですね。北国は、都市部でも未だにマイナス10度以下が時折続く、しばれるような毎日です。私も、凍えながら、出勤するだけでもぐったりしてしまいます。
その中、皆さんの様々な御高説コメント、論理的な反論コメント…とても感謝しております。全て素晴らしい論理展開と透き通るような道理の数数…、それを読みながら目の覚める如き毎日を送ることが出来て、私は管理人として何と幸せ者なのだろうと、随喜の毎日に浸っているのです。
さて、ウチのブログの記事をそれぞれ読んで頂いている方も多いと思います。実を言うと、当ブログの記事の中にどうしても疑問点の残っているものが数点あります。当記事に全く返答の無いものも存在しています。(「感想」はありますけど、「疑問」に対しての「返答」という形のものがありません)
皆さん方のような超一流の信心と、理論武装の完璧な方々に、その「疑問」をこの場を借りて解決して頂きたいと思っているのです。感心する程の論理展開の技術をお持ちの皆さん方にとっては、こんな問題はとうの昔に回答済みなんでしょうけど、私は凡人中の凡人でして、そこまでの力量は全く持ち合わせがないのです。もし良かったら下記に示す記事類のどれでも良いので、それぞれの記事の問題点を、清水の流れる如き素晴らしい道理、目から鱗の理論を持って、すっきりと解決して頂きたいと、そう考えています。当然の如く皆さん方であれば、学会員だろうと非学会員、更には反学会員に対しても整合の取れた、間違いなく納得の出来るコメントをお寄せして頂けると、そう固く信じています。
よもや…と言うことは決して無いと信じています。あ、これは失言でしたね。申し訳ありません。
…ちなみに、これは強制ではありません。梨の礫も良し、ほうっかむりも、だんまりを決め込むのもまた良し、与太話に終始するのも、まあ良いのかもしれません。でも、出来れば、このブログで大言壮語している如きの論理を持って、爽やかな解決をしてほしいとの期待は、はち切れないぐらい持っております…。
下に、それぞれの記事の私の疑問点を記載しますので、出来ればでいいのでそれに沿ったお話が聞きたいと考えています。
〇「謗法厳戒の日蓮正宗の不思議」…アンチや宗門系からの「反論」が一切ありません。明確な、誰にでも納得出来る「反論」を期待します。
〇「本当の師弟不二の話」…師弟の在り方を中心にアンチ側(皆さん)に立った反論、そして私の記事の間違いを正して頂けると、有難いですね。
〇「学会と宗門の信心の相違」…古い記事なんですけど、未だに宗門系(含アンチ)からの反論のない記事です。皆さんにこの記事の瑕疵を正して欲しいと思っています。
〇「【対談集について】のお話」…アンチ系は兎にも角にも先生の対話に対して難癖を付けます。どうしてなんでしょうか?これも大きな疑問点ですので、宜しくお願いします。
※「」内の文を、ブログの「サイト内検索」にコピペして下さい。その記事が表示されます。「反論」コメントは各記事のコメント欄にお願いします。
皆さん方、お体には気を付けて、またコメント頂けると幸せに思います。
アンチさんや宗門向けの記事を書いて、あちらさんから反応がない記事がある。
お手すき論客の方は精査してみてください・・ということですね。
そんなに(対象者の)反応がほしいのでしたら、ブログ村宗教批判カテに登録されてみてはいかがでしょう。
最近の宗門批判記事への反論のようにコピペで返されたように、マイナーブログのソースがわかるだけでも収穫があるかとおもいます。
monlingen管理人さんの思考
>常識を持った人間にはこれは異常な内容に感じます。
>殺人を、ある意味正当化しているのです。
殺人は犯罪なのだから正当化するのは異常である・・・というのは正論だとおもいます。
殺人を正当化する人間の心理は
「オレが納得できる理由があれば、どんな酷いことを相手にしても構わない」と
考えているのでしょう。
では・・
>今回別の人との「対話」をしていますけど、その中に強引に紛れ込んで来る人間
>も、シェイフォンさんの仰る通りの、上記の人々と同じ種類の人間と言えます。
というのはどうでしょう。
別の人との「対話」とは葛西さんとの対話だとおもわれますが、一方の当事者である
monlingenさんが“どうでもいい”と感じるコメントを書き込んでくる人間を異常者と断定する理由は上記の殺人肯定者の自己正当化となにがちがうのでしょう。
本質的には同じ排除の理論ではないでしょうか。
葛西さんがmonlingenさんに対し、再三個人的な「感得」に重きを置こうとすることを問題視されていたのは、そういうことが伝えたかったのだと思いますね。
皆さんへ(以下同文)
2/1(木)に提案した話には、誰も答えを出すことが出来ないようです。
これが「皆さん」方の「真の姿」です。「嬉々として参加」すると言う意味はこの事です。(普通はあの文章だけで、底に秘めた意味は簡単に汲み取れるはずなんすけどね…)
切り文への「揚げ足取り」や「言葉遊び」には、本当に「嬉々」として集まります。しかし、真に信心の教学が試される話には、全く見向きもしないという、そんな「皆さん」方です。「皆さん」がその事を、自分で認める・認めないはどうでもいいことです。これが「事実」だと言う事は、このコメント欄の流れを読めば誰にでも理解出来る話です。そんな方々と、どうしてこちらが真剣な対話を望むのでしょうか?
これは常識問題です。
そもそも、貴方がたのこれらの与太話は、コメントする場所が間違っています。ここは、真面目に信心に取り組んでいる創価学会員の世界です。貴方がたの言葉で「バリ活」という人々も大勢おられるでしょうけど、私も含めて大半は、兎に角学会から離れないように必死で頑張っている人々が読者の、そんな世界なんですよ、ここは…。
貴方がたの発するゴミのような意見など、ここには入る隙間もないと言うことを、そろそろ気付いて然るべきです…。他に受け入れてくれるブログ・サイトは、世の中には腐る程存在しています。次回からはそこに投稿して、英雄扱いをされて、そして「嬉々として」更にゴミ意見をそこに掲載して貰うべきだと、私はそう確信していますが…。
数あるブログで、「ダメ出し」ブログは「皆さん」の「ゴミの意見」を大歓迎で、そして「嬉々として」受け入れてくれるはずです。
…でも、彼等には「皆さん」方の意見は「高等すぎる」かもしれませんね…。出来ればそのゴミを、更に「かみ砕いて」コメントした方がいいかもしれません…。
管理人さんの予想通りの展開になりました。
それがどうしたの?それで?としか、思えない流れです。
正直、も少し、内容ある話し合いになると思っていました。
2月1日の管理人さんの提案には答えず、意味不明のコメントです。
本題のほうも半月以上、相手からの返答はあありません。
もう、そろそろ、よろしいのではと思います。
うるとらまんさんへ
今回はいい展開の対話が出来そうだと、私も本気で思っていました。でも、やはり「ブルータス、お前もか…」です…。
アンチ系、ミカツ系は、そもそも「本気」という文字が自分の辞書に載っていないようです…。学会活動を「本気」でやり抜く気持ちも、根性も、何も持ち合わせていないことが、今回改めて確認出来ました。彼等が精一杯の気持ちで出来る事は、揚げ足取りや情け無い錆び付いた中傷だけです。
まあ、これ以上のコメントはしても無駄だし、無意味に感じますから止めますけど…、でも、寂しい話ですね、こんなアンチやミカツ系の「論客」しか世の中には残っていないんですね。
何処かに本気の、そして本物の反創価学会論客が、いないものでしょうか………。
こんにちは
しばらくです。
monligenさんの文章を読んで疑問に思った事はお尋ねしましたので、私は現在コメント予定はありませんでした。
ゴミの意見と言うのは失礼ではないのでしょうか?
仮にもmonligenさんの文章を読んで時間を使ってコメントまでしてるのだから
明らかな嫌がらせ目的でないのなら、興味、関心を持ってくれてありがとうと真摯な対応をするのが望ましいように思います。
前にも書きましたが、駄目だし管理人は学会員ではありません。
会合も活動もありません。
一人一人のコメントに丁寧に対応しても問題はありません。
失礼ですが、創価のブログにコメント数が多い方が、題目あげてるのか?会合、活動してるのか心配になります。
Miuさんへ
当然の意見だと私も思います。しかし、もう少しここでの話の展開を読み取って頂けると、見えてくるものがあります。
以下の文章は、外野部屋でのコメントの一部を切り取ったものです。色々書かれています。まあ、こう言う文章は感情のままに書ける訳ですから、ある意味ストレス解消にはなっているのかもしれませんね。
「管理人さんは重要な点を感得でごまかす。全く無価値な対話ですね、こりゃ。
地球人は学会とアンチの2種類だけではありません。
閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。
(実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~)
あべひ様の慧眼素晴らしいですね。
ネットはグレーが基本。反応しないのも反応のひとつですよ。
石の上にも3年、気長に待ちましょう。(*^-^*)」
で、2月1日(13:04)に、上記の文章をコメントしてくれた人々に対してある提案をしました。それは、私の記事を読んで、それに対するしっかりとした意見を聞きたいのですけど、と言う話です。
これは実を言うと結構真面目な提案でした。掲載した記事それぞれに、個々のかなり厄介な問題点を含んでいて、それぞれに対してはアンチ系からは何もコメント(意見)が届いてなかったものなのです。それを「彼等」に解いて貰おうと思って、こんなコメントをした訳です。
さて、2月5日になりました。誰もコメントは書いてきません。誰一人…。
どういう事なのでしょうか?
様々にいい加減なコメントは頂きます。しかし、本気の意見に対して彼等は一切無視します。
上記のコメント群と「提案」の意見、さてどう考えるのがいいのでしょうか?
間違えないで欲しいのは、私は真面目な意見やコメントに対しては真剣に自分の意見を書きますし、書いてきました。しかし、信心を馬鹿にしたいい加減なコメントを、放って置くようなそんな楽観生は持っていません。彼等は創価学会の信心をバカに仕切っている連中です。そう言う連中のいい加減すぎるコメントに対して何を持って判らせることが出来るか…問題はそこに有るような気がしていますが…。
葛西さんとmonlingen管理人さんとの対話が再開されたようで、楽しみです。
こちらのスレでの投稿者である拙自身へのご質問などには適時お答えさせていただく
として、基本は「葛西氏との対話の、外野部屋」でありますので、葛西さんへの
感想なりアドバイスを中心に投稿を続けたいとおもいます。
monlingen管理人さんの「感得」についての判断基準は以外に単純なので興味深く拝見させていただきました。
①感得=体験 と定義付けた上で
>>信心の「感得」が出来ない人は「信心の無い人」 ②
と断定し、信心の感得が無い人は(学会の)“信心を批判する資格も権利もない”③と
結論をつけているところですね。
実はこれ典型的な三段論法。
“信心の体験がある人間(自分)なら信心を批判する資格も権利もある” という
隠された意図が埋め込まれているわけですね。
ちょうど、このスレのmonlingenさんの投稿に
>>普通はあの文章だけで、底に秘めた意味は簡単に汲み取れるはずなんすけどね…
という発言がありました。
あの文章というのは「葛西さんとの対話」についてなんの関係もない“ある提案”を書き込んだコメントだと察しますが、monlingen管理人さんが投稿者の反応を伺っていたことを示唆するものです。
そして、そこから導いた結論は、
『真に信心の教学が試される話には、全く見向きもしないという、そんな「皆さん」』
というものでした。
ようするに、信心の感得のあるmonlingenさんの提案(チャンス)をフイにする人間は「真に信心の教学」をもとめていない「感得のない人」であり、信心の感得のある
monlingenさんの批判をする資格も権利もないと論理付けてみたかったのですね。
だから「ゴミ意見」とまでいいきれるのでしょう。
葛西さんにアドバイスをさせていただきたいのは、monlingen管理人さんが
「慌てないのでゆっくり返事まってます」と下手にでながら、時間をあけて
返事されると態度を180度変えて「またせすぎだ」と条件闘争を迫ってくる
タイプであることや、自分の意に沿わない相手にはドギツイ表現も容赦ない
タイプでもあることを熟知されたうえで、対話を継続されるかどうかを考え
なおされたほうが精神衛生上よろしいのではないかということです。
幸い葛西さんはご自身のブログをもったり他の学会員さんブログでコミュニケーションを取っておられるようではないので、ネット上の体裁を気にされることもないでしょう。