2013.09.25(Wed)
選挙に行かないことが合理的な三つの理由と、「選挙に行かないやつは政治を語るな」が間違っているもっと沢山の理由
新聞も、雑誌も、ニュース番組も、市役所のポスターも、有名人も、そしてネットのあらゆる人が「選挙へ行こう」と呼びかける。果たして公の場で誰かが「選挙なんて行かなくてもいい」と言ったのを一度でも聞いたことがあるだろうか? 中学高校の社会の授業で「選挙権はなにより大事な国民の権利です」という意見に反対の言葉を、教科書で読んだり、教師から聞いたりしたことがあるだろうか? 現在のこの国では「民主主義」=「普通選挙が存在すること」はほとんど無条件の「善」として至高の価値として崇められている。「民主主義」を公の場で批判する人はまずいない。そして選挙に行く人間が「良い」とされ、逆に選挙に行かない人間は、常識のない低能として、「悪」とされる。誰もが選挙に行きましょうといい、選挙に行っていない人間を糾弾する。しかしなぜ選挙に行かなければならないのだろうか? なぜ選挙に行かない人間は文句を言われなければならないのだろうか? 「選挙にいかなければならない」と信じている人は、なにを根拠に選挙に行かない人々を攻撃することができるのだろうか? 僕はこれまでの人生で選挙に行ったことは一度だけしかない(二十歳を迎えて最初の国政選挙で、「記念」に投票した)。それ以来はずっと「棄権」している。この文章では、そのような選挙を棄権する「棄権主義」の立場から、投票に行かない人間を絶対的な悪として断ずる「投票主義ファシズム」とでも言うべき欺瞞に対して反論を試みる。
(忙しい人は色のついたところだけ読んでください)
I:選挙を棄権する三つの理由
理由1:投票は義務ではないから
選挙権は二十歳以上の国民に与えられた権利であり、間違っても「義務」ではない。幸いなことにこの国では、投票に行かなくても罰金を科せられたり留置所にぶち込まれることはない。僕が持っている権利を、いつどのように行使するかどうかは、権利者である当人の意思による。たとえば僕は銭湯のタダ券を持っているので、近所に風呂を入りに行くことができる「権利」があるが、その一方で別にその権利を行使せずに、家で漫画を読むことにしても、何ら問題はないし、だれにも文句を言われる筋合いはない。この個人主義・自由主義的な理由が、選挙の棄権を擁護するもっともシンプルな理由である。僕は個人主義的な消極的自由を尊重するリバタリアン(その中でももっともラジカルな、アナルコ・キャピタリズム=無政府資本主義を最終目的とする)だが*1、そのような観点に立てば、「他人の休日の過ごし方にケチを付けるのは野暮」の一言である。「ワールドカップの日本戦を見ないなんて非国民だ!」と言うのは冗談なら通じるが、本気で言っているのであれば友達をなくす。僕がささやかな休日のひとときをどんなふうに過ごそうが、それは僕の趣味であり僕の勝手である。他の誰にも危害を加えているわけではないのだから、誰からも非難されるいわれはない。
理由2:投票したい候補がいないから
これは国家・政治に対する理想をはっきり持っている人であれば、だれもが一度は感じるであろうジレンマである。特に小選挙区制では、ウンコかゲロかヘドのどれかに投票せよというような堪えがたい択一を迫られることもしばしばある。このような問題に対しては、「嫌でも、その中でもできるだけマシな候補」あるいは「どうしても投票させたくない候補以外」を選べとしばしばアドバイスされる。しかしそんな情けなくなる選考方法を使ってもなお、甲乙つけがたいぐらいにどれも酷すぎるという状況もありえる。仮にA・B・Cの三候補が(あらゆる要素を考慮した上で)自分にとって完全に、同じぐらい投票したくない、政治家にさせたくない相手であるとわかった場合、どうすればいいのだろうか。国家主義に集産主義に差別主義……どれも色とりどりに非魅力的すぎて、とても選べない。もし三候補が自分にとって同価値であれば、誰か一人に票を投じて差をつけてしまうと、自身の政治的価値と投票結果が食い違ってしまう。それでも投票主義は、どれでもいいから棄権よりは投票するべきだと主張するだろうか? いい選挙とは、「全員が、適当でもいいからとにかく誰かに投票する選挙」だろうか。それとも「全員が、熟慮した上で投票に値すると考えた人間に投票できる選挙」だろうか。明らかに後者だと僕は考える。どれも甲乙つけがたいのであれば、棄権、すなわち「全員に平等に0票ずつ投じる」のがもっとも自らの価値判断を正確に示す投票である。価値に差を感じていないのだから、評価にも差を付けないのが当然である。無理矢理にでも票を投じろというのは「投票のための投票」であり、逆に選挙の目的に反する行為である。投票したい人間がいないのなら投票しなければいい。だれでもわかる当たり前の話だ*2(文句があるなら自分で選挙に出ろ、という言い草はただのナンセンスな感情論なのは説明するまでもないが、しかし供託金なる悪制度が存在しなければ、絶対に当選する可能性がなくても選挙に出て、自分自身に一票を投じるという人間は少なくない数いると思われる。)。
理由3:自分が投票しても投票しなくても結果は変わらないから
僕自身が選挙に参加する気がないのは、前提として「その1」があり、政治思想的には「その2」が原因だが、現実的にはこの「その3」がもっとも大きい問題である。
仮にあなたがA候補とB候補の二人が立候補している小選挙区に住んでいるとする。話をわかりやすくするために、あなたが投票所にやってきたのは投票締め切り時刻のギリギリ直前であり、あなたがこの二人の候補に投票する最後の人間だとする。この時点で、A候補は10万票、B候補は3万5000票を獲得している。このとき、あなたがとりうる行動は三つ考えられる。だが、この三つのうちどれを選んだとしても、選挙の結果はまったく変わらない。
- 1:A候補に投票する→結果:A候補が当選する(A・10万1票、B・3万5000票)
- 2:B候補に投票する→結果:A候補が当選する(A・10万票、B・3万5001票)
- 3:投票せず帰る、あるいは「ファシストと社会主義者は死ね」と書いて投票する→結果:A候補が当選する(A・10万票、B・3万5000票)
これほど不毛な選択が存在するだろうか! 三つの選択肢どれを選んでも、得られる結果はまったく同じである。そして国政をはじめ、大きな選挙はこのように、個人の投票が結果になんら影響を与えないという場合がほとんどである。
選挙において、「自分一人の投票が結果になんらかの影響をもたらす」シチュエーションと言うのは、自分以外の投票者の投票結果が、複数の候補が同数で並ぶかあるいは一票差だけがついたときのみである。自分以外の投票で、二票差以上ついてしまえば、その時点で、僕がどんな投票をしようが結果は変わらない。同数あるいは一票差の勝負になるというのは、投票者数の少ない村の村長選挙や、あるいは市町村区議会選挙レベルではありうる話だ。事実、僕としてもそのような一票が当選と落選を分かつような超接戦の選挙であれば、喜んで投票しに行くことまったくやぶさかではない。なぜなら、僕の投票という行動によって、政治=自分の生活環境が大きく変動する可能性がその場合は十分にあるからである。
だが国政レベルの選挙が一票以内の差の争いになる可能性は、隕石が僕の頭の上に落ちてくる可能性と同等であると僕は考えている。要するにまずありえない。よって現実的には、僕がだれに投票しようが、あるいはだれにも投票しまいが、選挙の結果はまったく変わらない。これは動かしようのない事実であり、投票主義者、投票によって政治が動かせると主張する人々、民主主義=選挙を信仰している人々が決して受け入れようとしない事実である。「あなたの一票が日本を変える!」などというスローガンは大嘘であり、詐欺以外の何ものでもない。あなたの一票が現実的な政治に影響を与えることはない。どれを選択してもそれによる差異がないということは、選択であれこれ悩む時間やエネルギーが純粋に無駄になる。選択で悩むことによるリターンが皆無であれば、もっとも楽な「家で横になっている」という選択肢を多くの人が選ぶのはまったく不自然ではない、合理的な結論である(逆に「足による投票」は選択による確実かつ大きいリターンが期待できる)。
あなたがどんな行動を取ろうが、選挙の結果は変わらない。「変わる可能性がとても少ない」のではなくて、「絶対に変わらない」のである。この違いは重要である。一人一人の行動が直接的に結果を変えるような場合もある。たとえば貧困にあえぐ子供たちに、あなたは500円の募金をしたとする。たった100円では、世界の貧困を断絶することはもちろん不可能である。しかしその100円でわずかながら、途上国に数本のワクチンを送ることはできる。あなたが募金しなければそのワクチンは子供の手に届かなかった。あなたの行為と選択は「結果」をわずかながらも変えた。世界の貧困をすべて救うことはできなかったが、100円の募金は世界の貧困を1/10000000000ぐらいは救ったと言える。それはほとんど見えないような一歩だが、無意味ではない一歩だ、と言う意見に僕は完全に同意する。どうせ貧しい子供たちをみんな救えるわけではないから、と100円を寄付することを否定する人間は非難されてしかるべきである。たとえほんの僅かでもそれは「結果」を良い方向に変える努力だった。
それに対して、僕が国政選挙に(絶対に当選しないとわかっている候補に)投票する場合、「結果」は、まったく変わらない。募金の場合は、世界は1/10000000000ぐらいは変わるが、選挙の場合は0だ。文字通り、何一つとして結果は変わらないのである。この両者は決定的に性質が違う。「選挙に行かないよりも、行ったほうがちょっとはこの国がマシになる」というのはこの両者の性質を混同しているために起こる誤りだ。実際は選挙に行っても行かなくてもA候補が当選するという事実はなにも変わらない。有権者が一億人だとすれば、自分の一票は1/100000000しか政治に影響しないのだ、と嘆く人は間違っている。実際には「自分の一票は政治にまったく影響しないのだ」と嘆くのが正しい。なぜなら政治とはオール・オア・ナッシング、勝者総取りの世界であり、勝者の意見のみが通る多数決世界だからである。
募金のように、ごくわずかな変化であっても、ワクチン一本であっても、それは「0」ではない何かとして捉えられる、その世界はアナログの世界だ。それに対して政治はデジタルな世界である。ある閾値を超えない限りは、つまり選挙に勝利しない限り、惜敗も惨敗も、同様に「負け」として、「0」としてしか扱われない。猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちればただの人だ。どんなに惜敗だったとしても、選挙に落ちた人間が法案の成立に投票することはできないし、投票した人間の票は死票となる。政治は「当選」と「落選」で、100か0かになる、極端な世界なのである。だから、B候補の得票数が3万5000票だろうが3万5001票だろうが、現実にはあなたがB候補にやってもらいたかった政治はいっさい行われない。「投票しなければ意見は反映されない」というが、実際には「投票しようがしまいが意見は反映されない」のである。結果に影響しないという点において、「投票」と「棄権」はなんら変わりない、同一の行動なのだ。
このような棄権主義の意見に対して、投票主義がもっともよく行う反論が、「みんながそんなことを言いだせばおかしなことになる」というものである(合成の誤謬)。たしかにだれもが「自分の一票で結果は変わらないから」と投票を棄権していけば、どんどんA候補とB候補の得票差は縮まっていくだろう。そして一票の重みが増していき、両候補が同数かあるいは一票差で並ぶ可能性が出てくるほどに投票者が減っているころになれば、僕は投票に行くようになるだろう。僕が投票を棄権するのは、棄権と投票が結果の面から見れば完全に同じ行為だからで、もし棄権と投票の結果に差異が生じる可能性が現実的なレベルにまで高まってきているのであれば、僕は選挙に行く理由ができる。幸か不幸か、国政選挙では投票率が数パーセントレベルにまで下がらないと数票差の接戦は観られないだろうが――そしてまた他の投票者がみんな僕と同じ思考を行うのであれば、僕が投票をはじめるころに全員が投票をはじめ、得票差はまた広がっていき、投票する意味がなくなっていくだろう*3。
第二に棄権*4は投票率が下がるからよくないという意見もある。しかし、まず投票率が低いことを絶対的な問題とみなす理由がない。投票率が低いと「組織票」(業界団体や宗教団体)がある政党・既得権益が強くなるから(よくない)、とされるが、なぜ「組織票」が悪とされるのだろうか。業界団体は自分たちの業界=自分の懐を潤してくれる政策を行う政党=「自分たちの意見を代表してくれる政治家」に票を私、代わりに利益を享受するという、ごく自然な投票行動である。そもそもあらゆる投票は「組織票」である。「高齢層の組織票のせいで若者が割を食っている」というが、若年層がそれに対抗して投票すればそれは「若年層の組織票」である。同じ考えを持っている人々が団結して同じ候補を応援するのが「組織票」であれば、選挙とはすなわち組織票を集める行為に他ならず、組織票を悪とするのであれば、信念を持ったあらゆる投票が悪となり、なにも考えずに適当に投票することだけが「非組織票」だから「善」ということになってしまう(この国で人々が「政治」と呼んでいるのは、つまりこういうことである。「俺以外の人間から税金を取って、俺によこせ」。社会保障だの教育の充実だの福祉だのと口当たりのいい言葉で着飾っているが、本質はこれだけだ。なんて醜い発想だ、と思ったあなたは正しい。政治というのは、みんなが自分にもっと分け前を、という本音を、いかにキラキラしたステキな言葉で誤魔化せるかを競うという種類のゲームなのである)。
さらに言えば、得票数と同じく、僕一人が投票しようがしまいが、投票率の変動はほんのわずかである。有権者数を一億人とすると、僕が投票することで上昇する得票率はわずかに0.000001%だけ。重要だと論じる人が多い「若年層の投票率」を見て20代の有権者約1500万人に分母を減らしても、0.0000066……%。つまり僕が投票に行ったところで、政治家などが目に見える「若年層の投票率の変化」を感じることはありえない(よって「若年層に有利になる政策を掲げる政治家が増える」という、予想というより願望に近いシナリオも起こりえない)。
第三の投票主義者による反論はこうである。「塵も積もれば山となる。一人の投票では結果は変えられないかもしれないが、投票を棄権している大勢の有権者たちが投票するようになれば結果も大きく変わる」。もちろんそれは事実である。だが「僕が投票を行うか」と「僕以外の多くの有権者が、選挙の結果を変えるほどの投票を行うか」はまったく関係がない。僕は誰か友達を連れて投票しに行っているわけでもないし、だれかの投票を邪魔しているわけではない。僕の行動は、僕以外の投票棄権者の行動に影響しない。僕以外の投票棄権者が急に投票をしだして「塵を積もらせて山」にしたとしても、結局のところ僕が評が影響力を持つことのできるシチュエーションは同数か一票差のときに限られるということに違いはない。「塵も積もれば山」という表現は、まるで自分が行動することが大きな結果を呼ぶように錯覚させるが、それは典型的な錯覚だ。たとえば自民党の候補に投票した有権者は、その自民党の候補が大差で当選したとき、それが「自分の投票のおかげ」であるというような気分になる。しかしそれは錯覚である。自民党が当選したのはその有権者のおかげではない。そいつが投票に行かず家で寝ていたとしても、その候補は当選していた。そいつが他の候補に投票していても自民党は当選していた。塵が積もったり風が吹くかどうかは、あなたの行動によって決まるのではない、あなたの関与しない部分ですでに決まっている。投票によってバタフライ・エフェクトは起こらない。
II:「選挙に行かないやつは政治を語るな」への反論
以上の三つの理由から、僕は選挙の投票の棄権を、合理的であり、かつ投票した人々に批判されたり文句を言われたりするいわれのない、正当な行動であると主張する。しかし選挙に行って投票することが絶対的な善行であり、そうしない人間をほとんど犯罪者のごとく非難する「投票主義ファシスト」がほとんど必ずと言っていいほど二言目には口にするのがこの「選挙に行かないやつは政治を語るな」という馬鹿げた論理である。「ああ分かった、お前みたいなクズが投票しようがどうしようがどうでもいい。しかし投票を棄権した以上、お前は二度と政治に対して口出しをするなよ。どんな結果になろうが甘んじて受け入れろよ。そうする権利をお前は放棄したんだからな」、この狂気じみた詭弁は、驚くべきことに非常に多くの人間に直感的に受け入れられている*5。
参院選の投票率向上は可能か。熊谷俊人千葉市長「現状にご不満のない方はどうぞ棄権下さい」
上の記事によれば、あろうことか千葉市長ともあろう人物まで(いや政治家が選挙の正当性をなんとか主張しようとするのは当然なのだが)、この意見に賛同している。
棄権は「白紙委任と同じ」ではない
だがなぜ棄権した人間は政治を受け入れたとみなされるのだろうか? 熊谷市長は「棄権は他人の結論を全肯定するのと同様である」と主張している。しかしそれは恐ろしく都合の良い解釈である。「無条件信任」とは「AでもBでもCでもいいや」という態度の表明だが、僕は「AもBもCも嫌だ」と言っているのだ。どれも否定しているのだから、仮に否定していたAが当選したとしたら、彼の行う政治に対して僕は批判をぶつける、否定している人間を批判するのは当然の行為である。棄権は「誰も支持しない」という態度の表明でもあるのに、それを「棄権は誰でも支持するのと同じ」と都合よく読み替えられるぐらい幸せな思考の持ち主でなければ千葉市の市長なんかにはなれないのだろう。
A候補は美術館を建設すると公約に掲げ、B候補は水族館を建設すると公約に掲げている。あなたはどちらも無駄だから建設するべきではないと思っているから、A候補にもB候補にも投票せずに棄権した。そしてA候補が美術館を作るというので、あなたが美術館なんて必要ないと批判するのは当然のことだ。しかし「棄権者には批判の権利がない」という連中の理論によれば、この批判は無効ということになってしまう。そして連中の理論によれば、この選挙の結果を「語る」には、なぜか知らないが、まったく政策に賛同できない、A候補かB候補のどちらかに投票しなければならないらしいのだ。しかしどちらかに投票させすれば、なにも作るべきではないと主張する「権利」が急に得られるらしい。甚だしく奇妙な話であり、この理論の論理的破綻を示す結論である。
熊谷市長を始めとする「投票主義者」はなぜか「棄権」を「全面肯定」だと都合よく理解しているが、「棄権」した人間がいかなる理由で、いかなる政治的信念を持って棄権したのかはなんてわからない。本当に「誰でもいい、どうなっても文句を言わない」と考えて棄権したのかもしれないし、「この中の誰にも政治なんてやってほしくない」と考えて棄権したのかもしれない。にも関わらず、棄権した人間が全員、現在の政治を「無条件信任」しているなどとなぜそんなに自分に都合よく捉えることができるのだろうか? 「誰になっても文句は言わないから」「棄権する」という命題が成り立っても、「棄権するなら」「必ず誰になっても文句は言わない」は引き出されないのである(「風呂に入るつもりだから」「裸になる」は正しかったとしても、「裸になっているなら」「必ず風呂に入る」とは限らない)。投票しなければ結果は変わらずそれは現状を是認していることに等しいからだというが、すでに繰り返し述べたように、投票しても結果は変わらない。投票主義者は「投票しなければ結果は変わらない」と言って、あたかも「(投票すれば結果は変わる可能性がある)」とミスリードするが、実際には一票差の村長選挙でもないかぎり一票を投じることは無意味な行動である。「声を上げなければ意見は通らない」はミスリードで、「声を上げても意見は通らない」のである。だとすれば声を上げることは無意味である。彼らは投票が「政治に参加すること」だと信じており、それに意味があると思い込みたい、自分は意味のある高尚な行動をしていると信じ込みたいために、事実から目を背け、事実をとっくに知っている合理的な棄権主義者を罵るのである。
「投票」と「結果に対する批判」は関係ない
そもそも「投票するか棄権するか」と「政治を批判するか批判しないか」はまったく異なる次元の問題である。こんなことは当たり前のことで、もし「投票した人間だけ政治を批判する権利がある」という前提を受け入れるのであれば、「熟慮の上に投票を棄権した人」は政治を語る権利がないが、「候補がイケメン(あるいは美人)だから投票した人」あるいは「なにも考えずにデタラメに投票した人」には大いに政治を批判する権利があるということになる。誰でも馬鹿げた結論だとわかる。百歩譲って、前者よりも後者のほうが、実際の政治にコミットメントしており、偉い、というのであれば、投票という行動自体を重要視する発想から理解できなくもない。しかしそこから「政治の批判」の封殺に使うという狂気じみた発想が出てくるのが理解できない。こういうことを主張している人間は、もしかしたら「民主主義」を擁護しているつもりかもしれないが、皮肉にも結果は正反対だ。あなたが「政治に対して文句をいう権利」は、絶対に、誰にも、奪われない。それは、人間が持つ自由の権利だからだ。安心して、選挙に行かず、政治にどんどん文句を言ってほしい*6。
仮に投票権を放棄したとしても、政治に文句を言う権利まで放棄したわけではない(誤解されるかもしれないので補足すると、僕は投票権を放棄したいと思っているわけではない。投票したい候補がいない、あるいは投票に現実的な意味が無いために投票しない、というのは投票権を放棄するというのとは厳密には同じではない。投票したい候補がいて、なおかつ自分の投票が現実的に意味がありそうな選挙であれば僕は投票に行くつもりである。しかしそうではなく、「投票する権利はいらない」と主張するタイプの「棄権主義者」ですら、投票権と「政治に文句をいう権利」は別なので、文句をいう権利は存在する、と僕はここで主張しているのである)。もし彼らが、なんであろうと棄権した人間のいうことは信用出来ない、というラベリングをするのであれば、それは個人の自由だから勝手にすればいい。しかしだからと言って他人が意見するのを禁止することはできないのである。
反論不能な選挙肯定ロジックのからくり
連中はしばしばこのような「棄権者は政治を肯定しているのと同じ」というインチキ論理を用いて、巧妙に選挙を正当化する。彼らはおそらく、投票率が上がれば「多くの人間が参加している選挙で選ばれた人間なのだから正当だ」と主張し、投票率が下がれば「投票に来ていない連中は無条件に選挙結果を肯定しているのだから、選挙の結果は正当だ」と主張するだろう。どちらに転んでも用意してあった結論にこじつける、典型的な結論ありきの主張だ*7。彼らはどんな現状も「選挙は正当」「政府は正当」という結論に引きつけられるというだけの話である*8。
III:政府の非正当性
あなたは四人の男に囲まれ、身体を縛られて「右足と左足、どっちを折ってほしいか、〈投票〉させてやる」と迫られている。あなたはどちらも折られたくないと〈投票〉を拒否し、四人の男が「左足」に投票したので、あなたは左足を折られたあげく、「お前は投票を拒否したのだから、脚を折られたことに対して文句をいう資格はない。お前は左足を折らることを暗黙の内に是認したのと同じなのだ」と言われたら、あなたは納得するだろうか? しかしこの国で、あらゆる民主主義国家で行われている選挙とは、これとまったく同じことなのである。「投票するかどうか」と「それに納得しているかどうか」はまったく別の問題である。あなたがやることは「右足と左足、どちらを折られたほうがより被害が少ないだろうか」と考えることではなく、また「もっと痛くない折り方にしろ!」と文句をつけることではなく、「一体誰が何の権利で俺の脚を折ることが許される? こんなふざけた〈投票〉に正当性は欠片もない」と主張することだ。
選挙に行くのが善で、行かないのは悪である、という風潮がほとんど無意識レベルで社会の隅々にまで行き渡っているのは、「投票主義ファシズム」がこの国において完全に浸透している証拠だ。公の場で「選挙に行かなくて何が悪い?」と言えば、白い目にさらされることは間違いない。本当は「ワールドカップを見なくて何が悪い?」という意見と同等に「選挙に行かなくて何が悪い?」という意見は正当性が存在するにも関わらず、投票主義者は、棄権者をあたかも大罪人であるかのようにヒステリックに批判する。それは彼らが投票という行為を神聖なものと崇めている裏返しである。彼らは自分が投票に行くと政治がよい方向に変わると思い込んでいる(現実はその可能性はほぼ0なのに)、我々一人一人が国家の主権者であるなどという「幻想」=政府のおためごかしを純粋にも信じている。そうすることで、政治に積極的に関わっている自分は善であり、愚かな棄権者よりも優れた人間である、と自尊心を磨いている。ちょうど信仰者が無宗教者を批判し、終いには憐れみだすのと同じことである。
そういう錯覚を公組織の宣伝や公教育によって刷り込んだ結果、多くの人々がその錯覚を事実だと思い込んでいる。我々は奴隷ではない、なぜなら投票権があるから、と人々に思い込ませる事こそ、この「投票主義」プロパガンダの目的である。自らのことを奴隷だと思っていない奴隷というのが、飼い主=政府にとってもっとも都合のいい存在だからである。そうやってガス抜きをさせて、民主主義=多数者による専制というシステム自体の問題点には決して目を向けさせないのだ。
*1:誤解を防ぐために言っておくと、リバタリアニズムがすべて選挙を棄権する傾向のある思想というわけではない。あくまで僕のアナルコ・キャピタリズムの場合をこの文章では取り上げている
*2:僕はリバタリアンだが、日本の政治家(候補含む)の中で、リバタリアンな思想を持っている人というのは(その「傾向」を持っている者を含めてすら)極めて希少種である。現行の政党の中では、みんなの党と日本維新の会が(他の既存の政党と比べて)リバタリアン的な傾向を持つ、と言われているが、両者は特にリバタリアニズムを標榜して結党したわけではないし(看破できない党員や政策提言――リフレなど――も多い)、ラジカルなアナルコ・キャピタリズムなアナーキズムから見ればはるかに「手ぬるい」主張しか行っていないと見られている。もちろんみんなと維新ですらそうなのだから、共産党と社民党は真っ赤な社会主義政党であり、自民党は典型的な国家主義政党に他ならない。日本の右翼と左翼の対立は、国家主義と社会主義という全体主義内での対立でしかないため、共和党支持者と民主党支持者、それぞれ半分ずつとは意見を分かち合えるアメリカのリバタリアンに比べて、日本のリバタリアンは右も左も味方がいない。よって、概して「どれを選んでも同じぐらい地獄」な選択をさせられることになりがちなのである
*3:また道徳的個人主義の観点から、合成の誤謬という概念を無邪気に認めたくないという個人的な事情もある。
*4:この文章では棄権と白票・意図的な無効票は同じものとして語っている。白票は投票率に入るから棄権よりは望ましい、というよくわからない理論で白票を擁護する人もいるが、所詮自己満足に過ぎない。
*5:しかしこの意見は一体何を意味しているのだろうか? 言論の自由が日本にある以上、どんな人間でも、政治的な意見を友人と交わしたりブログや掲示板に書き込むことは許されている。だとすれば「語るな」というのは、いったい「誰」が「誰」に対して、どのような権限で命令できているのだろうか? この主張を最大限好意的に読めば、「選挙を棄権した人間は、選挙という政治に対して意見を陳情する重要な機会を放棄したのだから、それ以外の場所で意見を陳情しようとするのは非合理だ」という風に読み替えられる。しかし、こう読んだとしてもなお、残念ながら、この主張は完全に誤っている。なぜなら、まず「選挙は政治に対して意見を陳情する重要な機会だ」という前提が誤っている。?項で述べたように、選挙に行っても政治は変わらず、よって選挙は政治に対して意見を陳情する機会としては極めて非効率であるし、第二にそもそも意見を陳情したいと思える候補が存在しない。だから仮に政治に文句があっても、選挙に行かないという選択をするのは極めて合理的な行動なのだ。
*6:「ファンクラブにも入ってない人間に○○ファンと名乗る資格はない!」「球場にも言ってない人間にチームを批判する資格はない!」というような「自分ルール」の押し付けは、感情的には納得できるかもしれないが、論理的ではない
*7:同じような理論を使えば「投票した人間こそ、投票という行為によって選挙の結果を正当化しているのだから、結果に文句を言ってはならない」などの正反対の結論すら引き出せる。
*8:同じ前提から、たとえば投票率が50%を切った選挙は、結果を無効にするべきだという主張を引き出すことだって可能である(僕が主張したいわけではないが)。過半数がその選挙に参加していないわけだから、そもそも選挙という行為自体の正当性が疑われる。もしどんなに投票率が下がっても選挙の正当性が認められるのなら、よくわからないオッサンが自主的に「解散総選挙」を行って自ら当選、日本国の総理大臣になったと主張しても、その選挙と、自民党や共産党が出馬している選挙の間に、根本的な差異を見つけることができなくなってしまう。もしそんなオッサンがいたら、人々は「変な人が勝手に選挙とか当選とか言っててもダメだよ」と鼻で笑うだけだろう。しかし、誰も投票に行かない国政選挙は、これとどう違うだろうか? 自民党とか民主党とか名乗る「変な人」が、人々を無視して「勝手に選挙とか当選とか言って」る状況と、本質的にどこに差異があるのだろうか。