今回は、こちらの大学の建築学科の授業の一環で、Unityを使ってゲームを作った体験、そこから建築学生として感じたことを、まとめておこうと思います。
このツイートの背景を、もう少し詳しく書くような形です。
ゲームを作っていて、建築界と雰囲気が違うな?と思った点をまとめました。
- プロトタイプの改善が建築と比べて圧倒的に多くとれる
- 普通の人でも遊べば作品の良し悪しが分かる
- 建築とは違った総合性のようなものが存在する
- いい意味で不真面目になれる
- 実社会との繋がり、都市へのコンテクストの接続、長期的な影響力は、まだゲーム業界でも模索中の領域
作ったゲームのタイトルは「Flipper capitalists」、Flipperはドイツ語でピンボールの台のことで、Capitalistsは資本主義の金持ち、程度の意味です。
現実の街の建物を的にしたピンボール的なゲームで、 プレイヤーは、ベルリンの地価を上げる投資家たち。
ボールはお金で、ボールが建物に当たる=投資。地価あげまくったやつが勝ち、金が全てだ!
というちょっと危ないストーリーのゲームです。現実にベルリンでは今地価の上昇が猛スピードで起こっており、それに対しての問題提起、という側面もありました。
プロトタイプの改善が建築と比べて圧倒的に多くとれる
早い段階で動かせることの価値
ゲームは、コードを書き、オブジェクトを配置したら、ボタン一つでその空間に入り込み、動き回ることができます。
実際にゲーム内の空間で動き回りながら検証をすると、
あ、ここの操作はもう少し素早く動いた方が快適だな
面白いと思っていたこの動き、実際やってみるとそんなにだな
このシステムは、最初の一回は面白いけど、すぐに飽きてしまうな
など、実装してみてから分かるアラや良い点が大量に出てきます。
建築でもそれは同じで、実際に建てた経験のある、知り合いの建築家の方も、"いくら真面目に考えてデザインしても、建ててみないと分からないことがたくさんある”と複数の方がおっしゃっていました。
建築におけるフィードバックのスパンは、数年〜数十年単位で一巡します。
考える(図面を引く)→建てる(施工する)→使ってもらう→改善する
最後の”改善”の部分が建築においては非常に難しく、物理的な建築は一週間おきに配置を変えたり、部屋を消したり簡単には行えません。
なので、建築のデザインは何かに特化しているというよりは、出来るだけニュートラルなカタチやシステムを志向する方向に常に進化してきました。
また、多くの建築家は、一つの作品をこまめに改善していく、というよりも、その人生の中で前の作品で学んだことを、次の作品で活かす、という形で、改善を行う人が多いです。
建築家、難波和彦先生の「箱の家」シリーズなどは、それを非常に意識的に行なっている例だと思われます。
別々の作品でフィードバックを行うのではなく、一つの作品でフィードバックを行うことができないか、というアイデアは、黒川紀章をはじめとしたメタボリズム運動が近いと考えられます。
1960年代に興った、生物の仕組みをベースに、”常に変化していく建築”を志向した運動です。
ただ、実際の建築はモノなので、変化するためには材料や工事の必要があり、経済的ではないため、高度経済成長の終焉と共にその流れは下火になりました。
写真の”中銀タワービル”は東京で残るメタボリズム建築の一つで、この一つ一つの箱が取替え可能で、常に更新されていく、というビジョンでしたが、結局更新されることはなく、現状は建物内部に深く入り込んだ水回りの老朽化に苦しむ、という非常に現実的な結末になっています。
このように、フィードバックループがものすごく長い建築に対して、ゲームでは数分、もしくは数秒のスパンで
考える→実装する→遊ぶ(体験する)→改善する
のステップを踏むことができます。
現状流行しているスマートフォンのゲームであれば、公開した後のアップデートは常に行なっているゲームがほとんどで、公開後もフィードバックが可能です。
この、アイデアをすぐに形にして、改善することのサイクルの早さ、簡単さは、ゲームと建築を比較すると圧倒的にゲームの方が素早く、建築出身の僕としては作っていて楽しかった点です。
普通の人でも遊べば作品の良し悪しが分かる
ある作品がいいものか、悪いものかには、もちろん様々な指標がありますが、その中で大きなものとして”使う人(クライアント)が価値を認めているか”というものがあります。(それだけではありません。)
建築だと、なかなか図面やグラフィック、模型だけでは、専門外の使う人に空間の価値を理解してもらうのは難しいです。
竣工して建っている建築で、それがいい建築ならば、普通の人でも全身でその価値を感じることができるはずです。
ただ、現状建築を一般の人に、建つ前に伝える方法は、やはり上記に挙げたような手法に限られてしまい、それによりクライアントと設計者の間ですれ違いが生じてしまう場合も多々あると思われます。
よく、建築業界の界隈で”クライアントが良さを理解してくれない…”という話があると思います。
ゲームの作り手と使い手の関係性はどうでしょうか。
小さい頃から建築に積極的に親しんでいた、という人はごくごく限られた特殊な人だと思いますが、
小さい頃からゲームに積極的に親しんでいた、という人は僕たちの世代以降(90年代前後生まれ以降)だとかなりの数がいるのではないでしょうか。
実際に、僕やチームメンバーも小さい頃からいろいろなゲームを遊んできたので、肌感覚として”何が面白いか”が分かる、という利点があります。
そして、その面白さは多くの人も面白いと思ってくれるのだなあ、というのは、授業の最後にゲームを公開プレーした時に感じました。
これは、建築学科で課題をやっていた時にはあまり感じなかった感覚で、自分や友達がいい!と思った建築でも、教授陣からは全く評価されなかったり、その逆が起きたり、ということは多くありました。
僕らの世代のさらに下、今の中学生や小学生(2003年以降生まれ)は、マインクラフトにハマっている子が多いようです。
彼らは僕らの世代よりも、さらにゲームに対しての抵抗が少なくなっている世代だと思われます。
2歳や3歳の赤ちゃんでも、タブレットを使ってYoutubeを見る、というのはごく普通にできるようになっているようです。
20代、30代になった彼らに対して、何かの空間体験を伝える際には、図面・パース・模型よりも、ゲームや動画などのメディアの方がより伝わりやすい可能性もあるのではないでしょうか。
(日本では少子化しつつあるので彼らに向けたマーケットが縮小しつつあるという大きな問題はありますが、例えば中国の2000年以降生まれの世代に、ゲームを使って空間をプレゼンテーションする、などは大きな可能性があると思います。)
この、作り手と使い手のズレの少なさ、も建築から来た僕には非常に新鮮でした。
建築とは違った総合性のようなものが存在する
建築は、総合芸術である、という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。
カッコいい形”だけ”の建築は物足りなく、建築を支えるストーリーやシステムだけの建築も、ロマンがなくつまらないのはこのためです。
映像技術の出現により発生した映画産業も似たように、総合芸術と呼ばれます。
そして、コンピュータの出現により発生したゲーム産業も、実際に作ってみて僕は総合芸術である、と感じました。
建築を作る際に、
意匠(建物の形や内部の配置)、構造、水回り、断熱、工法、材料、予算
など、様々な要素を総合的に考えなければならないように、
ゲームを作る際にも、
ストーリー、ゲームシステム、コード、グラフィック、レベルデザイン、音楽
など、様々な要素を総合的に考えて設計する必要があると感じました。
具体的に、今回の制作では、締め切りギリギリに、BGMを入れたことで、最後にゲームの質がそれだけで一段階上がる経験をしました。
いい意味で不真面目になれる
建築を始めとした、歴史の長い業界では、従うべき社会的責務が大きかったり、蓄積して来た歴史が非常に長いです。
それにより生まれる仕事のやりがい、は確かに存在しますが、常に”真面目”な建築を作らなければならない、というプレッシャーのようなものが存在します。
もともと、人を雨風から守るために生まれ、同時に芸術でもある、という建築の宿命ではあるのですが、それを差し引いてもかなり現状の建築界は優等生的になりつつあります。
特に、現状の日本の建築界では、バブル期にポストモダンというブームがあり、建築家が自分の作風をとにかく好き勝手に作る、もしくはものすごく内輪ネタ的な歴史の引用を行いまくる、という流れが失敗に終わった、と評価された後、東日本大震災も起き、”ものすごく真面目な建築しか建ててはならない”という雰囲気があります。
ヨーロッパでも、移民問題が大きく取り扱われ、”面白い”や”荒削りだけど、可能性がある”建築よりも”正しい”、”真面目な”建築が評価される雰囲気です。
隈研吾のポストモダン建築
一方で、ゲーム業界は良くも悪くもまだ歴史が3,40年と浅く、その為絶対に従わなければならない雰囲気、のようなものはまだ存在しません。
また、ゲーム=遊び、というそもそもの性質上、真面目すぎるものは成立しません。
それ故、上手くいくかわからないけど、取り敢えずやってみよう!というポジティブな雰囲気が、制作中に生まれることの方が多いと思われます。
自分が作ったゲームは、”実際の都市の3Dモデルを取ってきて、建物でピンボールをする"というものです。
実世界で、建築家が実際の建物を使ってそれをやろうとしたら、間違いなく社会的に大問題になります。
しかし、ゲームなのでそれをやって、体験が面白ければ何も問題がありません。
この”いい意味で不真面目になれる"という点も、建築学生にとっては新鮮かつ、ストレスフリーな環境でした。
実社会との繋がり、都市へのコンテクストの接続、長期的な影響力は、まだゲーム業界でも模索中の領域
不真面目であることの、デメリットとも呼べる領域です。
最終講評で、都市計画系の教授から、
“確かに、このゲームは面白い。ただ、現実の都市の問題を解決していくビジョンがまだこの作品からは見えない”
というコメントをいただきました。
Pokemon Goは、現実の都市空間で「人が外に出てうろつかないこと」という点を問題として設定し、そこをタックルするゲームで、ある程度の結果は出しました。
しかし、"楽しいもの”の楽しさは、数十年単位で続いていくことは稀です。
僕もPokemon Goの公開から数ヶ月は熱中してドードーを取りまくりましたが、今ではすっかり遊ばなくなってしまいました。
ものすごくよくデザインされた、いわゆる「スルメゲー」(スルメのように噛めば噛むほど味が出る)と言われるゲームでも、シリーズを超えて10数年愛されることはあれども、単体のゲームが2-3年以上プレーされることはあまりないのではないでしょうか。
僕の好きなスルメゲー「風来のシレン」(2000年)、18年経った今でもYoutubeでタイムアタックがアップロードされています。
ゲーム業界では、ゲームをただの「辛い現実から逃げるための手段」としてではなく、現実を変えていくための手段としてみる流れは、ちょうど最近始まったばかりです。
- 作者: ジェイン・マクゴニガル,妹尾 堅一郎,武山政直,藤本 徹,藤井 清美
- 出版社/メーカー: 早川書房
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ジェーン・マクゴナガルさんなどは、その領域のパイオニアと呼べる人でしょう。
僕の立ち位置としては、現状のゲームは確かにただの辛い現実から逃げるための手段だが、業界がこれから成熟していくにつれ、徐々に現実の深い問題に対し、”遊び”や”楽しさ”というポジティブな手段で取り組んでいくことができるのではないか、というものです。
20世紀は、“正しさ”や”義務感”で人を動かそうと、様々な運動が起こってきた時代だったと思います。
一方で、”楽しさ”で人を動かすことができ、そちらの方がより力強いのではないか、今は僕はそう考えています。