『アインザッツ』の初稿というか草稿には、実は各章の頭に作者(僕)自身の評論、吹奏楽論が書かれていた。
最終的にカットしたが。

第三者目線だと、かえって客観性がなくなる気がする。
「自分(作者)の目」から物を見てしまいがちになる(気がする)。

『薄暮』はだから、徹底して佐智の目線で描く。
その方がキャラの目を「借りて」描写するので、私情が入らない。

これは『ハルヒ』で感じ、学んだことだ。
『ハルヒ』はキョン目線で描くからこそ、世界は曖昧さを含んで描写されていく。
思い込みで世界を語るのではなく、遊びや余裕ができるのだ。

『WUG』もなんだかんだ言って、真夢の視点を優先した。
その方が話がとっちらからなくて済むのだ。


だからと言って第三者目線を否定するつもりはない。
たぶん宇野さん以下、多くの論者が指摘する「大きな物語」が、今描けないのだろう。
作者自らの提案、主張、世界観の提示というのが今難しいのだ。

しかし、第三者目線に挑む作家はどんどん出て来てほしい。
でもその際は、「大きな物語」を担う羽目になる、とだけは覚えておいた方がいい。