ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

みんな、あまりにも生きている。

みんなあまりにも人間すぎる。道ですれ違う人、電車で隣あった人、コンビニの店員、取材で知り合った人、みんな生きすぎている。

ツイッター水曜日のダウンタウンドキュメント72時間、そういうのに少し疲れてきた。ひとりひとり、もっと無個性でいいんじゃないか。みんなあまりにも生きている。

 

年明け早々、長年の痔をこじらせて病院に何度かお世話になった。病院でのおれは受付番号171番であり、試験管の中の血であり、ひとつの尻であり、肛門から大腸へとつながる空洞だった。それは思いのほか気持ちのいい体験だった。無個性な一個の塊として扱われるのは、自意識とか自己とか実存とか個性とか、そういうのに疲れてしまったおれにとって心地よかった。ベルトコンベア式に診察室を移動し、問診・検査・処置を異なる複数の医者たちに施される。おれはカルテであり、おれとは関係ない。自分から解放される、おれはひとつの症状であり、人体でしかない。ラクだった。

 

ラクだった、と言いながら、こうやって文章を書いてしまう。そのときおれはラクだったんだよ、と言いたくなってしまう。この文章は、ツイッター的であり、水曜日のダウンタウンであり、ドキュメント72時間的である。おれのこの文章も誰かを疲れさせてしまうのかもしれない。

おれはドキュメント72時間的なものに、ブログを書くことで加担してしまっている。おれの文章が誰かをうんざりさせてしまっているのかもしれない。それでも書いてしまう。

こんな風に生きてる人がいるよ、この人の人生は一体どんなんだろうね、おれは生きているぞ!そんなささやきと叫びが渦を巻く。

 

他人の生に疲れているのに、おれもこんなことしか書けない。自分から遠く離れたい。

 

ドキュメント72時間的とさんざん書いてきてなんだが、ドキュメント72時間とおれのブログは肝心なところで決定的に異なる。ドキュメント72時間には、映像が必然的に孕む対象への第三者のまなざしがあるけれども、おれのブログにはおれしかいない。ツイッターのタイムラインも、水曜日のダウンタウンも、観察者の編集によって整えられているけど、おれの文章にはおれしかいない。

おれはおれに飽き飽きしているだけなのかもしれない。おれが「死にたい」とたまにつぶやいてしまうのは、おれから離れたいからだ。

 

でも、「おれ」を手放してしまうような夫や父にはなりたくないとも思う。