ニセ科学批判と呼ばれる営みを行うにあたってニセ科学という言葉をどのように扱うべきか

はじめに

この文章は 科学とニセ科学のはなし|TAKESAN|note (以下[TAKESENニセ科学 ]で参照)に対する感想をまとまった文章の形に起こし、それを枕として私自身がニセ科学批判という営みやニセ科学という言葉について考えていることを述べるものです。

--追記 2018/02/04/18/06 頃 -- メタブに対する返信

そもそも [TAKESENニセ科学] にはてブをしていたのですが内容を更に編集しようとしてミスって消してしまったので、Twitter連動の方をここに埋め込んでおきます。

メタブにてご反応いただいていたのでそれに対する返信から始めます。

b.hatena.ne.jp

一応三読はしたのですが、冒頭で議論の動機が書かれていない等の理由により何のための議論なのかがよくわかりませんでした。2006年ごろから言われている(た?)「ニセ科学だからといって批判対象とは限らないし将来科学になるかもしれませんよ」みたいな話なら存じております。

b.hatena.ne.jp

あとから付け加えた「見落としてた」は軽口に感じられたら失礼しました。 それ以外については憤りを感じるほどに碌に読めていないと感じられたなら申し訳ございません。 ただ読めた範囲でコメントしたと思っています。

b.hatena.ne.jp

この点に関しては私の主張は

科学哲学における線引き問題に関する議論はニセ科学批判の参考にはなったが、そもそもニセ科学批判と線引き問題では文脈が異なり必ずしも完全に科学哲学の線引き問題の言葉遣いや概念整理に寄り添う必要はない

というものになります。そのようなやり方でどのように「ニセ科学ニセ科学批判」というものを考えていくかについては文章の最後で簡単に述べます。

[TAKESENニセ科学] について

まず [TAKESENニセ科学] の冒頭では科学のとりあえずの定義として

自然現象や社会現象の構造、因果関係について、調査・観察・実験などから得られたデータを数理的に解析する事で解明・追究する営み、および、それによって構築された知識の体系

と述べられています。特記事項としては強調付きで「営み及び知識の体系」と述べていることが挙げられます。。しかし、営みと知識の体系はクラスが異なる概念です。このような営みとその営みの産物を特に区別しないようなあいまいな定義は日常用語ではよく見られます。したがってこのような定義から始めた時点で日常用語としての用語定義に強くより寄り添っていることになります。

では翻って「ニセ科学」という言葉の扱いはどうでしょうか。

科学のような主張や言説であるが、実際の科学の知見からかけ離れているもの

とかなりかっちりとした定義を与えられています(主張と言説は同じクラスかかなり近いクラスにあるといえるでしょう)。 しかし「ニセ科学」という言葉は非常に新しい新語なのです。したがってその日常言語的定義となると、用いられ方を分析して大体この辺りが社会的合意の最低ラインであろうということを確認しなくてはなりません(この辺は三省堂の「今年の新語」企画の周辺などを眺めていれば雰囲気はわかると思います。)。

ニセ科学という言葉の使われ方のウェブ上での歴史を追ってみましょう。 グーグルの期間指定機能を使いながら掘り下げていくと 水商売ウォッチングLIVE!とはなにか がWeb初出なのではないかと思います。

さらに詰めるのならば天羽さんにニセ科学という言葉を何かから借りたのかを聞く必要があります。 またNHK視点・論点に菊池さんが出演してニセ科学について語ったことも国全体への普及に関するマイルストーンとして考えて、それ以前それ以後で整理するべきかもしれません。 しかし、そのようなことをする意味がないというのがこの文章の趣旨なのでそこは省略します。

定義を改めて紹介したくなるような言説が散見されること自体が日常言語的定義に寄り添うという立場ではおそらく2000年代前半的な意味では「ニセ科学」という言葉を共有できなくなりつつあるということを示唆しているといえるのではないでしょうか。つまり日常用語としてのニセ科学という言葉は曖昧語と化しているのではないでしょうか。

そのような状況でニセ科学という言葉をちゃんと定義を与えられた言葉とするならばまず目的を定めてその目的を達成するために必要な形に再定義するべきでしょう。

目的から考える「ニセ科学」という言葉で指し示すべき対象

以上が [TAKESENニセ科学] に対する感想です。以下に関連する私の考えを述べます。

そもそもなぜ「ニセ科学批判」などと呼ばれている営みをする必要があるのでしょうか。 それは一部の非科学言説が意図的に詐欺を行うために用いられていたり、悪意はなくともある非科学的言説が公益を大きく損なうことがあるからです。 そして科学的知見でその悪意を防いだり公益を守ったりできるからです。 このラインでニセ科学というものをとらえるとニセ科学の定義が狭まってしまうというのが TAKESEN さんのご指摘なのですが、一般に定義は狭ければ狭いほうがそれが何を指し示すのかがはっきりして良いと思います。 そして科学者やそうでなくても科学的知識を持っているものが行うべきはこのラインの狭い定義のニセ科学批判だと思います(学術コミュニティでのマージナルなものへの批判はまた別の話として)。

上記の議論と関連してメタブへの返信で述べた「ニセ科学批判と科学哲学では文脈が違う」ということについてそれぞれで「ニセ科学疑似科学」というものに言及することによって何を達成したいのかに関する認識を明示的に示すと

  • ニセ科学批判の文脈:倫理的営みのためのガイドライン設定
  • 線引き問題の文脈:科学それ自身に対する科学的営みとしての準二値分類問題の達成

となります。

また少なくとも将来科学になるかもしれないものに関してはそれをあえてニセ科学と呼ぶことは委縮しか生まないので科学自体にとってもよくないと思います。