では、約束したぞ。
私がある瞬間に対して、留まれ
お前はいかにも美しい、と言ったら、
もう君は私を縛りあげても良い、
もう私はよろこんで滅びよう。
もう葬いの鐘が鳴るがいい、
もう君のしもべの勤めも終わりだ。
時計はとまり、針も落ちるがいい、
私の一生は終わりを告げるのだ。
ゲーテの戯曲『ファウスト』で、ファウスト博士はこう言って悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ。高名なファウスト博士はこの世のあらゆる知識を極めたが、それでも人生に満足することができなかった。そこで死後に魂を悪魔に渡すのと交換条件に、現世のあらゆる夢と欲望を悪魔の力で叶えてもらうという契約を結んだ……。
僕は『ファウスト』を読むと、ある男のことを思い出さずにはいられない。本章のこれ以降の主役となる、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士である。彼は人類を宇宙へ導いた最大の立役者だ。世界初の弾道ミサイルV2、アメリカ初の人工衛星と宇宙飛行士を打ち上げたレッドストーン・ロケット、そして人類を月に送り込んだサターンVロケット。これらは全てフォン・ブラウンによるものだ。彼がいなければ、人類の宇宙への旅はもしかしたら五十年、百年遅れていたかもしれない。
フォン・ブラウンはドイツの貴族の家に生まれた。大酒飲みで、車の運転が荒いことで有名だったが、気立てのよいナイスガイで、大柄な体格からは育ちの良さからくる気品が漂っていた。アクティブで情熱的な男で、チェロを弾き、馬に乗り、ダイビングをした。女にめっぽうモテた。宇宙は幼少の頃からの夢だった。そして夢を全て叶えて六十五歳で死んだ。
彼はどうやって夢を叶えたのか? どうやって「ロケットの父」が超えられなかった壁を超えたのか? ただ人工衛星を打ち上げるだけではなく、どうして月旅行まで実現させることができたのか?
彼には弱冠二十歳で博士号を取るほどの技術的才能があった。また、三十歳で千人規模のチームを率いるほどのカリスマ的リーダーシップもあった。だが、個人の才能だけでは及ばないことも世の中にはたくさんある。おそらく、彼は夢を叶えることができなかっただろう。人類も月に行くことはできなかっただろう。あの「悪魔」との契約がなければ。
運命は黒塗りのセダンに乗ってきた
「あなたは将来何をしたいの?」
十歳のフォン・ブラウンに母エミーは聞いた。その答えは十歳とは思えないほどませたものだった。
「僕は進歩の車輪を回すことに役立ちたいんだ。」
なかなかの悪ガキでもあった。叔母からプレゼントされた鳥類図鑑セットを古本屋に売り払って工作の材料費を稼いだ。中学の頃にはロケットの実験をして山火事を起こした。高校の夏休みにはありったけの小遣いをはたいて大量のロケット花火を買い、それをおもちゃの車にくくりつけて火をつけ、ベルリンの街を爆走した。
なぜそれはこの少年を選んだのだろう? その「何か」はフォン・ブラウンの心の奥深くに忍び込むチャンスを、じっと待っていた。
チャンスは十三歳の誕生日に訪れた。フォン・ブラウンの母は小さな天体望遠鏡をプレゼントした。たちまち少年フォン・ブラウンは夢中になった。接眼レンズの視野に浮かんだ月のクレーターや、木星の衛星や、土星の輪の像に、彼の心は奪われた。
その年にフォン・ブラウンは全寮制の中学校に入学したが、彼は既に宇宙の虜だった。ノートの余白に宇宙船やロケットの絵を描き、宇宙旅行の持ち物リストを作り、179ページにも及ぶ一般向け天文学書の原稿も書いている。しかし成績はひどく、中でも物理と数学は大の不得意だった。そこで、それは無言の「指導」を行なった。あの本を使って。
Die Rakete zu den Planetenräumen(惑星間宇宙へのロケット)
先に紹介したドイツのロケットの父、ヘルマン・オーベルトの本である。雑誌に紹介されていたのがフォン・ブラウンの目に留まり、彼はさっそく注文した。しばらくして本が届き、胸躍らせながらページをめくったフォン・ブラウンは愕然とした。理解不能な数式だらけだったのだ。彼は先生に本を見せ、どうすれば理解できるようになるか聞いた。「数学と物理を勉強しろ」が答えだった。
その日から彼は人が変わったように猛勉強を始めた。そして高校に上がる頃には数学と物理の成績が抜群になり、一年飛び級して卒業した。在学中に教壇に立って一学年上の数学の授業を教えさえもした。一方、数学と物理以外の成績は卒業ギリギリだった。彼にとって勉強の目的は宇宙ただひとつだったから、宇宙と関係のない教科にはほとんど関心を持たなかった。
高校を卒業したフォン・ブラウンはベルリン工科大学に進んだ。ちょうどベルリンの「黄金の二〇年代」が終わる頃だった。一九二〇年代、ベルリンは二つの大戦の間の短い平和と自由の季節を謳歌した。芸術家や音楽家が集まり、映画産業の世界的中心になり、若者は最先端のファッションを楽しみ、夜にはキャバレーに多くの客が集まった。
夢にとって自由とは、花にとっての水のようなものである。夢見る若者がベルリンに集い、自由の空気を吸いながら夢を膨らませた。その中に、フォン・ブラウンと同じようにオーベルトの本に刺激され宇宙を夢見た若者たちがいた。彼らはアマチュアロケット・グループVfRを結成し、廃止された弾薬集積場の跡地に「Raketen flug platz(ロケット飛行場)」の看板を掲げ、日夜手作りでロケットの開発をした。這いつくばって雀の涙ほどの資金を集めては、オモチャのように小さなロケットを作って成功や失敗を繰り返していた。フォン・ブラウンもVfRに加わったが、若さゆえか中心メンバーではなかったようである。
この時期のドイツに、ロケットに並々ならぬ興味を持っていたグループがもう一つあった。軍だった。ロケットとミサイルは技術的に全く同じものである。人工衛星を積んで宇宙に打つ代わりに、爆弾を積んで敵国へ打てばミサイルになる。ロケットという十三世紀の古ぼけた兵器に宇宙飛行の可能性を見出したのは三人の「ロケットの父」だったが、兵器としての可能性を再発見したのはドイツ軍だった。
『ファウスト』では、悪魔メフィストフェレスは黒い犬の姿に化けてファウスト博士の家へとやってくる。宇宙時代のファウスト博士のもとへ悪魔の使者を運んできたのは、黒塗りのセダンだった。一九三二年の春、そのセダンはおもむろにVfRにやってきた。そこには三人の私服を着たドイツ軍の技術将校が乗っていた。