こんにちわ、サユです。
Twitterで呟き切れない話ができたので書きにきました。
『うつヌケ』についての解説は省略します。
寛解した人の体験談を集めたマンガ、程度の知識があればこの記事においては十分かと思います。
「うつヌケ」が患者へのプレッシャーになっている説。
Twitterで「『うつヌケ』は患者にとってプレッシャーだ」という話題が流れてきた。
うつヌケ、あるいはその類の物語が読まれれば読まれるほど、結果的に、患者に「寛解しろ」「社会復帰しろ」というゴールを押し付けることになっているのではないか、と。
まぁそうだよなぁ、というのが私の第一感想。
そう思ったからこそ私は「うつヌケ」を読もうと思わなかったし、これからも多分読まない。
一応無料公開されている分をチラッと見たことはあるけれど、「こりゃ自分には合わねぇな」と思ったのでそこまでである。
うつ病を患ったことのない人間にとっては非常に理解が難しい話かと思われるが、うつ病のどん底に落ちている時、「こうやって治りました!」「社会復帰しました!」という話を見聞きするのがツライという患者は少なくない。
大抵の病は「こうして治りました」と言われれば「じゃあ自分も!」と思う方向に向かうと思うのだけれども、精神疾患の場合はちょっと違う。
100%そうだとは言わないが、「こうして治りました」と言われたら「自分とは違う世界の話だな」と思うのが、メンヘラにおいてはよくある話なのである。
自分も同じように治るとはとても思えないし、「こうやって治すんだよ」なんて言われても困るし、寧ろ「お前の幸せ自慢なんざ聞きたくねぇや」なんてイライラしてしまったりする可能性も。
どうしてそんなに捻くれた考えしかできないのかって?
病巣が脳にあるからです。
脳を病んでいるのがメンヘラだからです。
腎臓を病んだら尿に異常がでるように、脳を病んだら思考に異常が出るワケです。
(……良い例えが見つからなかった)
「治る気がしない」「治す気にならない」「治すための行動が取れない」
それもまた、うつの症状。
患者の怠慢ではなく、症状なんです。
「治したいと思えない」病気ってうつ病以外に無いよね。本当に厄介だよね。
どん底だった自分の話。
どん底の重症時は、とにかく今の自分の苦しみでいっぱいいっぱいで、早く死んで人生が終わるよう願うことはあっても、自分がいつか元気になる可能性なんて想像もできなかった。
「寛解しました」「社会復帰できました」という話を見聞きして、なんとなく「それがゴールなんだな」と思うようになったけれど、「本当に自分の人生にそんなゴールが存在するのか?」という疑念の方が強かった。
「この人は治ったけれど、自分はきっとこの人のようには治らない」
「自分には無理だ」
「寛解しない、社会復帰もできない、一生うつ病のまま」
「早く死んで終わりにしたい」
……改めて考えれば何の根拠も無いこれらの考えが、私の中では事実と同等の確かさで存在していた。
「うつをヌケました」という話をどれだけ聞かされても、聞かされた数だけ「自分は一生このままだ」と自分を否定してしまう。
どんな情報が入ってきても、全てネガティブに変換してしまう。
だから、寛解に至った「サクセスストーリー」は、どん底にいた私にとって何の慰めにもならなかったし、まして希望を与えるものではあり得なかった。
一切の光が届かない、ただひたすらに苦しいばかりの暗闇。
どん底とはそういうものなのだ。
「寛解サクセスストーリー」が合う人・合わない人
誤解の無いように言っておくが、「うつヌケ」批判の意図は無い。
そもそもまともに読んだことが無いので批判のしようがない。
私の「うつヌケ」に対する意見は「どん底の重症うつ病患者が読むべき本ではない」だけである。
「うつヌケ」に限らず、この手の「寛解サクセスストーリー」を読んで励まされるのは、ある程度病状が改善して来た患者だと思う。
「どうやら、自分の人生にも、寛解や社会復帰というものが存在するような気がする」
そう思えるところまで回復しているならば、寛解サクセスストーリーを「自分事」として読むことができるだろうし、参考にできる部分もたくさんあるだろう。
うつ病は、重症時と軽症時で物の捉え方も見える世界もまるっきり変わってしまう病だ。軽症と重症の境界線を引くことは恐らく不可能だが、個人的に軽症時と重症時で別の病名を付けて扱っても良いんじゃないのだろうかと思う程度には、取るべき対処法が異なる。
重症時には毒にしかならない言葉が、軽症時には薬になる。
本当に厄介だ。
どん底で求めたのは「どん底の物語」だった
もしも今、あなたがどん底にいるならば、あなたがまず目指すべきゴールは寛解でも社会復帰でもない。
そんな、まだ姿も形も影も見えないようなものを、無理やり目を凝らして探さなくて良い。自分を追い詰めるばかりになるから。
……いや、もちろん、寛解したいという気持ちを持つ分には構わない。
「死にたい」より「良くなりたい」が上回っているならそれは素晴らしいことだ。
ただ、最終的に寛解して社会復帰を果たした人達だって、どん底にいた時から「社会復帰目指して頑張るぞー」なんて思っていたワケではないと思う。
社会復帰なんてのは、症状が改善されて、死にたいと思わずに生きていられるようになって、苦しいと思わずに存在していられるようになって、食事が美味しいと思えるようになって、何かを楽しいと思えるようになって、生きているのも悪くないって思えるようになって、そこまで良くなってからようやく遠くにチラッと見えてくる程度のものです。
どん底からいきなり目指すにはあまりにも遠い。遠いんです。
「うつ病寛解物語」を一つのパッケージにしてしまうと、どうしても「寛解」というハッピーエンドに向かう過程が重視されて、その人がどん底にいた時に何を考えていたのか、どんなものが見えていたのか、そういったことの描写が軽視されがちだ。
そもそも「うつヌケ」は「うつから立ち直ったきっかけ」がテーマであるハズだから、どん底の描写が軽いのは当然のこと。
かといって、どん底の歪みに満ちた精神状態を延々と描いてしまったら、一般向けの読み物としては成り立たなくなるだろう。
でも、どん底うつ病患者の心に届くのは、どん底の物語だけなのだろう、と思う。
どん底にいる時に「自分事」として読めたのは、自分と同じような苦しみの中、もがきながらそれでも生きている人の物語だったから。
かつての私がそうだったから。
とまぁ、ここまで語ったけれど、異論は認める。
私は私が経験したことしか知らないし、他の人達がどんな意見を持っているのかについてそれほど詳しいワケではない。
今回はたまたま、「寛解サクセスストーリーに物申す」的なツイートが多くリツイートされて私のところにも回ってきたので、便乗してみました。
みんな治れば良いのにな。
個人的には、うつ病であるならば寛解できると思っているし、私はそう信じて治療に取り組んでいる。
双極性障害のことはうつ病ほど良く知らないけれど、寛解は可能だと認識している。
もちろん、寛解しなければならないという決まりはない。寛解を望まないのならばそれも一つの選択肢だ。
ただ、どんなに良くなっても「元通り」になるのは難しい。
一度病んだメンタルは非常に打たれ弱くなるから、病む前と同じ無茶をすればすぐに折れる。
悲しいし、悔しいし、受け入れ難いけれど、弱くなったメンタルとは一生付き合うことになるだろう。
それでも、自分のできる範囲で、ゆるゆると生きていくことは可能だと思っている。
バリバリ生きるだけが人生じゃない。
「普通」にはちょっと届かなくても、毎日を大事に、ささやかに、ゆっくりと。
どん底メンタルからなんとか這い上がった、今の私の心境です。