くしゃみというのは、わりと細かく制御できる。あれは肉体の勝手な現象にみえて、意外とそうでない。くしゃみの予感から実際の発動までの数秒のあいだに制御は可能であり、意識的にせよ無意識にせよ、人はくしゃみをコントロールしている。
以前、私は、「へっくち!」とかわいく言えるのか試してみたことがあるんだが、普通に言えた。同時に、二度と言わないでおこうと決めた。成人男性の口から出るにはかわいすぎたからである。自分で自分のことが少し嫌いになった。くしゃみの仕方ひとつとっても、自分らしさは打撃を受けるということなんだろう。
おっさんは、くしゃみの後にチクショーと付ける。そんな話がある。「ハックション、チクショー!」というやつだ。実際に見たことはない。しかし自分の経験から、それが簡単なことだと予想できる。
ただ、私はくしゃみの後に何も付けない。その必要性を見出せないからである。なぜ、わざわざ言葉を付けるのか? 一種のアクセサリー感覚か? おっさんなりの自分らしさの演出か?
このあいだ、カフェにいたとき、近くのおっさんが豪快にくしゃみをした。そこは吹き抜けになっていて、天井が高かったため、しばらく空間にくしゃみの残響があった。
ハーーック、ショイッ!(ショイッ…ショイッ…ショイッ……)
すこしずつ小さくなっていくショイ。くしゃみにもエコーはかかるのか。そりゃそうか。あれはおしゃれだった。あれを自覚的に演出していたならば、かなりのおっさんだ。自分らしさの演出として、くしゃみにエコーをかける。チクショーと叫ぶよりも、ずっとすごい。尊敬してしまう。しかし天然だろう。
そういえば、長く同居していた杉松も、くしゃみの後に言葉を足すタイプの人間だった。彼女の名誉のために言っておくならば、杉松はおっさんではないんだが。
杉松の場合、「へっくしょい!」と言ったあと、「ヒシャア!」と言っていた。若い頃は「フスゥ!」だったらしい。「フスゥの時代は終わったんだよ」と言っていたが、私はそんなのが一時代を築いていたことすら知らん。
なぜくしゃみの後に言葉を付けるのかと聞いてみたが、杉松の返答は曖昧なものだった。考えたこともなかった、という顔である。モゴモゴしていた。ひざかっくんされるような問いに出会ったとき、人はこのような口の動きをするものだ。
しばらく頭をひねったあと、杉松は言った。
「合いの手かなあ?」
疑問形で答えを出していた。自分のくしゃみに自分で合いの手をいれるのか。一体どういうことだ。ハイ、ヨイショッ! ハイハイ、ヨイショッ! みたいなことか? もちつきか? もちつきとくしゃみの区別がついていないのか? ますます分からなくなってくる。それで興奮するのか?
「知らないよ! とにかく、おさまりが悪いんだよ!」
結局、よくわからないようだった。習慣だからやっているにすぎないのだ。フスゥの時代を経て、ヒシャアに辿りついたほどの女だというのに、無自覚なのである。謎は謎のままにしておけということだろうか。余談だが、杉松はくしゃみともちつきの区別はついているらしい(いちおう確認しておいた)。