野中広務さんが亡くなった。
訃報を受けて真っ先に思い出したのは2001年、国を相手に全面勝訴したハンセン病訴訟の原告・弁護団の言葉である。彼らが最も頼りにしたのが野中さんだった。
官房長官だった1998年夏、野中さんは政府高官としては初めて原告・弁護団に会い、その場で「人権を蹂躙(じゅうりん)した歴史は承知しています」と国の責任を事実上、認めた。
もし、その後の野中さんの周到な根回しがなかったら、小泉政権の「控訴せず」という歴史的決断はなかったろう。元患者や弁護団は「信頼するにあまりある政治家」「痛みの中に身体をおける人」と野中さんへの賛辞を惜しまなかった。
ハンセン病の西日本訴訟原告団事務局長だった竪山勲(たてやま・いさお)さんは「素晴らしい政治家です。細やかな気配りがあって人間として温かい。言葉の一つひとつに、傷ついた者をこれ以上、傷つけてはいけないという気持ちがにじみ出ています」と私たちの取材に語った。
1997年春、沖縄の米軍用地を継続使用するための駐留軍用地特別措置法改正案が衆院で可決された。その改正案を審議した特別委員会の委員長になった野中さんは採決前の委員長報告で「ひとこと発言を許してください」と前置きして35年前の出来事を語った。
彼が京都府の町長だった昭和37(1962)年、宜野湾市で戦死した京都出身兵士2500人余りの慰霊塔を建てるために、初めて沖縄を訪問したときのことである。
「那覇空港からタクシーで宜野湾に入ったところ、運転手が急にブレーキをかけ『あの田圃の畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです』と言って泣き叫んで、車を動かすことができませんでした。その光景が忘れられません。
どうぞこの法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい」
戦争の悲惨さを肌身で知る野中さんの心中から思わず漏れ出た言葉だった。
その野中さんが息を引き取る前日、国会では沖縄県で相次ぐ米軍機の落下物事故や不時着についてただした日本共産党の志位和夫委員長に松本文明・内閣府副大臣が「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばした。
野中さんが自民党に睨みを利かしていたころには想像もできない暴言である。政治の質の劣化を如実に示す言葉でもあった。現政権は、弱い者や虐げられた者たちの痛みに関心がない。かつて政治が弱者の救済のためにあった時代は完全に終わったのである。
私が『野中広務 差別と権力』と題する評伝の取材を始めたのは、たしか1999年、野中さんが二度目の自民党幹事長代理に就任したころだった。
そのころの野中さんは強面でダーティなイメージが強かった。実際、ある自民党関係者は「彼(野中さん)のやり方は恫喝そのもの。情報を集めて弱点を握り、それで相手を脅すんだ。そんな場面を何度も見た」と私に言った。
私は、野中さんのハト派で弱者を労る側面との落差の大きさに好奇心を刺激された。と同時に、野中さんが被差別部落出身(過去に京都府議会などで自ら語った)であることに注目した。日本の歴史で被差別部落に生まれたことを隠さず政治活動を行い、権力の中枢まで駆け上った人間は野中さんしかいない。
彼はどうやってぶ厚い差別の壁を乗り越えたのだろうか。その秘密を知りたいと思った。