2月2日、葬儀に行ってきました。亡くなったのは、2010年9月末に開始した小学館のニュースサイト・NEWSポストセブンの立ち上げを社内で推進した方です。まだ若かったのですが、心筋梗塞で倒れ、意識が戻ることなくその日を迎えてしまいました。心よりお悔やみ申し上げます。

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毎週金曜日、我々は記事作成→公開手続きをする日です。作業の途中、葬儀場へ皆で行き、作業が終わっていない人は葬儀の後再び小学館に戻りました。帰りのタクシーでは、私、小学館社員M氏、弊社Y嬢、小学館契約社員のW嬢と4人でしみじみと故人の思い出を語りました。

その中で皆が一致したのは、「もしも彼がいなかったらオレ達全員は今のような人生を送っていないだろうな」ということです。M氏はもしかしたらムックを作り続けていたかもしれないし、オレもY嬢も今のように忙しくなっていなかったかもしれず、W嬢はそもそも小学館に採用されることもなかった。Y嬢はNEWSポストセブンの編集はしていませんが、広告案件でかかわっています。

案外我々NEWSポストセブンの制作チームは立場は皆異なれど、けっこう仲良く仕事をしています。私自身も週に2回小学館に8時間ずついる日があるわけで、まさかこんな日が来るとは思ってもいなかった。なにせ私は会社員は4年しかやっていないし、同様に4年間やったテレビブロスの編集にしても、1ヶ月に2回、入稿のためにブロスの編集部に行く程度だったのですから、「多くの人がいる場所に出勤」という行為をまさか再びやるようになる日が来ることはまったく想定していなかった。

彼と出会ったのは2010年3月でした。「ネットで何かをやりたいのですが、助言をください」と言われ、「私でよければ」ということで西麻布のキャンティでお会いしたのです。当時私は36歳でした。雑誌に掲載したコンテンツをネットに転用させれば案外PVは稼げるはず--そんなご提案をしたのですが、彼は「なるほど」と言ってくれました。

そこから社内で数々の調整があったうえで、プロジェクトは動き始めました。しかし、有料のコンテンツをネットでは無料にするというのは大手出版社からすればかなり抵抗があるもの。反対は当然あったものの、役員の後押しも取り付け、2010年9月29日、NEWSポストセブンは誕生しました。このプロジェクトが社内で受け入れてもらえるよう、相当な根回しをしたことでしょう。

その時、小学館には私と弊社Y嬢、すでに付き合いが4年あったフリーライターのY氏とA氏も通い、記事作成作業には関与しました。「とにかく年内はお手伝いさせていただきます。あとは小学館社内で作ってください」という約束をしました。しかし、意外なほどの急成長を2010年末の段階で遂げていたこともあり、「皆さん、残ってください」と言ってもらえました。

その発言に甘え、もう7年以上にわたって我々4人は小学館に通わせてもらっているのです。そして、このサイトにかかわる社員も増えてきて、派生サイトも登場。M氏にしても、こうした派生サイトの一つを任され、PVと広告費を稼いでいます。1つのサイトが誕生することにより、多くの人の人生が変わったのでした

私にしても、NEWSポストセブンにかかわることにより、ネットニュースの編集者として新たなるステージに立たせてもらえたと思います。以後、関連した業務やら寄稿依頼をたくさんいただけるようになり、出会いから8年経った2018年2月、「あぁ、つくづくいい人生を送っている」と思うのです。

それも、亡くなった彼があの時にキャンティに誘ってくれ、そして「一緒にやってください」と言ってくれたからです。それがなかったら今何をやっていたか……。考えると恐ろしいぐらいです。仕事があったかどうかも分からない。また、出版業界のネット進出も彼がいなかったら2~3年は遅れていたかもしれません。小学館が2010年に「一発やったるぜ、ウヒヒ」と足を踏み出したからこそ、その後講談社、集英社、文藝春秋、新潮社、光文社、主婦と生活社、双葉社、KKベストセラーズ、朝日新聞出版なんかも「やるか!」という気持ちになったのかな、とも思います(違ってたらゴメン)。

◆様々な出会いがもたらしたもの

さて、あくまでもNEWSポストセブンについて書いてきましたが、思えば人生はこうした「出会い」が自分の人生を変えてきたなと思います。誰か悪い仲間に出会ってしまったことで人生が転落することもあります。「カミソン」のあだ名で知られる川崎市の中学生、上村遼太さんは2015年に年上の知り合いに惨殺されました。あのまま隠岐に住み、川崎に出てこなかったらカミソンは死ななくて済んだかもしれないのに……。悪い仲間と出会わなければよかったのに……。と悲しい気持ちになりました。

だからこそ付き合う相手というのは慎重に見極めなければいけないわけですが、今回の彼の死をきっかけに今までの出会いを考えてみました。いずれもの出会いが結局は今の自分を形作っているわけです。大学の時、日々つまらないなと思っていた時に出会った常見陽平君(現・千葉商科大学講師)と出会い、3年生でプロレス研究会に入ったことは大きく人生を変えました。

アホなフリーペーパーを発行し、昼休みにキャンパス内でバカなプロレスの茶番をし、興行では大勢のお客さんを集める。そんな経験をするうちに、大学生活は楽しくなっていきましたし、将来的にはメディアっぽい仕事をしたいな、とも思うようになった。結局博報堂→無職→フリーライター→フリー編集者→ネットニュース編集者→会社経営者という流れになったのですが、もしも彼と出会っていなかったらオレは安定したメーカーを受けて、現在44歳、経理係長主任主事みたいなことをやっていたかもしれません。

武蔵小金井あたりにマンションを買い、子供は2人いて中学生になり、毎年お盆と年末年始は互いの実家でじぃじ、ばぁばと触れ合ったかもしれません。「定年まであと16年、ふぅ、なんとかそれまで潰れないでいてほしいな……。その後5年間の継続雇用に応募するかどうかは貯金次第だな……。息子2人が国立大学に行ってくれればなんとかなるだろうか……」なんてことを考えていたかもしれない。

多分、常見と会ってなかったら上記のような人生になっていたと本気で思う。どっちがいい、悪いということではないのですが、とりあえず私は今の自分の人生はとっても好きです。

また、ライターになった理由も、たまたま大学の同級生、治部れんげさんが日経BPの社員で広告について書けるライターを求めていたため「中川君、もしよかったらやらない?」と言ってくれたから無職のオレは「ぜひぜひ!」と言いライターになった。また、たまたま会社の先輩である嶋浩一郎さんが朝日新聞に出向してタブロイド紙を作っていたから「お前、暇だろう。手伝え」と言ってくれてライターの仕事が増えた。

こうして考えるといかに「良縁」というものを人生は作り続けることが重要なのか、と感じ入るとともに、これまで出会った数々の素晴らしい方々、仕事や機会をくれた方々への感謝をここで述べたい。皆さんも一つ一つの出会いが自らの血路を開いたり、くすぶっている人生を開けさせる可能性があることを認識したうえで、個々の出会いを大切にしていただければ、と思います。

(なんか最後道徳の教科書みたいになったな。スマン)