独自の言語や文化を持つ、日本の先住民族「アイヌ」。そもそも、彼らが北海道外、特に首都圏に大勢暮らしていることはあまり知られていません。
アイヌは江戸期まで北海道、樺太、千島、本州北端に先住し、固有の文化を発展させていましたが、明治時代になると日本政府の開拓が本格化し、アイヌ居住地に本州から和人が大勢移り住みました。
政府はアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、伝統的に利用していた土地を取り上げ、サケやシカの猟を禁止しました。こうした和人社会への同化政策の結果、アイヌの人々は困窮しました。
そこで、1899年には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌに土地を与えて農民化を促し、日本的教育を行なうことで、窮状から抜け出させようとしました。
しかし、アイヌ固有の生活文化は否定され、さらに与えられた土地は和人の開拓民に比べて圧倒的に狭く、苦しい状況は改善されたとはいえませんでした。出稼ぎのため、また差別から逃れるため、北海道外へ移り住んだ人は少なくありません。
北海道に暮らすアイヌは、2013年の調査によれば6880世帯、16786人です。一方少し古いデータですが、1989年の東京都の調査によると、都内には2700人が暮らしているとされます。もっともこれは自己申告の調査のため、もっと多い可能性は十分にあります。
自分がアイヌであることを親から知らされていない人や、ルーツを隠して暮らしている人も少なくないとみられます。首都圏では少なくとも5000人~1万人が暮らしていると、首都圏で活動しているアイヌの団体は推定しています。
戦後、様々なアイヌの団体が生まれました。首都圏では1964年9月、東京の和人の大学生とアイヌ民族の若者が阿寒湖畔で出会ったのをきっかけに、アイヌと和人の友情を深めようと「ペウレ・ウタリの会」が結成されました。
「ペウレ・ウタリ」は「若い仲間」という意味です。会員は「『友情をもとにし』『理解し親睦を深め』『無知と偏見』のない社会を築こうとする」姿勢を守り続けて来ました(「ペウレ・ウタリの会 50年記念誌」まえがきより)。
また、1972年には東京在住のアイヌの女性が新聞に「ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう」と投稿し、反響を呼び、様々な活動がそこから生まれました。宇佐さんの祖母も、その動きに続いたアイヌの一人だったのです。
宇佐さんの話は、2011年から経営するアイヌ料理・北海道創作料理のお店「ハルコロ」にも触れました。「ハルコロ」があるのは、新宿区の多国籍タウン、新大久保。店名の由来は「ハル(食べ物)」と「コロ(持つ)」で、「たくさんの食べ物で豊かに」という願いを込めました。
ジャガイモやかぼちゃの「シト(団子)」。サケを具にした「オハウ(汁物)」。キハダの実で苦味をつけた、かぼちゃの「ラタシケプ(和え物)」。イクラを混ぜたハッシュドポテト風の「チポロイモ」。キトピロ(行者にんにく)やユク(エゾシカ)、サケなど北海道の素材を使った創作メニューも多数並びます。
「ハルコロ」は、北海道外では唯一のアイヌ料理の店とみられています。東京には以前「レラ・チセ(風の家)」という店がありましたが、2009年に閉店。母と共に関わっていた宇佐さんが、アイヌの味を伝え、広げる場をなくしたくない、首都圏のアイヌが仲間と集まる場を維持したいと開いたのがハルコロなのです。