日本軍による華北での虐殺事件一覧

事件発生日  省  事件名          被害規模
1937年 8月27日 察哈爾 万全虐殺事件        虐殺被害者数: 300人超
1937年 9月 9日 山西  陽高虐殺事件        虐殺被害者数:1000人超
1937年 9月12日 山西  天鎮城“八八”虐殺事件   虐殺被害者数:2200人余
1937年 9月   山西  霊丘虐殺事件        虐殺被害者数:1200人余
1937年 9月15日 河北  保定虐殺事件        虐殺被害者数:2000人
1937年 9月15日 河北  固安虐殺事件        虐殺被害者数:1500人超、負傷者数:200人余
1937年 9月24日 河北  保定虐殺事件        虐殺被害者数: 500人
1937年 9月28日 山西  朔県城虐殺事件       虐殺被害者数:4000人
1937年10月 2日 山西  寧武城大虐殺事件      虐殺被害者数:4800人
1937年10月 8日 山西  崞県城虐殺事件       虐殺被害者数:2000人
1937年10月12日 河北  藁城県梅花鎮虐殺事件    虐殺被害者数: 700人余
1937年10月12日 河北  寧武城大虐殺事件      虐殺被害者数:1547人
1937年10月13日 山西  忻口南懐化村虐殺事件    虐殺被害者数: 700人余
1937年10月24日 河北  成安大虐殺事件       虐殺被害者数:5300人余
1937年11月13日 山東  丘県虐殺事件        虐殺被害者数: 808人
1937年11月13日 山東  済陽城虐殺事件       虐殺被害者数:2000人余
1938年 3月17日 山東  騰県虐殺事件        虐殺被害者数:2259人
1938年 4月14日 山西  陽城虐殺事件        虐殺被害者数: 700人余
1938年 4月17日 山東  臨沂大虐殺事件       虐殺被害者数:2840人余
1938年11月 3日 山西  五台虐殺事件        虐殺被害者数: 400人余
1939年 1月16日 山東  掖県城虐殺事件       虐殺被害者数: 440人余
1939年 7月-9月 山西  武郷虐殺事件        虐殺被害者数:1500人
1939年10月31日 河北  望都県薛庄虐殺事件     虐殺被害者数: 299人
1940年 4月13日 河北  易県常峪沟大虐殺事件    虐殺被害者数: 800人余
1940年 5月   山東  泰安県紅山毒ガス虐殺事件  虐殺被害者数: 300人超
1940年 9月 8日 山西  寿陽県韓贈村大虐殺事件   虐殺被害者数: 364人
1940年11月18日 山西  昔陽県西峪村虐殺事件    虐殺被害者数: 386人
1941年 1月25日 河北  車潤県潘家峪大虐殺事件   虐殺被害者数:1230人
1941年 2月 4日 熱河  寛城碾子峪虐殺事件     虐殺被害者数: 187人
1941年 2月11日 熱河  寛城大屯村虐殺事件     虐殺被害者数: 187人
1941年 2月17日 山西  応県下社虐殺事件      虐殺被害者数:1700人余
1941年 3月12日 山西  绛県里冊峪虐殺事件     虐殺被害者数: 500人余
1941年 4月29日 河北  故城県“四・二九”霍庄虐殺事件    虐殺被害者数:500人
1941年 9月12日 河北  平山県“馿山”虐殺事件   虐殺被害者数:700人超
1941年12月   山東  臨沂留田虐殺事件      虐殺被害者数:3000人超
1942年 1月   河北  興隆県大虐殺事件      虐殺被害者数: 400人超
1942年 4月16日 河北  遵化県魯家峪虐殺事件    虐殺被害者数:500人超
1942年 5月27日 河北  定県北坦毒殺虐殺事件    虐殺被害者数:800人超
1942年11月23日 山西  浮山県馬石山虐殺事件    虐殺被害者数:503人
1942年12月 5日 河北  濼県潘家戴庄虐殺事件    虐殺被害者数:1280人
1942年12月 6日 山東  荣成県糙山虐殺事件     虐殺被害者数:300人余
1943年 2月10日 河北  興隆県虐殺事件       虐殺被害者数:400人超
1943年 5月14日 河北  易県狼牙山虐殺事件     虐殺被害者数:300人余
1943年 9月20日 河北  平山県焦家庄虐殺事件    虐殺被害者数:400人超
1943年11月14日 河北  井陘県老虎洞黒水坪虐殺事件 虐殺被害者数:1000人超
1943年12月   察哈爾 張北県狼窩沟虐殺事件    虐殺被害者数:3000人
1944年 1月23日 河北  興隆県虐殺事件       虐殺被害者数:500人超
1945年 3月31日 山東  荏平県張家楼虐殺事件    虐殺被害者数:330人、負傷271人
1945年 5月   山東  泊里虐殺事件        虐殺被害者数: 120人余

(「中国抗日戦争史地図集」P171-172)

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  • いくら出しても無駄な数字ですよ

    プレスコードがすべての答えですよ。この戦争の大嘘について一切触れることができなくなったんです。
    日本人は、軍部独走の野心で大陸進出をしたとしか習いません。侵略戦争をした。南京大虐殺をした。731の人体実験をした。卑劣な宣戦布告なしのだまし討ち、真珠湾奇襲をした。戦争回避の外交を怠った。原爆投下されるまで降伏の打診をしなかった。←これらは一切嘘ですよ。調べればたくさんの証拠資料と、どのようにアメリカが隠蔽したかまで、確かなソースを出して色んな書籍で書かれています。
    元GHQのメンバーの著書「アメリカの鏡・日本」にも、日本の戦争の正当性と欧米の不正と欺瞞が指摘さています。
    アジアが白人諸国に侵略される中、異国船打払令を出して開国を拒否し続けていた日本も、度重なる非武装船への発砲事件や、かつての強国清(中国)がアヘン戦争で負けたのを目にし、アメリカによって強制的に開国させられ、不平等条約を締結します。アジアの殆どは、白人が搾取するだけの植民地でした。国力もない日本がアジア諸国のように植民地になるのは時間の問題で、同等の国力を付けて欧米列強と対等に渡り合う道を選んだ日本は、国力=経済力を付けるため国民一丸となって産業化を推し進めました。この結果、現代と同じく、安い日本商品は不公正競争と非難を浴びながら、欧米列強の世界市場のシェアを奪うようになり、自由経済を白人以外に認めたくない欧米は、日本の製品に対する高い関税障壁、輸入割当制限など日本製品の締め出しと規制を強行、一方でアメリカ製品は無関税などして不公正経済を展開。そもそも植民地ゆえ存在すらしなかったアジアの自由経済を共栄圏として多大なインフラを整備し、欧米列強と共存しようとした。
    そして日本のやり方は、欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守っていたと賞賛している。

    日本人はテレビメディアが先勝国によって検閲、創作されたものであるのを知らない。これが莫大な反日利権になり、都合の悪い歴史の嘘は公然と正しく検証されることなく今に至っている。本を読まない日本人は、先祖がどんな戦争をしたのか、全く知らないではないか。
    原爆投下が人類史上最大の「人体実験」だったこと、日本が戦犯となった東京裁判が近代法治国家にはあるまじき、物証もなし、又聞きや精査もされない証拠能力のない証言のみで、弁護人もなし、しかも近代法の大原則である法の不遡及の原則を破って、平和に対する罪A級戦犯を作って死刑に追いやった。そのA級戦犯で日本のために死んだ東條英機は、議会で数万人のユダヤ人をナチスから救った国策を決定した人であるのは、シンドラーのリストを讃える世界の何人が知っているだろう。

  • id:rawan60

    被害妄想的、日本無謬論的カルト信者が、その醜悪なカルトっぷりを恥ずかしげもなく露呈させるのも、現代日本の病巣のひとつだろうな。
    そういう意味において戦後日本の倫理感、戦争観といった形成の仕方(あるいは隠蔽・無視してきたこと)が間違っていたという逆説的な傍証でしかない。

  • 赤猫

    阿呆の嘘を指摘。

    >国力もない日本がアジア諸国のように植民地になるのは時間の問題

    19 世紀前半にヨーロッパで独立を果たしたギリシャやベルギーの例でも分かるとおり、当時小国の独立にとって、列強の勢力均衡が重要な鍵だったこと、日本への列強の外圧は中国に比べてかなり弱く、列強の関心は日本の10 倍の人口・20 数倍の国土があって経済市場としての価値が日本よりはるかに大きな中国に集中していたこと、その大陸の東方の狭い列島弧が、オホーツク側の露、東シナ海側の英・仏、太平洋側の米からの、それぞれの橋頭堡の位置にあたるために、日本は、列強の勢力均衡という地勢上の固有の条件を備えていた。

    上記のような幕末後半期の日本の国際的環境を見ると、幕府と薩長、両陣営の対立が深刻化する中で、最大の影響力を持つイギリス外交は、中立、不介入の路線を確定しており、それを明確に表明してもいた。イギリスの判断の基礎には、列強の勢力均衡という日本の地勢、日本の政治統合の高さ、イギリス海軍の能力の限度、貿易のおおむね順調な発展、大名の攘夷運動の終息、西南雄藩の開明派の台頭などがあり、中立、不介入方針は確立されていた。日本に国際的な重大な軍事的危機が迫っていたわけではないのである。対外的危機からの脱却が何をおいても必要だったという国際関係を前提に急進的な政治改革を必然的なものと描き出す見解が、従来有力なのだが、冷静に 再考され るべきである。たしかに、軍事力、経済力の格差は大きく、日本に一般的な対外的危機がなかったとはとてもいえない。しかし、列強、特に影響力が大きかったイギリスにしてすら、日本を植民地化するような具体的な侵略的介入をする可能性は、当時の政治の動向からいえば、実は、低いものであった。
    つまり、そんな急激で切迫した植民地化の心配はなかった。

    その証拠に、政府要人が、いっせいに長期外遊1871 年から長期に欧米の回覧のために日本を『留守』にできた(岩倉ら帰国は約1 年10 ヶ月後)。欧米列強の圧力があったのは事実だが、それに対抗してではなく、逆に、それを追い風として、明治政府の外交政策が東アジアの隣国に対する侵略へと向かっていった。


    >自由経済を白人以外に認めたくない欧米は、日本の製品に対する高い関税障壁、輸入割当制限など日本製品の締め出しと規制を強行、一方でアメリカ製品は無関税などして不公正経済を展開。

    「スムート・ホーリー法」っていうのがあってね、これは1930年に米国のフーバー政権下で成立した関税法。1929年に始まった大恐慌の際、国内産業保護のため農作物など2万品目の輸入関税を平均50パーセント引き上げた。報復措置として多くの国が米国商品に高い関税をかけたため、世界貿易が停滞。恐慌を深刻化させたとされるもの。

    「世界恐慌」とか「ブロック経済」って中学で習うはずだけど、底抜けの馬鹿は馬鹿右翼の嘘を鵜呑みしてみっともない裸踊りをするね。哀れな屑だwww


    >日本のやり方は、欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守っていたと賞賛している。
    九カ国条約違反とか知らないの?無知って怖い。平気で馬鹿をされせるんだもの!!


    >日本人はテレビメディアが先勝国によって検閲、創作されたものであるのを知らない。


    日本でテレビ放送が始まったのが1953年。日本が独立したのが1952年。本を読まないし調べもしないバカは恥ずかしいね(クスクス)。


    >日本人は、先祖がどんな戦争をしたのか、全く知らないではないか。

    「大東亜政略指導大綱」って知ってる?御前会議でアジアを日本の植民地化にすることを決定したものだよ。そして、日本に占領されたアジア諸国が教科書で日本の占領時代をどのように教えているかも知らないよね。例えばインドネシアの教科書は以下のように記述。

    インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」(一九八八年版)
    「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
    どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
    −日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
    −日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
    その実体はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」


    >日本が戦犯となった東京裁判が近代法治国家にはあるまじき、物証もなし、又聞きや精査もされない証拠能力のない証言のみで、弁護人もなし、しかも近代法の大原則である法の不遡及の原則を破って、平和に対する罪A級戦犯を作って死刑に追いやった。

    一番わかりやすい嘘は「弁護人もなし」。そんな雑な裁判をしたら、連合国の正当性が無くなるという当たり前のことも、粗悪な脳味噌の持ち主は想像もできないのだろうな。君は、「東京裁判 弁護人」でググれば3秒でわかる程度の嘘を鵜呑みにしている阿呆なんだよ。


    >A級戦犯で日本のために死んだ東條英機は、議会で数万人のユダヤ人をナチスから救った国策を決定した人であるのは、シンドラーのリストを讃える世界の何人が知っているだろう。

    それは1938年という日本とドイツの間には「日独防共協定」はあったが,未だ「同盟関係」にはない時期の話。満州国境に来たユダヤ人難民の受け入れの為に樋口少将が尽力した。樋口は軍人として当然のことだったが,新京(現在の長春)に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に,ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。日本軍ではこのような案件は,軍司令官ではなく,参謀長が決裁した。関東軍の参謀長だった東條がどうやって「議会で国策を決定」出来たんだろうねw

    東條がユダヤ人難民を受け入れたのは、 「フグ計画」から考えて,ユダヤ人を助けることで,満州国の国際的な承認を取りつけるとっかかりとしたか った事がミエミエ。また,当時,満州でユダヤ人に対するテロを日本は容認しているという批判が 世界中からあり,それをかわす狙いもあったと推測される。
    開戦後,ドイツの反ユダヤ主義的要求と妥協して上海収容所を建設するなど,東條内閣がどちらかと言えば反ユダヤ的施策をとったことを合わせて考えると,この解釈が最も自然。

    本当に君は無知で調べる努力もできない怠惰な屑だね。君みたいな屑は存在自体が無駄。

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