ビデオゲームの語り部たち 第3部:“バーチャファイターの聖地”新宿カーニバルプラザで格闘ゲームの隆盛に心血を注いだ林田貴光氏の若き日々
1990年代前半,筆者は映像会社からセガ・エンタープライゼス(当時)に転職し,第2AM研究開発部(AM2研)で,ゲームセンター向けにリリースされた「バーチャファイター」の宣伝責任者として働いていた。
ゲーム系雑誌メディアはもちろんのこと,全国のゲームセンターとも日々連絡を取り,さらにはプレイヤーからの問い合わせに対しても,必要があれば直接対応していた。
これはおそらく,ゲーム会社における宣伝の枠を超えていたと思われるが,やっている側からすれば,店やファンに情報を届けるのは自然なことだった。
そんな中で出会ったのが,東京・新宿の歌舞伎町にあったセガ系列のゲームセンター「新宿カーニバルプラザ」の店舗スタッフだった林田貴光氏である。
「ビデオゲームの語り部たち」第3部では,対戦格闘ゲームの大ヒットによって大きく変貌を遂げた1990年代のゲームセンターを,林田氏の視点を通して振り返ってみたい。
“対戦文化”がいち早く花開いた福岡から東京へ
福岡の工業高校に通っていた林田氏は,「ちゃんとメンテナンスされたマシンで遊びたい」という動機からゲームセンターのアルバイトに応募した。
その頃のゲームセンターは,プライズ景品の単価上限(※)が引き上げられたことによる「UFOキャッチャーブーム」が今まさに始まらんという時期だった。
林田氏が入った店も,稼働率や単価などの実績から,ビデオゲームよりもプライズゲームを優先していたという。
※プライズゲームの景品には,業界の自主規制による上限が設けられていた。1990年にそれまでの上限額が300円から500円に引き上げられ,現在は法規定により800円相当のものまでとされている
「ビデオゲームが日陰者扱いになっていたことへの失望感たるやですね……。けれどゲーセンが営利事業である以上,いくらビデオゲームを愛している,好きだといっても,言葉だけではどうにもなりません。
どうすれば自分が好きなビデオゲームを,プライズやメダルゲームに負けない稼ぎ頭に育てることができるのか? という思いをその日からずっと抱いていました……なんて言うとカッコつけすぎですが」
林田氏が待望していたビデオゲームの復権は,1991年にリリースされた「ストリートファイターII」(以下,ストII)のメガヒットという形で実現する。同作はアーケード市場そのものの有様までを大きく変えることになったが,それを決定づけたのは「対戦台」の登場だったと林田氏は回想する。
「それ以前は,プレイヤーが『対戦者求ム』という札を掲げたり,ゲーセンに設置してあるノート(ゲーセンノート)で仲間を募集したりといった手法で,店舗やプレイヤーが対戦プレイを盛り上げようとしていました」
対戦台というと,2台のキャビネット型筐体を背中合わせに設置したものを想像する人も多いだろうが,当時はまだその形ではない。
「僕が初めて見たストII対戦専用台は,熊本の『ゲームプラザ白山』というお店にあったものです。これは2台の筐体をつなげた『通信対戦台』ではなく,1台に1Pと2Pそれぞれのレバーとボタンがついているものでしたが,基板の設定を「2Pスタートボタンが押された場合,1クレジットにつき1対戦」としたうえで,1P側のスタートボタンを物理的になくしてしまい,対戦プレイしかできないようにしたものでした」
ストIIには,「クレジットを入れた状態で2Pボタンを押すと1Pと2Pが対戦でき,終了すると双方ゲームオーバーになる」というモードが用意されており,店舗側でこれを設定できるようになっていた。林田氏が見たという対戦台はこのモードを利用したものだろう。
「その後,福岡市内の『モンキーハウス』で,現在みられるようなキャビネット筐体2台を利用した通信対戦台が作られました。あれはもともとゲーセン発祥で,その後メーカーが正式に採用したものなんです」
また,この通信対戦台には,現在のものにも見られない特徴があったという。
「2P側の画面表示が左右反転になっていたんです。現在のゲームはキャラクターの右向き左向きでそれぞれ違うグラフィックスを用意したり,そもそも3Dだったりしますが,当時のゲームは同じデータを単に反転させていただけでした。なので,2P側の画面を反転表示させ,レバー入力の配線を左右逆にすることで,1P側のプレイヤーも2P側のプレイヤーもまったく同じ条件でキャラクターを操作し,公平な条件で対戦できたんです」
モンキーハウスを運営していたのはホクセイ商事(後にホクセイへと社名変更,業績悪化により2002年に民事再生法の適用を申請)という,福岡市内を中心に数十店舗のゲームセンターを展開する会社だった。
同社は単にゲームセンターの運営を行うだけでなく,オリジナルのプライズマシンや筐体を企画・販売する技術力があり,プレイヤーがハイスコアを出せるように新しい連射装置(※)を導入したり,プレイ動画をビデオに記録できるようにしたりといった施策を行っていた。プレイヤーをハード面でサポートすることを重視し,当時の格闘ゲームプレイヤーの信頼を集めていたという。
※ゲーム画面を表示する信号と同期してボタンのON/OFFを繰り返す通称シンクロ連射装置
ストIIの対戦が全国的な盛り上がりを見せていた1992年の春に,林田氏は高校を卒業。家庭の都合で上京し,新宿カーニバルプラザのアルバイトとして働き始める。慣れていたことから東京でも引き続きゲームセンターの仕事を選んだが,店舗選びにはこだわったようだ。
「セガの店舗を選んだのは,ほかのメーカーの店舗と違い,ビデオゲームの占める割合が比較的大きかったからです。
ゲーマー的にはビデオゲームといえばナムコの印象が強いでしょうが,当時のナムコは『ファイナルラップ』などのドライブゲームやエレメカが花形でしたし,タイトー,シグマはメダルとプライズに力を入れていましたから。
もちろんセガも会社の代名詞ともいえる『UFOキャッチャー』や,大型マスメダルゲーム『ワールドダービー』といったものを抱えていましたが,そんな中でもビデオゲームの存在感がまだ保たれていると感じたんです」
当時はまだインターネットが一般に普及していなかったせいもあり,同じゲームセンターとはいっても,東京と福岡では大きな違いがあったようだ。
「福岡だと1991年の初夏ぐらいにはストIIの通信対戦台が広く普及していましたが,都内では僕が上京した1992年春の段階でもまだ『対戦者求ム』の札を掲げて対戦する店舗がほとんどでした。
『これは大チャンスだぞ』と思って,さっそく通信対戦台の導入を店長に掛け合ったのですが,『本社が許してくれない』という理由で認めてもらえず,ガッカリしました。
本社側としては,原則1筐体につき1ゲームタイトルという形で行っている管理が崩れて帳簿上の整合がつかなくなったり,最悪,売上の横領といった不正を生みだしたりするかもしれないといった懸念があったようです」
もちろんメーカー側も完全に放置していたわけではなく,林田氏が話したような問題の解決と収益改善の施策として対戦筐体の開発も行っていた。
セガはキャビネット型筐体を2台連結させた状態で1台とする「バーサスシティ」を後にリリース。2人のプレイヤーが筐体を挟んで向き合うスタイルで,お互いが横に座る居心地の悪さを解消してヒットし,現在に至っている。
林田氏は,自身が上京した頃の東京のゲームセンター事情をこう振り返っている。
「当時,都内のメーカー系列店でストIIの通信対戦台をいち早く導入したのはタイトーだったと思います。水道橋や高田馬場などの学生街を中心に大きな存在感を示していました。
さきほど話したように,セガ系列店での通信対戦台導入にはストップがかかっていたんですが,結局タイトーをはじめとした他店の盛況に押される形で認められることになりました。『ストリートファイターII' TURBO』のリリースを間近に控えていた頃なので,半年から1年ほど遅れを取ったと思います」
その遅れが響いたこともあって,セガ系列店は劣勢を覆すことができなかったという。
「対戦格闘ゲームは相手プレイヤーの選択肢が多い方がより楽しさが増します。いつも同じ相手ではどうしても飽きてしまいますから。それまでゲーマーが集まる有名店はほぼ例外なく大学の近く,学生街にありましたが,より多くのプレイヤーが集まれる,アクセスの良い繁華街にある店舗が徐々に注目を集めるようになったんです。
ただ,そういった店舗の大半はビデオゲームに力を入れておらず,メンテナンスも行き届いていない傾向がありました。うちの系列店でそこをクリアすればいけるんじゃないかと思っていたのですが,残念ながら流れを呼び寄せることができませんでした」
また,歌舞伎町のゲームセンターは料金面での不利もあった。
「当時のゲーマーにとって,ゲーセンの良し悪しを決める基準はやはり料金で,学生街の50円で遊べるお店が今でいう聖地みたいな扱いを受けていました。新宿はどうしてもプレイ単価が高いですから,なんとかそれを変えたいと思っていたんですが……」
メンテナンスに追われるハードな日々
「深夜番の合間に対戦ハーネスを作ってほかの系列店に送ったり,あるいはマシン入れ替えの応援に行く店長についていって対戦台を組んだり,といったことを繰り返していました」
当時,風営法(※)で営業が24時までとされていたゲームセンターの「深夜番」という響きに違和感を覚えるかも人も多いかもしれないが,これには新宿カーニバルプラザならではの理由があった。新宿カーニバルプラザはビルの1・2Fがゲームセンターで,3・4Fが深夜営業可能なビリヤード場だったのだ。
※風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律。ゲームセンターやパチンコ店などが対象になっている
「新宿カーニバルプラザの店長は,もともとプライズ景品やゲーム機を運ぶ大型トラックのドライバーだったんです。ゲーム機に関してはあまり明るくなかったようなので,通信対戦台だけでなく,ほかのマシンメンテナンスについても『分かるなら,お前に任せる』と言ってくれました。
なぜそんな人が店長に? と思うでしょうが,これはプロドライバーにつきものの話で,違反点数がたまり,しばらく運転業務ができなくなったための配置転換だったようです。酒宴が好きな豪快な方だったので,デスクワークよりも歌舞伎町の店舗を選んだのだとか」
なんともおおらかな話だが,新宿や池袋といった歓楽街は,セガをはじめとしたゲームメーカーにとって重要な拠点だったので,誰でもなれるものではなかったと思われる。
「そうやって社員の方に交じって働くうち,社員になりたい気持ちも出てきて,1993年にセガの中途採用面接を受けることになりました。採用はほぼ間違いない……といった感じのことを聞いていましたが,実際にはお流れになりました。直接の原因かどうかは分かりませんが,会社が東証一部上場を機に,大卒で英語ができる人しか採用しないという方針になったとかで」
筆者も,当時の中山隼雄社長が「これからのビジネスマンに必要なものは,パソコン,イングリッシュ,ノンスモーキングだよ」と公言していたことは記憶にある。おそらくこのような考えのなかで,林田氏の採用は見送られたのではないだろうか。
「採用されなかったこと自体はしょうがないと思いつつ働いていたんですが,その後,ゲームセンターに行ったこともなければ,ゲームで遊んだこともないような大学新卒の社員がたくさん入ってきて,いきなり店長とかマネージャーになるわけです。そうなるとゲームマシンのメンテナンスをできる人間が足りなくなります」
4Gamer読者にとっては信じられない話かもしれないが,新入社員の一部にゲームをほとんど知らないような者がいたのは事実である。上場によって優良企業のイメージがついたせいかもしれない。
「特に『さくらやネオシス』とか『池袋GIGO』とかは本当に新卒組しかいないような状況だったので,ゲームマシンが壊れると自分が確認に行き,修理もして……という感じでした」
この頃のセガは,上場や,当時最先端を行っていた体感ゲームのヒットで得た潤沢な資金をもとに,自社経営のゲームセンターやアミューズメントパークを拡大していた。それが「GIGO」や,現在もお台場などで稼働する「ジョイポリス」(現在,経営は別会社に移管)である。
「その後,現在も営業中の『新宿プレイランドカーニバル』が増床を伴う大規模なリニューアルを行って,新たにセガとのリース契約を結んだことをきっかけに,本格的にメンテナンス業務へ関わることになりました。
新宿プレイランドカーニバルは,フロアの一角に体感ゲームやコックピット型のドライブゲーム,プライズマシンなど,風営法の対象にならないものを集めて,そのエリアだけ朝7時まで営業するという形だったんですが,そこに『R-360』があったんです」
ご存知の読者も多いと思うが,R-360はシートが縦横360度に回転する筐体である。
新宿,とくに歌舞伎町にある店舗でのメンテナンス作業というのは,ほかのエリアに比べて大変だったようだ。
「場所柄,酔ったお客様が多いですから,粗暴に扱われたあげく壊れてしまうマシンがとても多くて。パンチ力測定などの力試し系は『まさか』と思うような壊れ方をすることが度々ありましたし,ドライブゲームでもステアリングシャフトが折れたりと,それまでの常識が通じないところがありました」
そんな中でも特に手を焼かされたのが,この作業に関わるきっかけとなったR-360だったという。
「新宿プレイランドカーニバルに設置された筐体は,もともと大阪で稼働していたものだったんですが,輸送中にメインフレームにゆがみが生じたらしく,シート位置を検出するセンサーの値が徐々にズレるようになっていたんです。安全に乗り降りできるホームポジションの位置がおかしくなり,お客様が真っ逆さまの状態で止まることもありました。シートベルトやセーフティバーがあるので落下はしないんですが,そんな時には僕に電話がかかってきて『大変だからすぐに来てくれ』と。そりゃ,終電間際だろうが飛んでいくしかないですよ。お客様を乗せたまま『もう遅いんで,明日行きます』とは言えないですから」
1980年代の後半から1990年代初めのセガは,鈴木 裕氏率いるAM2研と,機械開発に長けたAM8研の社内連携が生み出した体感ゲームでアーケードゲーム市場を席巻した。だが,筐体が大型化するに従って導入店舗が自社のゲーセンに絞られていき,ブームは沈静化する。R360はそんな時代の最後を飾るものだったと言えるかもしれない。
「個人的な忙しさのピークは,1993年ごろだったと思います。当時は『池袋GIGO』『新宿スポーツランド本館』,高田馬場の『ハイテクランド セガ・オアシス』など,セガ系列の新規出店が相次いでいました」
オープン時には当然新品のマシンが用意されるので,想定外のことさえ起きなければメンテナンス業務に追われることはないのだが……。
「池袋GIGOのマシン搬入日は猛烈な嵐で,大型メダルマシンの大半がずぶ濡れになってしまったんです。本社から技術スタッフが応援に来ていたのですが,それでも人手が足りないということで,結局泊りがけで手伝うことになりました」
林田氏はハイテクランド セガ・オアシスのオープンでもトラブルに見舞われる。
「オアシスは中古マシンも含めてのオープンだったんです。特に大型メダルマシンは中古だけでまかなうことになったのですが,いざ届いてみたら,池袋GIGOから引き上げたものだと判明して……」
池袋GIGOは新製品の導入が積極的に行われていたので,稼働開始から間を置かずに引き上げられるマシンが多かったようだ。
「GIGOでの搬入時に雨水をかぶったせいか,短期間しか稼働していないはずなのに,不具合が多くて困りました。
しかもオアシスにいるセガ社員は2人で,うち1人は新卒でしたから,開店前の立ち入り検査(※)までに準備が間に合わないということで,しばらく手伝うことになったんです。
昼は高田馬場で開店準備,夜は歌舞伎町でマシンメンテナンスという感じで,終電までに仕事が終わらず,新宿カーニバルプラザのビリヤード場にあるソファで寝るという日々でした」
※ゲームセンターは開業にあたって風俗営業5号(当時は8号)の許可を取る必要があり,その際には警察の立ち入り検査がある。検査の内容は,営業面積や設置してあるマシンが申請書通りであるかを確認するといったもので,原則そのときにすべてのゲーム機に電源を入れ,営業時と変わらぬ状況を整えておかなければならない
林田氏がそんなハードスケジュールをこなせた陰には,ある人物の存在があった。
ハイテクランド・ミカドは歌舞伎町にあったゲームセンターだが,その後高田馬場に移転した。アーケードゲームファンの間では広くその名を知られている店舗だ。
「ミカドという名前は,店舗が入っていた歌舞伎町のミカドビルから取ったんですよね。今の『高田馬場ゲーセン・ミカド』は,かつてオアシスがあったビルに入っていますが,あの場所でミカドというのは,僕にはちょっと不思議な感じがします」
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