目的とは何なのか?
単に制度改革や人物名や時代背景そして年号を知る事が歴史の目的ではない。
では何なのか?
視点を180度変えてみる。
歴史を綴った方達は、我々に何を伝えたかったのか?
何のために歴史を綴ったのか?
その目的は権威の保持もあるし、その逆もある。
歴史は戦の勝者のみが伝えるものだけではない。
また預言書も歴史を紐解くための我々への重要な伝文なのだ
だが歴史は文字だけで伝えるものでもない。
親から子へ口伝するものも少なくない。
歴史には正の遺産もあれば、負の遺産もある。
では我々は負の遺産から何を学ぶのか?
どうして負の遺産を残したのか?
それは残した者達が、我々に彼らの過去の過ちを伝え、
二度と同じ事を繰り返さないために残したものだ。
どのような経緯があろうが、彼らが命がけで残した負の遺産を我々には次の世代へ伝え託す義務と責任がある。
それは我々が彼らに生を頂き、そして育んで頂いた感謝とお礼でもあるからだ。
命は尊いもの。
しかしその命の尊さを本当に知るには、残酷な経験も必要なのだ。
その体験を出来るのは稀であるし、したくもないだろう。
ならば貴重なその体験をしっかりと知り、そうならないように学ぶ。
これが歴史を学ぶ本来の目的だと思っている。
8月になると毎年、戦争をテーマにしたドラマやドキュメントは放映されるが、
こどもと大人特に年寄りと戦争に語る場所は極度に少ない。
また敗戦から60年以上も経ってしまった現在、戦争体験を語れる年よりも少なくなって来た。
我が心の師である司馬遼太郎氏は、
8月15日を敗戦記念日とし、潔くこの日を日本人は迎える
という事を切に願い、これを実践していた。
師のみならずすべての日本人はこの日を潔く迎える義務があると思う。
しかし現実はどうだろう?
ゴールデンタイムに戦争にまつわる特集を流した局などひとつもない。
さらにアニメソング特集を組んで、まったく関係ない番組まで登場する始末だ。
8月15日という日は何なのか?
何度も言うが、この日は終戦記念日ではない
1945年8月15日、日本は米国に本土攻撃を受け、さらに広島・長崎に原子爆弾を投下された。
戦地では陸海軍の無謀な戦地拡大により戦況は悪化し、本土以上に戦死者が続出しもはや勝てる見込みはなくなった。
そして白旗を示すべく、昭和天皇裕仁が玉音放送により、これ以上の戦争は無意味であることと、対戦国に対して、敗戦の意思を示した
敗戦宣言日なのだ
翌月9月2日、正式な調印が交わされ終戦を迎える。
また終戦を迎えたのも勝者国の米国をはじめとする連合軍側である。
敗者側は戦争責任を全うするまでは終戦は訪れない。
その後日本は対外に対しては、技術支援を含む経済支援を行って来た。
しかし国内においては、未だ何一つしていない。
その筆頭に上がるのが靖国神社参拝の問題だろう。
A級戦犯が祭られているから行かないとか、
他の戦死者の御霊を弔う義務があるから参拝すべきとか。。。
様々な意見が毎年起こるもそれをいっこうに解決していない。
日の丸、君が代の国旗・国歌についても教職員が歌わないなど日教組との絡みも残っている。
そして憲法の改正も未だされていない。
これで終戦記念日だとずるい大人達が歴史を捻じ曲げこれを伝え
見事に風化した。
もはやこの日本に先の戦争について語る場も語る機会もない。
ましてや敗戦記念日を終戦記念日と書き換えるほどずさんな敗戦処理をしている。
こども達に戦争の記憶と記録を伝える大人はもういない。
現在の核兵器は、たった二発で日本を焦土化する事が出来るという。
たった二発の兵器で、日本人を一瞬に消し去る事が出来るのだ。
それ以上の核を日本は、全国に設置した56基の原子力発電所に秘めている。
歴史を忘れ去った時、悲劇は繰り返される。
この国が同じ過ちを繰り返し、そして取り返しのつかない過失をしてしまうのはもはや風前の灯火だろう。
愚かな敗戦処理。
ずさんな反戦意識。
平和の真の意味も知らず。
この国の民は自らの怠惰により滅ぶのだ。
敗戦記念日