こんなものに頭を使ってはいけません。脊髄で解きなさい
繰り返し・反復の役割は認知科学や社会心理学,哲学や神経生理学など様々な分野で提唱されている認知モデル=二重プロセスモデルにあてはめて理解するとクリアカットでわかりやすい。すなわち,熟慮を要する任意の対象aに対する反復は,対象aの処理を「システムⅡ」を利用した処理から「システムⅠ」を利用した処理へ変化させるという捉え方である。
1. 二重プロセスモデル(二重過程理論)とは
「二重プロセスモデル(二重過程理論)」によると,人間の情報処理は直感的部分(「システムⅠ」)と分析的部分(「システムⅡ」)の二つのシステムに分かれている。「システムⅠ」は一般的な広い対象に適用されるシステムであり,人間と動物の両方が持っている。「システムⅡ」は「システムⅠ」よりずっと遅れて進化した人間固有のシステムである。
「システムⅠ」は主に日常的な処理や,迅速な判断を必要とするときに利用され,「システムⅡ」は複雑な処理や,慎重な判断を必要とするときに利用される。これら「システムⅠ」と「システムⅡ」による処理は固定的なものではなく,熟練によってもどちらを使用するかが変化する。
また,「システムⅡ」による処理においても「システムⅠ」の影響は無視できない。「システムⅠ」と「システムⅡ」に葛藤が生じる状況に置かれると,混乱をきたして,結果的に,より根源的な「システムⅠ」に支配された行動をとると考えられている(典型例として,→認知的不協和)。
脳と対比するならば,「システムⅠ」は脳の原始的な部分≒古い脳に対応し,「システムⅡ」は大脳新皮質の前頭前野≒新しい脳に対応する(生物進化の歴史が刻まれた脳の構造を簡単に表現すると,トカゲの脳の上に大脳辺緑系を継ぎ足したものがネズミの脳,ネズミの脳に新皮質を継ぎ足したものがヒトの脳となる)。進化論的な視座からすれば,感性的な「システムⅠ」は遺伝子の利益を優先し,理性的な「システムⅡ」は個体の利益を優先する。
このような,二つの情報処理システムの主な特徴を抽出すると以下のように整理される。
システムⅠ | システムⅡ |
---|---|
直感的 | 分析的 |
速い | 遅い |
マルチタスク | シングルタスク |
自動的 | 管理されている |
努力を要しない | 努力を要する |
連想的 | 演繹的 |
学習速度は遅い | 柔軟 |
2. 反復によって使用する処理システムが変化する
「システムⅡ」をどの程度【使うか】は集中力や意志によって変化する。また「システムⅠ」がどの程度【使えるか】は任意の対象a(の習熟度)によって異なる。たとえば,外国語の文章を読むときは,「システムⅠ」がスムーズに働かず,「システムⅡ」をフル稼働しなければならない。そのぶんリソース(時間・労力)を投入することになり,消耗する。
また,「システムⅡ」は 「システムⅠ」をコントロールすることも可能だが,「システムⅡ」が行う処理は負担が大きく,疲労感を伴うので,無意識に「システムⅡ」を節約して「システムⅠ」を使った行動をする仕組みが人間には組み込まれている(認知コストの節約)。たとえば,毎日の昼食を選ぶのは膨大な量の選択肢の中から選択することになるので,「システムⅡ」で処理しようとするとパンクしてしまう(フレーム問題)。そこで,負担が小さな「システムⅠ」によって馴染みの店やいくつかのメニューに絞り込まれ,その中から選択あるいはローテーションが採用される。
※ 実験経済学でも,人々の行動のほとんどは積極的な選択(「システムⅡ」)の結果ではなく,習慣(「システムⅠ」)によって自動的に決まることが確かめられている。処理コストが高いために「システムⅡ」のほうが「システムⅠ」より選ばれやすいという理由だけでなく容量の問題もあるだろう。人は一度に処理できる情報量に限界があるため,それを超えたところまで注意が向かない。この「容量の限界」は「システムⅡ」においてより顕著に現れる。
本論:通常,熟慮を必要とする対象は「システムⅡ」(意識下)のみ処理が可能だが,反復することによって反射的な対応が可能な「システムⅠ」(無意識)で処理できるようになる。マルチタスクができ,処理速度の速い「システムⅠ」で対象を処理することで,シングルタスクのみで,処理速度が遅い「システムⅡ」を休ませることが可能となり,認知コストを節約できる。
換言すると,「システムⅡ」において習得したい対象を一つ一つ根気よく繰り返すことで,その対象はいずれ習慣化され「システムⅠ」によって定型的かつスピーディー,並列的に処理されるようになる。「システムⅠ」でその対象を処理することで,「システムⅡ」に余裕ができて,より複雑で高度なことに「システムⅡ」の希少なリソースを用いることができる。
※ ただし,「システムⅠ」の適用対象は習慣によって形成されるため,習慣化する対象の選択は十分な吟味が必要になる。一度定着した行動は簡単には直らない(現状維持バイアス),直すのに少なからぬリソースを割くことになるので(スイッチングコスト),習慣化する対象の選択を誤ったり,対象を歪めた「不適切な」癖・習慣の定着はできるだけ避けなければならない。
3. 詰将棋における羽生棋士と素人の脳
<行動改善のしくみ4分類>
■無意識の学習―「システムⅠ」
①遺伝子レベルでの学習による行動改善
→「後天的に能力を身につける」という学習のしくみそのものが遺伝子にプログラムされている
②本能的な「適応的学習」による行動改善(②∈①)
→与えられた環境のもとで試行錯誤をしながら,環境に適した行動を身に付けるしくみ(非言語)。1.時間がかかる 2.一度定着した行動は簡単には直らない 3.結果の良い行動を本能的に繰り返す
■意識下の学習―「システムⅡ」
③意識的な学習による行動改善
→この学習は言葉が中心的な役割を果たす。言葉によって「複雑な事柄」を考えることが可能となる
④高度な行動の習慣化(②の適応的学習〈「システムⅠ」〉を意図的に利用した行動改善)
→②の適応的学習を③のように意識的に行う。「システムⅡ」を使って意図的に特定の行動を何度も繰り返すと習慣化される。「システムⅡ」を使わずに「システムⅠ」によって無意識に行動できるようになる
たとえば,羽生さんが詰将棋の問題を解いているときの脳の活動を調べたところ,大脳新皮質の前頭前野≒新しい脳 (「システムⅡ」)ではなく,脳の最も原始的な部分≒古い脳(「システムⅠ」)が活発に動いていることがわかっている。
一方で,将棋の素人が詰将棋の問題を解いているときの脳の活動を調べたところ,羽生さんとは逆に,脳の最も原始的な部分≒古い脳(「システムⅠ」)ではなく,大脳新皮質の前頭前野≒新しい脳 (「システムⅡ」)が活発に動いた。(via 羽生 善治 , 松原 仁 , 伊藤 毅志 『先を読む頭脳』)
つまり,羽生さんは繰り返し将棋の局面を読む訓練を繰り返した結果,一定レベルまでの詰将棋の局面に対して「システムⅡ」ではなく「システムⅠ」で処理できるようになった。
凡人には到底不可能と思われる驚異的な能力を持つ天才たちは、「システムⅡ」の処理能力が高いと思われがちですが、必ずしもそうではありません。練習を繰り返した結果、「システムⅠ」の適応的学習本能を上手に利用してパフォーマンスを向上させているのです
(川西諭 『図解 よくわかる行動経済学―「不合理行動」とのつきあい方』p.56)
【格言】:
練習の種類は基本的に2つしかない。(via teruyastarはかく語りき)
「意識してもできないことを,意識することでできるようにすること」
→「システムⅠ」から「システムⅡ」へ(③)
「意識すればできることを,無意識にできるようにすること」
→「システムⅡ」から「システムⅠ」へ(④)
参考文献
ダニエル・カーネマン心理と経済を語る,ダニエル・カーネマン
心は遺伝子の論理で決まるのか――二重過程モデルでみるヒトの合理性,キース・スタノヴィッチ
図解 よくわかる行動経済学,川西諭
行動経済学 経済は「感情」で動いている,友野典男
先を読む頭脳,羽生善治, 松原仁,伊藤毅志