日焼けサロンへ行くからとユース代表を辞退した……佐藤勇人の不器用な生き方と心の傷

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はジェフ千葉の佐藤勇人選手に登場していただきました。双子の弟である佐藤寿人選手との知られざるエピソード、ユース時代の日焼けサロンへ行くためにユース代表を辞退したというやんちゃなエピソードなどを伺い、誤解を招きかねない不器用な生き方に迫りました。 (広尾のグルメランチ

日焼けサロンへ行くからとユース代表を辞退した……佐藤勇人の不器用な生き方と心の傷

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待ち合わせ場所に現れた佐藤勇人は

とてもサッカー選手とは思えない出で立ちだった。

ところが席について話すとイメージはがらりと変わる。

 

最初から最後まで敬語。

コーヒーもこちらが手をつけないと飲まない。

どんな話にも真剣に答えてくれる。

 

年上の相手と接するときはそうするのだそうだ。

あまり年齢差がないと告げても最後まで礼儀正しい姿を崩すことはなかった。

双子の弟、佐藤寿人も礼儀正しいが勇人もまるで同じだ。

 

辛い思い出は多かったという。

「アニキのほう、またか」と言われているのも知っているそうだ。

そんな勇人は人間味溢れる話を聞かせてくれた。

 

 

「人生が終わった」弟は受かって自分は落ちたという心の傷

今までサッカーやってると、いろいろ辛いことはあったんですけど、その中で一番辛かったのは、小学6年生のジェフのセレクションに落ちたときですね。寿人は受かって自分はダメだったので。

 

自分たち2人のどちらかがジェフに受かったら、ジュニアユースに通うために家族も全員埼玉から千葉に引っ越すって決まっていたんですよ。寿人が受かったんで家族は引っ越すんですけど、自分はどうしたらいいんだろうって。結構キツかったですね。

 

埼玉の自分たちが住んでいた地域では、自分と寿人は結構評判で、自分たちも自信があったし、ジェフのセレクションには何とか受かるんじゃないかという思いがあったんです。でも自分は2回受けて2回ともダメでした。

 

セレクションの会場から埼玉まで戻る車の中では、6年生ながら「自分の人生が終わった」という感じでした。寿人も親も自分に気を遣ってくれていたのがわかったし、埼玉に戻ると自分の所属してたチームの監督や仲間、父兄まで「どうだった?」って待っててくれて、そのみんなに顔を合わせるのがすごく気まずかったですね。

 

大人だったらまだいろいろ選択肢を考えられてたかもしれないですけど、当時の自分はジェフに行くことしか考えてなくて。学校の部活動でサッカーをするという選択肢は頭の中になかったし、当時Jクラブの下部組織で一番力を入れていたのがジェフでしたから、ジェフ以外考えてなくて。今でもあの辛さは忘れられないですね。

 

千葉に引っ越してきても、サッカー自体を諦めてはいませんでした。それでサッカーをやる環境を探して、千葉で有名な市川にある「市川カネヅカSC」という、玉田圭司君とかが所属したことのあるチームが見つかって、そこに通うことになりました。

 

千葉での中学生活が始まって、寿人と一緒の学校に行って、帰りも一緒の電車に乗るんですけど、途中で寿人は当時ジェフの練習場がある浦安舞浜に、自分は市川に、と別れるんですよ。あれがまた結構キツくって。本当だったら浦安方面に行くはずが自分は市川に行くんだって寿人の後ろ姿を見て。ジェフの下部組織の選手はみんなジェフのマークが入ったバッグがお揃いで。自分たちはそういうのがなかったので自由なバッグ、何のエンブレムが付いていないバッグで。それに結構やられました。

 

でも、まずは市川カネヅカで必死に頑張ろうってやってたら、中学1年で中学2年の試合に出られるようになったんですよ。その自分の試合をジェフのコーチが見に来て、それでジェフの練習に参加したらって誘ってくれたんです。滅多にないことだったと聞きました。当時はそうやって途中から入れる選手はいなくて、セレクションで受かった選手のみだったと思います。寿人はしつこいくらいコーチにお願いしたらしいんですよ。「1回試合見に行ってください」って。結局それで夏前にやっとジェフに入れました。

 

中学2年で攻撃的ポジションは諦めた

当時はジュニアユースのチームもプロのサッカー選手みたいな扱いで、学年が変わるごとにクビになる選手が出るんですよ。学年が進級するとき「君はジェフではプロになるのは厳しいと思うので、別の選択肢を選んだほうがいい」って言われてしまうんです。どんどんそれで同級生がいなくなっていく。入ったときに同期は30人ぐらいいたんですけど、中学3年の終わりのころには5、6人だったと思います。

 

自分と寿人はジェフのレベルが高すぎてまるで通用していませんでした。全国から優秀な子どもが集まってましたから。自分も寿人も全然試合に出られなくて。寿人がこれまでで唯一「サッカー辞めたい」って言ったのは中学1年だと思います。だから中学3年になるまでは、年度の終わりにはドキドキしてました。「自分はクビになるんじゃないか」という不安でいっぱいで。

 

自分がそこで生き延びられたのは、自分も寿人も「今までと同じことをやってたら通用しない」と思ったからですね。人と自分の違っていることをより早く見つけて、そこを一生懸命努力してトレーニングしたことで、何とか生き残ってこられたかな、と。もしそこを考えられずに、自分が小学生でやって来たプレースタイル、自分が自信があることだけにこだわり続けていたら、中学2年ぐらいでジェフからクビになってたかもしれないと思います。

 

自分は最初10番のポジションで入ったんですよ。ですが中学2年ぐらいのときには、もう中盤の前のほうは一切やっていないですね。あのポジションではもう絶対かなわない、勝てないと思ったので。中学2年生ぐらいはディフェンスの練習をしてました。

 

自分にとってよかったのは、負けん気の強さじゃないですけど、怖い物知らずという部分だったと思います。人にぶつかったり、ケガすることを恐れなかったりしましたし。当時ジュニアユースのコーチだった金子久さんは、練習からスライディングにどんどん行けっておっしゃってて。でも当時の人工芝ってコンクリートの上に一枚敷いてあるようなところで、スライディングすると痛いんですよ。それでも行けっておっしゃってて、自分もやり続けました。

 

ユースの内田一夫監督からは、すごく守備を教えていただきました。守備のポジションを与えてくれたのが内田監督で。その守備に自分は一生懸命努力して、あとは上手いヤツとひたすらボールを蹴ってました。それが阿部勇樹なんですけど、阿部はやっぱり中学1年のときから1人飛び抜けていましたね。

 

あとは駆け引きが上手くなったと思います。自分は普通のケンカもするような中学時代だったのですが、たぶんその経験から相手との駆け引きができるようになったと思います。

 

自分が高校2年のとき、ジェフのトップチームが契約しようとしてた、コロンビア代表のアンダー23の選手がいたんです。その選手はトップの練習参加させる前に、1日だけユースに来たんですよ。相手はすごくガタイのいい選手で。

 

彼は10番のポジションで自分は中盤でマッチアップしました。絶対負けたくないじゃないですか。自分より間違いなく上の選手だったので「この選手に勝てれば自分もトップに上がれるチャンスがある」と思ったので。その試合はその選手にほぼマンツーマンで、ボールを持つ度に潰しに行くぐらいの気持ちでやってたんです。そうしたら相手が途中で怒ってグラウンドを出ちゃって、オレはトップチームに行くのに、なんでこんな高校生との練習でケガするくらいまでやんなきゃいけないんだって。で、自分は「やった!」って気持ちだったんですけど、あとで強化の人に呼ばれて怒られました。

 

でもそれくらい自分は、それこそケンカというか、目の前の相手に負けたくないというのが誰よりも強かったので。それがあったから中学時代のサバイバルにも生き残ったんだと思います。

 

ユースに上がってからも、もちろん1年上がるごとにいなくなる選手がいたんですけど、ユースのときはある程度自分のポジションと特徴をみんなに理解してもらってましたし、クラブにも少し認められていたので試合にもずっと出続けられていて。当時は、高校1年で自分と阿部がセンターバックやって、オリンピック代表だった酒井友之君がボランチでした。あのとき、あの環境であの選手たちと守備の練習をずっとやれたから今につながったんだと思います。

 

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ユース代表を辞退した事件の真相

自分の見た目は、誰かの影響は特にないんですけど、昔から人と同じふうに見られるのがイヤで、あとは見た目で判断されるのもイヤなので、あえて悪い感じにしようかなって(笑)。タトゥー入れてるんですけど、最初は結構言われたんですよ。試合のときは長袖のシャツを着ろとか。でも自分は自分なんで他の目は気にしませんし、日本的な周りの目を気にするとかは好きじゃないので。ただ話すとき、目上の人には必ず敬語です。そこはやっぱり。

 

反骨心って常に持ってますし、全員同じように見てもらいたくないとも思っています。自分が小学校に行ってサッカースクールをするときには、「いろんな個性を大事にしてほしい」って言うんです。「コーチがこうしなさいって言ったからってそうする必要はないし、自分の個性を大事にしなさい、それが一番大事」って。日本はグループから外れることを嫌うけれど、子どもたちには個性を大事にしてほしいと思います。自分はそこは持っているので。

 

日本代表のユース合宿に呼ばれたとき、日焼けサロンに行くからイヤだと言ったのは本当です。実はあの当時って、ホントにサッカーやめてたんですよ。何事も中途半端ではやりたくないんですけど、あのころって高校生になって自分のポジションとかプレースタイルが周りからすごく評価されていたんで、ダラダラサッカーの練習に行ってました。

 

だけど本当に必死でやらないと生き残れない場所だとわかってたんで、そういう軽い気持ちで練習に行くのがイヤだったし、そのときは遊びが一番になってたんで。だからサッカー止めて遊ぼうって。ユース代表に呼んでくれた方は、まさか自分がサッカーをやめてるなんて思ってなかったんでしょうね。戻ってきたのは寿人の存在がデカかったです。寿人との会話とか、練習に行く姿とか見てると、本来自分がいるべき場所だったりとか、そういうのが思い出されて。

 

結構見た目とか態度とかで悪く言われるんですけど、自分では真面目で一本気だと思っています。好きなものにはとことんハマるタイプで、ジェフは本当に大好きですし、口先だけで「ジェフが好きだから」っていってる選手に対しては「ふざけるな」って思いますし。

 

自分の場合は、やっぱり中学1年のときにジェフには入れなかったというところからスタートしてますから、やっと入れたっていううれしさが原点で。アカデミーにいた6年間で仲間がどんどんいなくなって、ジェフでどれだけプロになりたかった選手がいたかわかってるし、彼らが途中でクビになっていなくなったときの悔しさを自分は忘れちゃいけないと思ってるんで、そういうのが一番強いのかなって思います。だからやっぱり自分はジェフにいたいんですよ。自分は不器用なんです。うまくできない。逆に寿人は器用なんですよ。

 

寿人はストライカー気質で、やっぱりゴールを求めに行くんで。何かを失ってでもゴールを奪いに行きたいって。名古屋に行ったのもそうで、広島への愛はあってもゴールを求めて名古屋に行ったんです。ゴールへのこだわりがあって周りをあんまり見ない。自分はホントに一途で。自分と寿人は、あまり知らない人は逆に見ますけど、知ってる人はわかってますね。

 

片方が試合に出番がないというシチュエーションはありました。そのあとも自分たちのサッカー人生って、今回のプレーオフもそうですけど、ずっとどっちかに日が当たってどっちかに当たらないという感じだったので……。それが佐藤兄弟って感じで自分たちは今考えてます。だから人生おもしろいし、サッカーおもしろいと思ってますけどね。

 

世間の受け取り方は、ネットニュースなんかでは「アニキのほう、またか」なんてめちゃくちゃ言われてますけど、自分はあまり気にしてないというか、ジェフは自分にとってそれ以上の存在なんで。でもこのクラブでやらないと自分は輝けないと思うし、本当に心の底から喜べないと思うから、あまり気にしないです。

 

 

「ジーコ監督から呼ばれるはずだ」って思っていた

2006年8月、アジアカップ予選で寿人と一緒に代表に入って2人で試合に出場して。そうですね……やっぱり自分、ちょっと張り切っちゃったんでしょうね。そのあとリーグで3、4回ケガして代表辞退するというのが続いちゃったんで……。その時点で「自分は縁がない。代表には縁がない」と思って……。イビチャ・オシム監督のときでしたから本当に残念でした。

 

何回か辞退して、あるとき自分の中で考えを変えました。「Jリーグで頑張ろう」「代表を意識するのは止めよう」って。意識するとJリーグで良いプレーをしようとしちゃって、それがケガにつながっていたんから、もうそういうの止めようって。だからそれからは、寿人が出るのを見て応援するだけですよ。

 

実は自分はその2005年から2006年ドイツワールドカップのときが、一番代表に呼んでほしかったんです。自分では「ジーコ監督から呼ばれるはずだ」って思ってて。2005年シーズンはリーグ戦に全試合出てて8ゴール取ってましたし、ボランチのポジションでそんなに点を取っていた選手はいなかったと思うんで。「なんで呼ばないんだ」って、ブラジルの神様にお願いしてました。ホント、当時結構メンバー固定されていましたからね。もしかしたら当時の千葉鹿島と相性がよくて、自分が結構ゴールしてたからかもしれませんね(笑)。

 

今シーズンも楽しみです。J1昇格は簡単じゃないですけど、2017年のシーズン終盤に監督が求めていることを、みんなで同じ方向に向かってやれていれば、いい結果が得られると思いますし。問題はアウェイでの勝点が少ないことで、それってJ2に落ちてからずっと同じなんですよ。そこは何とかして変えていきたいと思ってます。

 

寿人はJ1でプレーして自分はJ2で、というシーズンですけど、でも心の傷は全然ないです。……なくはないですし、自分もJ1でやりたいですけど、それ以上にジェフでJ1に上がりたいという気持ちが強いんで。それが2017年はできなかったんで、もう一度チャレンジしたいんですよ。

 

「一汁三菜」、それが一番いい

去年から「何を食べるのか」というのは自分のキーワードです。いいものを食べようと思っていますね。自分が好きなのは「一汁三菜」。それが一番いいと思ってます。そういう食事を出してくれる店が東京にあって、そこがおいしいんですよ。地元のお母さんみたいな人が2人でやってるんですけど、よく行ったりしています。魚を焼いてくれて、玄米と、あとちょっと野菜とか。体がいいもの食べたと言ってきます。カロリーもそれで足りますよ。間食で、ナッツ食べたりしていますけど、意外と大丈夫ですよ。

 

妻もそういうのが好きなんです。アメリカ人なんですけどね。妻も和食が好きなんです。朝からステーキじゃないの、ってよく言われるんですけど(笑)ほぼ和食です。妻にはすごくこだわりもあって、家のご飯も全部そういう感じです。

 

店は、妻と一緒に行ってるからあんまりはっきりとは教えたくないんです。場所で言うと広尾の高樹町のあたりですね。8席しかない和食屋さんで、料亭じゃないです。どうかぐるなびで探してみてくださいね。あ、これって、羽生直剛さんと同じオチですね(笑)。

 

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佐藤勇人 プロフィール

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2000年にジェフユナイテッド市原ユースからトップチームへ入団。イビチャ・オシムが指揮をとりはじめた2003年よりスタメンに定着し、2006年には日本代表に選出された。
2008年に京都サンガへ移籍後、2010年にはジェフ千葉へ復帰した。日本代表としては双子の弟・寿人と同時出場を経験している。
1982年生まれ、埼玉県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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