開発ストーリー

それは「娘を救いたい」という切なる思いから始まった

T.M.P.の創業の背景には一つのエピソードがあります。
前社長筒井宣政・陽子夫妻の次女・佳美(よしみ)さんは、先天性の心臓疾患でした。なんとしてでも助けたいと全国の有名病院をまわるも、9歳の時に「現代の医学では手術は不可能」との最終診断を宣告されてしまいます。それでもあきらめきれず海外での治療に望みを託しますが、結局はアメリカでの手術も無理だとわかります。
娘の手術のために貯めていた費用、当初は心臓病を研究している機関に寄付を考えましたが、主治医に相談したところ「人工心臓の研究をしてみたらいかがですか」と意外なアドバイスを受けることになります。確かに人工心臓があれば娘を助けられるかもしれないが素人にできるのだろうかという不安はありました。
それでも「10年も研究を重ねれば理想的な人工心臓ができるかもしれない、もしできなくても、医療の発展に貢献ができるかもしれない。そういうことにお金を使い切ればご両親は満足いくのではないか」という主治医の言葉に医療の世界に踏み込むことを決意します。

人工心臓開発からIABPバルーンカテーテルへ

医療に対しては全くの素人ながら一から勉強を始め、医療用材料の研究会にも参加して人工心臓開発を開始します。当初は個人研究レベルでしたが、国や公的機関から研究助成金が受けられるように、昭和56年に株式会社東海メディカルプロダクツを設立します。人工心臓は動物実験するところまでこぎつけましたが、人間に使用するにはそれまでの10倍以上の資金と人材が必要とわかり、残念ながら開発を断念せざるを得ませんでした。
そのころ、医療関係者からIABPバルーンカテーテルの医療事故の話をよく耳にしていました。当時はアメリカ製しかなく日本人にはサイズが合わないため合併症をよくおこす問題がありました。またカテーテルが硬くて目的の位置までいけずに治療できなかったり、バルーン部分が使用中に破れてしまうなどの事故もあったりしました。
IABPバルーンカテーテルは開発に高度な技術を要し、国内では生産が無理と言われていましたが、人工心臓開発で培ったノウハウを活かして、努力に努力を重ねて国産初のIABPバルーンカテーテルの開発に成功しました。

「また一人の命を救えるね」

IABPバルーンカテーテルは平成元年の冬に世に出ました。しかしながら治療用ではないこのIABPバルーンカテーテルでは、重い心臓病を患っていた佳美さんを救うことはできませんでした。しかし佳美さんは、両親が自分の病気をきっかけに医療機器の開発に取り組み、患者さんを救うカテーテルを完成をさせたことをとても喜んだそうです。
あるとき、宣政前社長がIABPの営業出張から帰り佳美さんが入院していた病院によった際に「今日も○○病院で採用してもらい、カテーテルを使ってもらったよ」と報告すると、佳美さんは「これでまた一人の命を救うことができたね」と自分のことのように喜んだそうです。
佳美さんは残念ながら平成3年12月に亡くなりましたが、「娘に使用しても安全な医療機器、カテーテルの開発を」という強い思いは「娘の為」から「患者さん」のために変わり、そして現在は当社の創業の精神・企業理念の「一人でも多くの生命を救いたい」という言葉に繋がっています。

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