今まで当然のようにできた運動ができない。優秀だった選手のパフォーマンスがおかしくなった。
例えば、野球の投手が突如としてストライクが入らなくなった。急激にスピードが落ちた。動きがぎこちなくなった。
このような選手を目にしたとき、監督やコーチはどんな何と言うだろうか。
「何をやっているんだ!」「気合を入れろ!」
そんな声をかけてしまわないだろうか。
もし、練習では好調に見えるが、試合になると動きがおかしくなる選手がいるとする。彼を「精神的に弱い選手」と断じてしまわないだろうか。
イップス研究所で所長を務める河野昭典氏(59)は、語気を強めて断定する。
河野氏 イップスはメンタルだけの問題ではなりません。選手自身や指導者が「精神的に弱い」と片付けているならば、間違いです。その認識を変えなければ克服できません。
トレーニングサポート研究所でイップス克服を指導する松尾明氏(48)も、同じ言葉を口にした。精神論は悪化させるだけだという。
松尾氏 イップスは「心の病」ではありません。文献を調べれば、そういう研究結果も出ています。神経伝達の機能的な不具合が原因のようです。メンタルやモチベーション、根性論などで治るものではありません。
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松尾氏のいう文献とは、東京大学大学院の工藤和俊准教授が著したものを指す。少しばかり難しい話になってしまうが、理解を深めるために一部を抜粋する。
まずは2008年の「体育の科学 Vol58」に寄せた「イップス(Yips)と脳」から。文中に出てくる職業性ジストニアとは「イップスによく似た症状を示す職業病」と説明されている。
職業性ジストニアは、筋や腱、あるいは脳における器質的原因が特定できなかったため、かつては神経症の一種に分類されていた。すなわち心理的要因による「こころの病」であると考えられていた。しかしながら(中略)これらの知見により現在では、職業性ジストニアやイップスは神経症でないと結論づけられている。
職業性ジストニアの原因についてはこれまで長い間議論が続いていたが、近年における神経科学のめざましい発展により、その器質的原因が明らかになりつつある。その原因は、一言でいえば、同一動作を過度に繰り返すことによって生じる大脳皮質における非適応的な可塑的変化である。
つまりイップスは「こころの病」ではなく、同一動作を繰り返した結果、動作に誤作動が生じた。そう解釈していいだろう。
一般的にスポーツの練習とは、同一動作を繰り返すことである。文献だけを読むと、過度な反復練習がイップスを引き起こすと解釈できる。
- 工藤准教授が記した文献のコピー
また、「コーチング・クリニック」(ベースボールマガジン社)の2015年3月号では、次のように書いている。
近年の研究により、イップスは同一動作の過度の繰り返しにより脳の構造変化が起きることで発症しうることが明らかになっています。
脳には身体部位に対応する感覚運動領域が規則的に並んでいます。同一パターンの動作を繰り返し行い続けると、感覚運動野の興奮が高まるとともに活動範囲が変化して複数の領域がオーバーラップし、独立していた部分が合わさってしまいます。これにより、体部位再現性が失われて、意図とは異なる運動が現れたりしてしまいます。
かなり難しい話になった。ごく簡単に説明してもらおう。
松尾氏 例えば投球動作を何度も繰り返してしまうと、筋肉を動かす神経が興奮しすぎて、他の神経と重なって動いてしまう。そのため意図と違う動きになり、本来の投げ方でなくなってしまう。そういう説明だと理解しています。私もイップス経験者ですが、この解説で合点がいきました。私のところにくる選手や指導者にも、同じように説明します。
さらに理解を深めるため、もう少しイップスについて知識を増やしていきたい。
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河野氏は、数多くのイップスと対処してきたことから「イップス先生」と呼ばれている。イップス先生は、悩んで研究所を訪ねてきた人に必ず脳の説明をする。私にも、紙に頭部の絵を描いて説明してくれた。
後にはイップスを克服した選手の具体例や、指導の現場も書いていく。イップスを防ぐ指導についても言及していく。
ただ、その前に脳の話に触れておく必要がある。私もイップス先生や松尾氏を取材した後で、勉強の必要性を感じて書店に駆け込んだ。
悩んだ末に購入したのは、もっとも理解しやすいと感じた「面白いほどよくわかる 脳のしくみ」(脳科学総合研究センター・理学博士 高島明彦監修=日本文芸社)だった。
できる限り分かりやすく書くので、お付き合い願いたい。イップス克服のために。(つづく)【飯島智則】