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役立つけれど難しいクリティカルシンキング

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。昨年末から私用でバタバタしてまして、あまりブログを更新できません。だいぶ経ってしまいましたが、年末にネットで興味深い翻訳記事を読みました。

なぜ頭のいい人でも愚かな行動を取ってしまうのか
http://gigazine.net/news/20171230-intelligence-critical-thinking/

 記事の執筆者であるアメリカの心理学者は、その理由をクリティカルな考えかた(クリティカルシンキング、批判的思考)ができないからだとしています。
 私もその説におおいに賛同しますので、クリティカルシンキングについて、私なりの考えをまとめておきます。

 勉強ができることとアタマがいいことは別だよと、むかしからよくいわれます。全般的な傾向でいえば、勉強ができる人はアタマがいい場合が多いのですが、なかには一流大学卒で学者や評論家の肩書きがあるのに、矛盾だらけのデタラメを真顔で吹聴するひともいるわけで。だいたいその手のひとたちに共通するのが、クリティカルシンキングができてないってことなんです。

 クリティカルシンキングは批判的思考と訳されますが、なにかを批判、否定したり、異論をやっつけることが目的ではありませんので、誤解のないよう。自分たちが常識と思ってること、正しいとされていることが、誤った前提や偏見で歪められていないかどうか、つねに疑いながら考えるってことです。
 簡単そうに思えますが、じつはこれが非常にむずかしい。なぜなら、クリティカルシンキング最大の敵は自分だから。ひとは、自分を疑うってことをなかなかしないんです。
 よく、「自分のアタマで考えましょう」なんていうひとがいます。はっきりいって迷惑です。そんな危険なメソッドを広めるのは無責任極まりない。
 アタマの悪いひとほど、自分が過去に学んだ知識や経験則が絶対正しいと、根拠のない自信を持ってます。論理的思考は、客観的事実などの正しい材料が揃っているときのみ、正しい結論を導き出せるのです。アタマの悪いひとは客観的事実を無視し、自分のアタマのなかにある偏見だらけの前提をもとに思考をはじめます。スタート地点をまちがえてるから、どんなに考えても正しいゴールには到りません。
 アタマのいいひとなら、思考が迷走しゴールになかなか着かないと、もしかして自分が設定した前提条件がまちがってるのでは? と気づくのですが、アタマの悪いひとは矛盾をすべて他者のせいにします。で、彼らは結局こう考えて納得します。
「ワタシは正しい。なぜなら、ワタシは正しいからだ」。

 こういうひとを世間ではなんというと思います? バカ? そう思ってくれるならいいのですが、恐ろしいことに「ブレないひと」「信念を曲げないひと」などとリスペクトされてたりします。そういう人物は、批判的思考のできないアタマの悪さをきれいごとの精神論でごまかして、自信たっぷりに愚かなことをするので、やっかいです。
 本当にアタマのいいひとは、ブレます。自分の知識や常識の賞味期限を確認し、なんかおかしいなと気づいたら、自分のアタマ以外のところにある客観的情報を入手した上で考えを修正します。つねに絶対正しいひとなんていないのだから、ブレるのが当然です。ブレなきゃおかしい。正しくブレるためにクリティカルシンキングが役立つのですが――長くなりそうなので、この話の続きは、またいずれ。
[ 2018/01/31 21:06 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告