組織信仰者は、言います。
「師匠の居る組織でなければ、正しく信心し成仏することは出来ない。」
それは、御本仏日蓮大聖人の教えなのでしょうか?
それとも、組織教団の指導者達の造った組織教団に都合の良い邪義なのでしょうか?
御本仏日蓮大聖人の金言に正義を求めましょう!

御本仏日蓮大聖人曰く

■教主釈尊と申す大人にゆきあはせ給いてこそ仏にはならせ給いしか、されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり、而るに善知識に値う事が第一のかたき事なり、されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・梵天よりいとを下て大地のはりのめに入るにたとへ給へり、而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上の土よりもすくなし■

釈尊のような正しい師匠(仏)を善知識としてこそ成仏することが出来たと仰せです。
しかし、善知識となる正しい師匠に逢うのは、一番難しくキセキ的な事なのです。
「今、自分は、正しい師匠に逢っている」と思い込むのは、御本仏日蓮大聖人の金言に反する危険なことです。
自分の宗派教団の師匠が、御本仏日蓮大聖人の金言と道理によって「善師、正師」であるのか「悪師、邪師」であるのかを見極めることが、なにより優先されることです。

御本仏日蓮大聖人曰く

■正しく末代の凡夫の為の善知識を明さば、(中略)
末代に於て真実の善知識有り所謂法華涅槃是なり、問うて云く人を以て善知識と為すは常の習いなり法を以て知識と為すに証有りや、答えて云く人を以て知識と為すは常の習いなり然りと雖も末代に於て真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り■


これが、御本仏日蓮大聖人の結論です!
「師匠の居る組織でなければ、正しく信心し成仏することは出来ない。」
は、「人」を善知識とする一般的な宗派の考えであり、
御本仏日蓮大聖人の仏法においては「法華涅槃」の「教法」が真実の「善知識」となると仰せです。

御本仏日蓮大聖人曰く

■四十余年の諸経並に涅槃経を打ち捨てさせ給いて法華経を師匠と御憑み候へ■

さらには、涅槃経をも打ち捨て、「法華経」を師匠とすべきと仰せです。
それでは、凡夫である我々が、「法華経」を正しく解釈し、正しい信仰の指針を示す師匠、善知識とするには、どうすれば良いでしょうか?

御本仏日蓮大聖人曰く

■いかでか仏法の御心をば我等凡夫は弁え候べき、ただ経経の文字を引き合せてこそ知るべき■

「法華経」の文字を引き合せて、その整合性の上から仏意を判断すべきなのです。

御本仏日蓮大聖人曰く

■此の経は相伝に有らざれば知り難し■

しかし、釈尊から直接相伝を受けた御本仏日蓮大聖人でなければ、正しく理解し難いのが法華経なのです。
ゆえに、釈尊から直接相伝を受けた御本仏日蓮大聖人によって説かれた「御書」こそが、末法の凡夫である我々にとっての「法」であり、師匠であり、真の善知識となるのです。
それでは、我々凡夫が、御本仏日蓮大聖人の御書を正しく拝読するには、どうすれば良いのでしょうか?
それは、先に上げた御文の通り

■文字を引き合せてこそ知るべき■

であり、上記のように、例えば「法華涅槃」の一つの御文にとらわれるのではなく、それを別しては「法華経」と判断し、さらに相伝ある御本仏の「御書」と結論判断したように、御書全体との整合性の上から判断すれば良いのです。
以上から結論されるのは、我々末法の衆生は、人師や組織ではなく、「南無妙法蓮華経日蓮」の御本尊と御本仏の金言を師匠とすべきであり、御本尊と御本仏の金言さえあれば、成仏が可能なのです!

御書には、以上をさらに証明する多くの金言があります。

■法に依つて人に依らざれの金言■

御本仏日蓮大聖人は、釈尊のこの遺言を「金言」(不滅の教え)とされています。
仏(御本仏日蓮大聖人)の教法(御書)を基準とし、人師や組織の教えを基準にしてはならないのです。

■悪師を信ずる失に依つて必ず三悪道に堕す可きなり■

誰が善師で、誰が悪師なのか判断できないのが、末法の衆生です。
だから、悪師を信じて不幸になるのです。

■私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし■

■仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず■

天魔波旬とは、第六天の魔王の事です。
御本仏日蓮大聖人が説かれていない教えを説く師匠は、その身に第六天の魔王が入った我々を無間地獄に巻き沿いにする恐るべき悪師なのです。

■設い徳は四海に斉く智慧は日月に同くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり■

■邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり■

悪師邪師の特徴は、なにより法華(御本尊)根本の御本仏の教えに真っ向から違背する「法華(御本尊)誹謗」の教えを説くことです!どのように素晴らしい人格を持った師匠であろうとも近づいてはならないのです!

日蓮正宗の根本義は、御書に一片も無き「戒壇本尊」の特権によって、『戒壇本尊と直結していない大聖人御真筆本尊を含む他の本尊は、「絶対に功徳が無い」「ニセ本尊」「魔の本尊」』などとしていることです。
これは、まさに「天魔波旬の其の身に入り替」った者による「法華誹謗」そのものであり、日蓮正宗の法主が悪師邪師魔師であるなによりの証拠です!
そして、その教えを教義の基礎としている創価学会その他も悪師邪師魔師の宗派教団であることに変わりありません!

御本仏日蓮大聖人曰く

■師なりとも誤ある者をば捨つべし■

■菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし■


御本尊誹謗の教義を根底にもつ師匠を捨て、すぐに悪知識の宗派教団から遠く離れるべきなのです。
そして、我慢偏執の心をすて御本尊と御本仏の御書を師匠とすれば、個人信仰で成仏は可能なのです。

しかし、このように理路整然と御本仏の金言と道理で証明し、末法における凡夫の正しい信心のあり方を示しても、それに素直に従えないのが、悪師邪師の宗派教団に居る者の罰の思考状態なのです。

御本仏日蓮大聖人曰く

■邪師の法を信じ受くる者を名けて毒を飲む者なりと天台は釈し給へり汝能く是を慎むべし是を慎むべし■

■毒気深く入つて本心を失えるが故に此の好き色香ある薬に於て美からずと謂えり■

■毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり、之に依つて法華の大良薬を信受せざるなり服せしむると雖も吐き出だすは而謂不美とてむまからずと云う者なり■

■毒気深く入つて禁じても改むること無く偏に欲楽を嗜んで自ら止むこと能わず■

■依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、悪鬼入其身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん■

■悪鬼入其身是なり、悪鬼と悪酒とは同じ事なり悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり悪酒とは無明なり無明即魔王魔王即無明なり、其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり、入ると呑むとは同じ事なり、此の悪鬼入る人は阿鼻に入る■

恐ろしい事に、邪師の教えを信じてしまったことは、麻薬や悪酒を飲み続けている状態に等しく、自身の御本仏の金言と道理を示されてさえも、素直に判断し実行することは極めて難しい事なのです。
では、どうすれば良いのか、

御本仏日蓮大聖人曰く

■元品の無明は第六天の魔王と顕われたり■

■元品の無明を対治する利剣は信の一字なり■

■元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり■

■兼兼申せしが如く日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず■


邪法邪師の大悪魔の呪縛を離れ成仏するためには、自身が、他の誰でも無く、日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ信仰者であることを忘れず、我が己心の御本尊に題目を唱えながら、これまで示した御本仏日蓮大聖人の金言を信じ切り実行する勇気しか無いのです!

我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ■



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以上、随時加筆訂正いたします。
2013.6.11加筆訂正しました。