以前から「生かされるまま生きる」というブログに注目していた。管理人はイプシロン氏。作家志望の方で自身の内面世界を余すことなく披露しているブログである。本人は学会員で今は非活動になっている。作家志望というだけあって、非常に読書量が多く様々な書から学ばれている。また、ギャラリーには綺麗なイラスト画像集も置かれている。
また、幼少の頃の虐待やいじめの辛い体験や、精神的に厳しい時期があったようで、自らの命を絶とうとするほど生と死に苦しんだようで、そこも包み隠さずに書いておられる。
数年前の記事から段階的に追っていくと、思想の変遷がバラエティに富んでいるのに驚く。最初はブログ村の創価カテゴリによくいる純粋な活動家そのものであった。ところが現在は初期仏教に傾倒しているではないか。彼の内面に何があったのか、これこそが当該ブログの魅力だと感じる。
確認できた事をざっと整理してみると
・純粋で疑うことを知らない活動家の心の時期
この頃は、創価村ブロガーの「ちよ氏」達と交流をしていたようである。
同志の為に同盟題目を送る、というやりとりもしていた。
・池田名誉会長を『先生』『師匠』と心から慕っていた時期
歴代会長の指導内容を日々噛みしめて糧にしていた。
『今日より明日へ』や『青春対話』を研鑽していた。
・公明党に疑問を抱き始め、その疑問を強くしていた時期
現執行部への批判を強めていた時期
この時点では某三人組などの池田絶対主義者の方々と同じ見解だろう
・創価の歴史を検証しはじめ、牧口会長・戸田会長・池田名誉会長の実像を追い求めた時期
・「創価ほどおかしな団体はない」と主張するようになる時期
「創価の信心は仏教ではないし、いわんや日蓮仏法でもない」と批判している
「ようするに、池田思想とは、仏法を恥しめる外道思想だということだ」
と、かつて敬慕していた対象を徹底的に否定している
更に
・日蓮仏法への理解・解釈を、我見により独自のものへと変形させていった時期
日蓮本仏論はおかしいと主張している(釈迦本仏論)
御義口伝も偽書との見解を示している
瞑想だの、止観がどうのこうの言い出し始める
・大乗経と小乗経という分類に懐疑的になる。
・仏教は、願いや、祈りや、誓いを立てるものではないと主張するようになる。
・「仏教は心を哲学(正しく認識)するための学びであり、
そしてそうして見出した無の心を仏法と呼んでいるわけだ」と主張するようになる
まるで唯識派の論調になる。
現在は「宗教」そのものに懐疑的な見解を示している。「宗教は他者を排除するもの」と斬り捨てている。彼の言い分によると、(特に大乗)仏教で説かれる「諸天善神」は他宗教の神々を勝手に再定義しているので、それは「結局のところ他人の思想を認めない排除性になってしうまう」らしい。更に、教義の中に国家や国王のことを説かれる宗教もダメという。そして、そのような事が説かれていない初期仏教こそ彼の理想であるらしい。
わずか数年で、ここまでバラエティに富んだ思想の変遷を辿るとは驚きである。しかし、行きついた先が初期仏教であるとは何とも残念だ。
本人は平和主義者で、護憲派であり、純粋に平和を願う心が強い。北朝鮮とは対話重視で行くべきとの見解を何度も主張されている。ある意味『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。
見たところ、イプシロン氏は虚無思想に陥りつつある。現実の生も虚無、死後も虚無と認識してるようだ。このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような我見解釈によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。

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また、幼少の頃の虐待やいじめの辛い体験や、精神的に厳しい時期があったようで、自らの命を絶とうとするほど生と死に苦しんだようで、そこも包み隠さずに書いておられる。
数年前の記事から段階的に追っていくと、思想の変遷がバラエティに富んでいるのに驚く。最初はブログ村の創価カテゴリによくいる純粋な活動家そのものであった。ところが現在は初期仏教に傾倒しているではないか。彼の内面に何があったのか、これこそが当該ブログの魅力だと感じる。
確認できた事をざっと整理してみると
・純粋で疑うことを知らない活動家の心の時期
この頃は、創価村ブロガーの「ちよ氏」達と交流をしていたようである。
同志の為に同盟題目を送る、というやりとりもしていた。
・池田名誉会長を『先生』『師匠』と心から慕っていた時期
歴代会長の指導内容を日々噛みしめて糧にしていた。
『今日より明日へ』や『青春対話』を研鑽していた。
・公明党に疑問を抱き始め、その疑問を強くしていた時期
現執行部への批判を強めていた時期
この時点では某三人組などの池田絶対主義者の方々と同じ見解だろう
・創価の歴史を検証しはじめ、牧口会長・戸田会長・池田名誉会長の実像を追い求めた時期
・「創価ほどおかしな団体はない」と主張するようになる時期
「創価の信心は仏教ではないし、いわんや日蓮仏法でもない」と批判している
「ようするに、池田思想とは、仏法を恥しめる外道思想だということだ」
と、かつて敬慕していた対象を徹底的に否定している
更に
・日蓮仏法への理解・解釈を、我見により独自のものへと変形させていった時期
日蓮本仏論はおかしいと主張している(釈迦本仏論)
御義口伝も偽書との見解を示している
瞑想だの、止観がどうのこうの言い出し始める
・大乗経と小乗経という分類に懐疑的になる。
・仏教は、願いや、祈りや、誓いを立てるものではないと主張するようになる。
・「仏教は心を哲学(正しく認識)するための学びであり、
そしてそうして見出した無の心を仏法と呼んでいるわけだ」と主張するようになる
まるで唯識派の論調になる。
現在は「宗教」そのものに懐疑的な見解を示している。「宗教は他者を排除するもの」と斬り捨てている。彼の言い分によると、(特に大乗)仏教で説かれる「諸天善神」は他宗教の神々を勝手に再定義しているので、それは「結局のところ他人の思想を認めない排除性になってしうまう」らしい。更に、教義の中に国家や国王のことを説かれる宗教もダメという。そして、そのような事が説かれていない初期仏教こそ彼の理想であるらしい。
わずか数年で、ここまでバラエティに富んだ思想の変遷を辿るとは驚きである。しかし、行きついた先が初期仏教であるとは何とも残念だ。
本人は平和主義者で、護憲派であり、純粋に平和を願う心が強い。北朝鮮とは対話重視で行くべきとの見解を何度も主張されている。ある意味『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。
見たところ、イプシロン氏は虚無思想に陥りつつある。現実の生も虚無、死後も虚無と認識してるようだ。このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような我見解釈によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。
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