私は、若い夫婦の第一子として、両親や祖父母や近所に住む親戚の愛情を一身に受けて育ちました。私の父は、共産党か民青の専従で、私の家の家計は、横浜市職員として働く母が支えていました。
私は昭和47年生まれです。
話に聞くと、その前後の年は日本共産党が躍進中とのことで、母が23歳の時、父が25歳の時に私が生まれ、そのような時代に初めての子供をもうけた若い夫婦としては自然なことでしたのでしょう。物心つく前より、私は、共産党の理想と世界観を教え込まれて育ちました。幼いころは、その考えを心より信じていました。今の世の中は、仮の間違った姿で、やがてきっと共産主義の世の中に変わると信じていました。「共産主義」というものが、どのようなものだかもわかっておりませんでしたのに。
その考えが変わったのは、小学校高学年になり、自我を持ち始めたころ、世の中のことが少しずつ分かり始めたころです。両親の語る世界と、実際の世界は違うということに気づき、また、思春期特有の親への反発から、それまで信じていた両親の言うことには疑問を抱き、それを口にするようになりました。
それまで理想の子どもだった私の変貌に、両親はとまどい、怒りを感じたのでしょう。
日本共産党を「独善的」だと批判する私を、彼らは決して許しませんでした。また、それ以前にもそのようなことがあったのかは記憶にないのですが、今考えると、彼らは自我と自分の考え(彼らの信ずるもの以外の価値観)を持ち始めた私を許さないのと同時に、彼らが家庭の外で溜めたストレスを、私を叱ることで発散させるようになりました。
具体的に、覚えていることがひとつだけあります。
私が11~12歳のころ、自宅の居間でテレビを観て笑っていたら、そばにいた母が、
「くみは、ママがこんなに大変なのに、よくテレビなんか見て笑ってられるわね!」
といきなりしかりつけてきました。
具体的に覚えているのは、その一つだけなのですが、そのような経験を最近になってようやく思い出したのは、そんな風に私が両親のストレス解消に叱られるのは、毎日のことでしたので、いちいち覚えてなどいられなかったというところでしょう。それは、本当に毎日のことでした。
今考えても理不尽なことなのですが、母は、自分が不幸な家庭に育った不満を、まだ中学や高校の私にぶつけていました。母の家庭は、母の父(私の祖父)が、定職につかずに何か事業を始めては失敗していたようで、金銭的に苦しいものだったと言います。母の母(私の祖母)は、難病にかかり、まだ学生の母が家事を引き受けていたと言います。
私が中学や高校生の時、母はいつも私に
「ママは、勉強をしているとママのママに邪魔された。それに比べてくみは恵まれているんだから、もっと勉強しなきゃダメだ。なんで勉強をしないの!」
「ママは、少ないお金でどうやって夕食の献立をやりくりするか毎日苦労していた。修学旅行のお金も、ママがやりくりして苦労してつくった。それに比べてくみは恵まれているんだから、もっと家事をするのが当然だ。なんでもっと家事に協力しないの!」
とヒステリックに怒って言っていました。
その場に父がいる時もいない時もありましたが、一度として、父が母に「そんなことをくみに言うのはおかしい」
と母を注意することはありませんでした。
また、私は30歳で派遣社員として働き始め、雇止めに何編も遭い、こんなことはもう嫌だと、正規職に就こうとしてハローワークで見つけた正社員募集の求人に何十社も応募し、書類審査は通っても、面接で過去の職歴が「派遣社員」であったということが知られると応募書類が返されてきました。湯浅誠さんが述べているように、一度非正規職に就いてしまったら、再び正規職に就くのは至難の業です。
それを父は、私が家事や何かで失敗するたびごとに
「だからくみはダメなんだ。これじゃあ面接なんか通らないに決まってる。くみを雇う会社なんかあるはずがない」
と言い続けてきました。
母がその場にいても、父に注意したことは一度もありません。
私の弟は、大学を就職留年して出版社へ入社し、私の妹は、看護大学を出て看護師として働いています。父の子供のうちで、定職に就けずにいるのは私一人だけでした。自分たちが若い時いくらでも仕事があった時代をすごしてきた団塊世代の人達には、いくら党が「青年の二重の苦しみ」(6中総)と言っても、そのことがよく理解できないのに違いありません。
私が一番傷ついたのは、革新懇に応募した書類が返されてきた時、父が母に
「革新懇に落ちるようじゃ、くみはもうだめだ」
と言ったことです。私はその場にいましたので、私に言うために母に言ったのです。
革新懇の職員募集は、赤旗の日曜版で広告されていましたので、その審査は厳しく、私は書類審査に通り、次の作文審査でも通り、最終の面接で落とされてしまったのですが、私が3次審査までいったことを父は少しも評価してくれませんでした。
私の両親は、私をなんだと思っているのでしょう?
毎日毎晩、両親のうちのどちらかが中学生や高校生の私を相手に、自分のストレスを解消するために叱り続け、私の人格をも否定し続け、それをそばで聞いていた片方は、なぜ注意しなかったのでしょう?30歳を過ぎてからも、正規職に就けずに親の世話になるしかなかったという理由から、父の機嫌の良し悪しで言いたい放題に言われなければならなかった状況を、私は酒なしでどうやって耐えればよかったのでしょう?
みなさんの多くがアルコール依存症について誤解なさっていますが、アルコール依存症というのは、いったんそれにかかってしまうと現代の医学では治癒しない病気です。「くっちゃん、アル中が治ったらまた酒飲もうね」などと言われるのですが、それは実現不可能です。アルコール依存症というのは、生存率が2割ともいわれる、非常に厳しい病気です。酒はどこでも合法的に購入可能で、社会参加をしている以上、飲み会などの機会を断る訳にもいかないという、再飲酒の誘惑と機会に耐えることを、一生の間、自らに律しなければなりません。もちろん、私の両親は、そのようなことを知るどころか、知ろうともせず、自宅に酒を常備していました。
自分の身に起きたことですので、私は完全に客観的になることができませんが、明らかに彼らはおかしいと思います。私の精神科主治医は、私に自信がないのが私の不眠の原因だと言いますが、このような家庭に育ってきて、どうやって自信や自尊心を持つことができるでしょう?
重ねて言いますが、彼らは日本共産党員であり、私の父は川崎市議です。
私は、自分の家庭が「普通」ではないことから、「普通」の家庭の友人との距離の取り方がつかめず、私は友人の前では「普通」の屈託のない学生として、両親の前では、口をきかないか、口をきけば議論や喧嘩ばかりをしている子供として、その生活の「二重性」にずっと罪の意識を感じ続けていました。友達にうそをつくなんて、悪いことだと知りながら、けれど、「普通」の家庭に育った子供に、私の家庭の事情はいくら説明しても理解ができないと思っていましたし、実際にその通りでしょう。
私は、親友と呼べる友達にさえ、本当のことを語れないことに苦しんでいました。高校生のころは、学生時代で一番楽しい時でした。しかし、家庭の中は、私が両親の矛盾を説明できるような言葉を覚えれば覚えるほど、地獄と化していきました。ご存じのように、高校生というのは、生活していくことを親に頼らざるを得ない時期です。
そんな高校時代のある日、私が古本屋で立花隆氏の書いた日本共産党を批判した本を購入したことを知った母は激怒し、その本を私に捨てさせ、
「そんなに共産党がイヤなら家をでていけ。ウチにいる以上は、ウチの考えに従い、ウチの家業を手伝うのは当然のことだ」
と、ヒステリックに叫びました。
まだ「ダブルスタンダード」という言葉はなかった時代ですが、政府に対しては「憲法を守れ」と言っている共産党員が、その子供に、日本国憲法に認められた「思想の自由」を認めないことに私は怒り、絶望しました。
本当に不思議なことなのですが、母は、そんなことがあったことを今ではまったく覚えていません。それだけではありません。
私が二十歳になって得た選挙権を行使する初めての選挙の時、両親は、それまでの選挙と同じように活動にかかりきりで、普段から共産党と両親を批判ばかりしている娘に、選挙について時間をとって話し合いをすることはしませんでした。
投票日当日になって、母はいきなり自宅へ電話をかけてきて(たぶん、私が投票場に行っていないことを、後援会か党の誰かから聞いたのでしょう)、「早く投票場へいきなさい」と、私が自我を持って以来、初めて聞く優しい声で言いました。私は、「投票場へ行って、どこに票を入れればいいの?」と、最後の糸にもすがる思いで母に訊きました。しかし、母の答えは、予想通りというか、私が「こうあってほしい」と思うものとは正反対のもので、「共産党に決まってるでしょう!」というものでした。
私は、その日、高校の時の友達を家に呼んで、冗談を言って笑い合っていました。その電話のやりとりを友人は聞いていました。私は、母への怒りと、その友人へのすまなさでいっぱいになりました。それ以来、入党するまで、私は選挙のシーズンを、不眠とそれにともなう激しい飲酒欲求と、ある時は激しい頭痛に耐えながら過ごさねばなりませんでした。これも母は、まったく覚えておりません。
去年の1月に、母にこのことを思い出させようとしたら、
「たぶん選挙で余裕がなくて…」
というようなことを言いました。
選挙での得票が、実の娘を長年苦しめることとなる精神的苦痛よりも大事なことなのでしょうか?そんなことがあったことを、きれいさっぱり忘れてしまえるくらい。私の「思想の自由」は、たかが選挙の一票にも劣るものなのでしょうか?共産党の議席を伸ばすためには、正しいことばかりも言っていられないということなのでしょうか?
自分の育った家庭に「思想の自由」があった人達には想像がつかないことだと思いますが、それがないということが、どんなに子供の精神をむしばむか。その子を追い詰めるか。
こんな狂った家庭に暮らしていて、私はどうやってアルコールの助けなしにやっていけばよかったのでしょう?
これでは、私の両親は、創価学会員と同じではありませんか。学会員の親を持った子供と私との違いは、創価学会では棄教すると地獄に落ちると教えられていて、共産党にはそれがないだけです。まあ、私の方がまだましだというところです。
私は、2004年の参院選の時に、派遣先を雇止めになったことを良い機会とし、自動車運転免許を取得するために教習所へ通っていましたが、あまりに頭痛がひどいので、教習所通いを断念せざるをえませんでした。どうして選挙は春が多いのでしょう。その年の選挙が秋であったなら、私はその春に免許がとれていましたのに。私が自動車運転免許を持つことができたのは、2011年です。
その選挙の春、私が自分の洗濯物を洗濯するために、両親が寝ていた居間のそばの洗濯機をまわしていたら、いきなり父が
「うるさい!何をやってるんだ!人が寝てるんだぞ!自分さえよければいいのか!人のことを考えるということは思いつかないのか!どこまでお前は自分勝手なんだ!」
といつもの調子で怒鳴りつけ、私の人格を否定しました。
もう自宅にいたくなくて、選挙が終わるまでを、高いお金を払ってウィークリーマンションを借りてそこで過ごしていました。私が、選挙のためにウィークリーマンションに避難したのは、その一度きりです。
2010年に、赤旗の「読者の広場」に母の投書が採用されましたが、母は、私のことを
「医者のすすめもあって選挙期間はウィークリーマンションに避難するという生活が何年か続いた。」
と書いていました。
こんな重要なことを覚えちがいするということにまずびっくりしたのですが(だいたい、私がウィークリーマンションに避難することについては、精神科主治医のすすめなどではなく、全くの私の考えです)、思えば、私はあの時に母の異常さに気付くべきでした。
母は「長女は、共働きでそのうえ活動に明け暮れる共産党員夫婦の一番目の子。(このフレーズは、私が両親と共産党を糾弾した私小説を剽窃したものです)そのプレッシャーからか精神が不安定で、選挙になるとことさら落ち込む」とも書いていました。
私の精神疾患罹患を、自分たちの責任だとはつゆとも思っていないのです。私の弱さの責任にしているのです。
私達きょうだいが、両親の留守をきょうだいだけで過ごしていた時は、まだ携帯電話のない時代です。普段から自宅は電話が多く、私達きょうだいはかかってくる電話を交代で受けていました。選挙ともなると、その電話は20分おき、10分おきです。私達きょうだいは、両親が「どこそこへ行ってくる」とは、まるで聞いていないのが常でしたので(また、そんなことを言われても私達は困りましたが)
「お父さんは(お母さんは)どこに行ってるの?」
という電話に、いつも
「知りません」
と答えてきました。
たいがいはそれで済むのですが、なかには怒り出す人がいました。
特に、父が議員となってからは、困った人から自宅へ電話がかかってくるようになっていました。困っている人と言うのは、相手が子供でも、私が父や母の所在を知らないことに腹を立て、私を叱りつけてきます。そのことで私が両親に文句を言っても、彼らはまるでとりあってくれませんでした。子供が、自分たちの活動や仕事のことで深く傷つくということについて、なんとも思っていませんでした。
私がどんなにくやしかったか。どんなに情けなかったか。
せめて彼らが、私の言うことを一度たりとでも聞いてくれていたなら。
そうしたら私が、こんな病気を抱えてしまうこともなかったでしょうし、私が彼らを傷つけるために、自分自身を傷つけることもなかったでしょう。
私が父の浮気の八つ当たりで母に殴られ、睡眠導入剤を毎晩大量に服薬していて、そのために妊娠できないから注意するようにと言われ、日本共産党を訴えようとしてできなかったのは、28歳の時です。その時、実家が引っ越しをするのと同時に一人暮らしを始めました。上司との人間関係のトラブルから、それまで勤めていた正社員の職は辞したのですが、すぐに派遣社員としての仕事が見つかりました。けれど、派遣社員というのは、ご存じのとおり非常に不安定な職業です。私は、派遣の「つなぎ」が悪い間に生活費に困り、消費者金融の多重債務者となりました。
多重債務者となり、派遣先も見つからなかった29歳の春に、私はその当時住んでいた4階の団地のベランダから飛び降り自殺をはかり、奇跡的に助かりました。酒に酔ってのことだと思います。酔っていなかったら、飛び降り自殺に失敗するような高さから飛び降りることはなかったでしょうから。しらふであったなら、確実に死ねる高さから飛び降りたはずですから。
昔から私は、私の両親の間違いを告発し、彼らを痛めつけるために、自分自身を痛めつけてきました。
どういうことかと言うと、お金と時間のある時は常に酒を飲み、街で知らない男に声をかけられれば、すぐにホテルへ行きセックスしてきました。一度など、向こうから声をかけてきたにもかかわらず私は売春婦と間違われ、セックスが終わると1万円をもらいました。また、銀座でホステスとして勤めていたころは、来る客来る客全員とホテルへ行き、セックスしてきました。酒も浴びるほど飲みました。
私は、自分自身を痛めつけることが、私の両親を痛めつけることだと思っていました。
だから私は、89年に足立区で起きた、日本共産党員の息子さんが起こした猟奇的な監禁殺人事件に共感できるのです。その息子さんを野獣にしたものが理解できるのです。彼が被害者の女の子にしたことはインターネットの情報で知りましたが、その内容が猟奇的であればあるほど、私にはその息子さんの怒りが痛いほど分かるのです。それは私の怒りだからです。
彼は、両親への怒りを被害者へ向けていて、私は、両親への怒りを自分自身に向けていただけの違いです。もし私が男に生まれていたら、彼と同じような事件を起こしたでしょう。そのくらい、日本共産党員というのは、実の子供の人格を否定することを躊躇しないからです。私の知っている日本共産党員というのは、ということですが。
私は、私の両親以外に親というものを知りませんので、共産党員であり、党の思想を家庭でも子供の教育でも実践する人達がいるということが、うまく想像できないのです。話には聞きますが、そのようなことはSF小説の世界です。
これを読んでいる人にとっては、私の家庭が、趣味の悪い小説の世界でしょうけれども。けれども、これが私の現実なのです。
私は、小さな頃は、川崎市の公害病であるぜんそくの発作を度々起こしていました。
私のアレルギー反応テストに、「ハウスダスト陽性」という結果が出たのにもかかわらず、母は私の病気を気づかうことよりも活動を優先し、家をめったに掃除せず、家の中はいつもほこりまみれでした。また、父は、私が気管支の病気で度々発作を起こし、父の目の前で息ができずに苦しんでいながら、煙草を吸うことをやめませんでした。発作を起こしている私の目の前で煙草を吸っていました。
前職の同僚から、「私の友達は、子供がアレルギーだからいつも掃除に必死だ」ということを聞いた時、私がどんなに傷ついたか。私の父が、看護師となった妹に、「このまま煙草を吸っていたら、パパはCOPD(気管支の病気)になって酸素ボンベを手放せなくなる」と言われ、すぐに煙草を吸うのをやめた時、私がどんなに複雑な思いでいたか。
私が、「自分を大事にする」ということがどういうことなのかがよく理解できず、そのために自らすすんでアルコール依存症となり、誰とでもセックスをしてきたのは、特に不自然なことではないと思います。
私は、矛盾だらけの家庭の事情から、高校のころより不眠に悩むようになりました。
心理的な問題だけではありません。狭いアパートの2階の部屋に、2段ベッドで私は寝ていたのですが、両親が酒を飲みながら大声で喧嘩や議論をするのは毎晩のことで、本当にそれはうるさいものでした。
1:活動のことで大声での議論。
2:母が「くみはおかしい」というようなことを、父と話し合う声。
3:母が、父の浮気や外での飲み会で、毎晩遅く帰ることに連絡ひとつよこさないことを父につめより、ヒステリックに叫ぶ声。
(父は、若い時から党や後援会関係の女性と、たえず浮気をしていました。母は、自分 たちの立場上、それを誰にも言えずに常に子供たちにあたっていました。
ある時の父の相手の女性は、妹の幼馴染の母親です。また、その女性の父親は、私達家族が昔から家族ぐるみで親しくしている党の人です。私は、銀座でホステスとして働いていた経験から、セックスのない浮気などありえないと知っています。父は、そのような女性とセックスをしたのです。)
上記3点のいずれかが、毎晩あるのです。それでなかったら、私が両親とけんかしているかです。もちろん、いずれにせよ安らかに眠りにつけるはずがありません。
私は、小学校に上がる前から、党や後援会の集まりで酒に酔った大人たちから酒を飲まされていましたので、不眠を解決するために、父の晩酌の残りを口にすることに何の疑問も持ちませんでした。未成年が酒を飲んではいけないという理屈は、どこか遠い、建前でなりたっている世界のものだと思っていました。
酒を飲むと眠れるのと同時に、私が抱えている両親への怒りをうまく発散させてくれることを知りました。私は、大学に入ってバイトを始め、お小遣いを多く持てるようになると、酒を買って日常的に飲むようになりました。私が両親の持つ矛盾を知りながら、その両親の世話にならずには生きていかれないという状況で、怒りを生きていく原動力とし、その怒りをうまくコントロールするには、酒の力が不可欠だったのです。
私はもともと酒が強い体質でしたので、酒量は増えていきました。日常的にビールや安いワインを飲むようになり、25歳のころは「このままではアル中になってしまう」と思い、「でも、私がアル中になったら、いくらなんでもパパやママは、自分たちが私にしてきたことを知るだろう。娘をアル中にするなんて、自分たちの何が間違っていたのだろうと疑問を持ち、自分たちの行いを反省するだろう」と期待をしていました。
今から思うと、ここまでひどい家庭に、よく二十歳を過ぎても暮らしていたのだと思いますが、その当時の私は、両親を憎みながら期待していたのでしょう。彼らが、本当はまともな人間であることを。私の血肉を分けた人が、少なくとも人として受け入れられるような存在であることを。
私は、両親に、自分たちが私にしてきたことを知り、後悔して、私に謝罪してほしかったのです。そのようなことを思うほど、私は彼らを愛していましたから。私は愛を知っていて、両親を憎みたくなどなかったのです。そして、自分の生きていく原動力が、怒りであることをやめにしたかったのです。
しかし、その望みはとうとう叶えられませんでした。
私が27歳でアルコール依存症の診断をされ、三郷協立病院(精神病棟)に入院しても、彼らは、彼らの何が私をアルコール依存症にさせてしまったのかの疑問を少しも持たず、そのために、アルコール依存症を回復させるためには不可欠な「アルコール依存症とはどのような病気なのか」を学ぶ家族会に出ようなどとは微塵も思いませんでした。
なので、私がその病院を退院したあとでも、彼らの長年の習慣である、毎晩の酒を飲んでの大声での議論をやめず、自宅に平気で酒をおいていました。私は、アルコール依存症患者であるばかりではありません。睡眠導入剤なしには眠りに就けない不眠症患者です。
彼らはどうして、私に静かな夜を与えてくれなかったのでしょう?
子供が不眠で苦しんでいても、毎晩大声で議論を続け、その子が一生治らないアルコール依存症患者でも、自宅に酒を常備するというのは、どういう精神構造の持ち主なのでしょう?もし、私があのまま正規職に就けずに実家で暮らし続け、いつか連続飲酒で命を失ったとしても、彼らは、「読者の広場」の投書と同じように、それを私の弱さの責任にするのでしょうか?
私が、何かあるたびごとに、自宅に常備されている酒を飲酒してしまったのは、私の意志の問題ではありません。アルコール依存症患者が断酒を続けるのに一番重要なことは、患者の意思ではなく、患者の周りから酒を遠ざけるという環境です。
私は、去年の10月に、私の実家の部屋のすぐ隣にある冷蔵庫に常備されている発泡酒を飲み、それだけではあきたらず、毎晩ワインを1本あけていました。実家を離れ、私を再飲酒させる一番の原因の「両親への怒り」がなくなると、飲酒欲求は嘘のようになくなりました。そして、住む家に酒が常備されているというのが、どんなにストレスの大きいことであったかを知りました。
私は、湘南民商で正規職員として働くことができ、自活できるようになって、少しずつ私自身を回復させることができる自信がついてきました。
しかし、先週、私と両親との確執を話してある友人に、私の父のことをネタに冗談を言われて以来、その自信がゆらいでいます
私が両親にされたことは、その友人が言うように「誰にでもある」ことなのでしょうか?私が幼いころから党の関係者に酒を飲まされ続け、結果的に日本共産党にアルコール依存症にされたといっても過言ではないという状況は、誰をも責めることができないものなのでしょうか?高校のころより不眠で悩み、アルコール依存症とは別に、不眠症で2度も精神病棟に入院し、25歳以来睡眠導入剤なしには眠りに就けず、肉体労働も事務仕事も、毎晩服薬して働き続けたことについては、別に誇れることではないのでしょうか?その当時飲んでいた睡眠導入剤の量では、薬事法により2週間分しか処方が許されず、1か月に2回、貴重な土曜日の休日を、精神科クリニックの待合で過ごさねばならなかったことについては?
では、いったい、私は何を誇りに生きていったら良いのでしょう?
私には自信がまるでありません。
生きていくことに理由が必要で、その理由をうまく見つけることができません。何しろ私は、ずっと両親のストレス解消のはけ口として生きてきて、毎晩のように父か母に人格を否定され続け、しかも彼らは、そのことを少しも覚えていないのですから。
今でもうまく信じることができませんが、去年の1月、母は私に
「ママは、くみに思想をおしつけた覚えはないのよ。ママはそんな狭苦しい人間じゃないもの」
と言いました。彼らが、私にしてきたことを悔いるばかりか、そのことは記憶にないというのです。
母がヒステリーを起こさなくなったのは、退職してからです。横浜市の職員として働いていたころは、毎日ヒステリーを起こし、私を理不尽な理由で叱りつけ、口を開けば「疲れた」「眠い」「腰が痛い」「肩が痛い」「こんなに痛いのは、きっと腎臓が悪いのに違いない」「きっとがんに違いない」などと言っていました。
母が体調の悪さを嘆くのはしょっちゅうのことで、いくら家族の者が「医者へ行け」と言っても医者には行きませんでした。母の母が、難病を利用され、病院に薬の人体実験にされて死んだということがトラウマになっているとのことです。そのことについては、母の問題なので、私には関係のないことだと思います。
しかし、私が不眠に苦しみ、毎晩大量の睡眠導入剤を飲むことについても苦しみ、本当に苦しんでいる時、台所で薬を飲むためにコップから水を飲んでいた時、母が、
「そんなにクスリ飲まなきゃ眠れないの!そんなにクスリが必要なら、眠らなければいいじゃない!」
とヒステリーを起こしたことを、そのトラウマを理由に正当化するのは、決して許されないことだと思います。例によって、母は、そんなことがあったことなど忘れていると思いますが。
自分に都合の悪いことをきれいさっぱり忘れてしまえるというのは、どう考えても精神に障害があると思います。母だけではなく、娘の幼馴染の母親とセックスをしてきた父は、性的倫理が破たんしていると思います。
私は、精神に障害のある母親を持ち、性的倫理の破たんしている父親を持っていたことを、今になって知るのです。
母が私にしてきたことを少しでも覚えているならば、そして、私がこんなに長い間苦しんでいるアルコール依存症と不眠症という精神疾患を得たことに少しでも責任を感じているならば、今実家を離れて暮らしているその娘に、絵文字入りののんきなメールを送ってよこすなどということはできないはずです。
私は、母がメールを送ってよこすたびに、私の過去が「なかったもの」とされていることを知るのです。私の精神疾患さえも「なかったもの」とされていることを知るのです。私へ米を送ってくる梱包に、母は、彼らが毎晩飲むために酒屋で注文している発泡酒の段ボールを使いました。藤沢市の資源ごみの回収は2週間に一度です。私は、次の資源ごみ回収の日までを、二度と近寄りたくないアルコール商品の意匠とともに暮さねばならないのです。私がようやく持つことができた、一人暮らしの部屋で。
母の体調が悪くても、母の都合で医者へ行けないのならば、体調の悪さをしょっちゅう口にして、家族にストレスを与えるなどということはあってはならないことだと思いますが、私の育った家庭には「あってはならないこと」が多すぎて、私は、「何が正しくて、何が間違っているのか」の基準を、私の自我の中に適切におさめることができません。
自分の生まれ育った家庭が間違いだらけなのです。それを両親は私一人に押し付け、周囲の人間からは評価される存在であり続けたのです。自分の両親が明らかに間違っていることを知りながら、それが周囲にはまったく気づかれないという事実も、私を不眠症にし、アルコール依存症にしました。
私が自我を持ってから、彼らが退職や高齢化して彼らのストレスがなくなるまでの間、私は彼らのストレスや矛盾を回収するディスポーザーであり続けたのです。彼らは、なんでもそのディスポーザーに投げ込みました。たぶん、私は優秀なディスポーザーの資質があったのでしょう。私の両親ばかりでなく、私が社会にでて知り合った何人かの人達が、彼らのストレスや性的欲望を私に投げ込んでいましたから。
しかし、いくら私にそのような資質があったからといっても限度と言うものがあります。そのディスポーザーがキャパシティを超え、不具合を起こしても、私の両親は、自分たちの行いを反省することなど思いつきもしませんでした。
成長し、大人になって、社会に参加できるようになって知った「正しいこと」と、私が成長する過程で経験した「間違ったこと」との齟齬はあまりにも大きくて、これも、私の自我の中には収めきれません。
ちょっとしたことで、その齟齬は私を引き裂きます。
あることがあって、私は真剣に死のうと思い、でも、死ぬ前に私の気持ちを、精神科主治医以外の誰かに知ってもらいたいと思い、党の知り合いに電話しました。その電話をしている1時間の間、私はずっと泣き続けていました。電話の相手は私の気持ちを理解してくれて、おかげで私は死なずにすみました。しかし、私が生きるか死ぬかの差は本当にちょっとしたことなので、これから先の人生も、私の選択肢の中の一つに常に死があることには変わりがないでしょう。
私はなんのために生まれてきたのでしょう。
両親のストレスのはけ口として毎日毎晩叱られ、人格を否定され続け、思想の自由を奪われ、28歳の時に「あなたは毎晩、睡眠導入剤を大量にのんでいるから、妊娠はできません」と精神科医に言われ、その当時恋人がいた私は、怒りと絶望から日本共産党相手に民事訴訟を起こそうし、そのことを知っている両親が、自らを少しもかえりみないということを、どうとらえたらいいのでしょう。
そして、私が今一番恐れていることは、足立区で起きた日本共産党員の息子さんが起こした猟奇的な監禁殺人事件に共感できることと、私が、私の精神疾患を抱えながら生きていくことが、日本共産党を糾弾することになるのではないかとの思いです。日本共産党員たちに、一生治らないアルコール依存症にされて、不眠症にもされ、睡眠導入剤なしには眠りに就けず、いまだに定期的に精神科に通院しなければならない私の存在そのものが、日本共産党にとっては害悪となってしまうのではないかとの思いが頭を離れません。
両親を憎めば憎むほど、私には両親と共産党の区別がつかなくなってきて、私がこんなに愛する日本共産党に、こんなに苦しんでいる不眠症とアルコール依存症と言う病気にさせられてしまったという事実に耐えられなくなってくるのです。
私がなんのために生まれてきたのか、肯定的な理由が思い浮かびません。
私は、両親のストレスを解消するために生まれてきたのでしょうか?その結果、いくら私が傷つき、アルコール依存症と不眠症という病を得ても、それは、特に彼らを責められるものではないのでしょうか。退職や高齢化して、これまでのことが嘘のようにストレスがなくなった両親が、そのストレスのない日々で、私に何をしてきたかを全部忘れ、彼らが私にしてきたことを「なかったもの」とし、私に対して屈託のない友好的な態度をとることを受け入れなければならないのでしょうか。
それを「なかったもの」とするということは、今後一切、自尊心を持てないということです。自尊心を持てないばかりでなく、私が私の全存在をかけて、自分の健康さえも捨てて、「あなた達は間違っている」と訴えてきた過去が抹殺されるということです。
自尊心を持てなければ、私の不眠症は治りません。私は、どうやって私の両親のことを考えに入れずに、私の自尊心を取り戻せばいいのか見当もつきません。私の過去が抹殺されるとすれば、私は、今の私を形成している過去を認識することができず、それはすなわち、やがて私にあらたな精神疾患を得させるだろうということです。私は、これ以上不健康になりたくありません。たすけてください。
私のまわりには、3つの現実があります。
私が2つの精神疾患をかかえるくらい、学生時代に両親のストレス解消のはけ口となっていたこと。
②それを、母が「なかったもの」とし、私に対して屈託のない友好的な態度で接すること。
③、①・②を知らせてある友人が、「そんなことはよくあることだ」と言い、私の両親に対する確執さえも、冗談のネタにすること。
どれも気ちがいじみていて、とても私の処理能力の範疇を超えています。このまま、私の自我を健康に保ったまま、私の両親と接するのは不可能に思います。私は、どうしたらよいのでしょうか。
今はまだ食欲がないくらいのもので、やっていけています。
しかし、この状態がいつまで続くか、それとも、日常にまぎれて特に問題はなくなるのかの判断は、今はつきません。そして、特に問題がなくなったからといって、根本の問題が解決するわけではありません。
いくら友人達に好かれ、いくら周囲の人達に好意を持たれようと、私には、自分の存在の根っことすべき「核」がないのです。
それは、本当に苦しいものです。
2012年3月1日
ちくま くみ
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