※坂東23番霊場の観世音寺は平成24年9月18日付で古より続く 「正福寺」という名称に変更させて頂きました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
笠間市の常陽銀行から笠間城址の方へ道をとりますと、笠間市営無料駐車場が見えて来ます。 駐車場の道路はす向かいには「観世音寺」というシルバーの柱が・・・。 柱を右に見ながら参道を入って行くと、春には山頂に続く沢山のつつじが出迎えます。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 『佐白山縁起』によれば、白雉二年(651年)狩人の粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍で護る霊木をもって千手観音像を仏工に刻ませ、安置した事にこの寺は始まりました。 山号は三白山。やがて孝徳天皇の勅願所となり、 のちに「誠に尊徳日々に新たなれば、 漸妨舎繁栄して既に一百余宇の僧坊有り、 今の土民の家宅は古へ皆僧坊の跡と申し侍り」 と『縁起』は往時の盛況を記しています。 実に鎌倉時代初頭までには、既に関東における有数な観音霊場になっていたのであります。 ところが近隣の徳蔵寺との寺領の争いがきっかけとなり、宇都宮頼網の命をうけた宇都宮氏が 正福寺を襲って堂宇を破却し、そこに築城、笠間氏を名乗り徳佐二山の寺領まで占有してしまいました。 時に建保二年(1214年)でした。 佐白山 観世音寺写真 頼網は時朝の伯父にあたり、 平安中期から戦国時代におけるこの辺の豪族です。 しかも笠間氏の宗家にあたっているので、 その命には従わざるを得なかったのでしょう。 時朝はその後、戦没僧侶の亡霊に悩まされ、 悪業の恐ろしさに観音の宝前で懺悔、 忠円阿閣梨を招いて観音堂を再建しました。 しかも幕府に無断で用兵、築城した咎により罰せられましたが、 観音さまの霊験によって助けられ、それより「佐く」(たすく)の文字を使って、 三白を佐白とあらため山号としました。 そして六ヶ坊を建てました。 因みに、時朝は鎌倉初期の歌人で『後選集』に名をつらねています。 それもそのはず、父の朝業は将軍実朝に仕え、その死去にあたって出家、「信生」を名のって、 のちに「信生法師集」を残している有名な歌人です。 佐白山 観世音寺の写真 かくて笠間氏は約400年の間、代々がこのご本尊に崇敬の誠を捧げ、 七堂伽藍をそなえる霊場としていきました。 永禄8年(1565年)笠間高広は三重塔の第一層を、 その子の広直が第二層を寄進しているなどがそれであります。 しかし、天正18年(1590年)宗家である宇都宮氏により亡ぼされ、 時朝より18代で笠間氏は絶えました。 以来この寺は衰亡に向かい、わずかに宥明上人がご本尊を一坊舎に移して<衆庶の参詣にこたえる有様でした。 現在の地に仮本堂が建てられたのは昭和5年のことで、 遷座をよぎなくされきた本尊を迎え、寺名も正福寺と改められました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||