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対話の外野部屋

葛西氏との対話の、外野部屋です。

基本誰でも自由に出入り、コメント書き込み可能としています。当然の話をしますが、常識はわきまえた行動を取って下さい。

50コメント以上となった場合、新たなページを作成します。

元記事…「ブログ&コメント義
外部コメント用…「対話の外部部屋

この対話に関連性のある記事を下に記しました。もし良ければ目を通して下さい。

人影の無い議論

塚原問答様法論

胸躍る仏罰

 

MonLinGen管理人(2018年1月17日 19:47)

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対話の外野部屋” への1件のコメント
  1. miu より:

    monligenさんへ

    葛西さんの文章をコピーして太字にして、その下に回答をかいてほしいです。
    葛西さんの質問と葛西さんの質問の間にmonligenさんの回答を入れて下さい。

    注文つけてすみませんがどの質問の回答かわかりにくいので宜しくお願いします。

    • monlingen より:

      miuさんへ

      こんにちは。
      全て別掲載にしたいんですけど、結構質問内容の同種性があって、そこに様々な返答を加えていくとなかなか分離出来ません。
      少々読み辛いですが、我慢して頂ければと思っています。

  2. miu より:

    monligenさんへ

    葛西さんとのコメントのやり取りを私が折伏する時の参考資料にさせていただきます。
    野次馬ではありません。念の為

    葛西さんとのコメントのお返事を最優先させていただいてかまいませんが、私もmonligengenさんの考えをお聞かせいただきたく宜しくお願いします。

    ①幸せになった人がどれだけ増えたかが実証

    幸せといっても捉え方は人それぞれです。

    交通事故にあっても、死なずにすんで不幸中の幸いと前向きにとらえる方もいれば、不運な事がおきた。難を乗り越える信心、難とか魔とか解釈なさる方もいます。

    幸せと言うのは自分がそう感じれば良いというお考えでしょうか?
    自分以外の人が幸せだと認めてもらってはじめて幸せとお考えでしょうか?

    ②本尊義
    駄目だしさんにも言われてましたが、自分の家で安置してる本尊の説明も出来ないのはもはや宗教ではなくただ祈ってるだけ
    monligenさんのやってる事は祈りでしょうか?
    創価学会は日蓮世界宗と言ってますが?

    ③実証
    ①と質問が似かよってますが、実証といっても、功徳と体験発表してますが、法華講員も退会して良かった功徳の実証体験発表しています。
    本人が実証と感じても全ての人がそれを実証とは思いませんし、創価を退会して良かった実証を退会者は発表してるので、実証といっても、あまりにも曖昧で不透明です。

    駄目だしさんの言うように、宗教なら教義があり、その中の文章を取りだし(文証)、その文章の辻褄、すじが通ってるか(理証)、それがその文章どおり生活に役立ってるか(現証)

    先ずは文証、次に理証、そして現証になると思いますが、どのようにお考えでしょうか?

    何度もしつこくすみませんが、これは批判ではありません、折伏するには、何を話そうとかどう答えようとかロープレしたいだけです

    もうひとつごめんなさい
    アンチは腐ってると言ってますが、創価を批判したら腐ってる事になるのですか?
    それでもかまいませんが、学会員には納得してもらえても、非会員は言葉を補足しないと納得してもらえないと思います。

    • monlingen より:

      Miuさんへ

      ありがとうございます。
      幸せの定義の十人十色と言う事は、十分承知しています。しかし、私は先生の指導の中の「幸福」の話を全て中心に考えて、そして話しています。
      先生は「幸福とは絶対負けない境涯だ」という意味の事を言われています。私も、本当にそうだと思っています。個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。
      この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です。

      御本尊のことは、大事だと承知しています。しかし、それ以上に我々の問題として「御本尊に向かう自分」はもっと大事なんではないでしょうか?
      アンチで盛んな「本尊義」の決定的な間違いは、「自分」がどこにも居ないと言う事なのです。これはしっかりもう一度考えて欲しい問題です。
      日蓮大聖人直筆の御本尊だとしても、自分自身の信心が御本尊に向かっているか、全くあっちを向いているか、この違いで「功徳」が違ってきます。当然宿業転換も違ってきます。
      本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。

      実証。功徳、と言い換えます。
      功徳は非常に「個人的な感覚」です。当然です。
      その個人的な功徳の体験を、更に自分の実感として深化する為に「体験発表」があるのです。(勿論これは一つの在り方ですが)
      「五十展転の功徳」、耳にしたことがあると思います。最初の人の功徳の感動を聞いて、50人迄の感動の功徳は、仏陀への供養をした功徳よりも更に大きい、と言う意味の話です。体験談とはそう言う意味を持った、非常に大事なものなのです。
      文証も理証も大事だと言う事には異論はありませんが、大聖人の仏法の最第一は「現証」なのです。もう一度御書を開いて下さい。必ず現証、功徳の話をされています。文証や理証は「現証、功徳」の単なる「説明書き」でしかありません。これを大事に出来ない「ダメ出しは」謗法以前の連中だと言えます。

      創価学会は正しい道をしっかり歩いています。私はそう確信しています。その学会の道に立ちはだかろうとする人間は、「腐った人間」です。正しいことを邪魔するわけですから、そう言われてもし方がありません。
      平和運動も学会の一つの運動です。若しその運動に対して「戦争賛成!!平和運動反対!!」と言う人間が、若しでてきた場合、貴方はどう思われます?
      私は、馬鹿な連中だと思いますけどね…。

      御本尊は世界中の人々を「幸せにする為」に存在します。それはまさに、現証そのものです。
      現証が見えない人って、寂しい人ですよ…。

  3. うるとらまん より:

    某ブログに、何度か、コメントしたことがあります。
    とても、丁寧に対応してくれました。
    某ブログさんは信念を持ってブログを運営しています。
    ネットで話し合いをしてみようと思ったことはあります。
    しかし、その前に、許されるなら、一度はお会いして
    話をした方が良いと思いました。
    そうでないと、ブログからのイメージが強すぎて判断に戸惑うと思いました。

    管理人さんが某ブログで、どのような話し合いをしたのか、分かりません。そういう状況ですが葛西さんと管理人さんとの話し合いを読んで感じた事を書かせて頂きます。
    そんな話し合いをして、何の価値があるの?疑問に思いました。
    葛西氏、管理人さんの博識、教養の深さには感銘します。

    私には、とても、お二人のような高度な対話はできません。
    しかし、それが、実践、つまり、現実の生活の信仰に価値的とは思いません。
    柔ちゃんが、大学の卒業論文で背負い投げの考察をしていました。
    学術的には価値があるかも知れません。しかし、そのような論文をいくら勉強しても
    実際の試合には活用できることはありません。
    お二人のは話し合いを読んで、それが、どうしたの?それで、どうなるの?
    とおもってしまいました。
    お二人にお聞きします。
    お二人は、どのような思いで話し合いをしていますか?

    • monlingen より:

      うるとらまんさんへ

      こんにちは。私の、今回の対話に関して、個人的な感想を記します。
      もうほぼ記憶の彼方にある「ダメ出し」での経験の話でしたので、かなり面倒臭い気持ちでいます。葛西さんは何故こんなに燃えているのか、少々理解不能の状態でもあります。でも、まあ彼はこう言う事が好きなんだとも思っていて、お付き合いも一つの勉強なんだろうとも…。
      ただ、一度に一杯の質問が出てくると、かなり厄介な気持ちにもなります。私も仕事持ちですので、少しずつ回答を書きながらの、返信コメントです。

      私の考えは、うるとらまんさんと同様で、現実の功徳の話の方が大事だと思っています。また、葛西さんの返答にも同様な趣旨の話は記載しています。でも、読み飛ばしているようですね。…興味の問題なんでしょうか?

      長くなりそうな予感です…。

  4. しゃかーく より:

    管理人さんは重要な点を感得でごまかす。

    この指摘は正しいと思います。質問に対して合気道の例を出したりで大事なところは言葉で語らない。ごまかす。

    全く無価値な対話ですね、こりゃ。

    • monlingen より:

      しゃーかくさんへ

      どれだけ深遠な内容の対話でも、ゴミのような精神状態で聞くと、「全く無価値な対話」に感じるようです。

      人の真剣な対話をどう聞くか、読むか…全て貴方自身の「境涯」だと言う事を、そろそろ理解すべき年齢なのでは……?

  5. さくらもち より:

    monlingen閣下を応援しています。
    まさに創価学会員の模範だからです。

    >個々の様々ある個人的な幸福や幸せも勿論大事ですけど、根源的には「強くあろうとする自分」が、結局「幸福な人」なんだと思っています。
    この事実はアンチには決して理解出来ない「幸福論」です本質は、物理的な御本尊ではないのです。自分の「信心の在り方」なのです。<

    ですよね。
    小樽問答を武勇伝にはできなくなってしまったけど、題目さえあれば御本尊はなんだていいのです。あれ?身延と同じ・・・とか、そんなうるさい事を言っては前進がありません。

    昨今、世間に迎合してなまっちょろい事を言う学会員が多い中、閣下のビシ!とした論調は、正しく創価学会を理解するには貴重なブログだと思います。

    その調子でこれからもどうか頑張ってください(^_^)/

    • monlingen より:

      さくらもちさんへ

      こんにちは。どう受け取っていいのか悩むような記述方法ですけど、ここは善意に受け取るべきなんでしょうね。
      ありがとうございます。

      「あれ?身延と同じ…」と言われています。でも私は、身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。まあ、これは個人的な考えなので、大っぴらには出来ませんけどね。

  6. より:

    あら、「対話の目的」
    は まだ決まってなかったのですか?
    葛西さんが最初に書いておられますけど。

    「ブログ・コメント義」より
    ———————————————————

    ・参加者
    貴殿のダメ出しブログでの言動がかなり愚昧だったと考えている私と、
    それが誤っていると思う貴殿。

    ・目的
    上記の意見の相違が、
    どのような具体的なコメントに対する評価から生じているのか明らかにする。議論の進行によっては、双方自らの誤りを認め意見を修正する
    —————————————————————–

  7. より:

    >貴方達は、学会とは全く別の世界に身を置いている訳ですよね。その事実をもう一度考えて見るべきです。

    「貴方達」って、対話の相手は葛西さん一人ですけど?
    一括りに言っちゃうのはどうかと思います。
    地球人は学会とアンチの2種類だけではありません。
    私と葛西さんは全く別の世界に住んでいるし、
    考え方もモノの見方も何もかもぜんぜん違います。

    • monlingen より:

      声さんへ

      対話の目的
      …これは、私からの「対話の目的」の提示です。何か理解不能の部分がありますでしょうか?その上で、彼の目的を聞いただけですが…。
      お互いはっきりしていた方が、対話も楽しいはずですよね。

      貴方達
      …文脈から理解出来ない人は、再度話しても無理だとも思いますけど、「貴方達」というのは「アンチ学会員」という意味です。意味を取り違えないようにしているだけです。よくかみ砕きながら、読んで下さいね。

  8. さくらもち より:

    monlingen閣下!
    お返事ありがとうございます!

    >身延の御本尊でも(当然本尊の記載内容は問題ですけど…)、こちらの信心さえあれば、しっかりした現証は出得ると考えています。<

    よくぞ仰ってくださいました。
    これを大っぴらに言えない学会員が多いと思います。
    故に、日蓮正宗に大御本尊があるのを歯ぎしりしながら見てる学会員もいるかと・・・。

    閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。
    (実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~)

    • monlingen より:

      さくらもちさんへ

      古美術商から「御本尊」を購入されたんですね。なかなか立派な信心をお持ちの方のようです。

      「信心」をどう考えるか、どう見るか…非常に難しい問題ですね。簡易な在り方では、信心の「し」の字の話も出来ないと思っています。

  9. monlingen より:

    こういう感じの場所には、アンチ系の人間は嬉々として割り込んでくるようですね。

    でも、こんな雰囲気は個人的には大好物です。全て勉強になる「お言葉」ばかりです。葛西さんも、これは皮肉ではなく、凄く力強い気持ちになっているだろうと想像します。
    そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
    その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。

    頑張れ!!葛西さん!!

    • 葛西 より:

      以下の記述の意味が全く意味がわかりません。
      よろしければ講釈ください。

      私の読解力のなさによるものでしょうか?貴殿の独特な言語感覚によるものと私は思いますが。
      他の方は理解できたのでしょうか?

      +++++++++++++++++++++++++++

      そもそも、アウェイでの対話自体が、葛西さんの根性の在り方だと思いますよ。これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
      その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。

      頑張れ!!葛西さん!!

      +++++++++++++++++++++++++++

      ・アウェイでの対話自体が、私の根性のあり方である
      →「アウェイでの対話」と「私の根性のあり方」が、
      主述文で等しいものであるとされているが、
      「対話」という名詞と「根性のあり方」という状態を示す語がなぜ等号関係になるのか不明瞭。
      「アウェイな環境での対話が、葛西氏の根性の試金石となる」とかならわかりますが。
      また、「自体」の使い方もよくわかりません。

      ・これは経験者でないと、決して理解すら出来ないことです。
      →この論法、できればやめていただきたいのですが。
      相手に主張が伝わらなかったとき、「経験がないからだ」「感得ができないからだ」・・・
      結局「お前にはわからないだろうが俺の方がわかってるんだぜ」とか自慰的な主張をされても、
      反応に困ります。

      ・ピンスポット的な中傷は、小学生でも出来ます。
      →突然「ピンスポット的」というパロメータが出てきましたが、
      これはどういう意味ですか?
      元来の「アウェイな環境で書き逃げではなく最後まで議論しろ」ということですか?

      ・その中での堂々とした「対話」は、嘘偽り無く根性のある人だと、私は思っています。
      →ここでまたしても「対話」という名詞が「人」という人称名詞に等しいものとされており、
      理解に窮します。
      「アウェイな環境で堂々とした対話が出来る人は、本当に根性がある人だ」ということですか?

      ・頑張れ!!葛西さん!!
      →アンチ系の外野が多くて、
      アウェイな雰囲気ではない中で貴殿と対話する私への皮肉という解釈でよろしいですか?

      • monlingen より:

        葛西さんへ

        正式な部屋にコメントを出しましたので、そこを読んで下さい。
        ここはQ&Aの部屋として作っていません。故に、ここでの話は正式部屋には持って行くつもりは一切ありませんので、宜しく。

        • monlingen より:

          補足です。

          葛西さんがこんなに小さな事を気にする人だとは、思ってませんでした。これに関しては、少々申し訳ないと思っています。

          「頑張れ」云々の話は、信じて貰うしか方法は無いのですけど、これは本気の言葉です。貴方にとっては信じられない話でしょうけど、私はここをある意味葛西さんのホームグラウンドとして設定しようと考えました。その結果、まあ、逆向きの結果になった訳です。これは、誤りますね。

          これ以後この部屋では対話はしませんので、宜しく。

          • monlingen より:

            更に気になったので、補足の補足です。あれこれと申し訳ありません。

            常識的な思考方法があると言う前提で、上記の話をしました。でも違ったようです。これからはもっと噛み砕いた話し方をしていきますね。申し訳ありませんでした。

            さて、外野席の「しゃーかく」さん、「さくらもち」さん、更には「声」さんのコメントで、「誰に対してのコメント」かをもう一度よく見て下さい。はっきりMonLinGen、管理人、また、文脈上私へのコメントである事は、間違え様のないものになっています。このコメント群は私が、「それぞれの方」に対して、個人的に自分の考えを書いたものです。この事は大事な事になります。これらの話は葛西さんには、全く無関係のものです。それを引っ張り出して、何故「質問」として積み上げるのか、私にはさっぱり理解出来ません。
            「外部部屋」の意味は、ここで好きな様な話が展開出来るように設定したものです。「専用部屋」では葛西さんと私の話合いです。この部屋に影響されるのであれば、ここは閉鎖しますけど、どうしますか?葛西さんの意向通りにしますよ。

            詳細を話すと、「アウェイ」の話の意味は、葛西さんが学会系に囲まれて対話に望むのは、かなりの緊張感が出てくると思い、同じ種類のアンチ系を呼び寄せる為に少々「呼び水」を出したと言う事なのです。私はアンチ系の中でその緊張感を経験した故に、貴方にはもっとリラックスして欲しかっただけなのです。(信じる信じないは勝手ですけど…)
            …全く意味が無い事をしてしまったようですね。これも、私のミスです。

            若し、「外野」が気に入らないのであれば、即刻削除致します。

  10. 葛西 より:

    本件は私の邪推のようでしたね。
    大変失礼しました。

    コメ欄の閉鎖の必要はございませんし、
    以降、私に対する外野の方からのコメントが無い限り、
    ここには書き込みません。

    お気遣い感謝申し上げます。

  11. あべひ より:

    monlingen管理人さん。お久しぶりです。
    なんだか葛西さんとmonlingenさんの対話が始まっているようなので拝見させていただております。
    拙と「ちよ」さんとの対話部屋はアウェーのもの同士のもので対話のテーマも明確にしたものでしたが、今回は管理人さんとの読者(葛西)さんとの直接対話ということで成り行きに興味をもちました。
    それ以前のお二人のいきさつを拙が全く知らないことを示したうえで、葛西さんにお尋ねします。

    某アンチブログでの「のんかつ」(monlingen管理人さん)の対応について、いくつか質問をされているようですが、拙にはmonlingenさんと現役法華講員とのやりとりについて“破折が不十分ではないか?”とか“法華講員に言われっぱなしではないか”いったような葛西さん抱かれた御不満が根底にあるのではないかと感じました。

    葛西さんがこれらの質問をされることで、どうなさりたいのでしょうか。

  12. より:

    あべひさんへ。

    横から失礼します。
    彼の目的は何度もはっきり示された通りです。
    それ以上でもそれ以下でもありません。

    それ以上ものが無いと御不満なのでしょうか。

    • あべひ より:

      声さんはじめまして。
      貴殿がこちらに書かれたコメントにヒントがあるのは確認いたしましたが、あえて葛西さんご本人から確認をしたくて質問をさせていただきました。

      monlingenさんの記事の意図は「アンチの呼び水」、つまり挑発でブログにアンチさんを集める事にあることは明記されていましたので、質問は避けました。

  13. より:

    あべひさん、はじめまして。
    目的ではなく意図を聞いておられたのですね、
    ピンボケなレスを送ってしまいました。申し訳ございません。

    横から失礼しました。

  14. 葛西 より:

    あべひさま

    ご質問をいただきまして、
    誠にありがとうございます。
    あべひさまにご指摘いただいた点は、
    当たっております。

    本議論の発端は、
    管理人さまが書かれた「コメントや議論はかくあるべき」に対して、
    「あなたのダメだしブログでの言動も誉められたものではない」とコメントしたことがきっかけです。
    管理人様からは、
    「貴方が、若し自分自身の批判される事に対して、自分自身責任を持てる方であれば、どんなに長い期間であったとしても貴方の疑問にお答えしたいと思います。
    (中略)どうですか?途中放棄が決して無いのであればこのブログでしっかりお話しします。」
    という返答をもらいました。

    私は管理人さまのダメだしブログでのコメントや、
    このブログの記事について、以下のような疑念を持っており、お話したいと考えています。
    それは、あべひさまが記載されたことと重なる点もあるかと思います。

    ・自分の主張を「自分の体験/感得」によって根拠付ける
    ・その主張がわからない人間を「わかっていない人間」として見下す
    ・真剣な議論を標榜しておきながら、真剣にコメントしてきた人を腐す

    ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    上記によって生ずる(もしくは既に生じている)と考えられる弊害は以下です。

    ①アンチから馬鹿にされる
    「感得、感得」と言っていますが、
    しっかり勉強をし自らの考えを言語化する努力をした上で、
    「それでも理よりも体験が大事だ」と言うならよいですが、
    管理人さんはそもそも論理的に話そうとされず、すぐに「感得」を持ち出します。
    こんな主張をすれば、
    「学会員は馬鹿だ」といわれるのは当たり前。
    私も学会員ですが、管理人さんのロジックは意味不明です。

    ②学会員に対しても暴力的になる
    たとえば、あべひさんとちよさんの対談で管理人さんが下した、
    「祈っているか/いないか」の判断。
    こういう判断を簡単に下す人の神経を疑います。
    字面だけで相手を「信心が無い」だの「祈っていない」だのと判断することの暴力性に対して、
    あまりに無自覚。
    そしてその根拠は、お得意の「感得」。
    そして、それがわからない人間を、「信心がない、感得できない人間」だとレッテル貼り。
    かなり暴力的です。

    さらに管理人さんは、
    自らの「感得」が大勢に共有できるものだと素朴に信じているようです。
    それが共有できない人は、
    信心が無い、と思っているのでしょうか。
    これもかなり暴力的です。

    ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
    思うに管理人さんの世界観は、

    「感得で信心をわかっている自分」を定立した上で、
    それを共有できる(と管理人さんが思っている)人たちが周りにいる。
    その人たちを「本物の信仰者」と呼ぶ。

    その外周には、
    感得を共有できない人たちがいる。
    それを「ミカツ」なり「感得に問題がある人」なり「アンチ」なり「糞尿」と呼ぶ。

    それに対する問題は、

    ・自らの正しさを「感得」のみで基礎付けること
    ・「感得」を共有できると素朴に信じていること
    ・共有できないと判断した人に対して無根拠な非難をすること

    だと考えます。

    お答えになりましたか?

  15. 葛西 より:

    あべひさん、質問させていただいてもよろしいですか?

    あべひさんはこのブログでちよさんと対談されましたが、
    (少なくとも私から見れば)管理人さんの独裁的なやり方によって中断(というか一方的な勝敗決定)されました。
    その後展開されたのは、
    俯瞰中毒分析なるあべひさんへの非難合戦です。
    当該記事には、あべひさんの職業などを特定しようとするものまで発生し、
    異様な様相を呈しました。

    ・あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか?
    正当なものだと考えますか、違いますか?

    ・管見の限りでは、あの議論の後、
    あべひさんはMonlingenさんを一切非難しておられませんよね?
    その理由は何でしょうか?

  16. あべひ より:

    スレッドの消費節約の為、お二人への返答を1つの投稿にまとめることを
    お許しください。

    >>声さんへ
    >目的ではなく意図を聞いておられた・・

    推察いただいて恐縮です。おっしゃる通りです。
    拙も長々と駄文をひねったり、逆に短文で質問をしては読者の方を
    困らせています(笑)
    本来ならばログなどをよく読み込んでから、質問させていただくべき
    なのでしょうけれども、あえて「どうしたいのか」を確認させて
    いただきました。

    ——
    >>葛西さん真摯かつご丁寧な返答ありがとうございます。

    >あべひさまにご指摘いただいた点は、当たっております・・

    単なる学会アンチさんなら、某ブログでのmonlingenさんとの討論が打ち切りになった時点で、「なぜ逃げた」などといった対論者だけの侮蔑でなく、
    「やっぱり創価学会は~」といった創価学会に対する侮蔑に切り替えてくるものですが、葛西さんの指摘されている趣旨はそうではなかったので、これは学会員さんだなと考えました。
    「仏法は勝負」とよく言いますが、“言われっぱなしは負け”と葛西さんはお考えになっておられるのではないでしょうか。
    拙はネットを介して法華講員やアンチさんとの討論を何度か経験させていただいてきましたが、あるテーマについて対話なり討論なりする場合、未熟で論に詰った側ほど論点をずらしたり、人格誹謗をするなど詭弁術を駆使し外聞を体裁よく取り繕うほうにばかり労力を割くものです。
    いうなれば、自身の低い境涯をさらけ出してしまうわけですが、そうなってしまった
    相手に感応し、同じ境涯に下がってしまうぐらいなら「やめる」のも1つの手段だと
    思います。
    またアンチさん側に視点を変えてみると、むしろ学会員さんを低い境涯に引きずり込むことが彼等の目的ではないかと(笑)
    おそらくmonlingenさんは、ネットでリアル法華講員と討論したことは今回始めてだったと思いますが、「こりゃ泥仕合になるな」と見切りを付けた点は評価できます。
    ならば、自陣ででも良いからきっちり破折をすべきでは・・・と葛西さんはお考えではないでしょうか。
    正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。

    >あべひさんは、管理人さんの裁断について、どのように思いましたか

    他所様のブログや掲示板に出向くと、ブログ主さんのファンの方や
    拙を快く思っていない方の入れ智慧によって管理人さんの方針が変質するのは
    よくあることです。
    2年前はある掲示板で「どんでん返し」も経験しました。
    monlingenさんが切に対し異常者であるかのように論じられたのは
    「あ、そういうタイプの人なんだな」としか思いませんでした。
    それと同時に、お忙しいmonlingen管理人さんに対しストレスを掛けていたであろう
    ことは申し訳なく思っています。
    墨田総区の婦人部「ちよ」さんが対話(討論)に耐えられないであろうことは
    経験として予想できましたが、もしかすると話が続けられるかもしれないという
    淡い期待があったのこともあって、半ば強制的にはじまった「対話」イベントに
    乗りました。
    拙について管理人さんが個人的にどのような所感をもとうが、創価学会に悪影響のないであろう事についてまで、とやかく批評をすることは考えていません。

    葛西さんの質問に対する答えになっているでしょうか(笑)

  17. 匿名 より:

    いつも楽しく拝見させていただいてます。
    あべひ様の慧眼素晴らしいですね。
    葛西様が学会員で、管理人様又は学会がアンチに馬鹿にされたり、
    同志誹謗されるのを、お怒り或いは憂慮されていたとは……
    葛西様はてっきりアンチだとばかり思ってました。決め付けはいけませんね。
    無礼なコメント失礼しました。

  18. 葛西 より:

    あべひさん

    ご回答いただきまして、
    誠にありがとうございます。

    失礼ながら私のあべひさんに対する見方が大きく変わりました。

    私はあべひさんの掲示板やブログでの活動を一部ですが見てきましたが、
    その意図がよくわかりませんでした。
    「創価学会の評判を落としているから批判する」という点で、
    一貫されているのですね。
    私はあべひさんはMoinlingenさんに怒ってもいいくらいだと思っていましたが、
    「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれないんですね。

    正直なところ、あべひさんのブログでの活動は、
    少しやりすぎではと思いますが、その動機に対しては尊敬申し上げます。

    ”正直言って拙は『相手を救うつもりのない破折』ならばやめたほうが良いと考えています。”

    この言葉は重く受け止めます。
    私は、Monlingenさんを救うとかそんな高尚なものではなく、
    その言論の暴力性を自覚していただければと素朴に思っているだけですので。

    ちなみに、あべひさんも『相手を救うつもり』で、菊川さんやちよさんを非難しておられるのでしょうか?

    たびたびの質問恐れ入ります。

  19. あべひ より:

    葛西さんとmonlingenさんとの対話には直接関係のないことまで
    言及したのにコメントをいただいて恐縮です。

    >「創価学会に悪影響が無い」という判断基準はぶれない・・

    今のところは・・と申し上げておきます(笑)
    誰しも組織にたいするちょっとした不満はあるかとおもいますが
    それをネットで公言し客をあつめて徒党を組むという動きがみられない
    以上、生ぬるく見守っているという状態でしょうか。

    >言論の暴力性を自覚していただければ・・

    おっしゃりたい気持ちは理解できます。
    「自覚してもらう」といっても、短時間では難しい面があるとおもいますし
    たとえ表面上謝罪をされたとしても懲りない人は結構おられます。
    『うすうすわかっちゃいるけどやめられない』のが「業(ごう)」たる所以では
    ないでしょうか。
    「救うつもりのない」などと書くと、なにを偉そうな・・・などと思われるかたも
    おられるでしょう。
    実際、テキストでポチポチやっているだけにすぎない行為で「救える」などと買いかぶるのも間違っているようい思います。
    なにを言われようが「見捨てない」のが不軽の修行であるとおもいますし、いつかわかってもらえるに違いないという希望は捨てたくありません。

    >菊川さんやちよさんを非難して・・

    菊川さんや「ちよ」さんの場合はネットを通じて徒党を組み、リアルに「自利」を
    得ている以上、本人さんらを救うというよりも、
    連なるものや被害者がでないように注意を促しているという感じのほうが強いです。
    菊川さん以前には別の学会員さんに特に警戒していました。
    詳しくはこちらでは書きませんが、関東では名を知られた中堅幹部の方でした。
    その中堅幹部のリアルの知り合いらしき方のコミュニティに紛れ込んで学会ブログの
    ノウハウを学びにきたのが菊川さんです。そして菊川さんにつられて台頭をあらわしたのが「ちよ」さんという感じでしょうか。

    葛西さんはネット上のことはネット上だけ、リアルでのことはリアルだけでと
    たてわけられているように感じますが、個人の信仰のことでネットとリアル個人を深くリンクさせたい人は創価学会にとって怖い存在だと拙はおもっていますし、
    ネットにわざわざ「学会員である自分」の居場所をつくり信仰の重きをおくのは当人にとって現場軽視に直結する生き方だと思います。
    池田先生はよく「いまいる場所で○○を」といわれますが、“ネットも”重視の方にとっての今いる場所は「モニター(画面)の前」です。
    またより楽なほうに流されるのは凡夫の常ですよね。
    「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とは今月の座談会御書です。

  20. より:

    その①~④は質問ではなくて、
    今までやってきたことを番号付けて整理しただけと思われ。
    ぜんぶ番号付けますと、

    ①貴殿が「コメント義」という記事を公開
    ②貴殿のダメだしブログでの行為は、
    自語相違に当たるものなのではないかと、私が指摘
    ③それに対して、
    「最後まで責任をもてるなら何でも回答する」と貴殿が回答。
    ④私が対話の目的を提示し、
    対話を開始

    ⑤突然、3つの目的を提示されましたが、
     私はどうすればよいのでしょうか?
     何をトピックにしたいのでしょうか?

    ⑥基本、葛西さんの質問に私が答えるという感じで進めるのがいいですね…。
     質問は基本的に一つひとつ、貴方が疑問に思うことを聞いて頂ければ、何となく上手く行くのではないでしょうか?

    …どうぞ。
    —————————————————–
    ↑これが今までの流れ。
    で、いま私たちは⑦番に居ます
    ということ。
    これは質問ではありません、フローチャートです。

    葛西さんはこちらで対話の意図に言及なされていたのですよ。
    拒否されているのではないと思います。
    対話を進める上で目的と意図、両方ともに言語化しておいたほうが
    スッキリしていいですよね。

    葛西さん、そろそろ対話部屋に戻りましょうか。
    管理人様が首を長くしてお待ちです。(^_^;)
    私の投稿は全く気になさらずにスルーしてください。
    再開をお待ちしています。

  21. あべひ より:

    葛西さんへ
    monlingen管理人さんについての葛西さんの印象について・・

    >①アンチから馬鹿にされる

    学会員から馬鹿にされる場合もありますので、内容にもよりますが
    相手を見下すことで論点を避けるのは、修羅の境涯が強い方ならではです。
    婉曲的に「アンチさんから褒められる」場合もありますよ。
    拙は「馬鹿にしなければ立場がまずいんだな」とも見ます。

    >②学会員に対しても暴力的になる

    ある程度の距離感が保てるブログのような文字だけのやりとりで
    暴力的な言葉を使わざるをえないのは、ただ単に一瞬「イラっ」として
    ガスを抜いただけか、継続的に「退けたいか」のどちらかでしょうね。
    ですが、言葉にせよ実力行使にせよ暴力的な人ほどその本質は「臆病」
    なのだとおもいます。
    “怒鳴りつければ言うことを聞くだろう”なんて考えるかたは、そういう
    人生を送ってこられたのでしょうね。

    ともかく、monlingen管理人さんが自分を馬鹿にするアンチを馬鹿にするという
    同レベルの手法をとってみせたことは、読者の方にとって氏の評価を考え直す
    キッカケになったとおもいます。

    さて
    葛西さんは、monlingenさんの発言を区分けしたうえで、論理立てて
    お話をすすめようと思われているようですが、お示しのような
    『言論の暴力性を自覚してもらうこと』は目的ではなく手段だと私は推察しています。
    なぜ「自覚してもらいたいのか」を示されるか、葛西さんがmonlingenさんに対し
    危惧されていることを明示するのも対話をすすめるためには有効かもしれません。

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