琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

上官姓某氏/俺はネトウヨの反応を予測できる!

うわ、上官姓某が予想どおりの反応してるwww


今夜のヒストリア、ネトウヨが予想通りの反応w でも開化党の話とか入れても面白かったかもね
2014年9月03日 - 11:22pm


上官姓某というのは、酒を飲みながら卒論を書くことで、いかに文系の大学生活がチョロいかを証明してくれた正しく太ろう氏が、カス文系から大卒職歴なしニートに進化された姿である。ちなみに私が元文系二名からはっきり聞いたところによると、文学科とか社会学科の勉強は勉強じゃない、好きな本を読んでただけ、理系に来てから初めて一生懸命勉強する体験をしている、との事であった。

私はヒストリアを全く見ていないので内容については2chを参照してほしい。基本的にあの頭のイカれたアカの西里喜行の説に基づいた内容だったようだ。要するにニート士族が王国存続を清に嘆願したところ、『じゃあ宮古八重山を確保するから尚家の誰かを連れてきてそこで王国やれば』と言われて、宮古八重山みたいなウンコくさいど田舎なんて行きたくない!と焦って前言撤回したのを、愛国心から沖縄県分割を防いだ!などと称揚する流れである。しかし経過を客観的に見れば元々悪いのはこのゴミ士族どもである。

そういえば最近、上里隆史がしきりにほざいている事によると、沖縄日本領の根拠は、文化ではなく納税にある、との事だが、既に根拠を複数挙げて証明したとおり、むしろ文化的同一性こそが主な理由である。清に対してもこの点が長々と提示されている。

http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/18296070.html

上里隆史は与那覇ジュンとかいうキチガイのご託宣をそのまま繰り返しているだけである。文系は実にバカで存在意義のない連中だが、一番死ねと思う部分は古文や漢文を碌に読まない事である。税金でバカ高い琉球処分関係資料を全部買ってやったのに、何で暇のない俺が読んでお前ら暇人は内容も厚さもラノベ並みに薄い与那覇ジュンで済ませてんだよ。マジで死ね。

ちなみに何故、私がヒストリアを見なかったかというと、第一には家にテレビがないため、第二にぶっちゃけ琉球王国には相対的に興味があまりないからである。あまり興味がない私の方が、琉球史専攻の上官姓某氏や上里隆史や高良倉吉より琉球史に詳しくなってしまった事実そのものがおかしいのである。

木村幹氏「海峡を超えたホームランを読まずに朝鮮を語る奴はニワカ!」

 ·  32 分

あれは名作です。QT : 例えば、日韓関係を論じるニワカなウヨサヨのヤカラどもは「海峡を越えたホームラン」読んだことあるのだろうか疑惑。



高良倉吉や上里隆史の「最新の歴史研究書を読まない奴はニワカ!」と本質的にまったく同じだが、ゴミ文系は、本を薦める際に、中身の説明を一言もせずに、「これを読まずに○○を語るなんてありえなーい」などと衒学趣味丸出しの脅迫的言辞を弄することが多い。

馬鹿文系が、愛読書のプレゼンもまともにできない事実は、次の2つの可能性を示唆している。すなわち第一には、バカ文系は多くの傍証があるとおり、国語力が低いので、当然プレゼンもできない。第二には、該当する本にプレゼンするほどの内容がない。

これまで私が見てきたところでは、実際にはこの2つが複合している事が多い。

倉吉や上里隆史お薦めの「最新の歴史書」を読んだ上で、私の感想を言うと、「最新の歴史書」を読むことで、私は時間とお金を壮絶に無駄にした。みなさんには読まないことを勧める。文系はバカなので、彼らが薦める本も必然的に馬鹿げたものが多い。

「海峡を越えたホームラン」についての私の考えは、タイトルからして読む気が起きない、というものである。私は野球については自分の県の高校野球代表チームにしか興味がないし、対馬海峡を越えることにも全く興味がない。

日韓関係をニワカが論じていることについては、韓国という国は、わが国にとって、相対的に優先順位が低いので、日韓関係を論じる際にニワカ以上に深入りする意味はない、という事実を指摘したい。それ以上は趣味の領域である。つまり木村幹氏は無駄なことをやっているわけである。第一には政治学を研究していること、第二にはその中でも韓国政治を専門にしていることで、木村氏は二重に無駄なことをやっている。私の考えでは、木村氏は父親の勧めどおり、大学卒業したら大人しく就職すべきだった。それこそマトモな大人のやることである。

首里城1992年復元の正確さは半端じゃない!/上里隆史

え、正殿の龍の向きが間違ってるじゃん?

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/110118/98518/80402964


正殿の龍の向きが間違ってるのは沖縄県全域に隠れもない事で、復元に関わった連中の良識を疑う声を私は何度も聞いた。この状況で上里隆史が復元は正確(キリッ)などと堂々と言える神経が分からない。

下記に述べるように、龍が正面向きなのは疑いようもない史料があるので、多くの県民がこのような失態の説明に苦慮してきた。ある怪情報によると、首里城復元は文部省ではなく建設省主導で進められたので、こういうバカみたいな間違いを冒したのだ、という事であったが、実態は文部省が普通に主導していた。要するに高良倉吉とかあの辺のクズどもがまともに仕事しない穀潰しだから、我々県民が恥をかく事になるのである。

竜の向きに関しては、明治10年に写真をもとに作成された正殿の西洋版画が残っており、正面向きである事が確認できる。小学生用の副読本にも載ってる有名な絵である。だからこそ、多くの県民がこんな復元間違いが起こった理由に頭を悩ませてきたのである。

以下は実際に復元に関与した人が反省文を兼ねて、龍の向きに関する史料と、あのような復元に至った経緯をまとめた論文である。

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/941/1/Vol42p75.pdf

先にあげた西洋版画は、龍に関する唯一の図像ではない。横向きに書かれている絵もあるが、それらは遠近法が用いられていない琉球画である。従って、エジプトの人物画の顔が全部横向きなのと同じで、正面から書く腕がないから横向きに書いただけである可能性が高い。

大龍柱の向きに関しては、やはり写真を元にしており、かつ写実的に書かれた件の西洋画がもっとも信頼すべき、間違いのない史料である。しかしこの絵には小龍柱の向きが書かれていない。この絵に従って大龍柱を復元した場合、小龍柱の向きをどうしたらいいのか誰にも考えがなかった。従って、とりあえずまとめてあの下手くそな琉球画の通りに全部横向きに復元する事になったのである。要するに、次のように言い訳ができるのである。俺らはご先祖様の絵のとおりにしただけ、西洋画と向きが違う点については、確かにエジプトのアレと同じ理屈である可能性が高いが、それはご先祖様が遠近法を発明しなかったのが悪い。俺らは悪くない。

先の論文の著者は、この点について大変反省されており、やはり大龍柱の向きは、はっきり史料的根拠のある正面向きにすべきだった、大竜柱の意味(威嚇、番人)から考えても正面向きが妥当だ、と述べている。小龍柱については向かい合わせで問題ないとの事である。

高良といい上里といい、こいつらは碌に仕事もしないくせにやたら自己評価が高い。高良によると、彼らは日夜古文書と悪戦苦闘してるから、県民はその苦労を重んじろ、とのことである。は?お前らが読んでるのはサンスクリット語じゃなくてただの日本語か漢文だろ?高校卒業してたら誰でも読めるわな。とりあえずそんなに悪戦苦闘してる割に、この100年間、伊波文庫所収の喜安日記を読んだ者が俺以外に誰もいない件について説明してくれる?ちなみに1時間で読み終わりましたが。あなた方は一体何と悪戦苦闘してるからそんなに仕事が遅いんですか?

あとさぁ、倉吉君。社会に出てる人は君より遥かに苦労してるんだよこのボケ!てめーは一体誰が稼いだ金でメシ食ってきたと思ってんだカス!税金に寄生すんのやめてから一人前の苦労自慢はしろ!

何故、琉球王国は那覇を中心に成立したのか

これは話は簡単で、那覇港が一番でかいからである。

海の王国琉球だったかで、上里隆史は、首里・那覇中心史観批判に対する反論として、何故那覇を中心に成立したのか考えてみろ、などと述べていた。

文脈から彼が言いたい事は分かる。要するに、琉球は交易国家wwwだから、動物のクソの匂いのするド田舎ではなく、オサレで都会的な港町である那覇を中心に成立したのだ、離島や百姓はどうでもいいのだ、歴史研究で無視されるのは当然なのだ、という事なのである。

ちなみに誰でも知っている事だが、中山王府は那覇ではなく山の上の首里にある。この時点で、上里や高良一派の交易国家説は破綻している。

さて、稲村氏が賢明にも指摘している事だが、沖縄県では有力な村というのは、ほとんどが港を有している。那覇と首里の関係は、全く特殊なものではなく、沖縄県の村の伝統的な形態の延長線上にある。高良一派は那覇港の大きさを強調し、外国との交易は喫水の深い船でも入れる那覇港の専売特許なのだ、と主張している。高良倉吉は実際に、沖縄各地の、外国との交易にまつわる言い伝えを、あんな小さな浜から外国向けの船など出られるはずがない、などとバカにした調子で否定しているが、規模の大きさは相対的なものに過ぎない。砂川・友利の草紙を持ち出すまでもなく、仲宗根豊見親がなぜ、日本刀を持っていたのかを考えれば、那覇港も所詮は単なるデカい張水港に過ぎない事が分かるだろう。

ではなぜ、港が必要なのかと言えば、これは高良一派が主張しているような、オサレビジネスとは程遠い。資源が乏しいため、生活必需品をしばしばよそから購入しなければならない。だから港があると有利なのである。尚はしの出世伝説においても、港に入った日本船から鉄を購入して農具を作って配ったので、信望を得た、という話がある。もちろんただで品物が買えるわけがないので、懐からは何かが出て行く事になるわけである。

その繰り返しの行き着いた先が、現金を借りておいて米で返すという、オサレビジネスマンにしては土臭い約束をした上、約束を破り、七島衆のメンツも潰して敵に回した琉球征伐なわけである。


ところで稲村氏の仕事は、貴重な史料をまとめて出版したことといい、古伝説を採集し解説までつけて保存した事といい、重ね重ね立派なものである。考察もたいへん思慮深く的を射ていると感じるものが多い。今では稲村氏の解説自体が歴史の領域に入りつつある。埋めたてや区画整理により、稲村氏が既知の物としている地名の中には、土地と一緒になくなってしまったものも多い。早い段階で、稲村氏の著作を再編集し、新たに解説もつけて次世代に伝えていく必要がある。

また大浜永旦氏の、アカハチの乱に関する研究も立派なものである。彼の著作はこの戦争に関する基礎史料を網羅している。中には、この本によって始めて公刊されるものもある。

それに引き換え高良倉吉一派の穀潰しぶりときたら!高良や、その尻馬に乗る上里は、郷土史家をバカにしているが、郷土史家については上に挙げたように尊敬すべき人を知っている。しかし倉吉どもの言う専門家wwでまともな奴を私は一人も知らない。全員バカである。その中でも上原兼善はまだマシである。バカなのは同じだが、彼は謙虚でバカなのを自覚している。ちなみに字もうまい。

それに比べて高良や上里は救いようがないカスである。史学科にいってる時点で、疑いなくバカだし、論述の内容もバカそのものである。ところが自分の妄想を県民から非難されると、最新の歴史書を読まない県民はバカだ、と偉そうに逆ギレするのである。倉吉よ、私は最新の歴史書を読んだ上で言うのだが、何で史学科風情にバカ扱いされなきゃなんねーんだよ!社会のダニが!てめーに貸しはあっても借りはねーよ!那覇港で大砲撃ったらキアンとか肝付カネアツとかイチライ孫兵衛が書かねーわけねーだろ!撃った3000人の琉球軍もどこに消えたんだよ!説明してみろやコラ!だいたい根本史料の琉球入ノ記によると大砲撃ったのは運転到着前の話じゃねーか!てめーはどんな立派な理屈があって勝手に四月一日に移動させてんだよ!この人間のゴミが!税金返せ!

また倉吉よ、お前は郷土史家を大分バカにしているね。倉吉よ、お前は稲村氏が東京高師を出ておられる事を知っているか?国費でようやくわけわからん地方単科大学に滑りこんだてめーが他人様の知性を云々すんじゃねーよ!

せぢ、について

上里隆史はやたらせぢせぢ連呼するが、私はこの言葉を、上里隆史とその先学(爆笑)以外から聞いた事は一度もない。ちなみにおなり神信仰とやらも全く知らない。私の考えでは、琉球史学におけるせぢとか聞得大君とかの重要性は、現実からかけ離れたレベルまで誇張されている。おそらく彼らは、ラスト・オブ・モヒカンのインディアンみたいな『高貴な野蛮人』に理想の琉球人像を見出しているのだろう。

客観的事実として、琉球征伐時の琉球に関するあらゆる史料において、せぢも聞得大君もおなり神もその他の神霊も儀式も、宗教的な物は一切、言及されない。改めて確認しておきたいが、粥流しの唯一の史料である琉球入ノ記には、粥流しの目的も同時に明記されており、そこには大和人の足を火傷させるため、とある。大体宗教儀式を戦闘中にやる意味が分からない。危ないだけである。戦闘してない時か、後方でやるべきである。

粥流しがせぢだか何だかだというのは、琉球史学者の純然たる妄想である。沖縄史の研究においては、上里とか高良のようなカス文系の妄想と現実を注意深く区別していく必要がある。連中は息を吐くように嘘をつく。幸いにして、天罰は免れないのか彼らは頭が悪いため、嘘をついてもすぐに分かる。

琉球史においては、自然の神々と調和して暮らす高貴な野蛮人が琉球人、夢もロマンもない冷酷な文明人が薩摩人、という構図が作られている。

これがただの妄想であるのは既に確認したとおりである。徳之島人にはモヒカン族っぽい部分はあるかもしれない。しかし王府はモヒカン族ではない。むしろ彼らは文明の最も腐敗堕落した一例である。農村に寄生して自分では働かず、モラルや責任感や根性が衰微の極みにあり、危機に陥るとすぐやるべき仕事を放り出して泣をいれる。

信仰心のカケラも見られない史実上の琉球人に対し、むしろ篤い信仰心がみられるのが薩摩人である。信頼性の高い史料に限っても、まず肝付兼篤が黒潮の流れを無事に渡れた事を諸天三宝に感謝している。孫兵衛も琉球征伐の成功を神社に祈願している。

琉球入ノ記に至っては、琉球守護の弁天様が、樺山に直接加護を約束している。この史料は信頼性が低いが、大自然の神々も薩摩に味方しているのは肝付によって疑いなしと確認されている史実であるし、ましてや樺山のような大将軍ともなれば、神様の格別のご配慮を賜る事もあって然るべきである。

島津義弘公に至っては、かの四川の戦いの際に、お稲荷様の化身が現れたお陰で勇気百倍となり勝てた事をはっきり証言してくれている。

琉球征伐時には、アマミキヨだか何だか知らないが、王府の祖神の化身は影すら見当たらなかった。日頃積んでいる功徳の差が、こういった危急時に現れるのだろう。