琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

上里隆史/「冊封=属国という批判は的はずれ!」

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/04/post_6e7e.html

>冊封=属国という批判は的はずれです。

いやいや属国でしょwwww同じ冊封国の朝鮮ははっきり認めてるしwww

>中国は朝貢国に対し実効支配することはありません。あくまでも形式的なものに近い。

竹島は南朝鮮が実効支配しているが、竹島は南朝鮮の属国だ、という表現は全く成立しない。実効支配することと、属国であることは、全く質の違う問題である。

そもそも実効支配という言葉は、主権国家体制を前提として、主権国家と認められない勢力による領域支配を表現した言葉である。つまり、国家政府でもないのに、国内において国家政府に優越する支配力を確立したり、国家政府でもないのに軍事力を所有する行為。あるいは国家政府であっても、全く別の国においてその国の国家政府に優越する支配力を確立したり軍事力を行使する行為を表現するための用語である。全く現代的な用語なのである。

主権国家体制のもとで、主権国家によらない領域支配を表現するのに、このような用語が必要とされたのである。もちろん、主権国家というのは自然に存在するものではなく、人間同士の約束事に基づいた観念的な存在なので、しばしば現実とは一致しない。現代においては反政府ゲリラだか自由の戦士だかにより「実効支配」される地域はますます増えてきており、この言葉の存在意義は薄くなる一方である。主権国家体制が21世紀にも存続できるかどうかは怪しいところである。

>これらの批判に総じて言えるのは、「歴史に対する無知」です。それに現在の沖縄を批判したいがために、歴史を材料に持ってきています。

批判者が述べている「中山王は中国からのたんなる使者にさえ土下座していた」「琉球は中国から属国扱いされている」これらはいずれも事実であり、上里隆史の反論は反論になっていない。

>>冊封=属国という批判は的はずれです。中国は朝貢国に対し実効支配することはありません。

> と

>>足利義満の勘合貿易と同様です。日本史ではあれを「貿易」としていますが、実際は「朝貢」で、すなわち「属国」化です。

> の2つの文は矛盾してますけど。あなたは朝貢=属国だと思ってるの?違うの? どっち?


この批判者の指摘は的を射ている。これに対する上里の反論はしどろもどろである。


>そもそも朝貢は貴兄のイメージする「属国」化ではないです。


「貴兄のイメージする属国化」というのは完全に上里の妄想の産物である。批判者は、琉球は属国か否か、という二者択一を問うているに過ぎない。


>琉球は南西諸島を領域として国王が絶対の権力を握っていた前近代国家です。


琉球征伐時、大島の首里大屋子たちは勝手に薩摩に降伏している。徳之島で掟兄弟が戦ったのも勝手な行動で、王府の指示によるものではない。王府は何も指示していない。それができる王府役人は「一戦の力もないから」と言い訳して自分だけ山中に逃げ込んでいた。琉球征伐から分かることは、国王の権力は絶対的でも何でもないし、国王自身がそんな権力は期待していない、という事である。


高良倉吉は辞令書研究を通じて、王府の絶対的権力を証明したいようである。琉球征伐から分かることは、紙切れは所詮紙切れ、という至極当たり前の事実である。社会経験の欠如がもたらす悪影響だろう。戚継光の紀効新書には、強い軍隊を作るためのアドバイスとして「真面目な人を雇いましょう」「賞罰は公正にやりましょう」「えこひいきは絶対にやめましょう」「将軍だからといって個人戦闘の練習をしないのはもってのほか。将軍はいつでも兵士の見本でなければなりません」などとは書かれているが、紙切れを発行しろとか、ナントカ体制を確立しろとは一言も述べられていない。高良倉吉の辞令書研究は、木を見て森をみず、の典型である。


上里の表現は、西洋史の前近代における絶対王政を念頭においているようだが、絶対王政自体、実際には絶対的な権力を有していたわけではない。「絶対的な権力が欲しいなぁ」と王様たちが言い出したのでそういう名前で呼ばれているだけである。


尚家の誰もそんな事は一切言ってないし、どっちみち金がないので絶対王政なんぞ実現不能である。上里隆史らは、アジア(笑)の視点からどうの等々、言うことは壮大だが、実際に東洋のことを理解しているわけではない。ルイ14世とかグスタフアドルフのように、ゾウさんみたいにおっきな国の偏差値の高い王様が、大金かけても実現できなかった「絶対的権力」を、琉球みたいな金もスキルもない上に偏差値も低い片田舎のハナクソみたいにちっちゃーな国家が実現できるわけないじゃん?


いずれにせよ、絶対王政をキーワードにすると、上里隆史らが「琉球には常備軍があった!」などと頻りに主張している事実も説明できる。常備軍は絶対王政の一要素だからである。なぁ上里君。琉球の「常備軍www」の駐屯地はどこかね?市来孫兵衛も喜安も肝付兼篤も常備軍なんぞは影すらみかけていないんだが、1609年の4月1日にはいったいどの辺に「常備」されていたのかね?


>琉球王国は中国から 一切の内政干渉を受けた事実はない。それは朝貢していた時代の日本だって同じではないでしょうか。僕は属国化を認めたくないとかそういう感情レベルで言っ ているのではない。歴史研究界で琉球はそのような評価をされているから言うのです。


中国の承認がなければ国王になれないのは上里の脳内では内政干渉では無いのだろうか。まあそれがなくとも、薩摩には内政干渉されまくってるので薩摩の属国である事実は変わらない。そもそも内政干渉という言葉自体が適当かどうか。薩摩の意向を伺うのは王府にとってはむしろ大前提だからである。干渉されるような「内政」自体が存在しないと考えられるのである。


また、上里はどうみても感情的になっている。歴史研究界ではどーのこーの、というのは上里隆史の常套句である。私の感想は一言につきる。知るかボケ。


>全部はあげませんが、一例をあげます。「明治政府の近代化政策に反対し、結果として沖縄の近代化を遅らせたDQNのいるあの県。」という批判です が、琉球が反対したことによって近代化が遅れた事実はありません。琉球の近代化を遅らせたのは明治政府の政策です(旧慣温存策といいます)。

>上杉県令が近世末から続く沖縄の窮状を救おうとしたのは事実です。しかしその改革の動きは明治政府によって潰され、彼はすぐさま更迭されました。近代化を遅らせた政府に対し異議を申し立てたのは沖縄の人々でした。


この辺は嘘まみれである。近代化が遅れたのは士族層の反対を県庁が容れたからである。


「而して各村総代五名宛、私等に委任状を渡さんとて調印することを、官吏役員等耳にするや、百万脅迫して調印せしめざらんと企てしも・・・(ここでいう官吏は内地の役人、役員が在地士族の役人を指す。当時の宮古の情勢は、人頭税を巡り、中村と城間により権利意識に目覚め団結した百姓と、これに反対する士族とが、しばしば街頭で徒党を組んで睨みあう騒然たる有様であった)」


いわば琉球と県庁の合作である。上杉県令の改革を潰したのも同様である。「政府に対して異議を申し立てた」というのは全く事実に反する。


「伏て願くば、博愛至公なる衆議院議員各位、某等の不幸沈淪を仁察せられ、某等の願意を採択して、以て院議となし、之を其筋に要せらるる所ありて、何分の御詮議被下度、」


これに異議申し立てをしている部分があるのならば、逐一引用して欲しいものである。島役所、県庁に請願しても梨のつぶてで話しにならないので、衆議院議員の皆様よ、どうか正義を行ってくださいお願いします、というのが趣旨である。上里は人頭税廃止請願書を読んだことがあるのか?


そもそも沖縄の人々ガーというのは、中村十作の御厚恩を完全に無視した物言いである。この人はリーダーだぞリーダー。お前は中村が何だと思ってんだ。うけた恩義に感じないとは、上里隆史は畜獣にも劣る外道である。まあコイツの先祖は士族かも知れないが。考えてみると、徳之島の戦いに見られるように、他人の手柄を盗むのは上里隆史の得意技である。


元・帝国海軍軍人の実業家という経歴は、中村十作が士族どもを全く恐れない胆力と、組織化の才を兼備していた理由をよく説明するだろう。沖縄の人でも何でもない人が、義侠心のみで、結構な経済的損失を甘受しつつ、運動のリーダーから請願書作成の監督から東京滞在のコーディネイトから、要するに何から何までやってくれた、というのは、この運動で最も感動的なことの一つである。中村十作は人頭税廃止運動以外は一実業家として生きた、特段の思想的背景も認められない人で、ただただ、人類普遍の正義の心から運動の指揮という重責を引き受けられたのである。


私がここで思いを馳せるのは、徹頭徹尾税金に寄生してきたくせに碌な仕事はせず(X庫裏www)コザの飲み屋で毎晩飲み歩いていたと聞いてもいないのに自慢するあの高良倉吉である。特技は人のせい。やれ県民はバカだ、やれ日本国民は沖縄の事を重視しろ・・・お前、誰の金で生きて来れたのか分かってんのか?


>(1)朝貢=「属国化」と言った場合に具体的にどのレベルを指しているのか。朝貢の歴史的実態をきちんと把握した上で議論しているのか。


属国にレベルがあるとは珍しい考えもあったものである。奴隷が「俺の鎖はお前の鎖より立派だ」と自慢するのにも似ている。そういえば中華秩序の中で、琉球は朝鮮より上だ、と言う話もあった。ただの妄想なのだが、属国同士でさえ見下しあう人の心の貧しさには恐るべきものがある。これが属国根性ということだろう。


>(2)前近代の歴史問題そのものが近代国民国家の領有権の根拠たりえるのか。ということです。

一般に現代の対アジア関係が議論される場合、よく「朝貢」などの歴史問題が引き合いに出されますが、僕は前近代の問題はひとまず峻別して、現代の問題は現代の問題として議論すべきだと考えています(それは日中どちらにも言えることだと思います)。


実際に領有権の根拠とされているのだからしょうがない。上里隆史の個人的願望など誰も聞いていない。上里隆史などのカス文系のたわごとを聞いていると、こいつらは自己中のガキなんだな、という事が良く分かる。現実に適応できていない。文学部のヌルい環境で甘やかされてきたのが原因だろう。


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上里隆史はとにかく琉球が属国だと認めたくないようである。上里は「琉球が朝貢していたから中国の属国だと言うなら、義満も朝貢していたからその時代の日本も属国だ!どうだ!日本も属国だとは認めたくないだろう!だから義満時代の日本も属国じゃない、琉球も属国じゃない、ということにしようじゃないか!」という論法で迫っているが、批判者は冷静であった。


> 日本は古代に朝貢していましたが、中世以降近代に至るまではしていませんでした。義満の時代だけが例外です。義満が朝貢したことは、「中国様に朝貢なん ぞしやがって」と日本史の中では苦々しく評価されています。しかしこれは、中世以降の長い歴史の中であくまでも一時的なことです。戦国時代以降、江戸時代 もずっとしていません。
> しかし琉球国王は19世紀後半まで、例外でなくずっと朝貢していたでしょうが。それに対する反論として義満を持ってくるのでは、あまりにもパンチ力が弱いといわざるを得ません。
> あなた方は琉球を中国の属国だったと思いたくないようですが(そこんとこが朝鮮人と似てますね)、中国は沖縄を元・属国だと思ってますよ。日本が室町幕 府より後は朝貢してないのに、琉球はつい最近までしていたのだから。だから中国は沖縄を潜在的な中国領だと思っています。2000年のサミットがなぜ沖縄 で行われたかご存じですか? 中国に対し「馬鹿げた領土要求はやめろ、沖縄は日本領だと国際的にも認められているぞ」ということを示すためです。だから中 国首脳は招待されても沖縄サミットには来なかったのです(行けば沖縄が日本領だと認めてしまうことになる)。


確かに朝貢に対する意識の違いは、日本本土と琉球の大きな相違点である。批判者の言うとおり、義満の朝貢貿易は短期間で終わった上に、後世においては否定的にみられている。それに対し、琉球の朝貢への執着は浅ましいことこの上ない。自尊心が全くない。牧志が死んだ際も、「牧志を上国させたらうんたらかんたらでつまりは朝貢もできなくなるかも!」などとほざいている上、廃藩置県の際も、朝貢を続けさせてくれとやたら請願している。お前はそんなに中国に土下座がしたいのか、と問い詰めたくなる。朝貢をやめたところで別段の害も起きてないので、朝貢したがりやさん達は何をそんなに心配してたんだろう、ととても不思議に思うところである。


もっとも、そういう日本にも中国にもすぐ頭を下げて言うことを聞く卑屈な国を、薩摩も求めていたのは事実である。薩摩としては中国に頭を下げることはプライドがあるので嫌だ。従って貿易もできない。琉球みたいな土下座が平気な国を介して初めて貿易ができたのである。しかし、王府を無理やり美化せんとする高良倉吉や上里隆史の浅ましい言い訳の数々と、勇戦敢闘した八重山島民が正々堂々、アカハチを誇っている事実を比べると、薩摩に速攻土下座したのは確かに王府の存続と薩摩の懐、ひいては明治維新にも役立っただろうが、果たして本島人にとっては本当に良かったことなのか、私は疑問に思うのである。


>僕があえて義満をあげた意図はこうです。
>貴兄は中世の日本の朝貢について属国化ではないとの意見でしょうが、同じように琉球の朝貢も属国化ではないことをわかってもらうためです。義満(彼以降にも何代も朝貢してますが)と琉球の朝貢は同じ性格のものです。


上里隆史は批判者の反論が全く読めていない事が分かる。中世の日本の朝貢もまた属国化するものに他ならない。だから長く続かなかったし、悪口も言われるのである。朝貢を続ければどうなったか、と言えばまさに琉球みたいになるであろうから、ああ、朝貢をやめた本土のご先祖様はやっぱり賢かったんだな、と確認できるわけである。


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琉球は属国以外の何物でもない。ではどこの属国であったか、という点については次の2種類の考え方があるように思う。


一、日支両属であったものが、廃藩置県を経て日本に編入された。

これは「我の属国アル!」という中国の立場にも配慮したもので、最も穏当な意見と言えよう。


二、昔から日本のみの属国。シナに朝貢してたのは日本の指示で、日本の属国である事実を隠して嘘に基づいて行ってたことだから無効!

これは日本に最大限有利な考え方であるが、別に事実には反しない。

上里隆史の虚言癖!「琉球王国の軍隊は首里親軍と呼ばれている!」

>尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。(中略)

>古琉球の歌謡集『おもろさうし』には数々の戦争をうたったオモロ(神歌)が収録されています。そのなかでは、琉球王国の軍隊のことを「しよりおやいくさ(首里親軍)」と呼んでいます。

おいこら上里!天降り雲の按司とぐすく親軍は「琉球王国の軍隊」じゃないのかよ!じゃあどこの軍隊なんだよ!説明してみろやこのクソ文系の無職め!

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~meikodai/datebasa/omorosaushi.txt

きこへ大ぎみちやくによせたるあぢおそいが節
一、
あおりくものあんし/ちやくに しらたる/うちちへす もとれ/又ておりくものあんし/又しよりおやいくさ/又くすくおやいくさ/又いたちや せめつけて/又かなちや せめつけて/又いたちや せめいちやちへ/又かなちや せめいちやちへ/又まゝき おいつめて/又てらほ おいつめて/又もゝそ きりふせて/又なゝそ きりふせて

「首里親軍」という言葉が用いられているのはこの一首のみであるが、ごらんのとおり、首里親軍とは、「あおりくもの按司」を攻撃した三つの勢力の単なる一つに過ぎない。琉球王国にはいろんな軍隊がいたんだな~というのがこの歌のマトモな解釈である。

上里よ、お前はちゃんとおもろさうしを読んでから話をしているのか?どうせ例の「奄美の家譜には地元の豪族が行った抵抗の様子が書かれていますぅ~」と同じように、原典を確認もせず、「先学(爆笑)」のたわ言を鵜呑みにしたんだろう!

>古琉球時代では武装した神女(ノロ)が霊的なパワー(セヂといいます)を兵士たちに与え、戦争にのぞんでいた様子をうかがうことができます。沖縄には「イ ナグヤ戦ヌサチバイ(女は戦のさきがけ)」という言葉も残っています。当時は霊的なパワーも実際の戦闘力と同じように考えられていたので、兵士たちが戦う 前には、両軍の神女たちがお互いの霊力をぶつけ合う合戦が行われていたようです(映画スターウォーズの“フォース”で戦う感じでしょうか)。

この歌について一つ、確実な点は、戦いが終わった後で作られたということである。戦争の有様が歌われているのだから当たり前である。
さらに非常に大きな可能性として、この戦争は遠い過去に起こったことだろう。これらは第一尚氏時代に各地の按司と戦争して従えていった(あじおそい=按司を従える)頃の話であろう。しかし聞得大君はその数百年後に尚真が作った存在である。

聞得大君が、血縁もない上に、自分の先祖が女子供まで殺して打倒した第一尚氏王統を、なぜ、自分の名前で讃えているのか、というのは興味深い点である。もともと第一、第二の区別は、近代になって生まれたもので、史書では別に区別する用語はないこと、明に対しては「尚徳が死んだので子供が継ぎました」と述べ、尚徳の正統な後継者であるとはっきり主張していることを考えると、金丸の尚家の跡継ぎであることは、決して明向けの体裁ではなく、彼ら自身にとっても真実だったのではないか、とも思われる。第一尚氏も自分たちの先祖として真面目に祀っていたのだろう。血縁がない養子が家を継ぐのは、内地ではいくらでも実例のあることである。毛利三川や北畠信意(織田信雄)、立花宗茂などがそうである。

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「琉球王国」については、言葉を作った琉球史学者自体がどいつもこいつもバカで自己中であるため、全員が勝手な意味で使っていて、定義が混乱している。ここで私が独断も交えて整理することにする。

今回の上里の定義に従えば、「琉球王国」はほとんど首里に局限されるが、無論、全く馬鹿げた話である。

どうも高良倉吉と上里隆史の脳内では、「琉球王国」であること、これ即ちトイレに行くのにも首里の許可が必要、という話になっているようだ。高良倉吉はしばしば、王府はその臣民に対し「絶対的」な権力を行使していた、と述べている。実際には、高良倉吉は「絶対的」なバカかもしれないが、王府はそんな非現実的なまでに「絶対的」な権力を持ったことはない。ともあれ、高良一派の王府への心酔はほとんど狂信的であるため、「琉球王国」において、王府軍が複数の軍閥と共存し得た事実は、たとえそれらが並べて書かれてあっても、彼らの脳内では無かったことになるのである。

私が提案する「琉球王国」の定義は、太郎もい打倒後の史的「中山」の支配領域、というものである。実際にはこの国家に対しては一貫して「中山」の名が当てられているので、我々が勝手に「琉球王国」と改名するのには相応の理由が必要である。太郎思い打倒によって南山が滅び、本島統一が完遂したというのは、今のところ一般的に受容されている。本島=琉球の統一を記念して、その後の中山を「琉球王国」と呼びかえるのは筋が通っており、ご先祖様にも申し訳が立つであろう。

そういえば、上里隆史が「国家は王様が絶対的権力を持っている!按司の連合政権は国家じゃない!」などとたわ言をほざいていたが、一顧だに値しない妄説である。文学部みたいな社会のドブではどうか知らないが、一般的に、共和国は国家である。貴族の寄り合い所帯の神聖ローマ帝国も国家である。ヴォルテールは「帝国ではない」とは言ったが、国家ではないなどとは一言も述べていない。

北山王国、南山王国という言葉は普通に通用している。私としてもこれをいちいち言葉狩りする必要は認めない。

文学部はもともとバカしか入学しないので、世間の皆様より頭が悪い事実を自覚して、人一倍勉強しなければならないはずなのに、どういうわけかあんなに偏差値も就職率も悪いのに、頭が良いつもりのようで、全然勉強している気配がない。高良倉吉に至っては「テンペストを巡って」なる代物を修士論文としてアクセプトしているらしい。
http://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/3d85445195b567910bc3ae8087ee5044

お前納税者なめてんのか。氏ね。

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私はもともとおもろさうしの重要性をあまり認めていないが、今回、初めてこれを参照した理由は、「宮古島旧記」において「軍=いくさ」が明らかに戦争の意味で使われているからである。軍隊に対しては勢、兵共などの言葉があてられている。これまでの経緯から、私は琉球史学者を全く信用していないため、また上里がやらかしたのではないか、と思ってわざわざ確認したのである。結果的に、おもろさうし中の「軍=いくさ=現代語の軍隊」という解釈はおそらく正しいが、ある意味、それより衝撃的な事実を発見し得たのである。

上里隆史/海賊王に、俺はなる!

もしどこかの大名家の殿様(何不自由ないけどガチガチのルールのなかで暮らす)か、倭寇の一頭目(ハイリスク・ハイリターン、ルール無用のデスマッチの海域世界で生きる)のどちらかの人生を選べと言われたら、迷わず倭寇を選ぶなー。というかまさに今、その世界に生きてるわけだが(笑)


いやいや、お前自分のケツも自分でふけないただのモラトリアム寄生虫じゃんwww

倭寇になるような人間であれば、現代ではまず自衛隊に入ると思われる。フリーランスの兵隊には即戦力しか期待されないので、どこかで基礎技術を身に付ける必要があるからである。他にフランス外人部隊やアメリカ海兵隊に入る手もある。海兵隊では、下士官以上にはアメリカ国籍が必要だが、それ未満であればグリーンカードがあれば入隊できる。

文学部みたいなヌルいゴミ学科でチンタラやってる人間が、海賊とか、海賊の頭目になるなど笑止である。

高良倉吉もそうだが、文学部の方々の自己評価がやたら高いのは何故だろうか。文学部というのはゴミ学科である。教育レベルは甚だしく低いし、職業能力はまるで身に付かない。こういうところに行く時点で、四年後の就職についてまるで考えてないのがバレバレである。海賊どころか一般社会でも通用しない。実際に一万人の山賊の頭目をやっていた歴史学者のクセノポンの文章と高良や上里の文章を比べると、頭の回転、知識の豊富さ、度胸、決断力、全てが余りにも違いすぎる事に気づかされる。高良や上里はそもそも国語のセンスがない。特に高良の文章は修辞過剰で読みづらく、衒学趣味バレバレでマジでキモい。

しかし一番問題なのは体力だろう。上里とか俺でも勝てる。かのアレクサンドロス大王は、過酷な行軍の最中にも、暇を見つけては荷車の荷台で踏み台昇降運動をして筋力をつけていたそうだが、大王より遥かに暇な上里はどういう努力をしているのだろうか。

尚徳の喜界島遠征~その顛末

喜界島は近年、城久遺跡の発掘を契機として、好事家の関心を集めている。2chでもしばしば城久遺跡やカムィヤキについて書き込みが見られる。そのような喜界島が、いかにして中山の支配下に入ったかについては、あの何の役にも立たない上里隆史の「琉球戦国史」には全く書かれていないため、私が代わって「喜界村誌」より現存する史料を引用する。

喜界島の歴史については、中山の正史、奄美諸家譜のほか、「趣味の喜界島史」が重要なようである。

身の程知らずの高良倉吉や、その下僕の上里隆史は、郷土史家をやたら馬鹿にしている。郷土史家の研究手法は「学問的(爆笑)」ではないので宜しくない、というのである。なぁ倉吉よ、お前は口がきける産業廃棄物だ。お前は飲み屋通いをやたら自慢する割りに、「唾液に含まれる酵素で発酵する酒」などと一発ギャグをかましていたね。アミラーゼの実際の役割と、格助詞「を」と「が」の違いと、歩兵の行軍速度を調べてから他人様のことは馬鹿にしたまえ。お前はそんなこともわかんねーから史学科にしか受かんねーんだよ!(しかも国費www)

実際には、学者どもの「詳細な分析」に基づいた「学問的(笑)」な作り話よりも、伝承の方が常に重要である。もっといえば、学者どもの作り話には何の価値もない。この世に不要である。史学科はバカで考察方法がなってないので、下手に頭を使うと、事実を解明するのではなく、むしろ妄想をたくましくする方向に進んでしまうのである。

伝承はなるほど、ときには史実とは関係ないが、「大勢の人がそのように信じた」ということ自体が、記録されるに値する重要な歴史的事実なのである。マケドニア人は、ペルシャ戦争前はしばしばバルバロイとみなされており、ペルシャ戦争にもペルシャ側で参戦していたのだが、戦後、いきなり「ウチはアルゴス人の子孫のれっきとしたヘレネスだから。オリンピックにも参加させろよ」などと言い出した。アレクサンドロスの時代には既成事実として政治的アピールに大いに活用されていた。大王は「俺はヘレネス代表!不当に攻撃されたご先祖様に代わって侵略者ペルシャ人に復讐を果たす!俺に協力しない奴はヘレネスじゃない!」という事を100回くらい繰り返しておられる。いやいや、お前のご先祖様はペルシャ側でヘレネスと戦ってたろう、と突っ込むのは簡単だがあまり意味はない。ここで重要なのは、アレクサンドロスの偉業に理論的裏づけを与えたのは、事実ではなく、ペルシャ戦争後にいきなり飛び出てきた怪しげな伝説なのだ、ということである。伝説は、ときには史実より重要である。

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球陽
[本文0115]【六年、王、親しく自ら軍を率ゐ、奇界を征討す。】奇界島、畔きて朝せず。連年兵を発し、屡々征するも功無し。王怒りて曰く、啻に功無きのみに非ず、反って侮辱せらる。吾、宜しく親しく軍兵を領し、以て賊乱を平ぐべしと。遂に二千余の兵を率ゐ、路、安里村を歴るのとき、一鳥有りて飛鳴して過ぐるを見る。王、弓を把り、天を仰ぎ祈りて曰く、若し我、奇界を平ぐるを得れば、一矢にて鳥を射て落さん。若し平ぐること得されば、又射ること得ざらんと。祈り畢り、絃響き矢発す。早已に鳥、地に落つ。王、心大いに喜ぶ。海船五十余艘に分駕し、二月甘五日、那覇開船す。行きて洋中に至るのとき、又一巨鐘の波面に在りて浮沈するを見る。遂に船に載せ、以て八幡大菩薩の賜と為す。二十八日、奇界に至る。賊兵、港口に柵を立て塁を築き、矢石雨の如く、決して進むべからず。王、大いに怒り、軍兵をして進攻せしむるも死者無数なり。王、愈々怒りて息まず。老臣一人班を出でて、奏して曰く、賊兵、勇ありて智無し。之れを破ること何ぞ難からんや。請ふ、数日を延せば臣必ず賊を破るの計有らんと。王、其の言に従ひて俟つ。三月初五日に至り、煙雨霏々たり。夜に当り天黒く対面弁じ難し。老臣、数百の軍人をして各小舟に駕し、多く火把を帯び、佯りて軍を分つの状を為し、彼の島の背後に駕し赴かしむ。賊兵之れを見て果して其の計に中り、止老兵をして港口を守らしめ、皆背後に往きて敵を迎ふ。王大いに悦び、急ぎ諸軍に令して一斉に上岸せしめ、火を放ち屋を焼き喊声天に振ふ。賊兵大いに驚き、魂、体に附かず、降る者無数なり。賊首謀尽き力窮りてにせられ、誅を受く。王、別に酋長を立てて百姓を治めしめ、本月十三日開船して帰る。是れに由りて王、輔臣に命じ、鳥を射るの処に宮を建て鐘を蔵せしめ、八幡宮と名づけ、並びに寺を構へて神徳と名づく。又巨鐘を鋳て神徳寺に懸く(鐘は今尚存す)。嗣いで王、驕傲愈々盛にして残害益々甚しく、諫者は之れを罪し、者は之れを悦びて、国政日に壊る。臣士遁隠する者計ふるに勝ふべからず。

喜界島が朝貢しないので、何年も攻撃していたが成功しなかった。尚徳は怒って曰く「征服できないのは屈辱なので、私が自ら賊を平定してやろう」こうして2000人の兵隊を率いて出発した。安里村にさしかかった時、鳥が飛んできた。王曰く「喜界島遠征が成功するならば、この鳥も射落とせるだろう」果たして射落とすことができた。
2月25日、50艘に分乗して那覇港を出発した。海の真ん中に鐘が浮いているのを見た。八幡大菩薩がくれたものと考え、船に拾い上げた。
28日、喜界島に到着した。賊兵は港口を要塞化し、矢石を雨のように投じてきたので、進むことができなかった。ここで一人の老臣曰く「賊兵は勇気はありますが馬鹿です。数日待ってくれれば連中を破る計略を案出します」果たして3月5日、雨の夜に、老臣は数百の兵隊を小船に分乗させ、多くの松明を灯し、大部隊が島の背後に回るかのように見せかけた。賊兵はつられて移動し、正面を守るのは老兵のみとなった。王は喜んで、この機に全軍を上陸させ、家々を焼き鬨の声を上げた。賊兵は意気阻喪し、降伏するもの無数。首領は捕まって処刑された。王は別に酋長をたてて百姓を治めさせた。


「趣味の喜界島史」

①(喜界村長の折田昇氏が、無名の古老から聴取したもの)
 「喜界島では敵がどこから来ても差し支えないように各部落毎に海岸の見張りを厳にして待ち受けていたが、敵方には、喜界島の地形に明るい案内人がいたために、一番攻めやすい湾港を目指して威風堂々とやってきた。この方面の総指揮官は長嘉というもので、大いに奇策を案出して、敵の来襲を待ち受けていた、即ちまず、港の正面、御殿の鼻を本陣とし、これに隣接する民家(今の祝家がある場所)のガジュマルが天に枝葉を伸ばし、大いに繁茂しているのを利用して、これに幕布を張り、恰も城の如く装い、また多数の藁人形を立てて並べて、敵の目をここに引き付けた。湾内に入ってきた敵船は、いきなり正面から激しく矢を浴びせかけられたので、猛然、これに応酬したが、敵の矢は、多くは藁人形に刺さって、逆に島軍に利用されることになった。あわてた敵は、左右両岸への上陸を焦ったが、岩陰に隠れていた島軍から、不意に激しい矢石の集中攻撃を受けて、徒らに負傷者を出すばかりで、遂にほうほうの態で港の外に逃げ出してしまった。戦いは2~3日続いたが、敵船は岸に近づくことが出来なかった。
 ところが敵兵の主力が一夜、暗に乗じてひそかに荒木海岸に廻航し、ここから上陸して湾港の背部へ猛襲突貫してきた。不意をつかれた島軍は周章狼狽して、指揮の統一を欠き、随所に各個戦闘を展開した。老人婦女子が、目をおうて泣き叫ぶ中で、石や棒で打ち殺される若者たちが数知れず、遂に島軍は、士気阻喪して降参したが、敵もまた多数の死傷者を出した」

②「旧家大蛇羅(うふじゃら)の系譜」
「大蛇羅以来、七城に住むと雖も星屋に至り佐手久の稲伏間に移居して之に住す。時に琉球国より兵船渡来し攻掠甚だ急也。島人防ぎ戦うと雖も衆寡儔しからず、終に防禦の術を失い、降伏して彼国の旗下となる。既にして星屋渡揖す。国司即ち名を浦世と賜い、黄鉢巻を免さる。志戸桶・佐手久・塩道・小野津四ヶ村を監す(此時以四ヶ村称志戸桶間切)」
※志戸桶の大良(おおら)家の家譜からの抜粋。大蛇羅は同家の伝説的な始祖で、平資盛の息子である。
うふじゃら以来、代々七城に住んでいたが、星屋の代に平地に降りて住むようになった。このとき琉球国から兵隊が攻めてきた。島人は戦ったが衆寡敵せず、降伏して琉球国の旗下となった。星屋は本島に行った。中山王は星屋に浦世という名前を下賜し、黄鉢巻の位を与えた。星屋は4つの村を監督した。このとき以来この4つは志戸桶間切となった。


「奄美大島諸家系譜集」永家系譜より
「其の後兵船屢来るが故に防禦の術を失って降伏す。因て勘樽金琉球へ往く」

ヒキ・首里親軍

古琉球には首里王府のもとに編成された数千人規模の軍事組織が存在していました。この軍勢は「おもろさうし」で「しおりおやいくさ(首里親軍)」と謡われ、首里・那覇の防衛のみならず、奄美・先島地域への征服活動を担った琉球王国の「軍隊」でした。有事の際は「ヒキ」と呼ばれる軍事組織が三隊に分かれ、首里、那覇をそれぞれ防衛することが1552、1554年の軍事制度で規定されていました。


これについては以前に非難したところだが、上里は琉球戦国史でも性懲りもなく似たような事を繰り返しているので、再度触れておく。

1552年、1554年の軍事制度とは、真珠橋碑文などの事であるが、両方の碑文でヒキという言葉は一切使われない。史料上、中山の軍隊がヒキと呼ばれた事は一度もない。首里親軍については、おもろそうし以外には見当たらない表現である。先の碑文では諸間切の勢、という表現が用いられており、論理的に言って、例えば金武間切の軍勢を首里親軍と呼ぶのはおかしい。実際の呼び方の一例を挙げると、球陽によれば、アカハチは中山の大兵、という表現を用いている。

アカハチの乱については、軍隊が九番から構成されていたことが正史に書かれており、ヒキとは形態からも一致しない。そもそも、平時の首都警備と、20年に一度あるかないかの大遠征隊とでは、必要な兵力が全く異なるため、同じ組織で管理できるわけがないのである。また、軍事的に首都をガラ空きにするわけにはいかないし、士族は役人も兼ねているので、首里城の事務処理能力を維持するためにも、首里城詰めの士族は、多くを遠征させるわけにはいかない。この点からも両者を同じ組織で管理しようとする学者どもの試みは非合理である。

学者どもの発想は著しく柔軟性を欠いており、社会の掃き溜めである文学部で数十年間妄想ばかりたくましくしてきたヒトがどうなるかのサンプルを我々に提示してくれる。

ご隠居に全権を委任して和睦させるのは明らかにイレギュラーだが、それしかないのであればやるのが当然である。最も大事なのはやった事である。学者どもは、根拠のない組織図ばかり描くのに執心する余り、実際にやった事、すなわち史実の探求を疎かにしている。

アカハチの乱については、正史中では比較的詳しく中山の軍隊の実態が書かれているのに、中山の軍隊を研究するのに、あのバカげた妄想の産物の庫裡・ヒキ制度ばかり話題にして、アカハチの乱について全く研究しないのは実にバカバカしい限りである。

倉吉によれば、庫裡・ヒキ制度においては、法司官が軍隊の司令官も勤める事になっているが、法司官に適性があるとは限らない、という重大な問題がある。例えば名護良豊であるが、危険な人質の役目を進んで果たしたし、人間としては責任感のあるいい奴なのは分かる。しかし菊隠の使い走りとしては十分だったが、リーダーとしては使えない事甚だしい。人に言われた事はしっかりやるが、自分で決断して行動する事はできない。そもそもコイツに地位に相応しい能力があれば、菊隠が引っ張り出される事は無かったのである。下位の喜安の方が、自分の意見がある分まだ使える。皆が怖気ついたときに、いや、ちゃんと皆で行こう、むしろ大将の船に乗り付けてやろう、と主張したのは彼である。喜安は実際、後で親方にまでなっている。