琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

上里隆史/屈辱の日は数十年前から認知されていた言葉なんだい!

https://twitter.com/mangaryukyu/status/694064848057954304

>「屈辱の日」という言葉は2、3年前に登場した」という事実誤認を
>明明白白な証拠を挙げて指摘したら、
>「私の周りでは見聞きしたことがない」という論点 ずらしの反論。
>イデオロギーや左右の思想は関係ない。
>数十年前から「屈辱の日」の言葉が存在し認知されていたことは厳然たる事実。


無論、ここで論点をずらしているのは上里隆史である。
ここで重要なのは、「屈辱の日は2~3年前に登場した」
と容易に勘違いされるくらい、「屈辱の日」という言葉は
全く認知されていない、という点である。

また、琉球新報は誰がどう見てもまっかっかなので、
イデオロギーの左右が関係ない、
という上里隆史の主張については、私は正気を疑う。

なお、「屈辱の日」が全然認知されていない、
という諸氏の意見に私も完全に同意する。
「屈辱の日」という言葉については、私は今、初めて聞いた。
その意味もググって初めて知ったが、
主権回復の日を「屈辱の日」と表現する心性は
一日本国民、一沖縄県民として、あまりにも理解し難い。


>そもそも保守派こそ、日本の一部である沖縄が
>祖国から強制的に分断されてしまったことを「屈辱」ととらえるべきではないのか。
>沖縄の人々が「祖国へ帰りたい」という強い願いを込めた言葉であるとなぜ感じないのか。

私は沖縄の人々の一人として明言するが、私がこの言葉を聞いて感じるのは
「ブサヨはそう感じてるんだな」という事だけである。
純粋に言葉の使い方から言っても、
降伏の日を「屈辱の日」と捉えるのは十分に理解できるが、
降伏した状態が変わらず続いているある一日に、
何故、改めて屈辱を感じるのかがさっぱり分からない。
まあ要するに、降伏の日を屈辱と感じない所がブサヨのブサヨたる所以なのだろう。

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高良倉吉や上里隆史は、やたら「ウリはイデオロギーや左右の違いを超越しているニダ!」
と主張したがるが、
私からみると、彼らほど偏っている人間はいない。
彼ら王府絶対主義者であり、
沖縄には伝統的に、王府と関係ない伝統や文化が存在する、
ということに気付かない。

特に、高良倉吉がしょっちゅう、
「ウリは実証主義者で賢いニダ!郷土史家はバカニダ!」と主張しているのはお笑い草である。
上里隆史もこの尻馬に乗っているが、
高良倉吉にそんな知能があったら
国費じゃなくても史学科に受かってるとおもいまーす。
琉球大学の史学科ごときにすべってないと思いまーす。
ちなみに郷土史家の稲村賢敷は東京高等師範学校にいってまーす。

ていうか頭いい人は文学部みたいなクソ学部にはいかないと思いまーす。
個人的には、高良倉吉はバカにしかみえませーん。
ていうか大卒なんだから発酵の仕組みくらい理解してくださーい。
ウチの小学校すら卒業してないおばあちゃんですら
発酵の仕組みくらいわかりまーす。
ていうか自分で発酵食品作ってましたー。

あと「薩摩軍は6時間で運天から浦添まで到達した!」という寝言とか
キチガイなのかな?とおもいまーす。
小学校レベルの「常識」がなくても史学科の教授になれるんだなって思いまーす。
レベル低すぎでーす。

ほら吹き隆史/謝名一族の反乱は秀吉のせい!

妄想
https://t.co/SB2SeHTscb

現実
[本文0238]【四年、毛鳳儀等、謝名一族を征討す。】首里西州の謝名一族謀叛す。王、毛鳳儀(池城親雲上安頼)・毛継祖(東風平比嘉親雲上盛続)
・金応照(摩文仁親雲上安恒)等に命じて、往きて之れを討誅せしむ。鳳儀等命を奉じ、義兵を率領して、行きて其の宅に至り、四面より環り攻め、
水洩も通せず。謝名、固く家庭を守り防備甚だ密にして、敢へて出でて戦はず。是に於てか、鳳儀等力の施すべき無く、火を矢に繋ぎて彼の屋上に
射るに、倏然として、火姻大いに起り、房屋を燼す。則ち其の一族、庭に出でて敵を迎ふること、数次にして勝敗未だ分れず。鳳儀等、鎗を揮ひ、剣を
振ひ、力を励まし勇を奮ひて相戦ふこと、亦数合にして、遂に其の将一名を殺す。則ち族党殺戦、寡、衆に勝たず、尽く擒せらる。鳳儀等大いに捷功を
得て以聞す。聖上大いに悦び、各々紫冠を賜ひて以て褒嘉を加ふ。


このように、謝名一族の反乱の理由は一言も書かれていない。理由は分からないというのが史実である。

また、朝鮮征伐の兵糧の供出が琉球に命じられたのは1591年であるが、半分払ったのが1593年である。この点でも、謝名の乱の原因になるかどうかは微妙なところである。上里のいい加減さ、倫理観のなさ、不誠実さにはうんざりさせられる。

上里の戯言について調べると、お芝居の粗筋が出てくる。

ねえ高良君。君は、県民が芝居と史実を混同していると文句を垂れていたね。
君の教え子に、まさしくそういう人間がいるのだが、一体どういうわけかね?

歴史研究は存在の必然性の原理的研究をすること!/住友陽文氏

住友陽文 ‏@akisumitomo 12月20日
そういう事実への内在的視点、存在の必然性の原理的探究、
そういうことに全く関心が向かわず、外面的に対象物を誉めたり、
けなしたりするうちは歴史を研究するとは言わないと思う。
こういった安易な方法に対して、常に緊張感を。

住友陽文 ‏@akisumitomo 12月20日
少し歴史に興味のある人は、歴史に登場する人物への毀誉褒貶をしたり、
その考え方や行動を見て、共感・同感したり、また批判・非難したりする。
しかし歴史を研究する者は、もう少し対象の中に踏み込み、
「なぜか?」とか「意味は何か?」と問うてみる。
善し悪しの判断の前に存在の根拠を探るのだ。

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そのセリフはまずあなたの身内の学者センセイ達に言ってくれない?
高良倉吉とかさ。

「琉球入りは使うなニダ!琉球侵略と言えニダ!ファビョーン!」

さて、住友大先生によると、歴史に登場する人物への毀誉褒貶をしたり、
その考え方や行動を見て、共感・同感したり、また批判・非難したりするのは
素人くさくて良くない、との事である。

これに対し、私がはっきり指摘したい「事実」は、
喜安や菊隠が王府を救うにあたって、
謝名親方が存在する意味とか、
彼が存在した必然性とかは一切考えなかった、
という事である。
喜安はむしろ、謝名親方については
「琉球征伐は全部コイツのせい」と単純に片づけている。
中山の諸正史も同様である。
我の10倍以上の中国軍を打ち負かし、
唐土・天竺までも武名を轟かせた無敵の武装集団から
しょうもない場末の失敗国家を救うという、
ほとんど不可能とも思える大業を為すにあたって
「存在の必然性の原理的探究」とかは全く不必要であった。
そんなことはどうでも良かった。

実際に歴史を作ってきた人たちは、
彼らの同時代人をしょっちゅう毀誉褒貶し、
考え方や行動を見て共感・同感し、また批判・非難している。
人類の歴史は、そういう皮相的な精神によって動いてきたのである。
それが確かな事実である。

理系の研究対象は自然である。
自然は人智を超えた原理原則によって動いているので、
表面の事象に囚われず、原理原則を探求するのはとても重要になる。

他方、歴史学が研究するのは人間社会である。
人間は基本的に人智の範囲内でしか行動しない。
人間の知恵なぞ、所詮は極めて皮相的な代物である。
すなわち、歴史学の原理・原則の一つは、
人間は、他人をしょっちゅう毀誉褒貶し、
考え方や行動を見て容易に共感・同感し、
また批判・非難する生き物だ、ということである。

戦間期ドイツで作られた詩が、
まさにこの点をよく表現している。
「民衆なんて大嫌い。今日は俺を褒め称えたかと思えば、
明日には俺の心を引き裂くのだ!」

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古代の偉大な歴史学者、クセノフォンの考え方は、
彼の後輩の住友陽文大先生の慎ましい好みとはかけ離れている。
クセノフォンは「ギリシャ人は精神も肉体もペルシャ人より優れている!」
と言う差別主義者である。

しかしここではっきり強調したいのは、
明かに、住友陽文より、クセノフォンの方が頭がいい、という事実である。
クセノフォンの方がはるかに有能である。
クセノフォンに比べると、
住友陽文は大した職歴もなく、ほとんどゴミニートに等しい。

クセノフォンの、現代の平和な民主社会からみると、
非常に不穏当な優生思想は、
間違いなく、人類の中でも具合のいい方に属するオツムから生れたのである。
意気阻喪した1万人のギリシャ人を、
ペルシャ軍にも後れをとらぬ戦闘集団として再興した原動力の一つは、
間違いなく、この誇大的で差別的な優生思想である。
ギリシャ人の戦意を高揚させたのは、
穏当な平等主義ではなく、
「俺たちの方が優れている!絶対に強い!だから絶対に勝つ!」という信念である。

歴史が動く瞬間において、
住友が好む「内在的視点」とか「存在の必然性の原理的探究」とかは全く見当たらない。
私としては、これらが本当に重要なのか?
そもそも本当に存在するものなのか?非常に疑問に思う。

いずれにせよ、歴史を動かすのは、
内在的視点よりもむしろ皮相的な物の見方である。
存在の必然性の原理よりも、存在しているという事実である。
薩摩軍が運天に到着したときに、
薩摩軍が運天に存在する必然性とは!などと考えている暇はない。
そんな事は非常にどうでもいい。

従って、歴史を研究するにあたっても、
実際にもっとも重要であった、表面的なものの見方、表面的な事象を
第一に優先すべきである。
すぐ他人様を毀誉褒貶するご先祖様の思考パターンを、きちんと尊重すべきである。
存在の必然性とやらについては(そんなものが本当にあればだが)
少なくとも、そのような皮相的な見方を基礎にして探求しなければ、
ただの脳内妄想に堕してしまうだろう。

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このように、「素人は考えが浅い!」などと偉そうな事をいう住友氏が、
就職率が悪い、という誰の目にも明らかな文学部の問題については
特に意見がないのが、私にはとても不思議である。
そんなに世間より物事をよく考えるのであれば、
まず自分たちの問題について考えて欲しいものである。

はっきり言うが、住友氏のような「深いwww」考え方は、
世間の人はとっくの昔に超克した上で
あえて皮相的な問題を優先しているのである。

私も、中学生の頃には、
住友氏みたいな能書きを偉そうに垂れていたものである。
既に述べたが、その時に父が私に忠告してくれたのは
「就職してから一人前の口はきけ。
就職して一人前の人間になったらお前の好きな事を
好きなように主張したらいい。
今は勉強に集中しろ」というものであった。

私の父も高校時代はブサヨで新聞に投書などをしており、
オルグまでされかけていたのを知ったのは、
大分後の事である。
その時、最終学歴小学校中退の祖母が、父を厳しく叱ったおかげで、
父は不承不承ながら政治活動とは一線を引いて、
一般就労までできたのである。

私は当時のことを父に聞いたが、
「就職して現実が分かったら、あんなのバカバカしくてやってられん」
との事であった。

私としても、中学生時代の自分については、
ただただ恥ずかしく思うばかりである。

これは何度も主張したいのだが、
住友氏のように、まともな就職もせず、
偉そうな能書きを垂れるのは、実際には非常に簡単である。
普通の事を普通にすることこそ、実際にはとても困難である。

クセノフォンにように、身体はムキムキだし、
演説も文章もうまいし、
何より、指揮官の経験もないのに
「誰もやらないなら俺がやってやる!」と思い切って立候補し、
実際やり遂げられるのが昔の文系である。

今の就職率最低で、一般人には意味の分からない
修辞過剰の戯言ばかりほざく社会不適合者ばかりのクソ学部とは、
古代の文系は中身が全然異なる。

文学部みたいな就職に役立たない学部に行ってどうするのか?
という質問は、非常に的を射ている。

青春の岐路に迷い、文学部に入ろうかと思い悩んだときには、
この問いを思い返してほしい。
就職は国民の義務である。
義務を果たせない人間になるのは恥ずべきことなのである。

山野光正氏『中央集権だから統制がとれている!』

アメリカや日本を含め、現代の先進国では、ほぼ全てで地方分権が進んでますが、アメリカも日本もその他の先進国も「統制はとれてない」という認識でよろしいんですね?山野氏の脳内では。

http://kousyou.cc/archives/15591

>島津軍の侵攻時、記録に残る限りで那覇に三〇〇〇、徳之島に一〇〇〇の守備軍が展開し、他にも各島に少数の守備隊が分散していた。中央集権的な体制で統制が取れていたが、

記録に残る限り、琉球征伐時、中山は軍隊を召集しておらず、太平橋の100人が最大の兵力である(中身は首里城詰めの士族でまだ逃げてない連中だろう)。しかしそれは既に別稿で論じた。

さて、統制とは、指揮官の意図に沿って物事が進むように、監視・管理する事である。ある権限がある事と、適切な管理能力があるかどうかは、全く別の問題である。無能な権力者というのは山ほどいるし、じゃあ地方分権だったら統制はとれないのか、という話しにもなる。

中央集権だから統制もとれているだろう、という山野氏の願望は、極めて愚劣で浅はかな考えである。実際には、これは上里や紙屋のような社会不適合者のバカ文系が総じて主張している事で、山野氏の独創ではない。

次に、そもそも中山のどこをどうみたら統制がとれているのか?という話である。

統制がとれていない、という言葉は一般には非常に拡大解釈されてきており、ほとんどただの悪口と化しているが、一般的な用例、極めて曖昧な用例に従ってもなお、中山の無統制ぶりは明白なように思われてならないのである。

まず、奄美の豪族は全員勝手に土下座している。喜安の言い方によると、中山は一応、戦う事を期待していたようだが、戦うように監視・管理した形跡は一切ない。事実として、奄美の諸豪族に中山の統制は効いていない。そもそも、中山はこれを統制しようとすらしていない。

次に、徳之島についても、彼らが戦ったのは自分勝手な判断によるものである。王府役人は何ともお粗末な事に、百姓が戦ってるのに見捨てて山に逃げ込んでいた。たまに与那原親雲上が負けてから山に逃げ込んだ、と作り話をしている輩がいるが、根本史料である本人の家譜に、一戦の力も無かったので逃げました、とはっきり書いてある。ここでも、王府の統制は効いておらず、そもそも統制しようとすらしていない。

また、喜安の報告によると、薩摩軍が翌日には首里に来るという状況下にも関わらず、浦添の番所には番人が一人しかおらず、しかも何度も呼んでようやく出てくるという有様であった。喜安の書き方からは、彼が非常にむかついている事が察せられる。彼らが命をかけて皆のために仕事をしている一方で、他の連中は最低限の事もしていないのだからそれは当然である。これは、末端の役人にやる気が全くない、自分の事しか考えてない、という事もあるだろうが、もう一つには、王府が何も指示してない、という点も考えられるだろう。極度のストレス下で、王府の能無しぶりが露呈しているのである。王府自体が、とにかく薩摩にどうやって謝って許してもらうか、という問題で頭が一杯なのである。色んな問題を同時に処理する事ができていない。

山野氏は、「中山は実戦経験はないが、統制は薩摩よりとれていた」などと妄想しているが、これは極めておかしな話である。薩摩軍は大戦を何度も経験してきており、実戦でどのような問題が生じるか、それをどのようにコントロールしたらよいか、非常に良く分かっていることが予想される。対する中山は、お百姓のお家を焼きうちする程度の経験しかない。薩摩軍に襲われるような状況で、どのような問題が生じるか、何をしたらよいか、どのように部下を管理したらよいか、何も分からないのである。換言すれば、むしろ、中山には統制力はない、という事が予想されてしかるべきなのである。実際そうであった事は既に何度も論じているところである。

喜安が、裏山に逃げ込んでいた高官複数を、実名を挙げて記録している点についても、既に述べた。

そもそも王府の無統制の極みが、謝名の反間の書である。尚寧や具志頭に逆らって明に通牒するなど、有害極まりない行為で、もっての他であるが、なぜか、上里隆史や山野氏は、これを統制がとれてない!とは言わず、むしろ好意的にとらえている。このような極端な二重基準を許す彼らの脳みその構造が、私には心底不思議である。

菊隠の復帰については、学者どもの大好きなナントカ体制論とか統制云々がいかに無意味か、という証明である。尚寧にはそもそも、菊隠を復帰させるいかなる権利もなかった。そんな権利のある奴は誰もいなかった。菊隠の仕事はとっくの昔に終わっていた。菊隠が復帰したのは、権力や統制のお蔭ではない。菊隠自身に、思いやりや勇気があったが故に復帰したのである。菊隠が自分のことしか考えない人間だったら、遠慮なくその他の有象無象を見捨てていただろう。

勇気、やる気、思いやりというのは、仕事をする上で最も基本的で重要なポイントである。文学部に行くような奴はそもそもやる気がないので理解できないのだろうが、仕事をするのには大変な気力がいる。頭を使うのにも気力がいる。根性がない奴、やる気がない奴、同僚の事を思いやれない奴は何をやってもダメである。文学部の連中は根本的にやる気がないから、「運天から浦添まで6時間で着く!」という下らないホラ話を平気で作ったり、平気で真に受けたりするのである。やる気がないから、いつまでたっても頭は悪いし、就職率も上がらないのである。文学部は何もかもダメである。人間の質も低いし、やってる事のレベルも低い。

>琉球軍は島津軍が海路で那覇を突いてくると想定して、主力を那覇に展開させていたから、

これは、歴代宝案の作り話を、紙屋敦之が鵜呑みにして適当な空想を加え(王府は薩摩軍を海路をすすんでくると予想していた!)、それを上里隆史が鵜呑みにし、山野氏も鵜呑みにしたものである。しかし上里隆史は、喜安が大湾で上陸する薩摩軍を目撃した記述も同時に採用しているため、両者の矛盾が、上里や山野氏の脳内でどのように処理されたのかが私にはとても不思議である。そもそも王府は、薩摩軍が運天に上陸した事も翌日には把握している。ましてや、20㎞圏内で薩摩軍がウロチョロしているのが分からない筈がないのである。また、上里や紙屋の言うように戦う気があるのならば、索敵しないのはただのバカである。喜安は、浦添の番所のザルっぷりをキレ気味で報告しているが、戦う気があるのならば、喜安に切れられる程度では済まない事である。敵には自由意志がある。まともな偵察もせずに、敵の進路を勝手に決めるなど論外である。上里は、「王府の方針(実際は紙屋敦之の妄想だが)はある程度的確なものだった!」などとほざいているが、正気が疑われる。こういうところにも文学部の常識のなさ、頭の悪さがうかがわれる。

>四月二日、講和交渉が開始されるが、講和会議のさなかでも統制の取れない島津軍の濫行が続き、首里市街は各地で放火、略奪が相次ぎ、少なからぬ犠牲者とともに貴重な文書や宝物、建築物が多数失われることになった。

このような事実はない。講和は4月1日中に完了しており、同日中に薩摩軍は全員那覇に移動している。
経緯は既に述べたとおりであるが、繰り返すと、樺山としては和睦の申し入れを受けた時点で、信用はできなかったものの、家久に言われたとおりに受け入れることにして、那覇で和睦する、と返答した。しかし同時に那覇港に鉄鎖があるとも聞き、元々信用していなかったこともあり、だまし討ちを懸念し、軍使は約束通り那覇港に向かわせたものの、残りは陸路ですすむ事にし、小湾浜で待機して様子を伺うことにした。軍使は問題なく入港し、具志頭、菊隠らと無事に和睦を取り結んだが、薩摩軍の尖兵が首里に侵入したことから、無し崩し的に薩摩軍全体も首里に侵入、騒乱が起こった。軍使らは首里に移動して取り鎮め、和睦が問題なく成立した状況を説明。この間薩摩軍は首里城包囲にまで至っていたが、敵味方双方が状況を理解しており、無駄に怪我する必要もないとやる気ゼロのムードだった事が喜安日記に明記されている。そういうわけで約束通り和睦も成立したので、薩摩軍も約束を守り、午後には予定通り那覇に移動した。

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山野氏の誤謬については、以上に大まかに指摘したとおりだが、ここで提議したいのは、そもそも、統制はとるべきなのか、という問題である。

私の考えは、病的に統制を取る事にこだわるのは、全くの無統制と同じくらい有害だ、というものである。

実例として、秋徳の戦いを取り上げる。このときの薩摩軍は、複数の家の、しかも主人格を欠いた複数の家の寄合所帯だったが、自分たちで連携をとり、戦力を再興し、数時間以内に秋徳を制圧した。このような行動は、樺山のコントロールを逸脱すること甚だしいものがあるが、琉球征伐の大目的には大いに貢献している。この場合、彼らはいちいち樺山のコントロール下に戻るべきだっただろうか?

実際には、統制を無理に効かせるべきではない、という状況は実際にある。上の判断をいちいち仰がずに、自分の判断と責任で仕事をやるべき時はあるのである。

山野光正氏が「島津氏の琉球侵攻」についてまとめてくれました!

単なる上里隆史のコピペですがwww

http://kousyou.cc/archives/15591

 既に述べたことだが、琉球征伐については上原兼善の本を参照すべきである。後はいらない。上原兼善本人はバカなので、彼自身の考察はどうでもいいが、「がくじゅつろんぶんwww」を鵜呑みにするしか能がない上里隆史と異なり、上原兼善は真面目な奴で原典に逐一あたっており、著作にも原文が多数引用されているので、それが非常に有用である。琉球征伐に至る周辺事情については、本ブログでは不足なので、上原の本で補足してほしい。
 なお、山野光正氏は上原兼善の本は参照していない。一応、上里隆史も参考文献に挙げているはずであるが。つくづく愚かな奴である。

>1607年、(朝鮮との)通交が回復するが、問題は対明交渉である。相変わらず捕虜引き渡しの代わりに公貿易の復活を求め、受けなければ朝鮮や福建・浙江に対し出兵、開戦も辞さずとする恫喝に明が屈するはずもなく交渉は難航する。そこで、家康は琉球王国に仲介をしてもらおうと考えた。

 しょっぱなから時系列に乱れが見られる。実際には、この直後に山野氏本人が述べているように、中山への明の仲介が期待されていたのは、1607年以降ではなく、1602年からである。皆さんがご存知のように、中山は生意気にも家康公をシカトしていたため、1606年に幕府は家久に派兵を許可した。ただし、それ以後も1609年まで、あくまで話し合いでの解決が優先されていた点は強調しておく。この辺に「税金払わないアカハチは死刑」が国是で、ゆすりたかりの名人で土下座が大好きな某・野蛮国と文明国の違いが見られる。
 1606年に派兵の内諾を得たにも関わらず、具体的な計画が練られ出すのは1608年である。1607年に動きが無かったのは、朝鮮との通交回復の影響と考えられる。この時期に厄介ごとを起こしたくなかったのだろう。
 いずれにせよ、1607年は、もはや「仲介してもらおうと考えた」段階ではなく、「いい加減仲介しなければボコボコにしちゃおっかな」と考え出した頃である。

>捕虜引き渡しの代わりに公貿易の復活を求め、受けなければ朝鮮や福建・浙江に対し出兵、開戦も辞さずとする恫喝に明が屈するはずもなく交渉は難航する。

 公貿易の復活は捕虜引渡しのバーターではない。これはそもそも、朝鮮征伐で捕虜にした茅国科を、坊津の商人・鳥原喜右衛門に命じて送還するついでに、国交回復を図ったものである。書状の差出人は長崎奉行の長崎奉行・寺沢正成と島津忠恒の連名であるが、そもそもの文面の起草者は家康の側近の西笑和尚である。西笑の起草した文面は確かに攻撃的なのだが、実のところ、明側で日本からの攻撃が問題になった形跡がない。このため、渡辺美季は、家久と鳥原が書状をマイルドに改ざんした可能性がある、と指摘している。いずれにせよ、北京としては、国交回復は拒否して終わりだった。
 しかし鳥原の報告を反映する「薩州唐物由来記」によると、明は喜んで明船2艘を派遣する約束をした、と主張されている。この2艘については実際に派遣されたが、途中で堺の伊丹屋助四郎に襲撃され薩摩には着かなかった。2艘の消息については後年夏子陽もわざわざ薩摩に問い合わせているので、2艘の派遣はある程度公的なものだった、と考えられる。しかし伊丹屋の襲撃により僅かに再開の気配を見せた直接交渉も断ち切られ、1602年以降は、琉球の仲介が期待されることになる。

>1604年にも琉球船が平戸に漂着、この漂着物を巡って島津氏主導の琉球への引き渡しの慣例を超えて徳川政権が直接琉球への引き渡しを行おうとし、この過程で琉球漂着民が勝手に無断帰国、これらの行き違いが島津氏をひどく追い詰めることになる。

 このあたりの山野氏の記述は非常に混乱している。平戸に琉球船が漂着したのは実際には1603年と1605年の2回である。1603年については、松浦氏は薩摩経由で送還しようとし、連絡を受けた薩摩の方でも船を用意していたのに、乗組員は松浦氏に断りなく自力で帰ってしまった。
 1605年については、幕府が指揮して唐人に依頼し、無事に送還している。
 山野氏の話は、2つの別々の事件が合成された作り話であることが分かる。つまり、山野氏は平気で噓をつく人間である。

>親秀吉派の義弘・忠棟、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図

 義弘公の自伝からは、忠恒や義弘と対立しているようには全然見えないため、どこからこんな話が飛び出てきたのか大変不思議である。なお、この三者の中で、太閤殿下に真っ先に降伏したのは「独立派www」の義久公である。本当に独立派ならば腹でも切るのではないだろうか。同時代史料には、このような話は一切見えない。単なる歴史学者の妄想である。我が国の日本史学者どもは馬鹿なので、内部対立があった事にすると、作り話がリアルに見える、と考えているらしい。

>さらにいうとその忠国の子の代に島津氏は分裂、義久の父貴久の代になるまで義久の島津相州家と琉球との交渉は途絶えるので、

忠国の子の代に島津氏は分裂、というのは、島津久逸が伊作家を継承したのを指しているのだろうか?伊作家は昔からある分家である。忠国の代に分家したわけではない。そもそも島津家は、どこの馬の骨とも分からない尚家のような田舎大名とは異なり、かの源頼朝公に仕えた由緒正しい家柄で、分家は数えきれず、歴史上、何回も離合集散を繰り返している。

また、実際には、義久の祖父の島津忠国も中山と通交している。そもそも島津忠国は伊作家から相州家に養子に入った人物で、それまでの相州家はただのマイナーな一分家に過ぎなかった。したがって、忠国以前の相州家が中山といちいち通交していないのは当然である。

>義久も「此の鬱憤止み難く、忠恒若年に任せ短慮の企て有るといえども、愚老往古の約盟に親しみ、種々助言を加え、敢えてこれを推し留む」と、侵攻計画の浮上とそれ短慮として止めたことを琉球に宛てた書状に恫喝的な意図ながら書いている。

 この書状は実際には、1605年以後のものではなく、1603年か1604年のものである。旧記雑録の編集者は1603年と注釈しているが、上原兼善は内容から1604年と考えている。ここから、1604年には既に家久は武力行使を考慮していた可能性があることが示唆されるが、具体的な内容は不明である。多分この時点では家久にも具体的な考えはなかったのだろう。大島出兵の話が出てくるのはあくまで1606年になってからである。

>特に義久(富隈)、義弘(帖佐)、忠恒(鹿児島)の三勢力は島津家の政策を巡って事あるごとに対立するようになる。

 まず、義弘と家久は実の親子でもあり、琉球征伐関連でも緊密に連絡をとりあっている。流石に大御所義久には遠慮があり親密とはいかないようだが、家久にせよ義弘にせよ、義久の意向を常に気にしていることは書状からも十分伺える。彼らが対立してるというのはただの妄想である。

>1600年の関ヶ原の戦いで敗走してきた島津義弘は引退を余儀なくされるなど島津家中の親豊臣派が後退

 これは非常に有名な話だが、島津義弘はもともと家康に味方するつもりで伏見城に赴いている。伏見城に入城を拒否されたため、やむなく西軍についたのである。義弘公に単純に「親豊臣」とレッテルを貼ることができないのはこの一事からも分かる。山野氏が第一に、日本史の常識がない、第二にレッテル貼りが大好き、であることも分かる。

>翌年、業を煮やして琉球は薩摩の附庸国であるとする新説を唱えている。これは1441年、足利義教から島津忠国が琉球を賜ったとする説だが、

 山野光正君。お前原文読んだ方がいいよ。古文読めないなら勉強しろ。このアホ。
 この文面は実際には「奥州に漂着した琉球船を、家康公が薩摩に送還させたのは、家康公が琉球は薩摩の附庸だと考えているからだ」というのものである。客観的には琉球は薩摩の属国とみなされている、という事実を指摘しているに過ぎない。義教や忠国とは無関係である。

>尚寧王の脆弱な権力基盤

 この辺の浦添尚家とか首里尚家とかいう寝言は、同時代史料には一切見られない妄想である。
 根本的な問題は、なぜ、中山が家康公をシカトしていたか、ということである。あらゆる史料は「謝名のせい」と述べるのみで、具体的にどう考えた結果、こんな暴挙に出たのかがよく分からない。

>これに対して琉球への不信感が強まっていた明朝廷では従来の文官派遣ではなく武官派遣による冊封と琉球の大臣連名による推挙状の提出を求めてくる。

 これはあまりにも大きな間違いである。大臣連名による推挙状とは、「結状」のことであるが、従来からある慣習である。また、武官派遣が提案されたのも、琉球への不信感ではなく、海上の治安が頗る悪いせいである。そもそも尚寧の冊封は、明側からせっついてようやく尚寧が請封したものなのである。言い出したのはむしろ明側である。
 尚寧がいつまでたっても請封しない理由については、史世用が「冊封使を接待する金がないから」と報告していた。しかし朝鮮征伐の報に接した明側としては中山王位を不安定なまま放置するわけにはいかず、せかしてようやく1595年に請封を受けた。ここで史世用の報告をうけて提案されたのが、要するに接待する金がないのだから、逆に、福建に琉球の使者に来てもらって冊封する、という案であった。しかし尚寧は拒否。1599年に改めて冊封使派遣を要求した。明は、お前らがそれでいいなら送るけど、海賊が多いから武官を送る、と返答した。
 尚寧はこれも拒否。1601年に慣例どおりの文官派遣を要求した。訴状によると、「武臣を派遣されると、尚寧に罪があって討伐を受けることになったと疑い、終には反逆するものが出てくるだろう」とのことであった。
 要するに中山の方では秀吉に協力した、という後ろめたい事実があるので、過剰反応しているのである。明としてはそんなことは知らず、何気なく福建省に呼び出すとか武官を派遣するとか提案したのだが、中山は四方八方に噓ばかりついているので、疑心暗鬼になっているのである。
 結局、明は文官を送ることにした。

>1606年六月、島津忠恒あらため家久が家康から琉球出兵の許可を得たのと時を同じくして、琉球には念願の冊封使が訪れていた。これを好機として島津氏も琉球国王尚寧と冊封使夏子陽にそれぞれ宛てた文書を作成、文禄・慶長の役戦後の日朝間の捕虜交換交渉で活躍した鳥原宗安を使節として派遣している。尚寧に対しては聘礼使節の来日を出兵を匂わせつつ求めるとともに琉球が日明貿易の中継地となることを提案、夏子陽に対しては明商船の毎年の来日の要請という主旨で鳥原・夏会談も設けられたが、交渉は不調に終わったという。

これは実際には、夏子陽が、先に伊丹屋に襲撃されて行方不明になった2艘の消息を知るため、鳥原に面会させろと王府を介して薩摩に要求してきたのである。薩摩としてはこれを好機として山野氏が言う書簡を一緒に送ったのだが、夏子陽に届いた気配はない。王府の方で握り潰したようである。

>琉球出兵を急ぐ島津家久に対し

そもそも出兵話がある程度具体化したのは1606年のことであるが、1607年には話が進まず1608年にまたぞろ話が再浮上してきて、結局やったのは1609年である。どこが急いでいるのだろうか。私が強調しておきたいのは、家久は全て、家康の指示とおりにやっている、ということである。あれとこれが対立している、という話は日本史学者は大好きであるが、薩摩には家康に逆らったり対抗する実力はないし、そのつもりもない。日本史学者は豊見山和行に代表されるように、バカすぎてどっちがより大きくて強いのか、ということも分からないようだ。

>密かに明朝廷への琉球救援を求める密書を作成、1609年九月、南九州の華人ネットワークを駆使して長崎の福建人に託した。

第一に、密書がどんなものかは不明である。第二に、どうやって長崎の唐人に託されたのかも不明である。少なくとも南九州の華人ネットワークとやらは無関係である。普通に折田嘉兵衛の家に出入りしている人間をあたった方がよいだろう。

>もし、明がこの密書を受け取っていれば、朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、

誰を救援するのかが問題である。尚寧は速攻土下座して薩摩の手下になっているので、要するに山野氏はある種のクーデターを起こして尚家を追放し、中国人による政権を本島に樹立することを想定しているのだろうか。妄想たくましいことだ。