上里隆史が「琉球救援を求める密書ニダ!ファビョーン!」と妄想を膨らましたがために、山野光正氏のような、本は一杯読むけれども、頭を使っては読んでおらず、嘘と真実の区別がつかないバカが、いろいろ勘違いなさっているので、ここで事実を確認しておきたい。
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http://kousyou.cc/archives/15591
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>朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、
いやいや、薩摩に攻撃された事も、王が内地に連行された事も、王府自身が、繰り返し報告しているんですがwww(歴代宝案参照。何通にも渡るのでいちいち引用しない)。威信をかけた救援軍なんて組織される気配すらありませんでしたがwww
そもそも、「反間の書」が言及されるのは下記の兪姓家譜(根路銘家)、二世重光の項が唯一である。
「三十八年庚戌正月二十日為懇乞天恩恤憐遭亂贖修貢職事王舅毛氏池城親方安頼長史金應魁津波野古親雲上赴中華之時敘座敷為勢頭入閩赴京時鄭迵謝名親方在麑府蜜修反間之書寄長崎轉達中國安頼重光等聞閩人持此書持將赴京出公銀買之三十九年辛亥歸國即赴麑府復命萬般事竣歸國」
このように、「反間の書」の具体的な中身は一切書かれていない。何が書かれていたのかは分からない、というのが、歴然たる事実である。
では、どのような事が書かれていたと考えられるだろうか。
そもそも反間とは、寝返った二重スパイである。ここでは、状況から考えて、尚寧の家臣として明と通交していた謝名が、尚寧を裏切り、明に内通しようとしている有様を形容しようとしたものと考えられる。家譜の著者は、明らかに、謝名の密書は、王府に反抗するものである、王府の利益に反するものであると考えている。
しかし当時、既に、琉球征伐についての概要は、明に報告されている。隠しようがないのだからそれは当然である。では、いったいそれ以外の何を、知られたくなかったのだろうか?
ヒントになるのは中山の正史である。球陽には次のように書かれている。
「薩州軍兵那覇に到り、尚宏(具志頭王子朝盛)・馬良弼(名護親方良豊)・毛鳳儀(池城親方安頼)・菊隠長老(西来院住僧)等、同に親見世に到り、亦和睦を 請ふ。椛山氏等、嘗て依允せず、遂に、鳳儀、王上に扈従して麑府に到る。家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。尚宏・毛鳳儀等早く已に帰国し、当に進貢の事を料理すべしと。其の秋、太守公の命を奉じ、麑府開船し、本国に回到 す。倭難に遭ふを恤れみ、兼ねて修貢の職を贖ふ事の為に、鳳儀王舅と為り、長史金応魁(具志親雲上)等と同に楷船に坐駕して、に赴き京に進む。公務全く 竣り、辛亥の夏、本国に帰来し、即ち麑府に赴く。家久公、腰刀馬鞍等を賞賜し、法司官を拝授せしむ。亦駿河に到り、将軍家康公に朝見し、中国の事を奏聞 す。公務全く竣り、其の冬帰国す(前に命を家康公に請ふ。故に駿河に赴き復命す)。 」
>家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。
謝名が知らせようとしたのはまさにこの点、「中山が薩摩の属国となっている」という事実だと考えられる。
ここで疑問なのは、次の点である。既に、王が薩摩に土下座し、内地に連行されたことまで知らせてあるのに、これは属国化ではないのだろうか?如何なる要件を満たしたら属国と言うことになるのか?
この点ははっきりとしない。当時の人々が「附庸」という言葉に具体的に如何なる意味をこめていたのか、判然としない。
しかし現時点で、あらためて次の点は確認しておきたい。
第二次日明戦争なんぞは、当時の人は誰も心配していない。さらに明は朝鮮ですらボコボコにされたのに、ましてや沖縄で勝てるわけがない。事実として、救援軍なんぞ形成される気配すらなかった。
ま、実際には明は王府の実態には気づいていた。薩摩も王府も明も、当事者はみんな、現実を知っていた。その上で、明はあえて、王府の言い訳を受け入れていたのである。その大人の予定調和を、謝名は崩そうとしたのである。
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http://kousyou.cc/archives/15591
鹿児島で因われの身となっていた謝名親方は斬首前、密かに明朝廷への琉球救援を求める密書を作成、1609年九月、南九州の華人ネットワークを駆使して長崎の福建人に託した。しかし、この密書は発覚してすんでのところで回収され、明国に届くことはなかった。
これは歴史を変える密書となる可能性があった。もし、明がこの密書を受け取っていれば、朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、琉球奪還から薩摩への上陸作戦などもあり得るシナリオだ。現に文禄・慶長の役の際にも同じ計画が立てられていたのだし、今回は当時と違って朝鮮半島との二正面作戦にする必要がない。
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>朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、
いやいや、薩摩に攻撃された事も、王が内地に連行された事も、王府自身が、繰り返し報告しているんですがwww(歴代宝案参照。何通にも渡るのでいちいち引用しない)。威信をかけた救援軍なんて組織される気配すらありませんでしたがwww
そもそも、「反間の書」が言及されるのは下記の兪姓家譜(根路銘家)、二世重光の項が唯一である。
「三十八年庚戌正月二十日為懇乞天恩恤憐遭亂贖修貢職事王舅毛氏池城親方安頼長史金應魁津波野古親雲上赴中華之時敘座敷為勢頭入閩赴京時鄭迵謝名親方在麑府蜜修反間之書寄長崎轉達中國安頼重光等聞閩人持此書持將赴京出公銀買之三十九年辛亥歸國即赴麑府復命萬般事竣歸國」
このように、「反間の書」の具体的な中身は一切書かれていない。何が書かれていたのかは分からない、というのが、歴然たる事実である。
では、どのような事が書かれていたと考えられるだろうか。
そもそも反間とは、寝返った二重スパイである。ここでは、状況から考えて、尚寧の家臣として明と通交していた謝名が、尚寧を裏切り、明に内通しようとしている有様を形容しようとしたものと考えられる。家譜の著者は、明らかに、謝名の密書は、王府に反抗するものである、王府の利益に反するものであると考えている。
しかし当時、既に、琉球征伐についての概要は、明に報告されている。隠しようがないのだからそれは当然である。では、いったいそれ以外の何を、知られたくなかったのだろうか?
ヒントになるのは中山の正史である。球陽には次のように書かれている。
「薩州軍兵那覇に到り、尚宏(具志頭王子朝盛)・馬良弼(名護親方良豊)・毛鳳儀(池城親方安頼)・菊隠長老(西来院住僧)等、同に親見世に到り、亦和睦を 請ふ。椛山氏等、嘗て依允せず、遂に、鳳儀、王上に扈従して麑府に到る。家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。尚宏・毛鳳儀等早く已に帰国し、当に進貢の事を料理すべしと。其の秋、太守公の命を奉じ、麑府開船し、本国に回到 す。倭難に遭ふを恤れみ、兼ねて修貢の職を贖ふ事の為に、鳳儀王舅と為り、長史金応魁(具志親雲上)等と同に楷船に坐駕して、に赴き京に進む。公務全く 竣り、辛亥の夏、本国に帰来し、即ち麑府に赴く。家久公、腰刀馬鞍等を賞賜し、法司官を拝授せしむ。亦駿河に到り、将軍家康公に朝見し、中国の事を奏聞 す。公務全く竣り、其の冬帰国す(前に命を家康公に請ふ。故に駿河に赴き復命す)。 」
>家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。
謝名が知らせようとしたのはまさにこの点、「中山が薩摩の属国となっている」という事実だと考えられる。
ここで疑問なのは、次の点である。既に、王が薩摩に土下座し、内地に連行されたことまで知らせてあるのに、これは属国化ではないのだろうか?如何なる要件を満たしたら属国と言うことになるのか?
この点ははっきりとしない。当時の人々が「附庸」という言葉に具体的に如何なる意味をこめていたのか、判然としない。
しかし現時点で、あらためて次の点は確認しておきたい。
第二次日明戦争なんぞは、当時の人は誰も心配していない。さらに明は朝鮮ですらボコボコにされたのに、ましてや沖縄で勝てるわけがない。事実として、救援軍なんぞ形成される気配すらなかった。
ま、実際には明は王府の実態には気づいていた。薩摩も王府も明も、当事者はみんな、現実を知っていた。その上で、明はあえて、王府の言い訳を受け入れていたのである。その大人の予定調和を、謝名は崩そうとしたのである。