琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

謝名親方の密書(反間の書)について

上里隆史が「琉球救援を求める密書ニダ!ファビョーン!」と妄想を膨らましたがために、山野光正氏のような、本は一杯読むけれども、頭を使っては読んでおらず、嘘と真実の区別がつかないバカが、いろいろ勘違いなさっているので、ここで事実を確認しておきたい。

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http://kousyou.cc/archives/15591

鹿児島で因われの身となっていた謝名親方は斬首前、密かに明朝廷への琉球救援を求める密書を作成、1609年九月、南九州の華人ネットワークを駆使して長崎の福建人に託した。しかし、この密書は発覚してすんでのところで回収され、明国に届くことはなかった。

これは歴史を変える密書となる可能性があった。もし、明がこの密書を受け取っていれば、朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、琉球奪還から薩摩への上陸作戦などもあり得るシナリオだ。現に文禄・慶長の役の際にも同じ計画が立てられていたのだし、今回は当時と違って朝鮮半島との二正面作戦にする必要がない。


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>朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、

いやいや、薩摩に攻撃された事も、王が内地に連行された事も、王府自身が、繰り返し報告しているんですがwww(歴代宝案参照。何通にも渡るのでいちいち引用しない)。威信をかけた救援軍なんて組織される気配すらありませんでしたがwww


そもそも、「反間の書」が言及されるのは下記の兪姓家譜(根路銘家)、二世重光の項が唯一である。

「三十八年庚戌正月二十日為懇乞天恩恤憐遭亂贖修貢職事王舅毛氏池城親方安頼長史金應魁津波野古親雲上赴中華之時敘座敷為勢頭入閩赴京時鄭迵謝名親方在麑府蜜修反間之書寄長崎轉達中國安頼重光等聞閩人持此書持將赴京出公銀買之三十九年辛亥歸國即赴麑府復命萬般事竣歸國」

このように、「反間の書」の具体的な中身は一切書かれていない。何が書かれていたのかは分からない、というのが、歴然たる事実である。

では、どのような事が書かれていたと考えられるだろうか。
そもそも反間とは、寝返った二重スパイである。ここでは、状況から考えて、尚寧の家臣として明と通交していた謝名が、尚寧を裏切り、明に内通しようとしている有様を形容しようとしたものと考えられる。家譜の著者は、明らかに、謝名の密書は、王府に反抗するものである、王府の利益に反するものであると考えている。

しかし当時、既に、琉球征伐についての概要は、明に報告されている。隠しようがないのだからそれは当然である。では、いったいそれ以外の何を、知られたくなかったのだろうか?

ヒントになるのは中山の正史である。球陽には次のように書かれている。

「薩州軍兵那覇に到り、尚宏(具志頭王子朝盛)・馬良弼(名護親方良豊)・毛鳳儀(池城親方安頼)・菊隠長老(西来院住僧)等、同に親見世に到り、亦和睦を 請ふ。椛山氏等、嘗て依允せず、遂に、鳳儀、王上に扈従して麑府に到る。家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。尚宏・毛鳳儀等早く已に帰国し、当に進貢の事を料理すべしと。其の秋、太守公の命を奉じ、麑府開船し、本国に回到 す。倭難に遭ふを恤れみ、兼ねて修貢の職を贖ふ事の為に、鳳儀王舅と為り、長史金応魁(具志親雲上)等と同に楷船に坐駕して、に赴き京に進む。公務全く 竣り、辛亥の夏、本国に帰来し、即ち麑府に赴く。家久公、腰刀馬鞍等を賞賜し、法司官を拝授せしむ。亦駿河に到り、将軍家康公に朝見し、中国の事を奏聞 す。公務全く竣り、其の冬帰国す(前に命を家康公に請ふ。故に駿河に赴き復命す)。 」

>家久公、伊勢兵部少輔・鎌田左京亮を遣はして曰く、中国、我が附庸と為るを聞か ば、後必ず以て入貢すること難からん。

謝名が知らせようとしたのはまさにこの点、「中山が薩摩の属国となっている」という事実だと考えられる。

ここで疑問なのは、次の点である。既に、王が薩摩に土下座し、内地に連行されたことまで知らせてあるのに、これは属国化ではないのだろうか?如何なる要件を満たしたら属国と言うことになるのか?

この点ははっきりとしない。当時の人々が「附庸」という言葉に具体的に如何なる意味をこめていたのか、判然としない。


しかし現時点で、あらためて次の点は確認しておきたい。
第二次日明戦争なんぞは、当時の人は誰も心配していない。さらに明は朝鮮ですらボコボコにされたのに、ましてや沖縄で勝てるわけがない。事実として、救援軍なんぞ形成される気配すらなかった。

ま、実際には明は王府の実態には気づいていた。薩摩も王府も明も、当事者はみんな、現実を知っていた。その上で、明はあえて、王府の言い訳を受け入れていたのである。その大人の予定調和を、謝名は崩そうとしたのである。

琉球は本来国家すら形成されなかった地域!

史実上の、尚はし征服後の「中山」、
つまり、現代のバカ学者どもがいう「琉球王国」が
「国家」という特別な存在だった、というのは、
上里隆史がかねてから主張していることである。

以前から私は何度も聞いているのだが、
上里隆史君、君は一体全体、どういう定義で
「国家」という言葉を使っているのかね?

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2月21日

古琉球の交易は明の朝貢体制のもとで栄えたのは事実なんだけども、受け身で黙っていても自動的に交易国家に成長したのではなく、琉球側の積極的な働きかけによって初めて「中継貿易」という仕組みが機能したことも忘れてはいけないように思う。



栄えている中山↓
歴代宝案 巻12 文書番号19 1465年
「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」

栄えている中山↓
「歴代宝案」巻40・文書番号2、巻40-4、巻40-5、巻40-6、他多数
「本國産物稀少」



2月21日

朝貢貿易は義務の範囲を超えて通交し、交易に必要な要求も琉球側から行い明側が当惑する場合も多く、朝鮮や東南アジア貿易も双方向の通交ではなく、琉球側の一方的な働きかけで行っている。これらは本来やらなくていいことで、交易ネットワークの確立は琉球の意志により初めて実現したものだ。



宗主国に対しても、交易に必要な要求を敢然と行う王府をみよ!↓

「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、
お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。
どうか銅銭を給してください」



2月21日

「古琉球の交易は所詮、明の体制に依存したもの」はそうでも、本来国家すら形成できなかった地域が国際環境の流れに巧みに乗り、自らの意志で利点を活かして交易国家として成長した。それは国際環境が変わってしまえば崩れてしまう一時的なものであったにせよ、その点も見逃してはいけないように思う。



「本来国家すら形成されなかった地域」とは、あまりにおかしな表現である。
本来的な意味では、当時、日本も明も国家ではない。
無論、中山も国家ではない。

本来、「国家」というのは、「天下」の対義語であり、
諸侯の国と卿大夫が治める家を合わせた言葉で、
「天下」の意味する領域が無制限であるのに対し、
ある種制限された領域のことを表現しようとした言葉である。

我々が今日知る「国家」は、明治期に「state」の訳語として当てられた言葉である。
明治以後に導入された概念が、
15世紀に存在するわけがない。

実際問題として、当時の「日本」や「明」、
あるいはアッシリアや「ローマ帝国」なども、
我々は多くの場合、
現代的な「国家」に準じて理解している。
これは、当時の現実とは違うが、しょうがない事である。
我々はそんなに賢くない。
御先祖様が自分たちの社会をどう認識していたか、
というのは理解するのが難しい。
そもそも「アイデンティティww」探しに熱中できる現代と異なり
昔の人は生きることに精一杯だったので、
こういう下らない言葉遊びには興味が向かなかったのである。
どうでもいいことは、どうでもいいこととして放っておいたのである。

「国家を形成した!」などという表現には、
そんなものは形成してません、と即答できる。

何かを形成したが、その何かが、
上里隆史や高良倉吉からみると、
現代の国家に似て見えるらしい、というのが現実である。

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国家か国家でないか、と言う話は
言葉の定義は変わる、という事実を無視した空想的な議論である。
そもそも、当時の人々は「国家」「state」という概念を知らないのである。

我々はこういった不毛な議論には付き合うべきではない。

では、日本や明、中山といった、
当時の共同体を、どのように把握したら良いだろうか?

私は、強弱という次元で理解することをお勧めする。
この概念はご先祖様も共有している。
琉球国由来記には「小は大に勝たず」という表現が用いられており、
薩摩と中山の関係の理解に、ご先祖様が同じ概念を利用していたことが分かる。

国家か国家でないか、という視点からすると、
「日本」と「薩摩」の関係をどう理解するのか、
「日本」の一部にすぎない薩摩に、
「国家」である「琉球王国」が従属的であるのをどう理解すべきなのか、
など、概念の混乱が起こる。

強弱と言う視点から理解すると、
明と日本の二大強国があり、
日本の中にはさらに幾つもの強国があり、
それらより数段弱いのが朝鮮(事実上、対馬単独より弱い)、
それよりさらに弱い雑魚が中山、
さらに弱いのが宮古とか八重山・・・

というように、当時の世界観を実に素直に理解できる。

電通の操り人形である倉吉一派は、
暗黒国家琉球を、やたら誇大視させようとしているが、
当時の現実としては、
日本と明の二大強国が対峙する世界の、
端っこのあの辺にある朝鮮未満の野糞みたいな国、というのが、
琉球の実際上の地位である。

気随意者=ニート/上里隆史の奇妙な日本語

https://pbs.twimg.com/media/CWZWCdFUYAI7yha.jpg

「気随」というのは、わがまま、きまま、という意味である。

確かに我がままでニートする人もいるだろうが、
気まま、我がままというのは、
決してニートだけに止まらない様々な生き方、ふるまいを包含する用語である。
「気随意者」も同様である。

実際問題として、「気随意で村の下知に従わない」という罪で久米島に島流しにされた美里村のナベの罪状の詳細は、決してニートではなく、他人を呪った、というものである。

また、平敷屋朝敏も、地頭と言う職業についており、ニートではないが、気随の罪で流罪になっている。

ニートを探したければ、上級士族の次男三男を探した方がいいだろう。
例えば旧慣温存期の本部朝基などは完全にニートである。
就職もせず、空手の練習ばかりしては、辻で喧嘩をしている。
辻と言うのはお姉さんと紳士的にセックスする場所である。
そこで喧嘩をするのは皆に迷惑である。
しかし本部が流罪になった話はない。

要するに、当時の沖縄ではニートは犯罪にはならないのである。
また、気随の罪も、ニートした罪ではないのである。

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気随の罪というのは
定義が非常に曖昧だが、
要するに「村の下知に従わないから」というのが罪だ、という考えである。
では、その「村の下知」は正しいことなのだろうか?

いずれにせよ、法律の体をなしていない、
極めて危険な法律だと言える。
ちなみに先のナベは、
後に訴人の一人である親戚が、
訴えが嘘であったことを認め、
冤罪とされ帰島が許された。
本当にわがままなのは、訴える側と、訴えられる側、どちらだろうか?

琉球征伐の原因/何故、中山は家康公をシカトしたのか?

同時代史料では、王府自身の見解も含め、一致して王府が悪い事が認められている。

しかし現代のバカ学者どもは、王府に非常に同情的であり、他方で、薩摩を誹謗中傷している。薩摩のような勇敢な人々をけなす一方で、王府みたいな自業自得のクズ政府に同情するのは、私には到底理解できない行動である。

誰がどう見ても、薩摩の方が立派で尊敬できる人間が多い。島津家は家柄もよく、手柄話も多い。対して王府は何の手柄話もなく、夏子陽にバカ扱いされてもヘイコラするようなプライドのカケラもない連中で、強いものには媚びへつらうが、弱い者は容赦なく虐げるクズみたいな政府である。ポルポトや毛沢東の同類である。

これが首里士族の子孫とかだったらまだ分かるのだが、立派なご先祖様に事欠かないナイチャーの子孫が、なぜ、わざわざこんな場末の失敗国家のクソ政府に同情を寄せるのだろうか?内地には、現代の我々が美化するまでもなく、時代・文化の違いを超越して、誰がどう見ても立派という人が一杯いる。そんな内地に生まれた連中が、自分とは何の縁もない、王府みたいなバカでクズの集まりを何故、わざわざあれこれ作り話をこしらえてまで美化するのだろうか?紙屋はナイチャー、上里も長野出身である。

島津家がガンジーでもイエスキリストでもなかったのは確かである。俺は戦争屋は嫌いだ、だから薩摩も嫌いだ、という人もいるだろう。しかしそれは王府も同じである。王府は弱い者イジメが専門というだけで、平和主義者でも何でもない。要するに琉球征伐は、広域暴力団が場末のチンピラを締めた、ただそれだけの事件に過ぎないのである。

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標題の謎を探るにあたって私が強調したいのは、王府はアタマが悪いので、当然の如く、頭が悪い判断しかできない、という事である。

文学部は、王府の、よりにもよって家康公をシカトするという、アタマがおかしいとしか言いようのない行動を、あれこれ合理的に解釈しようと無駄な努力をしている。

しかし、王府のような異常者の集まりが、合理的な行動をとるという推測自体が、既に合理的でないのである。

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正史や同時代史料が全部一致して
「全部謝名親方のせい」と述べている事実に、
反薩摩の英雄が欲しいという
「琉球ナショナリスト」の浅ましい願望が相まって、
謝名親方の役割は非常に過大評価されているが、
これは実像から大きくかけ離れている。

確かな事実として、薩摩軍発進後、
信頼できる史料の全てにおいて、
謝名親方はほとんど登場しなくなる。
史料上はっきりした事実として、
王府の主導権は、
尚寧と具志頭が確実に掌握している。
彼らは、当時の沖縄で
薩摩ときちんと向き合おうとしている、
外交的責任を進んで引き受けようとしている、
唯一の勢力である。

多くの人間が2人を見捨てていたのは事実だが、
これらは全て、自分だけは助かろうという保身のためであり、
立派な理念があったわけではなく、
相互の連携もなかった。
対抗勢力が形成されることは、史実上、なかったのである。

與那原親雲上は、百姓が戦っている間、
自分だけ「一戦の力もない」ことを理由に山に逃げ込んでいた。

首里でも、菊隠が必死で和睦話をまとめている間に、
多くの高官が山に逃げ込んでいたため、
喜安に実名を晒されている。
「南聘紀考」が引用する佐多家家譜によれば
謝名親方もまた山に逃げ込んでいたという。

バカ学者どもは、何とか尚家の対立とかなんとか
派閥対立があった話を作り上げようとしているが、
尚寧に対抗する派閥は、史料上存在しない。
学者どもが尚寧への対抗勢力に仕立て上げている佐敷王子は
実際には、尚寧の手ごまとして
何の問題もなく薩摩の人質に出向している。

要するに、尚寧はバカかもしれないが、
他の連中はもっとバカでもっと自己中でもっと使い物にならない、
ということである。
尚寧は確かに、内地のまともな君主と比べると
頭は悪く、決断力も非常に劣っており、
バカにしかみえないが、
それでも当時の王府では、リーダーとして、
尚寧はおそらくベストの選択である。

では、薩摩軍発進前はどうだっただろうか?
謝名親方は確かに、「我が国は昔から大明に属し、
日本とは格別である」と薩摩の使いに対し公言し、
琉球征伐のトリガーを引いた。
しかし実は、これは王府の唯一の意志、
最終決定ではないのである。
この言葉を記録する「喜安日記」は、続けて、
これに同意するものもあり、
反対するものもあり、
議論が続いたが、結論が出ないうちに、
薩摩軍が出発してしまった、
とはっきり記述しているのである。

要するに、謝名親方は、決して、
絶対的存在ではない、ということである。
少なからぬ人間が、謝名親方に公然と反対する事が、
十分に可能だったのである。

結局のところ、あまり意味のない原則論のきらいはあるが、
尚寧の決断が遅いのが悪い、
コイツの仕切りが悪い、
尚寧が一番悪い、ということができる。
使いが帰った後でごちゃごちゃ小田原評定するくらいなら、
謝名親方がああ言ったときに
「いや、これはコイツが勝手に言ってるだけで
私達の総意ではありません」ということをはっきり言うべきだし、
薩摩軍が発進してから慌てて土下座路線に一本化するくらいなら
初めからそうしろ、という話である。

謝名親方という存在の重みについて、どう考えるべきだろうか?

謝名親方は確かに、対中国外交に重きをなして
名前を売った人物である。
しかし、その対中国外交においても、
決して唯一無二の存在ではなかったのである。

先日触れた尚寧の冊封問題についてであるが、
バカ学者どもの宣伝に反し、
中国側は琉球に不信感は特段抱いておらず、
むしろ中国側から急かして冊封しようとした、
という事実は既に述べた。

経緯を整理すると、
まず、中国側は、朝鮮征伐に対する対応として
尚寧を冊封し、中山王位を安定化させようとした。
尚寧がいつまでたっても請封しない理由として
中国は、金がないからだとの報告を受けていたため、
この時点で二つの対案を考えていた。
①琉球の使いを中国に呼んで冊封する。
②武官のみを送る。海路の危険性が増していることへの対策にもなる。
このうち、まず①が選択され王府に提案された。
しかし王府は拒否。
これを受けて、②が提案されたが、
これも拒否。王府はあくまで、慣例通りの文官派遣を要求した。
実はここまでの琉球側の使者は
謝名親方(厳密にはまだ親方ではない)が勤めていたが、
興味深いのは、王府の返事の内容である。

すなわち「謝名は使いの役目を果たしてないのでクビにしました。
武臣を派遣されると、尚寧に罪があって討伐を受けることになったと疑い、
終には反逆するものが出てくるだろうから
とにかく慣例通り文官を派遣してください」というものなのである。
実際、これ以後の使者は別人が勤めている。

つまり、謝名親方のホームグラウンドであった対中国外交でも、
結局、彼の代わりはいたし、
決定権も握っていないのである。
誰が決定権を握っているかといえば、無論、尚寧である。

謝名が法司官になった経緯について、
正史ははっきり、前任の城間親方を
讒言してなりかわった、と説明しており、
対中国外交での功績には一切触れていない。
この記述からは、
謝名親方の法司官就任は、決して
みんなが納得するようなものではなかった、
おそらく、謝名親方の対中国外交での実績は
法司官就任の理由としては説得力に乏しいものであった、
という事が窺われる。

そもそも、久米村出身者で、法司官になったのが
謝名親方が初めてである事実を考慮すると、
久米村の対中国外交への貢献そのものが、
王府内では限定的な評価しか受けていない、
という可能性さえ示唆される。

謝名の法司官就任の経緯が、暗いものであったこと、
そして、久米村出身で法司官になったのが彼が初めて、
という点を考慮すると、
王府内での、本質的な、謝名親方の立場の弱さが浮き彫りになってくる。

史料上の事実として、「謝名派」というのは存在しない。
彼は孤独である。
喜安日記は「全部こいつ一人のせい」とあっさり処断している。

謝名親方は声がでかくて押しの強い人物で、
他の連中は所詮、胆力のない田舎者であった。
初めは謝名の態度のデカさに皆文句が言えなかったが、
風向きが変わると、
みんな掌を返して謝名を見捨て、
親日派に鞍替えした。
尚寧も、である。

王府権力の論理は、
「物呉ゆしどぅ我が主」という文句に集約されている。
要するに親分は誰でもいい、
そのとき物をくれる奴、
利益誘導してくれる奴、強い奴になびく、
というものである。手のひら返しは平気である。
尚徳じゃなくてもいい、というのと同様に
別に中国じゃなくてもいい、という事なのだ。

しかし謝名には中国しかなかった。
彼には対中国外交以外の功績は全くない。
しかもそれすら、首里では決して
すごく有難がっている・・・というわけではない。

謝名は尚寧、あるいは王府全体に使い捨てにされたともみなし得る。

結局のところ、
家康をシカトしていたのも、
(実は王府全体としては、決して反薩摩というわけではない。
薩摩とは普通にやりとりしている。
だから1609年までダラダラ話し合いが続いたのである)
薩摩軍が発進したらすぐ無条件土下座路線に転じたのも、
全て同じ人物の意志である。
つまり尚寧である。

何故家康をシカトしていたのか、という理由については
史料上明記されていないので確かなところは分からない。
たぶん、実際に、言語化できるほど確かな理由はないのだろう。
家康をシカトすることが何を意味するか、
という事が、本人たちにも理解できていないのである。

しかしあえて分析するならば、
文官派遣のゴリ押しを成功させた結果、
中国に日本との関係を疑われていないのならば
このまま疑われないように・・・
という安直な現状維持路線で突っ走ってしまったのではないだろうか。
変化に対応できないのである。

また、文官派遣を訴える書状にあるとおり、
中国に、日本との関係がバレているのではないか・・・
という不安感は、決して尚寧一人が持っていたものではなく、
むしろ王府全体に共有されていたのである。
やってから不安に思うなら初めからやらなければいいのだが、
それをやってしまうのが王府なのだろう。

つまり王府外交の特徴は
一貫した方針の欠如、信念のなさ、見通しのなさ
そして場当たり的対応を繰り返した結果、
自縄自縛に陥るというパターンの繰り返しなのである。

その中で唯一、一貫して「中国の犬」という路線を堅持していたのが
謝名親方である。
「物呉ゆしどぅ我が君主」という首里のどうしようもない
無節操さに適応できなかったことが、謝名親方の不幸なのだろう。

中村十作?WHO?/琉球の捏造王、上里隆史!

https://pbs.twimg.com/media/CZiRWYUUcAAJ3L1.jpg

人頭税廃止運動を、城間正安一人に代表させ、
中村十作を無視する輩を
私は初めて見た。
普通は、二人は必ずコンビで言及される。
大体、「中村十作」なんてたかが4文字である。
ケチるような字数だろうか?

中村十作は、城間正安に勧誘されなければ
廃止運動には参加しなかっただろう。
彼は本来、真珠養殖という
農業とは縁もゆかりもない仕事のために来島した、
新潟県出身の実業家である。
城間がいなければ、農業問題なんぞスルーして終わっていただろう。

しかし同時に、中村十作がいなければ、
国会請願なんぞ実現し得なかったであろうことも、
確かな事実なのである。
中村十作の学歴・財力・見識・人脈は、
城間正安だけでなく、
当時の沖縄県全体の水準と比べて隔絶しており、
こんなのが、沖縄県みたいな終わってる県の
さらに終わってる小島の人々のために
本業を投げ打って尽くしてくれたという事実は
人間の本質について、我々に何かを示唆している。

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上里隆史がこのように城間正安を無視する