又舊制分地封按司,由是各據城池,互相爭伐,兵亂不息。王始改制定度:諸按司皆聚居首里,解散兵柄,遙領其地,歳遣督官一員治之,國以宴然。
以上は中山世譜 http://dynasty.cc/han/book/book/zssp.html によるが、球陽の記述もほぼ同じである。
中山の正史にあるこの一節の評価については、高良倉吉以前の学者どもは、ブサヨ的に「琉球は軍隊のない国になりました」と解釈していた。これに対し高良倉吉や豊見山和行あたりから、百浦添欄干之銘の記述を元に、(其四曰服裁錦綉器用金銀専積刀剣弓矢以為護国之利器此邦財用武器他州所不及也)むしろ軍備が強化されたんだ、という主張が為されるようになった。
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まず前者については、アカハチの乱や数次にわたる大島征伐など、尚真以後も続いた、中山の卑劣非道な暴虐行為を完全に無視した主張であり、お話しにならない。
しかし後者についても、このような主張の延長線上に、いわゆる「琉日戦争www」という誇大妄想が構築されるにいたった点を考慮すると、到底、鵜呑みにするわけにはいかない。
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「解散兵柄」という言葉を素直に解釈すると、要するに地方の軍事力が解体された事から、むしろ軍事力が低下したことが認められなければならない。さらに按司という、まあ内地基準ではただのボンクラだろうが、代々地域に根付いてきた、それなりに求心力のあるリーダーがいなくなるというのも、人間集団の結合力には悪影響をもたらす。
単純に次の点を考えてもらいたい。
護佐丸が死ぬ前後で、尚巴志の軍事力はどう推移したか、という事である。護佐丸無しに、山北攻略があのようにスムーズにいったかどうか。粛清劇が、山北を制圧した後だったことが、全ての答えであるように思われる。狡兎死して走狗烹らるとはまさにこういう事を言っているのである。
諸按司の集住は、護佐丸粛清と考え方は同じである。地方の軍事力が弱体化したため、相対的に首里の軍事力が強まったに過ぎず、総合的な軍事力は間違いなく低下する。
無論、中央への忠誠心があって、かつリーダーとしての資質がある人間が地方官となれば、上里隆史などがよくいう「統一的wwwな軍隊」が実現する可能性があるが、與那原親雲上などを見ていると、首里派遣の連中の資質に期待する気には全然ならない。
いずれにせよ、正史に言われているのは、単に内乱を停止するために地方軍閥を解体したという事であって、軍閥を糾合して大軍隊を造ったとは一言も述べられていない。そこまでいうのはただの妄想である。
次に「此邦財用武器他州所不及也」の解釈であるが、他州を「他国」と訳すのはどうか。州というのは原義的には国内の行政区分の事だからである。まあしかし所詮国内向けのプロバガンダなので、多少威勢のいいことを言うのも自然ではある。ではあるが、琉球ごときが他国に優越する財力や武器を持っていると、実際に考えるのはほとんどキチガイ沙汰であるし、書いた本人もそんな事は信じていないと思う。ともあれここで、武器や金の事しか触れられていない点については、賤ヶ岳の戦いで、蓄財に励みすぎて兵員が足りなかったために、前田利家が松に「銭に槍を持たせて戦争に行け」と皮肉を言われたエピソードが思い出される。
この碑文について確認しておきたいのは、金や武器を貯めこんでいる事は主張されているが、兵員をどうするかについては一言も触れられていない、という点である。王府はそこまで考えていない、真剣に物事を考えていない、という点が再確認されねばならない。琉球征伐時に最も敢闘したのは、竹やりを持った徳之島のお百姓さんである事も思い出されなければならない。
上里隆史は、中山軍が「統一的www」であったと主張する一方で、薩摩軍は「寄せ集め」だったと主張している。実際に寄せ集めwwwなのがどっちかは、琉球征伐の経過をみれば、バカ学者以外の誰にでも分かる。
実戦は最上の教師である。やってみないと分からない事は山ほどある。有名なサッカー指導者のクラマー氏は、戦時中は降下猟兵部隊の大尉だったが、次のように述懐している。「見かけだけの優等生のような、いつもハイハイと言って柔順な、いわゆる良い子タイプの兵士は、実戦になると、からきし頼りにならない。逆に、平生悪ぶっ ている不良少年タイプの兵士は、いざという時に異常な力を発揮し、役に立つ活躍をした。ここらあたりもサッカーと同じだ」
学者どもはナントカ体制について熱心に語る。連中が言うナントカ体制の類については、そもそもあったかどうか疑わしいが、あったとしても、それが機能するかどうかはやってみないと分からないのである。大事なのは結果である。実際に機能しない体制なんぞ意味がない。
以上は中山世譜 http://dynasty.cc/han/book/book/zssp.html によるが、球陽の記述もほぼ同じである。
中山の正史にあるこの一節の評価については、高良倉吉以前の学者どもは、ブサヨ的に「琉球は軍隊のない国になりました」と解釈していた。これに対し高良倉吉や豊見山和行あたりから、百浦添欄干之銘の記述を元に、(其四曰服裁錦綉器用金銀専積刀剣弓矢以為護国之利器此邦財用武器他州所不及也)むしろ軍備が強化されたんだ、という主張が為されるようになった。
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まず前者については、アカハチの乱や数次にわたる大島征伐など、尚真以後も続いた、中山の卑劣非道な暴虐行為を完全に無視した主張であり、お話しにならない。
しかし後者についても、このような主張の延長線上に、いわゆる「琉日戦争www」という誇大妄想が構築されるにいたった点を考慮すると、到底、鵜呑みにするわけにはいかない。
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「解散兵柄」という言葉を素直に解釈すると、要するに地方の軍事力が解体された事から、むしろ軍事力が低下したことが認められなければならない。さらに按司という、まあ内地基準ではただのボンクラだろうが、代々地域に根付いてきた、それなりに求心力のあるリーダーがいなくなるというのも、人間集団の結合力には悪影響をもたらす。
単純に次の点を考えてもらいたい。
護佐丸が死ぬ前後で、尚巴志の軍事力はどう推移したか、という事である。護佐丸無しに、山北攻略があのようにスムーズにいったかどうか。粛清劇が、山北を制圧した後だったことが、全ての答えであるように思われる。狡兎死して走狗烹らるとはまさにこういう事を言っているのである。
諸按司の集住は、護佐丸粛清と考え方は同じである。地方の軍事力が弱体化したため、相対的に首里の軍事力が強まったに過ぎず、総合的な軍事力は間違いなく低下する。
無論、中央への忠誠心があって、かつリーダーとしての資質がある人間が地方官となれば、上里隆史などがよくいう「統一的wwwな軍隊」が実現する可能性があるが、與那原親雲上などを見ていると、首里派遣の連中の資質に期待する気には全然ならない。
いずれにせよ、正史に言われているのは、単に内乱を停止するために地方軍閥を解体したという事であって、軍閥を糾合して大軍隊を造ったとは一言も述べられていない。そこまでいうのはただの妄想である。
次に「此邦財用武器他州所不及也」の解釈であるが、他州を「他国」と訳すのはどうか。州というのは原義的には国内の行政区分の事だからである。まあしかし所詮国内向けのプロバガンダなので、多少威勢のいいことを言うのも自然ではある。ではあるが、琉球ごときが他国に優越する財力や武器を持っていると、実際に考えるのはほとんどキチガイ沙汰であるし、書いた本人もそんな事は信じていないと思う。ともあれここで、武器や金の事しか触れられていない点については、賤ヶ岳の戦いで、蓄財に励みすぎて兵員が足りなかったために、前田利家が松に「銭に槍を持たせて戦争に行け」と皮肉を言われたエピソードが思い出される。
この碑文について確認しておきたいのは、金や武器を貯めこんでいる事は主張されているが、兵員をどうするかについては一言も触れられていない、という点である。王府はそこまで考えていない、真剣に物事を考えていない、という点が再確認されねばならない。琉球征伐時に最も敢闘したのは、竹やりを持った徳之島のお百姓さんである事も思い出されなければならない。
上里隆史は、中山軍が「統一的www」であったと主張する一方で、薩摩軍は「寄せ集め」だったと主張している。実際に寄せ集めwwwなのがどっちかは、琉球征伐の経過をみれば、バカ学者以外の誰にでも分かる。
実戦は最上の教師である。やってみないと分からない事は山ほどある。有名なサッカー指導者のクラマー氏は、戦時中は降下猟兵部隊の大尉だったが、次のように述懐している。「見かけだけの優等生のような、いつもハイハイと言って柔順な、いわゆる良い子タイプの兵士は、実戦になると、からきし頼りにならない。逆に、平生悪ぶっ ている不良少年タイプの兵士は、いざという時に異常な力を発揮し、役に立つ活躍をした。ここらあたりもサッカーと同じだ」
学者どもはナントカ体制について熱心に語る。連中が言うナントカ体制の類については、そもそもあったかどうか疑わしいが、あったとしても、それが機能するかどうかはやってみないと分からないのである。大事なのは結果である。実際に機能しない体制なんぞ意味がない。