琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

中山王府軍制:尚真の「解散兵柄」の評価について

又舊制分地封按司,由是各據城池,互相爭伐,兵亂不息。王始改制定度:諸按司皆聚居首里,解散兵柄,遙領其地,歳遣督官一員治之,國以宴然。

以上は中山世譜 http://dynasty.cc/han/book/book/zssp.html によるが、球陽の記述もほぼ同じである。

中山の正史にあるこの一節の評価については、高良倉吉以前の学者どもは、ブサヨ的に「琉球は軍隊のない国になりました」と解釈していた。これに対し高良倉吉や豊見山和行あたりから、百浦添欄干之銘の記述を元に、(其四曰服裁錦綉器用金銀専積刀剣弓矢以為護国之利器此邦財用武器他州所不及也)むしろ軍備が強化されたんだ、という主張が為されるようになった。

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まず前者については、アカハチの乱や数次にわたる大島征伐など、尚真以後も続いた、中山の卑劣非道な暴虐行為を完全に無視した主張であり、お話しにならない。

しかし後者についても、このような主張の延長線上に、いわゆる「琉日戦争www」という誇大妄想が構築されるにいたった点を考慮すると、到底、鵜呑みにするわけにはいかない。

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「解散兵柄」という言葉を素直に解釈すると、要するに地方の軍事力が解体された事から、むしろ軍事力が低下したことが認められなければならない。さらに按司という、まあ内地基準ではただのボンクラだろうが、代々地域に根付いてきた、それなりに求心力のあるリーダーがいなくなるというのも、人間集団の結合力には悪影響をもたらす。

単純に次の点を考えてもらいたい。

護佐丸が死ぬ前後で、尚巴志の軍事力はどう推移したか、という事である。護佐丸無しに、山北攻略があのようにスムーズにいったかどうか。粛清劇が、山北を制圧した後だったことが、全ての答えであるように思われる。狡兎死して走狗烹らるとはまさにこういう事を言っているのである。

諸按司の集住は、護佐丸粛清と考え方は同じである。地方の軍事力が弱体化したため、相対的に首里の軍事力が強まったに過ぎず、総合的な軍事力は間違いなく低下する。

無論、中央への忠誠心があって、かつリーダーとしての資質がある人間が地方官となれば、上里隆史などがよくいう「統一的wwwな軍隊」が実現する可能性があるが、與那原親雲上などを見ていると、首里派遣の連中の資質に期待する気には全然ならない。

いずれにせよ、正史に言われているのは、単に内乱を停止するために地方軍閥を解体したという事であって、軍閥を糾合して大軍隊を造ったとは一言も述べられていない。そこまでいうのはただの妄想である。


次に「此邦財用武器他州所不及也」の解釈であるが、他州を「他国」と訳すのはどうか。州というのは原義的には国内の行政区分の事だからである。まあしかし所詮国内向けのプロバガンダなので、多少威勢のいいことを言うのも自然ではある。ではあるが、琉球ごときが他国に優越する財力や武器を持っていると、実際に考えるのはほとんどキチガイ沙汰であるし、書いた本人もそんな事は信じていないと思う。ともあれここで、武器や金の事しか触れられていない点については、賤ヶ岳の戦いで、蓄財に励みすぎて兵員が足りなかったために、前田利家が松に「銭に槍を持たせて戦争に行け」と皮肉を言われたエピソードが思い出される。

この碑文について確認しておきたいのは、金や武器を貯めこんでいる事は主張されているが、兵員をどうするかについては一言も触れられていない、という点である。王府はそこまで考えていない、真剣に物事を考えていない、という点が再確認されねばならない。琉球征伐時に最も敢闘したのは、竹やりを持った徳之島のお百姓さんである事も思い出されなければならない。


上里隆史は、中山軍が「統一的www」であったと主張する一方で、薩摩軍は「寄せ集め」だったと主張している。実際に寄せ集めwwwなのがどっちかは、琉球征伐の経過をみれば、バカ学者以外の誰にでも分かる。

実戦は最上の教師である。やってみないと分からない事は山ほどある。有名なサッカー指導者のクラマー氏は、戦時中は降下猟兵部隊の大尉だったが、次のように述懐している。「見かけだけの優等生のような、いつもハイハイと言って柔順な、いわゆる良い子タイプの兵士は、実戦になると、からきし頼りにならない。逆に、平生悪ぶっ ている不良少年タイプの兵士は、いざという時に異常な力を発揮し、役に立つ活躍をした。ここらあたりもサッカーと同じだ」

学者どもはナントカ体制について熱心に語る。連中が言うナントカ体制の類については、そもそもあったかどうか疑わしいが、あったとしても、それが機能するかどうかはやってみないと分からないのである。大事なのは結果である。実際に機能しない体制なんぞ意味がない。

これが人文系だ!/金持ちへの妬み嫉み丸出し!非常勤うさたろう


うさたろう – ‏@usataro1999

「同格婚」とか学歴肯定、階層・階級肯定、資産家の家に生まれたことを資本主義の序列だとか弱肉強食だとか、自分の力だと信じて疑いもしないアカウントを見て胸くそが悪くなる。
4:40 - 2016年7月14日
うさたろう
7月14日
うさたろう ‏@usataro1999
@usataro1999 この手の連中は、首都圏の資産家の家に生まれたってだけで、ありえないくらいの下駄履かせてもらっているということに気づきもしない。あまりにナチュラルすぎていい人に思えちゃうくらいの世襲主義者。
うさたろう
7月14日
うさたろう ‏@usataro1999
@usataro1999 まあ、たいていの場合はいい人なんだけどね。でも、そういう「いい人」を生み出すために、何十人・何百人もの貧困で潰されていく人を生み出すくらいなら、相続財産には100%の税を賦課して、原則として親の財産を子がが相続できないようにするといいと思う。

〜〜〜〜〜〜〜

家族にいい生活をさせるため、というのは、勤労意欲をわかしめるごく一般的な動機の一つであり、他人がとやかく言うものではない。

親の力を自分の力と勘違いしている人がいるのは、むしろ本人にとっての損で、こちらには競争相手が一匹減るという点で得であり、これも私はとやかく言う気には一切ならない。

今、金持ちである人は、一生懸命働いて金持ちになっている。多大なストレスと競争に勝ち抜いた結果である。金持ちの子供に生まれるのも本人の運である。私は金持ちの生まれではないが、運命の女神のお世話には山ほどなってきたので、他人の幸運に嫉妬する気にはなれない。向こうの方がスタート時の条件がいいのは、私は何度も経験してきている。それは努力でカバーすればいいだけの事である。

今、うさたろう氏が貧しい非常勤なのは、本人のせいである。

文学部が就職終わってる低偏差値のクソ学部なのは明治時代から広く知られた真理である。そんなところに将来の人生設計も考えず、周囲の忠告も無視して、学問の場ガーとか何とか厨二病丸出しの戯言をほざいて入学したのは他ならぬうさたろう氏自身である。他人を恨むのではなく、自分のやったことの結果を真摯に受け止めてほしいものだ。

高橋康夫「海の京都」における那覇港発展の過程

234 :
2016/05/05(木) 11:26:01.21 ID:TisWTq9B
髙橋康夫「海の「京都」」(>>70)が意外と面白い。
不思議な書名は、いわゆる京都と首里・那覇を海の「京都」としてまとめたもの。
対する長安、洛陽、ソウルは陸の「京都」だというけど、
陸と海の直接的な比較をあまりやってないから、強引さを感じる。

大先生は、サンゴ礁の暗礁に囲まれた南西諸島の中で那覇港だけは大型船が寄港できる、
那覇港は14世紀中頃に自然発生した、マンセー、と言っているけど、髙橋はこれを否定する。
「前近代の港湾のなかでめずらしく天然の良港ではなかった」(417頁)。
暗礁が多くて港口が狭く、入港するには曳船が必要で、平時であっても不便だという。
髙橋は南西諸島の他の港とは比較していないけど。
結論として、尚巴志が1425年の冊封にあわせて、国家事業として那覇港を造営し、
それによって外交と交易の拠点を直接的・独占的支配下に置いたと推定している。
235 :
2016/05/05(木) 12:18:39.77 ID:TisWTq9B
『おもろさうし』の「うきしまはけらへて」は、この那覇港造営を指していて、
浮島は、当時島だった那覇島全体ではなく、島の一部にすぎない西町・東町のことだという。
那覇港造営前の14世紀後半は、同じ那覇島の波上が拠点であり、
媽祖信仰の上天妃宮、道教の天尊廟があることからわかるように中国人集落が自然形成されたが、
同時に、波上権現や禅寺があることから、日本人と雑居状態だったと推定している。
一方、那覇と久米は、波上をモデルとしつつ、日本人・琉球人と中国人を分離する形で尚巴志が作り上げたのであり、
久米の人工性は、15世紀半ばの時点でまだ天妃宮や道教の廟がなかったことから裏付けられるとする。
236 :
マンセー名無しさん
2016/05/05(木) 17:51:36.87 ID:IKGE1TbH
どうなんだろう、他港と比べてはわからんけど、「沖縄島では」そこしかなかったってだけでしょ?
首里を本拠とするなら那覇しかなかったとか、那覇を開発するなら本拠は首里になるとかは知らんけど
237 :
2016/05/05(木) 20:52:56.56 ID:TisWTq9B
まあ、大先生が那覇島全体を漠然と考えていたところを狭義の那覇と波上にわけて、時間的変遷を想定しているだけとも言える。
大先生は明らかに物事を深く考えるタイプの人間じゃないから、細かいことは気にしないだろう。

本島とは少し離れた島だったから外来勢力が拠点を作りやすかったという説は、まあそうなんじゃないかと思う。
その時中山王の拠点が当初浦添にあったのなら、首里に移って港に近づいたことになる。
238 :
マンセー名無しさん
2016/05/06(金) 03:01:03.95 ID:twLZO4xB
いや、那覇しかなかったというのはまた違うと思う。
本島には泊も運天も勝連も糸満もあるし。
那覇と比べてしょぼく見えるが、
それでいったら神戸も幕末までは
さびれた漁村だったし。

その中で、暗礁だらけで
決して良港ではない那覇が選ばれたのは、
島になってて外来勢力が居着いており、
その意味で海外交易に有利だったから、
というのは妥当な推測だと思う
239 :
マンセー名無しさん
2016/05/06(金) 03:19:09.63 ID:twLZO4xB
後、波上が日本人との混住だったというのも
大事な指摘だと思う。

尚巴志の朝貢に特に顕著だけど、
中国にとっての中山の存在意義は
日本の産物が手に入るという点が非常に大きい。
本土との交易は、朝貢と同じくらい大事。
つか本土と交易しなければ朝貢もできない
その本土との交易に携わってるのは
日本人名の奴。
さらに朝鮮との交易にも、大屋子以外に
八郎っていう日本人名の奴が関わってたりする。

これまでは久米村の中国人だけが
やたらクローズアップされてたけど、
本土、朝鮮との交易では、
本土人の存在感が大きいのを見逃していると思う
240 :
2016/05/06(金) 17:35:10.47 ID:xEmUIBlL
15-16世紀琉球の朝貢品で日本産品ってそんなにウェイト高かった?

南方物産にしても、東南アジア諸国の朝貢国ネットワークも現地華僑が取り仕切ってたっていうけど
そういう国々は直接中国来てたんだっけか
241 :
マンセー名無しさん
2016/05/08(日) 13:42:57.61 ID:3LcWUobF
中国や朝鮮の史書にでてくる倭人は、何とか郎とかいって苗字や姓を名乗らないのが多いんだな
242 :
2016/05/08(日) 14:40:44.22 ID:E/CPRMbK
名乗らないつーか単純になかったのでは?
古代において氏の中で分類する為に存在する苗字はなかっただろうし
姓は先祖の家格だから古代では当然ない
氏にしても地名や官職由来のものが多いから最初はない。

多分、出身地域(後の氏)-官職(後の姓)-名が現代でいう姓名として機能してて
中国からみると「出身地域-官職」の部分は名前扱いされてないとか
243 :
2016/05/08(日) 23:14:05.46 ID:wbQRtIy3
その当時の苗字に相当するのが○○郎だったと考えている

氏や姓に関する解釈は>>242と随分違うけど、
簡単に名乗れるものではなかったという点では似た結果になるな

遣隋使や遣唐使の代表クラスに氏姓名持ちはいても
使節団構成員レベルになるとそう多くない

むしろ一般的に使われていた個人がどこに所属する者かを明確化させるため
どんな少人数でも集団の個別名称として使われていた○○郎を冠して名乗っていた
と考えた方が記録として残されたものとして(実在する人物として)もすっきりする
244 :
マンセー名無しさん
2016/05/08(日) 23:31:45.78 ID:7rzPH45j
京太郎
245 :
マンセー名無しさん
2016/05/09(月) 12:40:12.55 ID:+dtx8Uop
有名なとこだと明代の文人、唐寅の『贈彦九郎詩』(1512年)なんかも
彦九郎って人は堺の商人って推定があるけど姓は名乗ってないんだよな
246 :
マンセー名無しさん

248 :
2016/05/09(月) 18:08:39.60 ID:oso9Oax1
>>238
話題が変わってしまったけど一言。
神戸が幕末までさびれていたというのは正確じゃないな。
幕府は神奈川を開港すると条約で約束したけど、隣の横浜に港を作って神奈川だと言い張った。
それと同じで、狭義の神戸は未開発だったけど、隣には兵庫津があって中世からそれなりに栄えていた。

他に中世の港として有名なのは堺、博多、安濃津あたりだが、どこも平野部の河口だから水深が浅そう。
喫水の深い大型船が重要になったのは、南蛮人が長崎や平戸を開発してからじゃない?
「小さな浜から外国向けの船など出られるはずがない」ということはないはず。
地形だけなら、大島海峡あたりのほうが風よけに良さそうだし。

中山の軍事制度の実態/歴史群像「琉球王都のグスク群」雑感

歴史群像「琉球王都のグスク群」を拝読した。

初めに言っておくが、昔の沖縄県あたりの軍隊や戦争と言うのは、内地に比べるとウンコみたいなものであった。何かの本で「隊形を組めるのが軍隊、組めないのが暴徒」という定義が為されていたが、この定義の元では、沖縄県の軍隊は立派な「ただの暴徒」であった。沖縄県の戦争は恐らく下記のようなものであった。
http://gigazine.net/news/20100302_tribal_war/

中山の史書を読むと、野戦の記述が全くないことに気付く。軍事行動の焦点は城に当てられているが、これとて大した攻城戦には全然ならない。今帰仁城の羽地は、囲まれると配下にあっさり裏切り者が出た。しかし彼の場合、本人は戦う気だったのだからまだマシである。浦添城の武寧は自ら降伏。中城城の誤差丸は囲まれるとあっさり自決した。

あまわりは首里まで攻め寄せたが、敵の援軍が来ると勝連城(!)まで敗走。繰り返すが首里→勝連まで一直線である。まるでピンボールである。踏み止まって戦って欲しいものである。これはこの上なくダサいという以上に、あんまり逃げすぎると軍隊がバラバラになって、大半の兵士は離脱してどっかに行ってしまうからである。戦わずして兵士が減るのである。

当時の沖縄県の戦いと言うのは、へっぴり腰で石とか弓矢を投げ合っておしまい、というものであった。アレシアの戦いとかテュロス攻囲戦とか、そういう血みどろのGreat warからは程遠い、ショボい乱闘であった。その程度のものに、何か大したものを期待するのが間違いである。歴史書に、軍隊の詳しい構成とか、戦術とか、陣形の記述が無いのは、そんなものが無かった、ただのワーワーサッカーであった、という事実を強く示唆しているのである。

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①琉球王国の軍制

これまでより妄想が発展している。

まず気づくのは、「X庫裡(笑)」が削除されていることである。代わりに丑日番などと付けられているが、この件の根本史料の「球陽」には「中昔に至り、九員に改定し、其の九、分ちて三番と為し、名づけて勢遣富・世高富・浮豊 見と曰ひ、丑日の番と為し・・・」とあり、三番や丑日の番などと付けられたのは、あくまで9引になってからである。12引時代に既に三番に分かれていたというのは、何の根拠もない妄想である。

三司官を番の司令官に比定するのも、全く根拠のない妄想である。真珠橋碑文には「一番の里主部家来赤頭部」とあり、法司なんぞ全く出て来ない。

麻姓家譜には「爾來當唐船出入之時引之勢頭筑登之者引具家來赤頭三重城相誥」とあり、実際の運用状況を垣間見ることができるが、このように、勢頭の上級者は全然言及されない。

恐らく、番の司令官は決まっていなかったものと思われる。高良倉吉や上里隆史は、「中央集権化(笑)」という言葉に固執しており、ピラミッド型の組織図を作り上げることに病的にこだわっているが、このようなこだわりは全くナンセンスなものである。リトルビッグホーンのインディアン連合軍は、ナンバー1が誰なのか全然決まっておらず、それどころかナンバー2やナンバー3も決まっておらず、命令系統や序列自体が体をなしていなかったが、第7騎兵隊を皆殺しにするのに何の支障もなかった。カタラウヌムの西方諸部族連合軍も、誰がナンバー1なのか決まっていなかったが、アッティラ大王に勝った。このように偉大な軍隊ですら、しばしば誰がナンバー1なのか決まっていないものである。ましてや、ゴミみたいに弱い王府軍に、きっちりした組織を想定する必要は全然ないのである。むしろこんな弱い軍隊であれば、いい加減な方が自然である。

私は、引の正体は「中山王府官制」「球陽」に有るとおり、首里城の下っ端役人である家来赤頭の統制組織以上の物ではない、と確信している。その数はせいぜい100名である。近世期の引の人員は、球陽によれば多少削減されて80数名であるが、首里城の規模が変わらない以上、人数が大して変わるわけがない。高良倉吉は、前述の史料は近世期の物であることを理由に、16世紀までの引は何かもっと偉大なものだった、と妄想しているが、何の根拠もない戯言である。

以上の点を認めていただけるのなら、王府軍の軍制においては、いわゆる「間切軍」の方が遥かに重要であることも認めていただけるだろう。100人と900人では900人の方が重要に決まっている。引の説明にやたらエネルギーを費やす高良倉吉や上里隆史は、物事の優先順位というものが全く分かっていない。

軍制において、間切軍が中心であることを認めれば、昔と同じですね、他所様とも同じですね、ということで、話はそこで終わりになる。

真珠橋や屋良座杜の碑文にあるように、尚真期になっても、結局は、沖縄の軍隊は地域ごとにまとまっていた。その中で「引」は確かに異質であるが、「引」が首里城の家来赤頭の統制組織であるという、史料的裏付けのある唯一の事実を認めれば、その理由も自明だろう。首里城の家来赤頭は、金丸もそうであったように、沖縄各地から上京してきた連中の寄せ集めなので、これを纏めるためには、地域性以外のイデオロギーが必要なのである。



②首里親軍

これについては先に述べたとおりである。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/44150626.html

「首里親軍」は、根本史料の「おもろさうし」においては、天降り雲の按司、ぐすく親軍と併記されており、むしろ中山軍の不統一ぶりの証明である。そもそもこの歌は、天降り雲の按司があまわりの事と考えられるので、その時代の話である。



③間切軍について

北部間切軍とか中部間切軍とか、意味の分からない区分けが出来ているが、北部とか中部とかいう区分けは、同時代史料に一切見られない。

上里隆史や高良倉吉の議論の最もバカバカしい点は、何でもかんでも同じシステムでやらせようとする点である。「北部諸間切軍」には「山北監守」などと書かれているが、山北監守は山北の監視が任務である。むしろ諸間切との交戦も想定しなければならない立場である。その場合には首里からの援軍を待つことになる。いずれにせよ、山北監守の軍事力をどうするつもりだったのかは、史料上一切記述がないし、山北監守が実戦を経験することは一度も無かったことを考えれば、王府に特に構想が無かったとしても、何らおかしくはない。必要に迫られなければどうでもいい事である。

一番の問題は、この「王府の軍事組織」に外征もやらせようとしているところである。山北監守が外征するわけねーだろボケが!山北の監視はどうするんだ!

薩摩軍だって、沖縄に来た3000人と、関ヶ原の際に薩摩・肥後国境に集結した2万人とでは、同じ組織のわけがないのである。軍隊というのは状況に応じて再編成が行なわれる。いつでも何でもかんでも同じ、というのは、全く非現実的な考えである。

間切軍を誰が率いていたのか、と言う点については、麻姓家譜に下記の記述があることから、筑佐事が率いていたようである。
「平等役筑佐事者引率豊見城間切小禄間切百姓牙浪沙森相誥」

筑佐事より上の指揮系統はどうなっていたのか、と言うと、不明である。恐らく決まっていなかった。既に述べたように、王府軍の恐ろしいまでの弱さを考えれば、むしろいい加減で当たり前である。



④碑文をどこまで重視するか

高良倉吉や上里隆史は碑文に非常にこだわっているが、屋良座杜や三重城の「格護」の実際の運用状況は、麻姓家譜に述べられているように、三重城には勢頭チクドノに率いられた家来赤頭、屋良座杜には豊見城間切と小禄間切の百姓が入る、というものであった。碑文が作られた尚清の時代で既にこうであった。やりたい事と、実際にできる事は違う。これは当たり前の事である。私は、歴史学上、実際にやった事の方が常に重要だと確信している。



⑤琉球にはフランキがもたらされた!(という願望)

キモいオッサンの白昼夢はさておき、樺山譜中には、那覇港の鉄鎖があると聞いた話はあるが、フランキがあるとは一言も書かれていない。

琉球入ノ記と歴代宝案については、相互に記述が矛盾しているのにも関わらず(そもそもいつ撃ったのかが全然違う)、そのような資料を併記すること自体、こいつの歴史学者としての良心が疑われる。

いずれにせよ、この二者は、既に論証したように、何の信頼性もないホラ話である。これらを未だに持ち出す上里隆史は、往生際が悪い。



⑥「営中」は「陣屋・軍営の中」を意味する!

ベトナムのホイアンには「日本営七郎兵衛」という墓碑銘が残っている。営というのは当時、単に外国人の居留地を表したようである。

1606年に使節団を営中に移動させようとした話は、根本史料は下記の通りであり
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/21566720.html
単に距離的な問題である。

防御性で言うなら首里城に入れるべきだが、むしろ使節を首里から引き離すために、営中を持ち出しているのである。中国人もその点を見透かしているのは史料のとおりである。



⑦1609年の島津軍侵攻までグスク群の機能は維持されていた!

私があらゆる史料を確認した確認した結果では、1609年に機能したグスクは一つもない。王府は土下座する気満々なのだから、戦闘用の施設が戦闘用の機能を発揮しないのは至極当たり前である。逆にやる気があれば、その辺の民家の石垣でも防御施設になり得る。上里隆史君には、次の一文を捧げたい。

「人は城、人は石垣」

令制国を巡る議論/玉城氏への回答

http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/49022368.html
のコメント欄で、玉城氏に明治維新後の状況についての問題提起を受けた。

>律令制・太政官制は明治十八年十二月までは持続しましたから、

という表現については、明治維新後の太政官制は、延喜式あたりまでの律令制とは連続性がないように思われ、多少疑問が残る表現ではある。それはともあれ、明治維新後の琉球処分の進行と、明治維新後のポスト・ウェストファリア条約的な「主権国家」概念の導入の中で「琉球国」の意味づけがどのように変化してきたかについては、学問的に大いに関心のある主題である。これまで、この分野に関しては、西里喜行のマルキシズム・琉球ナショナリズム丸出しの感情的でバカみたいな論考しか無かったため、玉城氏には内心非常に期待している。

しかし私が今回、問題にしたいのは、うさたろう氏や上里隆史が、素人さんに、「令制国を知らないんだーいやーい」などという絡み方をしていることである。お前らが勝手に作った専門用語とか知るかボケ、と私は言いたいのである。

この素人さんはそもそも「令制国」という言葉についてよく知らないと思われる。少なくとも令制国の話はもともとされていなかった様子である。うさたろう氏や上里隆史は、「令制国」という言葉・概念を知らないことにわざとらしく驚いているが、「令制国」という言葉・概念を知らないことは、至極当たり前のことである。そもそもこいつらの研究対象である先人自体、そんな言葉・概念は知らない。

私自身の事について言えば、「令制国」を巡る学術的な論争もある程度把握していると同時に、令制国という概念を前提としない、より一般的で、曖昧で現実的な国家観も理解できる。私は、この二つの見方を全く問題なく使い分けできる。そもそも社会人であれば、いろんな物の見方を尊重するのは、ごくごく当たり前の能力と思われる。

上里隆史は、「同じ言葉だから同じもの、というのは小学生レベルだ!」などと述べているが、これは決して小学生レベルではなく、言葉の持つ自然な性質である。あえて言うならば、これは順序が逆である。同じようなものと中国人が考えたからこそ、倭国も国、やまと国も国、琉球国も国、となったのである。同じようなものと日本人が考えたからこそ、薩摩国も国、安芸国も国、日本国も国、唐の国も朝鮮国も国、となったのである。これらのものが同じ「国」という言葉で表現されていることは、これらすべてが同じようなもの、と先人が考えていたという歴然たる証拠である。

学者どもは、「多くの国が集まって一つの国を造る」という、歴史的には世界中で当たり前のように見られてきており、わが国でも先人は自然に理解していた現象が、理解しにくいようである。現代でもアメリカ合衆国(united states of Americaを直訳すると、アメリカ諸国の連合、である)という例があるのだが・・・このような理解力の不足のために、学者はわざわざ「令制国」という言葉を新造して、広義の「国」から区別する必要があったのだろう。しかし重ねて言うが、当時の人は区別していない。

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専門用語を、一般人にもアプリオリのものとして考えることの問題点を、さらに考察してみたい。

狭義の「近代歴史学」を、広義の「歴史」から区別して考える。近代歴史学は、歴史上の事象を分類し、解釈し、「これはあの現象と同じものだ」などと定義する。近代歴史学のこのような性質によって、本来、西洋史上の用語であった「封建制度」や「中世」「古代」が、日本でも「発見」されたわけである。

このように解釈・分類を行うことが、古事記・日本書紀・球陽と、近代歴史学の大きな違いである。

しかし同時に、このような解釈・分類が妥当なものかどうかは何の保証もないのである。実際、ナントカ体制を発見するのに熱心な近代歴史学の一つの成果として、中山に1000人の常備軍(爆笑)があったなどというバカバカしい主張が実在する。こういった非現実的な主張は、残念なことに、日本史学においてはまま見られることである。私は、日本史学を見るにつけ、あたかも童貞が女性の口説き方を講釈する有様をみる思いがする。史学科はまず就職率を上げて現実社会との接点を持った方が良いと思われる。

近代歴史学というのは所詮、歴史に対する一つの態度に過ぎない。上里隆史やうさたろう氏がそういう態度を良しとするのは勝手だが、それがシャバでも通用する普遍的な物であると考えるのは大きな間違いである。

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「令制国」という用語については、学問的には、一定の意義があるとは思うが、一番の問題は使う奴が史学科のバカ共だ、ということである。前項でも述べたが、「令制国」と形容される「国々」の大半は、実際には律令制度以前から「国」である。昔からの概念の引き継ぎに過ぎないものを、現代のバカ学者の理解力の問題から、「令制国」とあくまで仮に、切り分けているのである。既に述べたように、同時代人はいわゆる「令制国」を広義の「国」と全く区別していないので、「令制国」概念を乱用すると、現実を理解しやすくなるどころか、かえって甚だしく乖離する危険性があるのだが、連中は呆れかえるほどに無自覚である。

これは「琉球文化圏」についての上里隆史の下記の錯乱した議論にも通じることである。

http://torohiko.ti-da.net/e2330924.html

>南西諸島がひとつの「琉球文化圏」として形作られはじめるのは10~12世紀頃から。日本でいえば平安時代に当たります。それまでの南西諸島は「奄美・沖縄文化圏」と「先島文化圏」に分かれて両者の交流は全くと言っていいほどなく、

第一に、文化的には、沖縄の歴史はむしろ分散の歴史である。古墳時代に中央から分離した言語・文化的集団が、徐々に南下して、奄美・沖縄に到達し、諸島に分散し、さらに独自化を進めていき、ついには相互に言葉が通じなくなってしまう、という歴史である。文化的に統一される流れがあったというのは、現実とは真逆であり、大いなる間違いである。

第二に、10~12世紀というのは、本島で有力な豪族がようやく出てきた時代であり、この時点では離島は何の関係もない。政治的に諸島を統一する流れが、15世紀頃から出現しているのは事実で、上里はそれと、文化・エスニシティの問題を混同しているとも思われるが、政治的な意味でも、10~12世紀を起点にするのは全く理解できない考え方である。

第三に、そもそも文化圏というのは現代の我々が勝手に押し付けている概念だ、という事である。本島から離島に至るまで、文化的に共通項があるのは事実である。先祖は同じナイチャーなんだから当たり前である。従って琉球文化圏という概念は存在していいだろう。しかし同時に、内地の文化と明白な共通項があるのも確かな事実である。従って、日本文化圏に包摂する考えも認められなければならない。逆に、各離島と本島とでは違いが余りにも大きいため、それぞれを別個の文化圏に分ける考えも認められるべきである。

琉球王国の支配領域に、文化的な統一性がもともとあったというのは、現実と全く異なる妄想である。それだけでなく、日本文化圏から琉球文化圏を区別する一方で、各離島の文化の自立性は無視する行為であり、汚いダブルスタンダードである。こういういい加減な発言が、ただでさえ無いに等しい琉球史学の学術的妥当性を、さらに失わせるのである。

U里T史とか言う人は長野県の生まれだそうである。そういう出自があるからこそ、沖縄愛を示さなければならない、沖縄の独自性を尊重しなければならない、という拘りがあるのかもしれない。これも一種の適応障害だろう。高良倉吉にも言えることだが、そんなに沖縄愛があるのなら、普通に就職して欲しいものである。ウチの高卒のオヤジの方が、高良倉吉とかいう、税金がなければトイレットペーパーも買えないクズより、よっぽど沖縄県に税金を払っている。

私は先祖代々の沖縄県民であり、(あまり大きな問題ではないが)知り得る限り、少なくともここ3世代あたりでは、沖縄以外の血は一滴も混じっていない。そういう背景を持つ県民として言うのだが、沖縄県にはもともと文化的同一性も仲間意識もない。本島と離島はアカの他人である。私は沖縄には何の幻想も抱いていない。我々の一族は、仕事がなく、沖縄から出ていく事が正義だった時代も経験している。沖縄というのはただのone of クソ田舎、それだけである。それ以上のものだったと考えるのは非現実的な妄想である。

琉球文化圏を巡る話題については、下記のスレッドも参考になる。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10958/1282798599/