内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する。
<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰4・1453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。
朝鮮王朝実録に実際にはこう書かれている。
"一, 去庚午年, 貴國人四名, 漂泊于臥蛇島, 島在琉球、薩摩之間, 半屬琉球, 半屬薩摩。 故二名則薩摩人得之, 二名則琉球國王弟, 領兵征歧浦島而見之, 買獻國王, 王置于闕內, 厚加撫恤。
1450年、朝鮮国人(琉球使道安視点なので貴国と書かれている)4人が臥蛇島に漂着した。
島は琉球と薩摩の間にあり、両属していた。だから二名は薩摩人がこれを得て、残りの二名は、琉球国王の弟がちょうど兵を率いて喜界島を征していたときにこれを見て、買って国王に献じ、城内に置いて世話してやった
この通り、買ったのは朝鮮人二名の事である。そもそも、得之、見之がどう見ても対比されているので、目的語は同じに決まっているのだが、高瀬女史はこんなものも読めないのだろうか?彼女の経歴が知りたい。
調べたらしまぬゆは正しく訳していた。郷土史家未満の読解力しかない高瀬女史・・・この世に存在する意味あんの?
この記述は尚徳以前、連年喜界島を攻撃していたが征服できなかった、という記述を裏付けるものと思われる。