琉球王国~その真実の歴史

高良倉吉&上里隆史の歴史修正主義に反対します!琉球王府の悪行を語り継ぎます!

上里隆史妄言集

【また】高瀬恭子女史のとんでもない誤読【史学科か!】

http://rekioakiaki.blog.fc2.com/blog-date-20170523.html

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する。

<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰4・1453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。

朝鮮王朝実録に実際にはこう書かれている。
"一, 去庚午年, 貴國人四名, 漂泊于臥蛇, 島在琉球薩摩之間, 半屬琉球, 半屬薩摩。 故二名則薩摩人得之, 二名則琉球國王弟, 領兵征歧浦島而見之, 買獻國王, 王置于闕內, 厚加撫恤。

1450年、朝鮮国人(琉球使道安視点なので貴国と書かれている)4人が臥蛇島に漂着した。
島は琉球と薩摩の間にあり、両属していた。だから二名は薩摩人がこれを得て、残りの二名は、琉球国王の弟がちょうど兵を率いて喜界島を征していたときにこれを見て、買って国王に献じ、城内に置いて世話してやった

この通り、買ったのは朝鮮人二名の事である。そもそも
、得之、見之がどう見ても対比されているので、目的語は同じに決まっているのだが、高瀬女史はこんなものも読めないのだろうか?彼女の経歴が知りたい。

調べたらしまぬゆは正しく訳していた。郷土史家未満の読解力しかない高瀬女史・・・この世に存在する意味あんの?

この記述は尚徳以前、連年喜界島を攻撃していたが征服できなかった、という記述を裏付けるものと思われる。

ボで始まる出版社〜宮古島庶民史は難しい!

先日、ボで始まる、
上里隆史の本を良く出している出版社の編集者と
話す機会があった。

宮古島のわかりやすい歴史の本を出したい、
と言うので、
宮古島庶民史を再版すれば十分では、
と提案すると、
彼は、あれは古すぎて難解だ、と答えた。

私は内心非常に驚愕し、
そうなんですね、と
返答するのが精一杯だった。

宮古島庶民史が難しい!
あれが難しい!
あれ以上にどうやって易しく書けというんだ!

宮古島庶民史は、宮古島旧記や古伝説や
地名、方言、考古学的な薀蓄をまとめて
物語調に記した作品である。

アルハンブラ物語に良く似ている。
あんな感じで死ぬほど読みやくて楽しい。
私の感覚では、だが。

私は編集者氏の志の低さを咎めるつもりはない。
お金を稼ぐ事は綺麗事では済まない。
ボ社はチンパン倉吉と異なり、
税金ではなく自分の金で商売をしている。
何を売るかはボ社の自由である。

世の中には確かに、
ランゴバルドの歴史やザクセン人の事績や
トゥールのグレゴリウスのフランク史や
ヘイムスクリングラや
ハイメ一世の真実の書を
数千円で出版している
仏様みたいな出版社も存在するが
これは所詮例外である。

ボ社は極めて即物的な出版社である、
これは事実であり、
とても賞賛する気にはならないが
貶す気にもならない。
率直に幸運を祈るのみである。
私は買わないが。

しかし心底びっくりするのは、
世の中には、宮古島庶民史ですら
難しいと感じる層が実在する、
という事である。
道理で上里隆史みたいな
運転浦添6時間とか平気で言うウスノロが
のさばるわけである。

懐かしの鬼瓦~お下劣捏造野郎・上里隆史

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浦添グスク正殿跡付近で発見された鬼瓦。なお浦添グスクの平瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」の銘があり、「癸酉年」は1153年、1273年、1893年のいずれかに比定されている。

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この鬼瓦については

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2008/01/post_d20d.html

で上里隆史が既に取り上げているが、

注目して欲しいのはコメント欄である。


アラミタマとかいう人が上里隆史がひけらかしている知識のいい加減さに痛烈なツッコミをいれる一方、それに対する上里の反応が見苦しいことこの上ない。アラミタマ氏が礼儀正しいばかりに、かえって上里隆史のお下劣さが際立っている。


間違いを素直に認められない・・・ま、文学部とか行くような人間のクズだからそんなものであろう。文学部にはダメな奴しかいかない。私はこの永遠のテーゼを改めて確認したい。


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善良な一般市民は、ひょっとすると、史学科の真面目な学究の徒は、小難しい古文書に逐一あたって話をしているんだろう、などと人の良い勘違いをしている人が多いかもしれない。


実はそんなことは全然ない。連中の言う事は、9割以上が読みやすい現代文で書かれた先学(爆笑)の論文の受け売りで、実は大した根拠はない。そもそもこいつらは古文が読めない。


一流進学校で古文教師に文法を一から叩き込まれ、伊勢物語とか土佐物語とか徒然草とかの主要部分を無理やり読まされた私には到底信じがたいことだが、現代日本の史学科ではほとんど文法演習は行われない。少なくとも琉球大学の史学科では一切やっていない。これは確かな話である。高良倉吉なんぞは、文法にこだわった読み方をすると、オタクなどとレッテルを貼ってバカにした上、古文は大体の意味がとれれば良い、という教育をしていたそうである。さすが「X庫裡」とか真顔でほざく愛知教育大学卒のチンパンジーはモノが違う。彼の実証史学(失笑)は厳密すぎて恐れ入るばかりである。きっとチンパンジー語の「実証」と「厳密」は、人間のそれとは意味が違うのだろう。


また、このwallersteinとかいうアホは、

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20121229

私が喜安日記を紹介してやると、紙の活字本を買って読むと抜かした。


ググれば3秒で伊波本のファクシミリ版が出てくるのに、わざわざ活字本を買って読む!活字に直した奴が文字を打ち間違えていたらどうするのだろうか?ファクシミリ版がすぐそこにあるのに、これを敢えて読まない学問的正当性が私には一切理解できない。本人に聞くと、老眼でネットの字が読めないという。もちろん、ファクシミリ版は画像データなので拡大縮小は自由自在である。


しかし最も重要なのは、こいつが買うと言ってる出版本は結局東恩納本だ、ということである。琉球征伐における喜安日記の利用において重要な課題は、東恩納本は幾つかの日にち・時刻が伊波本と異なっている上、物理的に有りえず信用できない、という事である。伊波本は現実的で信用できるが、実は出版されたことは一度もない。伊波本を読みたかったらファクシミリ版を読むしかない。


かの名高いナグハマディ文書は、存在が世界に知られて以来、公刊が遅れに遅れる中で、世界中の研究者が、もう公刊はどうでもいいからファクシミリ版を直接読ませろ、と数十年間ひたすら要求し続けて、ようやくファクシミリ版が公開された。その間、一部のファクシミリ版が非公式に流出する事もあった。皆、待ちに待ったファクシミリ版を、むさぼるように読んだと聞き及んでいる。


それに比べて、琉球史学者ときたらゴミみたいな怠け者ばかりである。ナグハマディ文書と違って、喜安日記は日本語で書かれており、特に要求しなくてもググれば3秒でアクセスできる。何故、これを読まないのか、私にはさっぱり理解できない。


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浦添城の鬼瓦は上の写真であれば、復元部分が一目瞭然である。慎重なアラミタマ氏が賢明にも指摘しているように、角がついているのは単なる空想・妄想の産物である。


然るに、上里隆史は、「角がついているのは大和風」などと能天気な解説をつけている。「妄想の得意な史学科風」とした方が正確である。上里隆史が現物を確認していないのがこの点からも明らかである。これに限らず上里隆史は文献史料の扱いにつけても同じ調子で、言う事は全て孫引き。原典は一切確認していない。下記の例に最も顕著である。

http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/9258354.html


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古文文法の修業をするのであれば、伊勢物語とか方丈記とかその辺のメジャー所の古典は読むべきである。なぜなら、あなたが読みたい文章の筆者は、そういう本を読んで文法を学んだからである。「宮古島旧記」にも伊勢物語からの引用がある。あんな宮古島みたいなクソ田舎の小役人でさえ、伊勢物語くらい読んでるのに、何故、あなたが読まずにおれるのか。


ちなみに史学科は一切読んでいない。連中の怠けぶり、アホっぷり、無知っぷりはもはや救いようがない。

中山「国家」論について~当時の社会をどう認識すべきか

高良倉吉や上里隆史は、近代的「国民国家」の定義を、「琉球王国」に援用し、さらに国家のトップは王様でなければならない、などという謎の定義を付け加え、「尚ハシだか金丸だかより後の中山は特定の国土・住民を支配して、トップが国王だから国家なんだい!ファビョーン!」などと主張している。

恐らく国王がどうのとかいうのは、按司が支配する領域国家を除外するための挿入であろうが、じゃあ山北や山南は国家ということでいいんですか、という反論が容易に可能である。さらに世界に視野を広げれば、帝国や共和国やモスクワ大公国は国家じゃないんですか、という反論が極めて容易に可能である。倉吉や上里の主張は錯乱している。

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また、この二匹は、近代的「国民国家」の定義を援用するだけでなく、中山が支配した領域、現代で言う「琉球王国」には、文化的共通性があった、との近代民族主義的な主張も行っている。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/36433305.html

まあ琉球文化圏というのを主張するのは勝手であるが、宮古以南とでは相当な違いがあり言葉も通じないのはどう考えるのか、さらにどう見ても内地の文化とも共通性があるのをどう考えるのか、などなど突っ込みどころは満載である。私のはっきりした考えとして、いわゆる「琉球王国」の成立に、文化的共通性を持ち出すのはナンセンスである。これとそれは無関係である。そもそもこの二匹は、中山による離島征服は文化圏が同じだとか言って正当化するくせに、薩摩による琉球征伐には不満タラタラで、こいつらの文化圏論自体に大きな矛盾があり、まともに取り合う気にもならない。

ちなみに羽地朝秀も沖縄の文化は内地のバリエーションだと明言している。従って、琉球文化圏論を巡る問題は、倉吉と羽地のどっちを信じるのか、という簡単な命題にも集約し得る。沖縄は所詮低レベルなクソ田舎であるが、とりあえずそのクソ田舎でもトップクラスに頭の良かった羽地と、実力では大学に受からず、国費でようやく愛知教育大学の「史学科(笑)」に滑り込んだ底辺のチンパンジー、どっちをあなたは信じますか?

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では、文化的共通性を前提としないならば、いわゆる「琉球王国」が成立した事実をどう理解したら良いのだろうか。

私は下記において、「琉球王国」のような、中山の支配領域を一言で形容する用語は、歴史上、存在しなかった、という事実を指摘した。「琉球国」という用語はあるが、これは中世から近世を通じて一貫して、本島に限局される概念である(ちなみに初出は明実録の三山時代の記述であり、政治的統一すら前提とされていない。要するに単なる地理的概念・琉球島とすらほとんど区別できない)。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/44182122.html

一つの政治的まとまりであるのに、同時代にこれを一言で形容する用語が無い「国家」は、実は珍しくない。アレクサンドロスの帝国、アテナイ海上帝国などがそれである。これらはいずれも適切な用語がないので、近代に発明された用語である。またペルシャ帝国も、ギリシャ人は「ペルシャ」と一括して表現していたきらいはあるが、少なくとも自称では適切な用語はない。ペルシャはあくまで国土内の一地方の名前である。

文化的共通性を前提とせずに成立する国家、国民のアイデンティティ統合を要求しない国家。私は、「琉球王国」を、「帝国」の一種として捉える事を提案する。帝国と考えると、「琉球王国」の成立がスムーズに納得できる。アレクサンドロスにかかると数年であっさり崩壊したペルシャ帝国も、問題なく数百年存続していたんだから、「琉球王国」みたいな、内部は自己中な田舎者ばかりで団結心が欠如しておりプレッシャーがかかるとすぐバラバラになる国でも、プレッシャーがかかりにくい日本のド辺境であれば、問題なく成立して存続するのは全然おかしくない。

また、其々に独自性の強い文化・独自のアイデンティティを有する島々を、其々「島嶼国家」として捉えてよいのではないか、と提案する。

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下記は国家論とは関係ないが、元々本項目に記載していた文章なので残しておく。

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ニュートンを超えた男、上里隆史と高良倉吉は、尚真あたりから、常備軍が出来たとか何とか、シャブ食ってるとしか思えない戯言をほざいているが、ここではまず、事実を確認する。

この当時、沖縄に常備軍は存在ない。世の中には人件費というものがある。常備軍を維持する金はどこにもない。軍人は戦争が無ければ使い道がない。収入もない。そんなのを養う余裕は王府には無い。あの類人猿二匹の妄論を読んでいると、常備軍よあれよかし、と言ったら常備軍が湧き出てくるようにすら感じられるが、世にも馬鹿げた事である。17世紀の軍隊が、運天から浦添まで6時間で移動できる、などと恥じらいもなく堂々と書けるブラックホール級のドアホは、距離の計算と同様に、カネの計算も出来ない。

いやいや、万国津梁の鐘に、沖縄には金がわんさかあると書いてある、だからきっと常備軍もあったんだ、などと思い込む幸せな人もいるかもしれない。そういう人には、次のシンプルな問題について考えてもらいたい。あのシャブ中コンビが言う「1000人の常備軍(爆笑)」は、一体どこに「常備」されてたんですか?駐屯地はどこですか?宙にでも浮いてたんですか?

王府軍の実態というのは、16世紀あたりにならないと明記されない。真珠橋や屋良座森の碑文にみられる「家来赤頭」と(南部諸間切の)「百姓」である。しかし百姓はいつだっているし、家来赤頭も少なくとも第一尚氏の頃からいる。金丸ももともと家来赤頭だった。

百姓は当然として、家来赤頭とは何か。これは後代になっても同じ用語が使われているので、意味は歴然としている。首里城の下っ端、下級役人、ヒラの事務員である。下っ端は当たり前だが、年齢が若いので、有事に兵力として期待できるのは当然である。無論、これらは常備軍ではない。家来赤頭は普段は事務員として働いている。だから常備軍ではない。当時の王府に無駄飯を喰わせる予算は一切ない。連中は第一尚氏の頃から一貫して金欠病を患っているので、そんな余裕はない。家来赤頭が普段事務員をしていたのははっきりしているので、倉吉と上里が、何をもって彼らのことを「常備軍」などと呼んでいるのか、私にはさっぱり理解できない。

家来赤頭の人数は、17世紀頃の数値が「球陽」に明記されており、80名程度である。(これは琉球征伐の際に太平橋に出動した「宗徒の侍」100人の数ともそれほどかけ離れていない。両者は同一の物を指しているとみて間違いない)そして、首里城の容積が15世紀には10倍あったとかいう話は無いのだから、14世紀も15世紀も家来赤頭の数は100人程度だったに決まっている。

あの算数の出来ないサル二匹は、16世紀には常備軍=家来赤頭が1000人いたなどとほざいているが、正気が疑われる。そもそもこの1000人という数値はどこから湧き出てきた物なのか。那覇港の沖合にアトランティス大陸が浮かんでいてオリハルコンか何かが湧いてでてきたのでも無い限り、沖縄にそんな余裕はない。この痩せた赤土の島のどこにそんな余剰人口と予算があるのか。

家来赤頭は100人。普段は事務員をしている。これが王府の手勢である。これでも、ナントカ間切一個の兵員に比べたら多い方だろうし、沖縄では十分だろう。繰り返すが、1000人なんて非現実の極みである。その指揮官は勢頭・チクドノである。これは中山王府官制でも球陽でも麻姓家譜でもそうなっている。それ以上の命令系統は書かれていない。決まっていなかったと思われる。世の中には、三司官が指揮していた!などと何の根拠もない妄想を繰り返す、オランウータンみたいな顔をした高良何とかいう頭の悪いジジィがいるが、単なる妄想である事は何度も指摘したし、何よりそいつの顔が気持ち悪い。

そして、家来赤頭は少なくとも第一尚氏の頃からいたので、その頃も同様の軍制をとっていたものと思われる。

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次に間切の「百姓」軍である。麻姓家譜には「唐船が来たときには、三重城には勢頭・チクドノに率いられた家来赤頭が詰め、屋良座森城にはチクサジに率いられた小禄・豊見城の百姓が詰めた」と書かれているので、基本的にはチクサジが率いていたものと思われる。ここで強調したいのは、これ自体、恐らくはっきりと決まっていたわけではない、という事である。1609年の秋徳では、掟兄弟が百姓を召集して軍隊を造っているからである。また、掟兄弟の事例からは、軍権が王府に占有されていたわけでは全然ない、と言う事も分かる。

さらに指摘せねばならないのは、チクサジの上官が全然記載がない、という事実である。これまた、恐らく決まっていなかった。王府としては、人数が集まれば十分で、全軍が一致した行動をとらねばならない、という発想が全然無かったと思われる。統制をとるという発想が無かった。敵も統制がとれてないので、自分も統制をとる必要性を感じなかった。

要するに軍隊のコンセプトが、普段は農業に従事する部下に「何かあったら山の上に旗をたてるから集まってください」とお願いした目黒盛豊見親の時代から、おそらく、全然変わっていなかったのである。何かあったら、部落の適当な顔役が適当に人数集めて出動する。王府も首里城の家来赤頭を集めて出動する。その寄せ集めが王府軍だったと考えられる。

強調しなければならないのは、1609年の秋徳においては、薩摩軍の300人程度の、主人格がいない従者だけの、しかも複数の家の寄せ集め部隊が、水際で秋徳村民の襲撃を受けたのに、直ちに戦力を再興して反撃し、数時間で敵を制圧したが、こと沖縄では、あの尚徳ですら、公称2000人もの兵を率いて、喜界島ごときに上陸するのに数日かかった、ということである。内地の軍隊と沖縄の軍隊とでは、天地ほどの違いがある。U里T史と言う人が、王府軍は中央集権されているから連携がとれていた、薩摩軍は中央集権されてないから分裂の危険があった、とほざいていたが、恐らくこの人はキチガイと思われる。自分の10倍以上の明軍に囲まれても団結を失わなかった軍隊を摑まえてこの人は何を言っているのだろうか。

もう一つ重要なのは、王府の召集能力がどこまで及んでいたか、という問題である。上里隆史は方々で、北部間切軍(笑)、中部間切軍(笑)などという戯けた代物の存在を示唆しているが、倉吉・上里コンビには毎度お馴染みの、何の根拠もない妄想である。そんなものは史料上実在しない。

先に上げた三重城・屋良座森城碑文には、百姓の動員計画が示されているが、いずれも、南部に局限されている。すなわち、北部・中部から動員するという発想は、史料上確認できないし、存在しなかった可能性が非常に高い。

もちろん、北部・中部から召集できなかった、と主張する気はない。王府の軍制が、目黒盛の時代と大して変わらない極めて適当な代物であったとすれば、むしろそれ故に、場合によっては声をかければ来てくれる奴もいただろう。山北攻めに北部の諸按司が参じたように。しかしここで確認せねばならないのは、歴史上、そんな事が行なわれた証拠も、計画だけでも存在した証拠さえ、一切ない、という事である。王府は、南部の百姓と首里城の家来赤頭だけで満足しており、それ以上の兵員を召集する意義は一切感じていなかった可能性が極めて高い。冒頭で確認したように、世の中には人件費というものがある。薩摩でさえ、琉球みたいなゴミ国家の討伐には、兵員をケチっている事実を我々は忘れてはいけない。必要がなければ、中北部からは動員しなくていい。構想を練る必要さえない。アメリカはスターウォーズ計画を練っていたが、ソマリアがそんな物練るか、という話である。王府は生きるだけで精いっぱいのゴミ国家であることを、我々は重ねて思い起こさねばならない。

上里隆史の卒論の要約

・はじめに
 この論文で最も価値のある部分。これまでの研究史をまとめている。

 1910年、横山重が、バジルホールの非武装説への反論として、武器の存在を強調した一方、1930年代、伊波ふゆうはヒキの軍事的性格(笑)を最初に指摘しつつも、尚真期に刀狩を行い非戦主義を実行したと主張した。しかし1950年代には、仲原善忠が伊波への反論として、尚真は国防を強化したと主張し、また琉球征伐以降も島津氏が王府を武装解除した事実は無いと指摘した。
 その後、倉吉がおなじみの庫裡・引制度(爆笑)などを主張し現在に至る。

 個人的には仲原善忠が1950年代に既に平和国家論に異議を唱えていた事にびっくりした。

・第一章第一節 按司軍の割拠

 グスクと按司、彼らが軍隊を編成していた事を語る。内容はそれだけで特に突っ込みどころは無し。ナントカ体制みたいな変な妄想はなく、その点は不明であると認める。鉄の鏃の出土数が増えたみたいな考古学の話で水増しされており無駄にボリューミー。
 按司を中心とする地方社会を、按司ではなく「寨官」という明実録の用語を使って説明しているのが印象的。安里進の論文を踏襲したもののよう。ブログ主的には按司でいいと思うし、何故「寨官」とかいう明実録でも少ししか使われていない用語をわざわざ選ぶのか不可解。
 わざわざ「寨官」という言葉を使って説明しているのが、「三山の王は寨官連合の第一人者に過ぎなかった」という事だけ。「寨官」というマイナーな名詞を使う意義がマジで分からない。また、この辺は、後段で主張される「尚真が確立した琉球版絶対王政www」とかいうお馴染みの戯言の伏線となっている。

・第一章第二節 三山統一と軍事編成

 「按司軍の連合体で構成されていた三山の軍事編成は第一尚氏成立によって如何に変容したのだろうか」とのふりで始まる本節だが、こう変わりました、という話は最後まで為されない。これは当たり前の話で按司軍の実態はよく分からないと認めているのだから、分からない物がどう変わったかなんて言えるわけがない。

 本節では朝鮮王朝実録の記述を元に、第一尚氏時代に、首里城を守備する軍隊があった事や、「五軍統制府」などと形容される中央組織が存在した事が主張される。また、一年に一度、軍を召集し王族の一人が監督する、との記述も受け入れられている。
(参照→http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/51039010.html)
 これらは素直に読めば、いずれも第二尚氏時代には、史料上、確認できないものであり、第一尚氏末期には第二尚氏では及びもつかないほど軍事国家化していた事実を示唆するが、お馴染みの「尚真期に絶対王政を確立した」という先入観に基づき、あくまで、第二尚氏の軍事制度より未熟な状態であるとして解釈されている。上里は豊見山の主張を引用し、これらの軍事制度はヒキ制度の前身に過ぎない、としている。

 また、朝鮮王朝実録を元に(島內有小石城, 島主獨居之, 村落皆在城外)、グスクと按司が健在であることも認めている。

 本節の結論として、上里は、第一尚氏時代は、各地の按司が「中山王軍」下へ段階的に編成されていく途中の状態である、と述べている。グスクと按司が健在である事実との整合性については、特に根拠もなく「(それまでと違って)一定の軍役を賦課していただろう」と述べて説明を試みているが、では、三山時代には按司に軍役の賦課はされていなかったのだろうか。

 ちなみに私は、以前から述べている通り、沖縄の軍事制度は発祥から最期まで本質的には大して変わらなかった、という意見である。目黒盛豊見親も掟兄弟も同じように兵士を召集しているからである。つまり村の有力者が適当に若いのを集めて戦う。按司軍も王府軍もその単なる寄せ集めで、人数が増えても何か画期的な統制システムが導入されたわけではない。庫裡・ヒキがどうしたとか言ってるオランウータンがいるが、そんなものは史料上実在しない(その上、庫裡・ヒキ制度の構想自体、机上の空論丸出しで到底有効には機能しえない)。それ故に、人数が増えてもワーワーサッカーしかできない。

 第一尚氏末期には、上記にあるとおり、年に一回演習をやってたようなので、第二尚氏よりも強かったと思われる。演習の経験を元に、多少洗練されたシステムを持っていた可能性もあるが、第二尚氏では演習やってる話は無いし、「解散兵柄」もしているので、第一尚氏より弱くなっていたであろう。

・第三節 琉球王国軍の成立

 この節は御馴染みの庫裡・ヒキがどうしたとかいう戯言が繰り返されるだけで、何の価値もない節である。第一尚氏より「中央集権www」化されて軍隊の数も中身もスーパーになりました、と言っているだけである。上里によると、中央集権化されるとあらゆる問題が解決するそうである。そうすると、地方分権化が進む今日の先進国は、上里によると退化の一途をたどっているわけである。

 前節はまだ、朝鮮王朝実録などを根拠に話をしていたが、本節はほぼ高良倉吉の論文に基づいて話をしており、議論の質が目に見えて低下している。その結果、推測の助動詞の使用が激増している。一例として、次のような一節がある。「間切軍の実態は不明であるが・・・従来の按司軍とは違い、中央に一元化された指揮系統のもと、王府の意思通りに動かすことのできる軍隊であっただろう」
 北山攻めの按司たちや、喜界島に遠征した軍隊は王府の意思通りには動いていないのか、「中央に一元化された指揮系統」とやらについては、第一尚氏末期には「五軍統制府」があったとされているのに、第二尚氏時代にはどこにいったのか、などなど突っ込みどころは満載である。

 また、特に興味深い笑どころが、朝鮮王朝実録・成宗24年の記述「大島を、日本の甲兵が奪おうとして、戦死したものが多かったが、十中八九勝った」との記述についてである。上里は、この情報を朝鮮に伝えた琉球使節の梵慶は偽使であったと認めるが、情報そのものは、村井章介が嘘偽とみなさくてよいと言ってるから信じていいんだ、などとキチガイじみた主張を行っている。ウソツキが吹聴した情報で、なおかつ内地には該当する話が一切無いのだから、この話もウソだと考えるのが普通だと思うのだが・・・しかも信用できる根拠が村井章介が信用できると言ってるから(笑)お粗末極まりない幼稚な主張である。村井章介はイタコか何かなのか(笑)

 上里は、尚真期に確立をみた軍事集団は、以下の意味でそれまでと違う画期的な物だった、としている。すなわち、
①琉球王国と言う国家、すなわち特定の国土・住民を支配し、国王と頂点とする組織化された政治・行政機構の元に編成された武装集団だった
②行政機構の所在する心臓部を守備し、防衛、攻撃に従事する実行部隊

 私からすると、①も②も第一尚氏どころか按司軍にすらあてはまるようにしか思えない。まあ、上里の言わんとするところを忖度してやると、「特定の国土・住民」などとほざいている点から、要するに、第二尚氏の琉球はそれまでと違うスペシャルな概念「国家」なんだい!その軍隊もスペシャルフォースなんだい!と主張したいのだろう。無論、完全に馬鹿げた時代錯誤な主張である。お話にならない。近代的ナショナリズムを中世の歴史研究に持ち込む事の有害さは、私は幾重にも強調したい。

 最後に上里は、尚真期以降の軍事的状況をして、国内は武装解除されていたとか、武器を持ってはいたが警備隊程度のものであった、という評価は適当ではない、と主張している。

 なお、これは正史にはっきり書かれていることだが、尚真期には「解散兵柄」が行なわれている。上里が国防強化の根拠とみなす「百浦添之欄干之銘」にも、「刀剣・弓矢は積んであります」と書かれている。私がこの銘を目にするたびに思い出すのが、末森城の戦いのときに、蓄財に励みすぎて兵員が足りなかった利家に松が言い放ったセリフ「銭に槍を持たせて戦争に行け」である。刀剣や弓矢は積んでおいてもどうにもならない。使う奴はどこにいるのか。

 また、警備隊程度のものだった、というのも、これは全く当たり前である。当時は基本的に非常備軍なのが普通である。戦争が無ければ警備隊程度しかいないのは至極当然である。どこか適当でないのか私にはさっぱり理解できない。