数日前からインターネットの一部を騒がせている「ヴィーガンフェミニズム論争」だが、僕はこの問いの受容に対して大きな問題を感じている。というのも、いわゆる “インターネット論客” の多くがヴィーガン側の言い分をたんなる気の狂った言説であるとして処理しようとしているのだ。「フェミニストは乳製品を食べてもいいのか?」問題は倫理学的にも社会学的にも極めて重要なテーマであり、僕たちはこのデリケートな問いをもっと慎重に扱わなければならない。とはいえ、「フェミニズム」と「ヴィーガニズム」の対立(あるいは同一化)などという、多くの人にとってはあまり聞きなれないような話についていくのは難しいだろう。この困った事態を解消するために、「結局のところ何が問題であったのか」をこの記事でできる限り詳細に解説しようと思う。
先に断っておかなければならないのは、僕はヴィーガンでもフェミニストでもない、ということだ。肉もチーズも大好きだし、第3次フェミニズムにおける思想的前進をすっかり忘却してしまった現代の劣悪なフェミニズム*1に与する気もまったく起きない。それでもなおこの話題に口を挟むのは、僕がかねてから取り組んでいる “非定型” の問題圏と密接に関わっているからである。また、どちらの主張にも完全なる同意はできないのだが、それでも脊髄反射的な拒絶反応に対して真摯に応答を続けているヴィーガン側に共感を覚える。
もともとの問いは「フェミニストは乳製品を食べてもよいのか?」であった。ヴィーガンのRac氏からフェミニストのシュナムル氏に発せられたもの*2である。これは突飛な問題提起――たんにその場をかき乱すためだけのもの――に見えるかもしれない。彼ら(ヴィーガン)の論拠はこうだ。①乳牛は人間によって性交を管理され、生まれてきた子供は取り上げられてしまう。これを生産性が維持できなくなるまで何度も繰り返す。②これがもし人間の女性についての事実であれば、フェミニストは必ず批判するだろう。③よって、フェミニズムを徹底するならこのような生産方法を許容すべきではない。①と②は端的に事実である。さて、これらから③を導くものはいったいなんなのか。
「ヴィーガンフェミニズム」はヴィーガンコミュニティではある程度知られた問題*3であり、倫理学・社会学方面においても90年代から同様の議論が存在する*4*5。つまり、この問いは過激なヴィーガンによって突発的に立ち上がったものではない。ヴィーガニズムは素朴には “種差別に抵抗する思想” と説明できるだろう。であれば、少なくともヴィーガン側にとってフェミニズム運動とは “ヒトの女性” の権利のみならず “牛の女性” すなわち雌牛の権利も保障する運動として理解されるものである。したがって、種差別を拒否する限りにおいて、「フェミニストは乳製品を食べてはいけない」という主張は自然に導かれるというわけだ。フェミニズムのそもそもの成立過程を考えてみると、たしかにこれはヒト特有の歴史的事情に依存している。しかし、フェミニズムをはじめとするマルクス主義以後の包摂的権利運動というものは、考え得るあらゆる近接問題をその内に取り込みつつ発展させていかなければならない。これは定義上導かれる性質である。「種差別」という壁一枚隔てたこれらの問題は、じゅうぶんに近接問題と見做してよいと言える。よって、フェミニズムにとってヴィーガンフェミニズムの問題系は簡単に無視できるものではないのだ。
“ヒト” と言ってしまうと多分に生物学的ニュアンスを含んでしまうので、ここからは議論の中心を “人間” に移そう。フェミニズムが種差別を容認しつつ可能であると主張するひとは「人間と牛は違う」のだと言う。では、人間と牛をなにが分け隔てるのだろうか。まず第一に想定されるのは、ゲノムにその差異を求める、という分類だ。白人でも黒人でもアジア人でも、男性でも女性でも、個体ごとに多少の違いはあれど統計的には(ゲノムについての本質主義に基づくならば超越論的に)ほとんど特定の遺伝情報を持っている。人間とそれ以外の動物は、ゲノムを調べてやることでうまく分類することができそうだ。だが、ここである問題が生じる。標準的なヒトゲノムというものがあるのならば、そこから大きく外れた遺伝情報を持つ個体は人間でない、あるいは人間ではあるが “欠陥品” である、ということになる。現に染色体異常によってダウン症(トリソミーの一種)やクラインフェルター症(性染色体異常の一種)が一定確率で生じるが、彼らは確実に人間であり、また、決して欠陥品などではない。もし染色体異常―—そもそもこんな呼び方がいけないのだが——の人々が “欠陥” のある人間だと言うのであれば、それは優生思想である。僕は治療文化批判*6をしている者としてこの結論に同意することはできない。
もしくは、人間特有の能力によって判別するのだ、とするのもひとつの手である。あなたがいままさに使っているパソコンあるいはスマートフォンのような複雑な道具を他の動物は作ったり使ったりすることができない。しかし人間の大多数はどうせ情報科学も計算機科学もろくに理解していないだろうし、完成品を使いこなすことだって一部の人間にしかできない。よって、複雑な道具は特定個体が人間であるかどうかの判別には使えない。単純な道具使用——さらには言語的思考能力——についてであれば、たとえば霊長類研究所の研究*7を参照すればわかるように、人間特有の能力とは言えないことがわかるだろう。ここでも障害者の代入による破綻が生じる、ということはもはや明らかである。人間特有の能力として最もよく挙げられるであろうもの、それはコミュニケーション可能性だ。しかしここでも、見てわかるような重度の器質的障害を抱えた人はもちろんのこと、自閉症スペクトラムなどの一見してわからないような “コミュニケーションに困難を抱えた人”*8は排除されてしまう。
“人間” 概念を所与とするのはどうやら困難そうだ、ということを確認した。ここまでの議論は、もしかしたら重箱の隅をつつくようなものに見えたかもしれない。多くのフェミニストは――これはたいへんな問題なのだが――障害者や動物についてそこまで深く考えていないだろう。治療文化批判すらも受け入れてもらえなさそうだ。しかし、このことを真剣に考えなければ通常の素朴なフェミニズム内部においても深刻な状況が発生する。どういうことか。フェミニズムにおいて、人工妊娠中絶にかんする問題は主要なテーマのひとつである。ここで問題となるのは、妊婦と胎児の権利の衝突だ。胎児が人間であれば、胎児を殺すことは成体を殺すことと同義になり、認められなくなる。他方、望まぬ妊娠をした女性にとって胎児は自身の生存への脅威となるかもしれない。受精時点から胎児の全体が露出し、成体となるまでの過程は連続である。この権利の衝突において妊婦を勝利させるのだとすれば、この連続的な直線のどこかに特異点―—人間でないものが人間になる瞬間——を打ち込まなければならない*9。それはどこなのだろうか。ここで深くは論じないが、これはフェミニストが無視できるような問題ではない、ということはわかるだろう。
以上で、“人間” 概念の定義困難性、そしてフェミニズムにとってそれが重要な問題であることを示した。ここまで説明すれば、もはやヴィーガンの問い(「フェミニストは乳製品を食べてもいいのか?」)が突飛なものとは思えないだろう。では植物はどうなのかと聞かれれば、たしかにヴィーガニズムは満足のいく答えを返してくれないのだが、実際にヴィーガニズムを突き詰めると動物の生活すら立ち行かなくなること*10と、ヴィーガンの問いに整合性があるかどうかということはべつの問題だ。この問い自体は極めてまっとうなものであり、ヴィーガニズムに賛同せずとも擁護することはじゅうぶんに可能である。
*1:シンプルには、現代のフェミニズムはもはや主人の言説モデルによって説明されるようなひどく単純なものに成り下がってしまった、と言えるだろう。特に、ツイッターにおける厄介なフェミニストたちの連帯は “男性” なるものの中に剰余享楽を無限に見出すファンタスムによってのみ支えられている。加えて、そもそも性別なるものは社会構築的な概念に過ぎず、性別二元論に乗って男女対立を再生産し続けるフェミニズムには構造的欠陥がある。このことに自覚的であること、そして運動する主体が積極的にこの構造を解体しつつ前進すること、これがフェミニズム運動に本来求められるべきことである。
*2:https://web.archive.org/web/20180129035608/https://twitter.com/vgnbpog/status/957100050932314112
*3:Why milk is a feminist issue | Viva!
*5:http://fewd.univie.ac.at/fileadmin/user_upload/inst_ethik_wiss_dialog/George__Kathrin_Paxton_1994._Should_Feminists_Be_Vegetarians_9407062060.pdf
*6:“反治療文化” は反精神医学のように標準的な医療行為を否定するものではない。それは統計的に少数であるような(仮に多数であっても)ある特性を “異常” とし、積極的に治療し、消去すべきであるとする優性思想的なイデオロギーに抵抗するものである。詳しくは http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2017/12/12/014414 を参照。
*7:https://www.jstage.jst.go.jp/article/psj1985/11/3/11_3_215/_pdf など。ここでは人類と類人猿との “近さ” を認めてもなお残る両者の違いを挙げているが、この差異は “特定個体の判別” という問題には影響しない。
*8:これはあくまでも “定型発達的な” コミュニケーションについて困難を抱えているという意味である、ということに注意しなければならない。非定型発達者が多数を占める場において、定型発達者はコミュニケーション能力に問題のある人間だと判定されるだろう。
*9:その変化がもし連続的であるとすれば、ある時点を取り出して “50%の人間” や “70%の人間” などといった危険な概念が生まれてしまう。一歩間違えれば同じ言葉が障害者や類人猿などに適用されるおそれがあり、望ましくない。