副題は「アジア・太平洋戦争の現実」。長年、近現代の軍事史・政治史を中心に研究してきた著者が、日本軍兵士の実際の姿に焦点をあて、アジア・太平洋戦争の現実を浮き彫りにしようとした本になります。
『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)、『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)の一ノ瀬俊也の仕事と少しかぶる面もありますが、一ノ瀬俊也の両著作がミクロ的な部分にこだわって書かれているのに対して、こちらはミクロ的な部分をマクロ的な分析につなげていこうとする姿勢が強いです。
戦場における歯科医、兵士の体格や服装の劣化、戦場における知的障害者など、あまり注意が向けられてこなかった部分にも光が当てられており、今まで知られていなかった戦場の「現実」が見えてきます。
目次は以下の通り。
序章において、著者がまず指摘するのはアジア・太平洋戦争が長期戦だったということです。
1937年の日中戦争の勃発から考えると、1941年の対米英開戦まで4年ちょっと、さらに終戦までは4年弱かかりました。当然、兵士の間には厭戦気分が広がり、士気は低下していきますし、長期戦ならでは問題も出てきます。
それが例えば、虫歯の問題です。戦場では毎日歯磨きをする余裕はなく、虫歯になる兵士は増えていきましたが、その歯を治療する体制を日本軍はつくっていませんでした。1940年にようやく、陸軍歯科医将校制度がつくられています。
この本では対米英開戦以降の時期を、開戦から1942年5月(ミッドウェー海戦直前)までの「日本軍の戦略的攻勢期」、42年6月から43年2月(ガダルカナル島撤退)の「対峙の時期」、43年3月から44年7月(サイパン島の陥落)までの「戦略的守勢期」、44年8月から終戦までの「絶望的抗戦期」の4つに分けています。
まず海軍の戦力ですが、日本の隻数(トン数)は開戦直前がアメリカの69%、ミッドウェー海戦直前には75%になりますが、ガダルカナル島撤退時には56%、44年6月のマリアナ開戦直後には28%と絶望的な状況となります(16-17pの表0-1)。
また、アジア・太平洋戦争の日本人の死者は軍人・軍属が約230万人、外地の一般邦人が約30万人、日本国内の戦災死没者が約50万人の、合わせて約310万人と言われていますが、そのうちの大部分は最後の「絶望的抗戦期」に亡くなったと考えられています。
日本政府は年次別の戦死者数を公表していいませんが、岩手県の統計では87.6%が44年の1月以降に戦死しています(25p)。
早い時期に降伏の決断がなされていれば、これほど多くの死者を出すことはなかったのです。
戦場での死には戦闘による死である戦死と、病気による戦病死があります。戦病死は医学の発達によって徐々に減少し、日露戦争では全戦没者に占める戦病死者の割合は26.3%まで低下しましたが、日中戦争では戦病者の割合は50.4%にまで上がっています(29p)。
アジア・太平洋戦争期における統計は存在しませんが、部隊の記録などを見る限り、かなりの割合に上ったと考えられます。
しかも、その中でも餓死、または栄養失調から来る病死がかなりの部分を占めたと思われます。日本軍兵士約230万人の死者のうち、藤原彰は餓死と栄養失調から来る病死が61%を占めると推計し、秦郁彦はそれは過大だとして37%という推計を出しましたが、いずれをとっても異常な高率であるといえます(31p)。
他にも35万人を数えると言われるのが海没死です。海没死とは耳慣れない表現だと思いますが、これは輸送船などの艦船の沈没に伴う死です。
第2次世界大戦において、アメリカは潜水艦1隻の喪失につき25隻の商船を撃沈するという成果を上げました(日本は1隻の喪失あたり1.4隻の撃沈(43p))。
その結果、日本の輸送船は性能の悪いものが多く、しかもそこに多くの兵士たちが押し込められました。こうした輸送船が潜水艦などによって攻撃され、多くの死者を出したのです(この本で紹介されている水中爆傷は非常に怖い)。
この本では特攻死についてもとりあげられています。特攻に関しては数々の著作でとり上げられていますが、この本で注目したいのは特攻が思ったような破壊力を生まないという指摘です。
特攻では急降下する特攻機自体に揚力が生じ、爆弾の破壊力や貫通力は通常の投下よりも劣ったものになります。実際、沖縄で大型空母バンカーヒルに大きな損害を与えた特攻では、直前に爆弾を投下した後に特攻しています。それにもかかわらず、特攻機の中には爆弾を特攻機に固着させて爆弾を投下できないようにしたものもあったのです(55-58p)。
また、自殺者もかなりの数に上ったと考えられます。1938年に憲兵司令部が調べたところによると、軍人・軍属10万人に対して自殺者は30人強、一般の国民の割合より高く、「日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で一番自殺率が高いということになる」(59p)と結論づけています。
この原因として兵営内部での私的制裁の横行などがあげられますが、軍ではそれに対する抜本的な対策は取られませんでした。
さらに戦争末期になると、インパールや硫黄島などで絶望からの自死が相次ぐようになり、「処置」という名の傷病者の殺害も行われました。1940年改定の「作戦要務令 第三部」には「死傷者は万難を排し敵手に委せざる如く勉むるを要す」と書かれており(67p)、自決を促すか殺害することが暗示されています。
戦場から離脱するために自傷する者も続出し、それを摘発すべき悩む軍医の姿もこの本には描かれています(74-77p)。
第2章は兵役検査の変化から始まります。戦前の日本では満20歳の青年は徴兵検査を受けなければならず、そこで身長や身体の強健度に応じて、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種にふるい分けられ、平時はほぼ甲種のみが現役に徴集されていました。
1937年の段階で、徴兵検査を受けた者のうち現役で徴集されたものは25%。これが41年には54%となり、44年には77%となります(87p)。当然ながら、今までは兵役に適さないと考えられた体格の者も徴集されるようになります。
中国に駐屯していた第六八師団の場合、古参兵の平均体重は概ね56キロ、一方、45年の3月に到着した補充兵の平均体重は約50キロだったといいます。当然ながら体力はなく、落伍者が続出しました(88-89p)。しかも、この時期の補充兵は30歳過ぎの妻子持ちも多く、弾丸に対する恐れも非常に強かったといいます(90p)。
さらに知的障害者も入営することとなりました。部隊によって多いところでは「精神薄弱」が3~4%に達したという報告もあります(91p)。
体格、体力の低下や、それが原因となる結核の蔓延などに対して、本来ならば栄養状況の改善によって対処すべきでしたが、軍にその余力はなく、1940年からは「現地自活」、つまり中国民衆からの略奪が推進されるようになりました(97p)。
戦争は兵士の精神面にも大きな影響を与えました。中国では兵を戦場に慣れさせるために農民や捕虜を銃剣で殺害する「刺突」の訓練が行われましたが、これに大きなショックを受けた新兵も少なくありませんでした(109-110p)。
また、「戦争神経症」と呼ばれる精神疾患も続出しましたが、軍部はこれを「疲労」問題として扱い、ヒロポンなどの覚せい剤によって対処しようとしたりしました。
零戦のパイロットして有名な坂井三郎もヒロポンの注射を受けながら出撃していたと回想しています(118p)。
戦争が進行するにつれ、兵士の体格や精神状態が悪化するだけでなく、服装や装備も悪化していきます。
軍服のつくりも次第に悪くなり、軍靴の質も落ちました。動物の不足から鮫皮の靴もつくられましたが、見た目と違ってけっして水を弾くことはなかったそうです(128p)。
では、なぜこのような悲惨な状態になってしまったのか? 第3章ではその要因をいくつか探っています。
まずは日本軍の短期決戦思想です。1918年の「帝国国防方針」では、第一次世界大戦の影響を受けて長期の総力戦を戦い抜くという思想が取り入れられましたが、1923年の改定では再び短期決戦思想に回帰してしまいました(138-139p)。
また、作戦、戦闘をすべてに優先させる作戦至上主義、極端な精神主義も原因の一つです。
米英軍に対する過小評価ありました。1942年の段階でも陸軍の教育内容は対ソ戦を想定したものばかりで、大本営陸軍部が1941年に配布した『これだけ読めば戦は勝てる』には、イギリス軍を想定して「今度の敵を支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官、兵は大部分、土人であるから軍隊の上下の精神的団結は零だ」などと書いてありました(142-143p)。
ようやく1943年になって教育の重点が対米戦に移され、44年に大本営陸軍部が発行した『敵軍戦法早わかり(米軍の上陸作戦)』には、「合理的かつ計画的」な米軍の姿が分析されるようになりましたが(146-148p)、遅すぎたと言わざるを得ません。
さらに統帥権の独立とそれがもたらす統一的国家戦略の欠如にも触れていますけど、ここは書くのならばもうちょっと掘り下げてほしかった部分ですね。
他にも、私的制裁や遅れた機械化、旧式の通信機器などにも触れていますが、注目したいのは、日本は近代化の遅れから労働集約的な産業が多く、男子人口に占める軍人の割合が1944年の段階でも10%に過ぎなかったという指摘です。一方、ドイツでは43年の段階で28%。日本では兵力と労働力の競合があったのです(174-175p)。
一方、「家」制度重視の発想から女性兵士の動員は進みませんでしたし、未亡人の再婚も、人口政策的には奨励されてしかるべきなのに、抑制されました(176-177p)。
このように日本軍兵士のおかれた悲惨な状況を多面的に描き出しているのがこの本の特徴です。終章では「戦争の傷跡」として、水虫が半世紀完治しなかった政治家の園田直の話が紹介されていますが、こうした今まで注目されてこなかった戦争の被害に光をあてているのがこの本の特徴です。
アジア・太平洋戦争における日本軍の愚かさというものは、今までもさまざまな形で指摘されてきたと思いますが、この本を読むと、改めてそれを実感するとともに、日本軍兵士が経験した「痛み」の一端を感じます。
日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)
吉田 裕

『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)、『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)の一ノ瀬俊也の仕事と少しかぶる面もありますが、一ノ瀬俊也の両著作がミクロ的な部分にこだわって書かれているのに対して、こちらはミクロ的な部分をマクロ的な分析につなげていこうとする姿勢が強いです。
戦場における歯科医、兵士の体格や服装の劣化、戦場における知的障害者など、あまり注意が向けられてこなかった部分にも光が当てられており、今まで知られていなかった戦場の「現実」が見えてきます。
目次は以下の通り。
序章 アジア・太平洋戦争の長期化
第1章 死にゆく兵士たち―絶望的抗戦期の実態1
第2章 身体から見た戦争―絶望的抗戦期の実態2
第3章 無残な死、その歴史的背景
終章 深く刻まれた「戦争の傷跡」
序章において、著者がまず指摘するのはアジア・太平洋戦争が長期戦だったということです。
1937年の日中戦争の勃発から考えると、1941年の対米英開戦まで4年ちょっと、さらに終戦までは4年弱かかりました。当然、兵士の間には厭戦気分が広がり、士気は低下していきますし、長期戦ならでは問題も出てきます。
それが例えば、虫歯の問題です。戦場では毎日歯磨きをする余裕はなく、虫歯になる兵士は増えていきましたが、その歯を治療する体制を日本軍はつくっていませんでした。1940年にようやく、陸軍歯科医将校制度がつくられています。
この本では対米英開戦以降の時期を、開戦から1942年5月(ミッドウェー海戦直前)までの「日本軍の戦略的攻勢期」、42年6月から43年2月(ガダルカナル島撤退)の「対峙の時期」、43年3月から44年7月(サイパン島の陥落)までの「戦略的守勢期」、44年8月から終戦までの「絶望的抗戦期」の4つに分けています。
まず海軍の戦力ですが、日本の隻数(トン数)は開戦直前がアメリカの69%、ミッドウェー海戦直前には75%になりますが、ガダルカナル島撤退時には56%、44年6月のマリアナ開戦直後には28%と絶望的な状況となります(16-17pの表0-1)。
また、アジア・太平洋戦争の日本人の死者は軍人・軍属が約230万人、外地の一般邦人が約30万人、日本国内の戦災死没者が約50万人の、合わせて約310万人と言われていますが、そのうちの大部分は最後の「絶望的抗戦期」に亡くなったと考えられています。
日本政府は年次別の戦死者数を公表していいませんが、岩手県の統計では87.6%が44年の1月以降に戦死しています(25p)。
早い時期に降伏の決断がなされていれば、これほど多くの死者を出すことはなかったのです。
戦場での死には戦闘による死である戦死と、病気による戦病死があります。戦病死は医学の発達によって徐々に減少し、日露戦争では全戦没者に占める戦病死者の割合は26.3%まで低下しましたが、日中戦争では戦病者の割合は50.4%にまで上がっています(29p)。
アジア・太平洋戦争期における統計は存在しませんが、部隊の記録などを見る限り、かなりの割合に上ったと考えられます。
しかも、その中でも餓死、または栄養失調から来る病死がかなりの部分を占めたと思われます。日本軍兵士約230万人の死者のうち、藤原彰は餓死と栄養失調から来る病死が61%を占めると推計し、秦郁彦はそれは過大だとして37%という推計を出しましたが、いずれをとっても異常な高率であるといえます(31p)。
他にも35万人を数えると言われるのが海没死です。海没死とは耳慣れない表現だと思いますが、これは輸送船などの艦船の沈没に伴う死です。
第2次世界大戦において、アメリカは潜水艦1隻の喪失につき25隻の商船を撃沈するという成果を上げました(日本は1隻の喪失あたり1.4隻の撃沈(43p))。
その結果、日本の輸送船は性能の悪いものが多く、しかもそこに多くの兵士たちが押し込められました。こうした輸送船が潜水艦などによって攻撃され、多くの死者を出したのです(この本で紹介されている水中爆傷は非常に怖い)。
この本では特攻死についてもとりあげられています。特攻に関しては数々の著作でとり上げられていますが、この本で注目したいのは特攻が思ったような破壊力を生まないという指摘です。
特攻では急降下する特攻機自体に揚力が生じ、爆弾の破壊力や貫通力は通常の投下よりも劣ったものになります。実際、沖縄で大型空母バンカーヒルに大きな損害を与えた特攻では、直前に爆弾を投下した後に特攻しています。それにもかかわらず、特攻機の中には爆弾を特攻機に固着させて爆弾を投下できないようにしたものもあったのです(55-58p)。
また、自殺者もかなりの数に上ったと考えられます。1938年に憲兵司令部が調べたところによると、軍人・軍属10万人に対して自殺者は30人強、一般の国民の割合より高く、「日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で一番自殺率が高いということになる」(59p)と結論づけています。
この原因として兵営内部での私的制裁の横行などがあげられますが、軍ではそれに対する抜本的な対策は取られませんでした。
さらに戦争末期になると、インパールや硫黄島などで絶望からの自死が相次ぐようになり、「処置」という名の傷病者の殺害も行われました。1940年改定の「作戦要務令 第三部」には「死傷者は万難を排し敵手に委せざる如く勉むるを要す」と書かれており(67p)、自決を促すか殺害することが暗示されています。
戦場から離脱するために自傷する者も続出し、それを摘発すべき悩む軍医の姿もこの本には描かれています(74-77p)。
第2章は兵役検査の変化から始まります。戦前の日本では満20歳の青年は徴兵検査を受けなければならず、そこで身長や身体の強健度に応じて、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種にふるい分けられ、平時はほぼ甲種のみが現役に徴集されていました。
1937年の段階で、徴兵検査を受けた者のうち現役で徴集されたものは25%。これが41年には54%となり、44年には77%となります(87p)。当然ながら、今までは兵役に適さないと考えられた体格の者も徴集されるようになります。
中国に駐屯していた第六八師団の場合、古参兵の平均体重は概ね56キロ、一方、45年の3月に到着した補充兵の平均体重は約50キロだったといいます。当然ながら体力はなく、落伍者が続出しました(88-89p)。しかも、この時期の補充兵は30歳過ぎの妻子持ちも多く、弾丸に対する恐れも非常に強かったといいます(90p)。
さらに知的障害者も入営することとなりました。部隊によって多いところでは「精神薄弱」が3~4%に達したという報告もあります(91p)。
体格、体力の低下や、それが原因となる結核の蔓延などに対して、本来ならば栄養状況の改善によって対処すべきでしたが、軍にその余力はなく、1940年からは「現地自活」、つまり中国民衆からの略奪が推進されるようになりました(97p)。
戦争は兵士の精神面にも大きな影響を与えました。中国では兵を戦場に慣れさせるために農民や捕虜を銃剣で殺害する「刺突」の訓練が行われましたが、これに大きなショックを受けた新兵も少なくありませんでした(109-110p)。
また、「戦争神経症」と呼ばれる精神疾患も続出しましたが、軍部はこれを「疲労」問題として扱い、ヒロポンなどの覚せい剤によって対処しようとしたりしました。
零戦のパイロットして有名な坂井三郎もヒロポンの注射を受けながら出撃していたと回想しています(118p)。
戦争が進行するにつれ、兵士の体格や精神状態が悪化するだけでなく、服装や装備も悪化していきます。
軍服のつくりも次第に悪くなり、軍靴の質も落ちました。動物の不足から鮫皮の靴もつくられましたが、見た目と違ってけっして水を弾くことはなかったそうです(128p)。
では、なぜこのような悲惨な状態になってしまったのか? 第3章ではその要因をいくつか探っています。
まずは日本軍の短期決戦思想です。1918年の「帝国国防方針」では、第一次世界大戦の影響を受けて長期の総力戦を戦い抜くという思想が取り入れられましたが、1923年の改定では再び短期決戦思想に回帰してしまいました(138-139p)。
また、作戦、戦闘をすべてに優先させる作戦至上主義、極端な精神主義も原因の一つです。
米英軍に対する過小評価ありました。1942年の段階でも陸軍の教育内容は対ソ戦を想定したものばかりで、大本営陸軍部が1941年に配布した『これだけ読めば戦は勝てる』には、イギリス軍を想定して「今度の敵を支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官、兵は大部分、土人であるから軍隊の上下の精神的団結は零だ」などと書いてありました(142-143p)。
ようやく1943年になって教育の重点が対米戦に移され、44年に大本営陸軍部が発行した『敵軍戦法早わかり(米軍の上陸作戦)』には、「合理的かつ計画的」な米軍の姿が分析されるようになりましたが(146-148p)、遅すぎたと言わざるを得ません。
さらに統帥権の独立とそれがもたらす統一的国家戦略の欠如にも触れていますけど、ここは書くのならばもうちょっと掘り下げてほしかった部分ですね。
他にも、私的制裁や遅れた機械化、旧式の通信機器などにも触れていますが、注目したいのは、日本は近代化の遅れから労働集約的な産業が多く、男子人口に占める軍人の割合が1944年の段階でも10%に過ぎなかったという指摘です。一方、ドイツでは43年の段階で28%。日本では兵力と労働力の競合があったのです(174-175p)。
一方、「家」制度重視の発想から女性兵士の動員は進みませんでしたし、未亡人の再婚も、人口政策的には奨励されてしかるべきなのに、抑制されました(176-177p)。
このように日本軍兵士のおかれた悲惨な状況を多面的に描き出しているのがこの本の特徴です。終章では「戦争の傷跡」として、水虫が半世紀完治しなかった政治家の園田直の話が紹介されていますが、こうした今まで注目されてこなかった戦争の被害に光をあてているのがこの本の特徴です。
アジア・太平洋戦争における日本軍の愚かさというものは、今までもさまざまな形で指摘されてきたと思いますが、この本を読むと、改めてそれを実感するとともに、日本軍兵士が経験した「痛み」の一端を感じます。
日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)
吉田 裕