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Croudia消滅に伴う新「連載」場所確保の試み。必ず別所に集成した「純文章」か...

OCEANisSOLUTION

「反自叙」後篇・中間報告私文書

OCEANisSOLUTION

1/2/2018 04:51
Croudia消滅に伴う新「連載」場所確保の試み。必ず別所に集成した「純文章」から先にお読み下さい。
遊星になった宇宙飛行士から、転生者としての暗黒星に至るまで、幾度となく魅せられし変容を遂げ続けた、傷だらけの「スター」のような、数え切れない瞬間の激烈な流転を、美しき魂の告白の力技で隈なく塗り潰すように、たった一人の、たった一日の、ただ生きて話しただけの苦闘に、丸二年以上も寄り添い続けるうち、他ならぬ私までもが幽城游意の業苦に中てられ、眼前の苛烈な暗黒の、やたらに明瞭な輪郭すら信じられなくなり、ここに至るまでに数々の、元から得る必要もなかったものを喪ってきた。当然その醜い欠落には、文章と相見える時の低精度ながら平均律的な、故に多くの計算された混乱を拒む音感、人間の熱狂を阻まない程度の曖昧なリズム感、「主題」という便利なだけの切り口に固定された、(自己を含めた)引用・変奏への禁忌意識、「喪失」としての「物語」への観念的慊焉なども含まれ、

殊にこの枚挙の最後の二つは、過去も仄めかしたデヴィッド・ボウイの雲隠に接した時に決定的となり、私の思考様式を往古とは決定的に異なるものへ改めてしまった。既に完遂されてしまった破壊に抗う記述など有り得ない、故に壊された者達は鈍麻として「芸術」の厖大さを求めたり、「日常」を誇張し理に擬えたり、徒らな超越によって事実の直訴を拒んだり、試行錯誤を重ねながら心傷が精神を腐爛させる時を、隠し事とも偽りとも睡りとも嘘ともつかない烏滸の澹で、継ぎだらけの救いとしてただ待つ――これが数多の死に打ちのめされた今の私、膏肓に入った人間憎悪の偽らざる核心である。ついでにこの際だからありがちな誤解にぶちかましをかけておくと、私の人類および「物語」への憎悪はメロディやハーモニー以上にリズム面の不一致が主であり、より詳述するとヴェローチェなテンポについてゆけない、

単純に私がノイズもチェンバーも呑み込んだスラッジのような虚無と焦燥の虜囚だから、如何なる時でも醒め続けざるを得ず、しかもそこに一切の笑いがない、畑の肥料にもならず異常発生した「冷笑」という白痴群の肉塊が、あまりに愚かしくていっそ羨ましくなるくらいに、内的な上下が殆どなく、ほぼ常時氷点下までテンションが落ち込んでいる、他人の予断以上に「暗い」人間だからでしかない。審美と耽美と華美と壮美の区別さえつかない人々に向けて、到底共通語には成り得ない「美」という喃語の値を掻き口説くには、私自身があまりに醜悪だからこそ、「審美」の困難を「てくすと」の次元から形象化し、同時にそれを日常的次元の駆け引きにすら重ね合わせ、解く価値のない謎である人間同士が接する事態に、本来各々が日々痛感して然るべき「難解」を苛烈に紐づけてやろう、という人間神話の崩壊感覚、

あるいは「おめーらいつまでもちょっこいてんじゃねーぞこら」という本音を最早一切の湿潤が出ないほどに濾過してやろう、レアリテもエピファニーも知ったことか、その暗黙の自己肯定へ挑戦状じゃオラァというヤケクソ、と呼ぶにはあまりに老い枯れた「生前の遺稿」(いつの間にか当初不敬と言ったムージルネタを平気で乱用している)も、当初は敗北の美学のフリをした徹底的なヒールアクトと見せかけての「主義の虚無」によるセルフネグレクトが、これまで偶然度々大過なき「定め」に収斂させられ続けた繊細微妙な不幸への、端的に言って婚姻以前の三行半のつもりだった。こうした意志(と無力)の故に長期間も一切の退路を持たず、またプレハブの庵を拵えて憩えるような袋小路でもなく、地動説すら信ずるに値しない書割めいた世界観を持て余しながら、この一面の曠野の外へもいっかな出てゆけない、

思い返せば我ながら誠に不気味な代物を延々と書き続けてしまったもの、今更呆れる資格もあろう筈がない。私には「ダブスタとしての耽美」などという痴愚の遁辞や、単位粉飾のため誇大的言辞を弄する狂った「哲学」など、お義理の最中でさえ何の意味も持たなかった。「明け透け」なんぞに逃げ込まなくても「芸術」から一時離れる博打は充分可能であり、むしろ露悪は無芸な現状追認でしかない。耽美すら信じられない審美性、即ち「不信」の貫徹あっての「前衛」ごっこだ。「作者」は如何なる馬鹿に読まれようが怺えねばならない、というのもあまりに巫山戯た話だが、こんなになってもまだ考えてしまうばかりか、おめおめと「読む」罪にまで回帰してしまうのは、ただ私がジャンキーだからで、そして単なる中毒者ゆえに薬学的蓄積など望むべくもなく、コクトーはおろかド・クインシーにもなれないために、

これまでのように第三書館めいた書きぶりを決め込むしかないのかもしれない。まあ自暴自棄という意味では、私でもそこらのダウナーをキメてるセルフネグレクターより、そこらのアッパーがキマったパーリーピーポーより、遥かに致命的だし退路もないが、それも一切の陶酔を赦さないゲッペルさん過剰の醜態の故であり、この辺は私が何故か過去の上辺の知人らから、「耽美」と評されがちだった珍事とも多少の関係があるかもしれない。お義理の終ったこまっしゃくれの某曰く「耽美は誰にでも書ける」とは蓋し金言で(本人は無味に滋味を見出しきれない半端な習作しか書けなかったが)、およそどんな領域での創造であれ、何かを過剰な形に創る愚挙を択んだ者には、「青年漫画」的「くそリアリズム」でも、今なお拙劣な翻案が「上演」され続ける「ギリシア悲劇」でも、まず「美」の実在あるいは観念が盤石、

少なくとも当人にとり確固でさえあれば、己を改まって凝視することでさえ「耽美」は容易に実現され得る。その意味ではまず手前が物を創り始めた時、情動的批判への手立ては凍結されて然るべきであり、「作者固有の文脈」という不可避を無意思的的に承服した時点で、あらゆる副業批評家はその価値の大半を喪失している、と見做した方がまだ「健康的」かもしれない。何を偉そうに論評しようとも、彼奴等の言葉は隅々まで、自己保身の垢に塗れている。翻ってもとより「批評」への致命的不信を持て余し続けた私は、実地的結論を先送りする様を紙幅稼ぎの手品にした老害達を馬跳びし、殆どマラルメの散文に回帰するかと見せかけて、逆にあまりに現代的で下品な「騒々しき緘黙」をモノにしたわけで、そこらの「耽美」や「浪漫」からも限りなく退化した、増上慢の怪気炎で煤けた白痴群とは全く系統の異なる、

「審美」という見せかけの彼岸の奴隷と化しただけ、これでも自分ではマシな落着とは言えよう。そしてこの激情的安康に慊くなった私が「審美」すら封じるための悪手として、かつての私の危機を誇張した「優しい地獄」へ、他ならぬ幽城游意を突き落とすという、犬畜生にも劣る愚行に突入したわけだ。つまり私が人生最後に企てた無血テロとは、前半生において散々苦しめられ続けた「幻視」のなかへ、私なりの「演出」や「脚本」といった「行間」を破壊的にくりこみ、「純文章」に登場しなかった者達も含めた彼等の悲喜劇を、完き虚無・狂ったご破算として、この腐爛しきってなお花実も咲かず、乾くことなく骨も残さない、ふざけた世界に思う存分嗤わせる、という馬鹿げた弔いだった。望外の想像に強いられた悲喜劇を、意匠や配役の次元から己の領分に引き込みつつ、「何者」かと「メタ」を奪い合う闘争、

それは今もなお血膿浸しの糞掃衣めいた「人生」の、「作者」と「読者」を一遍に鏖殺したがる私の憎悪と、「経験」を共有する他人としての游意を通し、己には有り得ない「無垢」の贖いを、一切の「ドラマ」を欠いたまま、意味に収斂されない「自然」の変転として描く諦念との鬩ぎあいでもある。「ここには何もなかったなんてうれしい」とはムーンライダーズの最後の曲だが、私もまたそこへ至るために己への憎悪を膨れさせ、「作者」としての己を如何に殺すか、という執着に留まっていた当時の自分を、許さず裁かず無視せず、「昇華」させようと試み続けたと言える。私は「キャラ」という歪んだ人間(この言葉の歪みよりはマシか)より、歪められた人間を過程と帰結が完全に同期された植物的な実現として描く蛮行に走り、「写実主義」とは全く違う形でその図像と同化しようと、長らく苦行を試み続けた。
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