このあいだ男四人の飲み会があった。参加者は二十代と三十代。
わりと酒が入ったとき、ひとりが突然「女子小学生になりたい」と言い出した。私はベロベロゆえの奇天烈発言かと思ったが、他の二人は「わかる!」「たしかに僕も女子小学生になりたいです!」と同意しはじめた。
その結果、私以外の三人が「女子小学生になりたい」という願望で結束してしまい、「逆におまえは何故なりたくないのか」と私が問われる展開となった。まさか女子小学生になりたくない男がこの世にいたとは、というふうに。
まあ、文章にしてみると、なんちゅう飲み会に参加してんだと思いますが。
帰り道、ひとりで歩きながら、「なぜ俺は女子小学生になりたくないんだろう?」と考えていた。自分のなかにない欲望を提示されたとき、私はよくそうする。その場では、「チヤホヤされたい」という理由が挙げられていた。「めちゃくちゃかわいい自信まんまんの女子小学生になって、徹底的にチヤホヤされてみたい」という願望らしい。
まず、女子小学生にかんする認識のズレがあると思った。私のイメージする女子小学生は、部屋のすみっこで体育すわりをしている。ひざとひざのあいだに顔をうずめている。肉体が十分に発育しておらず、袖から見える腕は折れそうなほどに細い。
それが私にとっての「女子小学生」で、だからなりたくない。部屋のすみっこでうずくまる存在にはなりたくないでしょう。
ちなみに、「男子小学生」をイメージしてみると、半ズボンで運動場を走りまわっている。体育すわりをするとブリーフが見え、たまに金玉も飛び出している。発言の三割が奇声と擬音。ランドセルを背負ったまま全力で走るから、中の教科書がガサガサと揺れている。それが私のイメージする「男子小学生」。
男子と女子でこれだけイメージが変わることに、どんな深層心理があるんだと思うし、aikoを聴いていくなかで自分の内部に背の低い女を発見したことも関係していそうだ。ちなみに、男子小学生にもべつになりたくないです(金玉はしまっておきたい)。
言葉はイメージを喚起する。しかし、そのイメージは人によってズレている。これは意識してみると面白い。以前、別の友人と、「『日本』という言葉でどんなイメージを浮かべるか?」という話になった。相手は「四季の風景」や「ふるさとの夕焼け」と言ったが、私の頭にパッと浮かんだのは「日本の国旗」と「日本列島の形状」だった。
友人にとっては、「日本」という言葉が情動と結びついていそうだ。しかし私は記号的である。夕焼けや四季そのものは私はすごく好きだが、それが日本という国と結びつかない。四季は四季、夕焼けは夕焼けだと思ってしまう。
女子小学生に話を戻そう。
すこし問いを変えて、「圧倒的にかわいくて自信まんまんの女子小学生になりたいか?」ならばどうなのか。部屋のすみにうずくまる女子小学生ではなく、元気はつらつでかわいくて、自信まんまんの女子小学生。周囲にはチヤホヤされている。これならどうか?
そう考えると、やはり、なりたくない。まず、私は自分をチヤホヤしてくる人間が怖い。その人間は、たぶん自分のことなんか本当は見てないんだろうなと思う。興奮剤として利用されるような感覚。気軽に飲み干されるリポビタンDの気持ち。
あと、「かわいくて自信まんまん」と言われると、普通に「イヤな女だな」と思う。これはまあなんというか、大人げない気もしますけど。女子小学生に思うことかよ、という反論も浮かびますけども、しかし、イヤな女にはなりたくないでしょう。
私はバッタになりたい。
石の上にとまって、夕焼けといっしょに触覚をゆらす。