私たちの教会では、もともと「この世」の社会問題についての取り組みより、一人ひとりの内面と魂の救済を重視してきました。そういう保守的な教会が政治・社会問題にも取り組まねばならないと気づきました。そのきっかけは、一九六〇年代以降、靖国神社の国家護持問題が起こってきたことです。
戦前、キリスト教会は天皇崇拝と戦争協力を強制され迫害を受ける一方、抵抗し切れなかった人々が侵略戦争と天皇崇拝に加担するという大きな過ちを犯しました。自分の信ずる真(まこと)の神以外のものを「神」として拝むことは、キリスト教信仰の最も大事な柱に反する行為でした。靖国問題が浮上する中で、歴史の教訓を呼び起こすことが求められました。
相次ぐ強行採決
いま、森・元首相の「日本は天皇を中心とする神の国である」という発言に続き、小泉前首相の靖国神社への連続参拝とイラク戦争支持の強行、さらに安倍晋三首相の憲法を露骨に敵視する「戦後レジーム(体制)からの脱却」論と連続しています。教育基本法改悪、改憲の国民投票法で強行採決が相次ぎました。
戦前・戦後と保守的なメンタリティー(精神)はずっと連続してきたと思いますが、過度に先鋭的な主張に対しては、政治の責任をあずかる人たちには、ある種の〝わきまえ〃がありました。ところが今の政治は、そうした〝わきまえ〃を失い非常に暴力的です。少数者の声の中にある真実を聞き取る共感や想像力を欠いています。
とりわけ安倍政権のもとで、戦前回帰の動きが加速し、次第に戦前のようなこわばった空気が広がっていく中で、沈黙を続けていていいのだろうかという強い思いがあります。一度同じ痛みと過ちを体験した日本のキリスト者が、キリスト者であり続けるため、「信仰の証明」にかかわる問題「として、政治、社会のあり方について発言せざるを得ないと思うのです。
靖国神社の問題・政教分離の問題と、九条改憲の問題は、まさに一体。日本を再び「戦争する国」にさせていく流れにあります。人々が喜んで国のために命を捨てるような精神的仕阻みが靖国神社の問題です。
イエス・キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人は剣の力を愛で吸収する神の子どもと言われる」(マタイ福音書)と言っています。聖書世界の璧口であったユダヤ、パレスチナの最下層の庶民に、ローマの支配に対し力による対抗や復讐(ふくしゅう)ではなく、「平和をつくる」と呼びかけたイエスの言葉は、今の私たちにとっても挑戦すべき課題です。
また、イエスは剣をとるものは剣によって滅びと言っている」と言い、「右の頬(ほお)を打たれたち左を差し出し、下着を取ろうとする者には上着もやりなさい」と言いました。これはよく「博愛」思想と言われますが、剣の力を愛の力で吸収し、憎しみを無力化してしまうということです。
イエスと同理念
戦力不保持を定めた憲法九条が目指すのも、これと同じ本当に大きな理念です。それをととらえきれずに、押し付けかどうかとか、日米同盟がどうだとか、小さな議論に押し込んでしまうのは本当に情けないです。
9条は日本のためだけにあるのではなく、世界の平和のために与えられたものです。大切にしていきたいと思います。
朝岡 膠さん
あさおか・まさる1968年、茨城
県生まれ。神戸改革派神学校卒業。
90年から日本同盟基督教団牧師。現在、同教団「教会と国家」委員長、
徳丸町(東京都板橋区)キリスト教会牧師 「いたばし9条の会」世話人