球場の空気が変わる瞬間がある。
その時のスコアや状況に関係なく、今日は勝つ、という空気がじわじわと拡がり、ぐわーっと球場を包みこむあの瞬間。
野球の神様が降臨したとさえ感じるあの空気はめったに味わえるものではないが、野球好きとしてあれ以上の至福の時はない。
2013年9月26日、西武ドーム
星野仙一の英断
楽天がマジック2で迎えたこの試合。
札幌の日本ハムvsロッテ戦にてロッテが負け、ここ西武ドームで楽天が勝つと、楽天の優勝が決まる。
しかし激しい3位争いをしている西武ライオンズはこの楽天との3連戦のうち既に2試合連続で楽天にサヨナラ勝ちをしており、流れは完全に西武に向いていた。
青山浩二と加藤大輔という2人のセットアッパーが相次いでサヨナラ打を打たれた楽天・星野仙一監督は、思い切った策にでた。
優勝が掛かったこの試合は、楽天の若きエース田中将大を胴上げ投手として使うと明言したのだ。
半信半疑だった楽天ファンは予告先発を見て驚いた。
本来のローテーションでいえば田中将大が先発するはずの試合で、違う投手の名前が告げられたのだ。
この年、田中はこの時点で22勝0敗という驚異的な記録を打ち立てている。
星野監督は、本気で田中将大に抑えをやらせるつもりなのだろうか。
試合開始
楽天は美馬、西武は増田の先発で試合が始まった。
6回裏が終了した時点で、西武3-1楽天と、西武が2点リードしていた。
札幌では、ロッテが3点差をつけて勝っているらしい。
今日の優勝はないかな、とファンが諦めかけたとき、田中将大がブルペンで準備を始めた。
この西武ドームは、投手がブルペンで準備をする様子がファンにも見える球場である。
ブルペンの様子に気付いたファンのざわめきが球場全体に拡がっていく。
星野監督は本気で田中に胴上げ投手を務めさせるつもりらしい。
つまりまだ勝利を諦めていないということだ。
チームが勝利を諦めていないのに、ファンが諦めるわけにはいかない。
ファンが気合いを入れ直したそのとき、札幌に動きがあった。
日本ハムは、陽岱鋼、杉谷拳士の連続安打に西川遥輝の犠牲フライ。
さらに小谷野栄一のヒットに佐藤賢治の走者一掃タイムリーという激しい連打で4点を取り、ロッテに逆転したのだ。
「日ハムが逆転した!ロッテ負けてるぞ!!」
グラウンドの選手に向かってファンが口々に叫ぶ。
「日ハムが逆転したぞ!次はこっちの番だ!!」
沈滞気味だった空気ががらりと変わった。
ざわめきの中から生まれる勝利への希望。
野球の神様がやってきた。
7回表、楽天の攻撃。
2アウト満塁のチャンス。
頼れる主砲のアンドリュー・ジョーンズが、走者一掃の二塁打を放った!
逆転だ!
スコアは楽天4−3西武。
球場を占めていた勝利への希望は確信へと変わり、楽天は優勝に向かって進み始めた。
そのまま楽天の1点リードで迎えた9回裏。
札幌では、楽天の優勝を阻止したい2位のロッテが最後の意地を見せていた。
日ハム抑えの武田久から2点を奪い、日本ハム6-5ロッテと、1点差まで詰め寄っていた。
さらにロッテのチャンスは続いている。
ここでロッテが逆転したら、楽天は勝利しても、この日の優勝はない。
それでも田中将大は投げるのだろうか?
ブルペンの扉が開いた。
出てきたのは、田中将大だった。
絶対この日、優勝を決める!
星野仙一監督の強い思いが表れた采配だ。
監督の熱い想いを受け、球場内のボルテージは最高潮まで駆け上がる。
田中が軽く一礼をしグラウンドに足を踏み入れた時、叫び声が聞こえた。
「札幌、終わった!ロッテが負けた!あとは俺たちが勝つだけだ!!」
最高の投手が最高のタイミングで最高の舞台に上がる。
ここまでくれば奇をてらったことをしなければ勝てる。
そして田中は必要以上に自分を大きく見せたりしないピッチャーだ。
野球の神様はこういう選手が大好きだ。
西武ファンも必死に逆転を祈り声援を送るが、野球の神様を味方につけた球場の空気は揺らがない。
1アウト2塁3塁からの圧巻の投球。
見ているだけで背筋に電流が走るストレート。
27000人を超える観客、監督、コーチ、フロント、裏方、そしておそらく野球の神様。
全ての人の視線がマウンドに注がれていた。
この痺れる空気の中、楽天最強のエースは、この年一番のガッツポーズを見せた。
2018年1月4日
正月気分がまだまだ抜けない1月4日、野球ファンの間を衝撃が走る。
星野仙一、永眠。70歳だった。
いつか星野監督に会う日があれば聞いてみたいことがあった。
「もし、あの試合が、西武ドーム以外の球場だったら、田中将大を抑えに使いましたか?」
星野監督は知っていたのだと思う。
球場の空気は、ファンが作ることを。
ファンの気持ちが一つになったとき、そこに野球の神様が舞い降りることを。
そして、球団創設9年目の若いチームが優勝するには、ファンの後押しが必要なことを。
ファンからブルペンが見える西武ドームだったから、田中将大がブルペンに入るだけでファンが反応し、球場の空気がガラリと変わった。
あの楽天が優勝した日。
打ったのはアンドリュー・ジョーンズで、最後を締めたのは田中将大だった。
しかし、優勝を決めたのは、楽天が負けていてもブルペンに田中将大を入れた、星野監督のあの采配ではないだろうか。
野球を知り尽くしている星野仙一だから打てた、あの一手が全てを決めたのではないだろうか。