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2013年5月28日火曜日

インテリ「実名」道化師の「匿名」批判

さる関西の公立大学の准教授の発話(5.27)

@smasuda: 「ツイッターはインテリのパチンコ」って誰が言ったんだっけ。あれは名言だったな。政治家やマスコミの人の中にはパチンコ玉やなくて実弾やとおもいこんでる人もいますが所詮は危ないおもちゃでしかないよな

…………

関東エリアにある国立大学の准教授の発話(5.27)。

@takuomitaguchi: 外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中が、誰ひとりとして取り組んだことのないことにトライする人たちの試みを、斜に構えて眺めている。

@takuomitaguchi: この国のシニシズムは、本当に病根が深いと思う。

この発話のまえに、次のリツイートがあるので、それに係るのだろう。

@lethal_notion: 今回のこの運動、素人ばっかで、右も左も分からなかったんですよね。小平市にも市民運動家はいるらしいんですけど、そういう人が全く関わってないって(むしろ批判的に)仰る方もいました。その点は強調しておきたいです。「プロ」はいなかったんです。

…………

それぞれ「ためになる」ツイートだ。

「ツイッターはインテリのパチンコ」であるなら、下のふたりのインテリ氏のツイートはパチンコだろうか。最後のものは、小平市住民投票の報告にかかわり、彼はこのところ、実際の活動の宣伝・報告に終始していたのだから、「インテリのパチンコ」とすることは失礼だろう。

では「自分をリスクにさらす勇気もない」として、シニカルな匿名の連中を批判する発話はどうだろう?

ここではとりあえず、いささか捏造された気味合いがないでもないこの疑問符はそのままにしておいて、次の言葉を引用しておくだけにする。ーー《ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?》(船木亨『ドゥルーズ』

…………

たいして情報収集をしているわけでもないこの匿名の<わたくし>でも、匿名批判がいくつかあるのを知っている。

1、たとえば内田樹によるもの。
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。(……)(「ネット上の発言の劣化について」)


2、勝間和代 VS ひろゆきによる「匿名性」をめぐる対話。
勝:いや、違います。リアルではちゃんと名前名乗って自分がどういう人だかを開示して相手の信頼を得ようとするのに、何故インターネットだけ匿名で良いんですか?


3、印象的だったのは、夏野剛氏によるもの。
根拠の薄い過激な意見を言うために匿名にしてる奴は失せろ。バカが発言すること自身社会の無駄だ。根拠もったい上で実名で来い。

消費税増税反対だけど年金減額反対な老人、選挙に行く資格なし。

税金払ってないくせに格差を問題視する若者、将来に希望なし。


――匿名の貧乏人はだまれ、と言っているように聞こえる。


貧乏人だけでなく、特筆すべき社会的ポジションをもたないもの、たとえばサラリーマンの下っ端であったり、小規模の家業に携わるひとは、実名を名乗っても匿名とあまり違わないだろう、あるいは、たとえば「ひきこもり者」やら「メンヘラ」などと呼ばれる人ならば実名を明かしたくない事情もあるだろう。彼らにとって、インターネットの書き込みが自己破壊性を抑えるための救いになっている場合もあるのではないか。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)


「匿名性」が批判されるとき、このあたりの配慮がなされていないのではないかと、ときに感じるのは、<わたくし>だけではあるまい。



ところで「選挙」はなぜ匿名でおこなわれるのだろう。

自由主義において不可欠なのは、意見の公開性よりも、匿名性(無記名性)であるといえる。匿名が人を「自由」にする、あるいは「個人」にする。アテネにおいては、それは僭主の出現を避けるために採用された。しかし、これは奇妙なことではないだろうか。口に出してものをいわない(いえない)ような人たちの多数意見が「真理」を決定するとは。実際、ヘラクレトスからプラトン、アリストテレスにいたるまでのギリシャの哲学者はこのようなデモクラシーに反対していた。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

柄谷行人はこの議論を発展させて「くじ引き」制度を提案したのだが、しかし、ここではこの話には深入りするつもりはない。もっともtakuomitaguchi氏が若きころ、この『トランスクリティーク」をその理論書のひとつとして柄谷行人のおこしたNAM運動に加わっていたことを知らないわけではない。

ところで大学教師などは、そのポジションにとらわれて、「自由」な発言ができていないことはないか。たとえば、反原発運動に賛成するなら、「早野黙れ」に象徴される緘口令がいつ官僚から下るのか分からないのが、今の日本のシステムであるのが明らかになったのだから、文部科学省などへの批判の瞳がむけられて当然ではないかと思うが、その傘下に勤務する自らの立場をあやうくするために批判をひかえるなどということはないか。


彼らはカントのいう「理性の公的使用」ではなく、「私的使用」に甘んじていはしないか。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』)

――柄谷行人は、その『トランスクリティーク』において上記の文を引用して次のように書く。

通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(p155~)


なぜ若き中井久夫は楡林達夫という名で医療批判をしたのだろう(「中井久夫と楡林達夫」)。


…………


以下は異なった側面から。


インターネット上では、かりに実名でも顔が見えないし、声も聞こえないから、攻撃欲動がでやすいとはしばしば語られてきた。フェース・トゥ・フェースのコミュニケーションが成り立たず、都合が悪くなれば簡単に逃げだすことができる。

そこでは、《「発話する主体〔サブジエクト〕」(それをし、話している匿名のX)と「発話されたもの/陳述の主体」との間にずれがある(私がサイバースペースで装う、「創作」 でき ある意味でつねに 「創作」 れる象徴によるアイデンティティ ――私のサイバースペースでのアイデンティティを記すシニフィアンは、 決して直接には「私自身」ではない)、相手側でも同じことが言える。》(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic024/084-097.pdf


ツイッターで対話がなされても、それがたいして機能していないのは、もうそろそろ判然としてきたのではないだろうか。それが冒頭に掲げられた「ツイッターはインテリのパチンコ」という「名言」が示唆するところではないか。

著書や論文の販促活動のツールとしては機能しているだろう。情報の交換の場としても機能しているだろう、--情報の交換? 《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)であり、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)。


《対話者同士の定期的な会合から期待し得るものはただ好意だけである。すなわち、この会合が攻撃的な所を除去したパロールの空間を代表するということである。》(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

リアルでさえこのようになりがちだ、ましてやツイッターでは。

インテリたちは自らの「攻撃欲動」を飼い馴らすことに巧みなのだろう。「呪いの時代」(内田樹)の風潮に乗るのは、愚か者にまかせておけということなのだろう。初期にはそれなりにあった「論争」も、いまではほとんど見られない。

彼らは、愛想のよい鷹揚な対話に現を抜かし、鬱憤晴らしの闘争的パロールは、オレたちの領分ではないとして「選良」の涼しい顔で「気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあい」(参照:「共感の共同体」)に終始しているなどということはないか、それが瞞着であることを知らぬわけではないのに。

バルトのいう攻撃性の除去は、インテリたちには難しいことではないようだ(少なくともインターネット上では)。まあこうでないことを願うが、ーー《ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…》(ソレルス『女たち』)
この除去は抵抗なしには行なわれない。

第一の抵抗は文化の範疇に属する。暴力の拒否はヒューマニスト的な嘘とみなされる。慇懃さ(このような拒否の小型版)は階級的価値とみなされる。愛想のよさは鷹揚な対話に似た瞞着とみなされる。

第二の抵抗は想像界の範疇に属する。多くの者は、対決からの逃避は欲求不満を招くというので、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている。

第三の抵抗は、政治の範疇に属する。論争は戦いの基本的な武器である。パロールの空間は、どれも、分裂して、その矛盾をあらわにしなければならない、監視の下に曝されなければならない、というのである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

ああ、なんというインテリ実名道化師たちの跳梁跋扈よ、とこの匿名の<わたくし>は、「外野でシニカルに構えて」呟いてみる。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』より)

あれらが、彼らの語る「言葉が真実として受け入れられる」ポジションを獲得したつもりになって「小ファシスト」として振舞う「凡庸なインテリの肖像」でないことを祈る。


ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、 まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》(ヘーゲル)

ーージジェクの『ラカンはこう読め!」からの孫引きだが、ジジェクは次のように変奏させる、《<他者>に対する不寛容は、不寛容で侵入的な<他者>をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある》とする。

もちろんこう引用したからといってインターネット上の攻撃欲動を擁護するつもりはない。


ところで、最近はディドロなんてほとんど誰も読まないだろうが、まさかディドロ研究者の類が、《外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中》などとノタマウことはあるまい。
あなたが潔癖無垢であるのなら、私の話をお読みにならなければいいのですし、あなたがすでに堕落腐敗しているのなら、私の話を読んでもなんの悪影響もないはず(ディドロ『運命論者ジャックとその主人』)


まあこれは少しいい過ぎとしても(つまりツイッターなどでは見たくなくても垣間見てしまう)、それなりに地位のあるはずの学者たちに見られる吐き捨てるような社会的下位のものへの攻撃的発話は、たんなる正義感からなされるのではないだろう。もっとも、嫉妬や羨望は、その人が社会内における自分の低い地位に満足していないことを示しているといわれるのは周知だが、正義感も実はこうである。

ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』69頁)


ひょっとして攻撃欲動を過剰に楽しんでいるひとびとへの羨望という面がありはしないか。

あるいは「社会内における自分の低い地位に満足していない」ことからくる攻撃欲動の発動という面もありはしなか。


少子化、高齢化などにより、インテリたち、殊に教師たちの不遇は募り、「内なるプロレタリアート」の境遇感はますます顕著になっているのに違いないのだから。

文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめる。(「父なき世代(中井久夫)」