シイタケの入った味噌汁を食べるたびに毎回思い出すことがある。砂に書いた文字のように洗われていく記憶の中、その思い出は私の頭に、強烈な印象を残した。
小学2年、いや3年のことだったか。
同じクラスにS君という友人がいた。
彼はいつも私より要領が良くて、成績が良く、口数も多く、社交的だった。運動神経もよくて、図書室で本を読む私と対照的に、お天道様のもと鬼ごっこやドッジボールに励む小学生。(足も速くボールもよく飛ぶ、私とは今でも対照的である)
小麦色に焼けた四肢は元気を、首裏のくっきり見える焼けあとの境界線は健康を表していた。
図書室の日なたで難読漢字の本を読みふけり、首の後ろ側と腕の後ろだけ黒くなる、というアンバランスで不摂生な日焼けをした私は、彼に何一つ勝てるところがなかった。
……席替えで、彼の近くになるまでは。
当時は結構多く感じた200mLの牛乳、色とりどりのおかずやサラダ、ご褒美のように出るカレーライスとフルーツポンチ、コロッケを挟んで食べるパン、「チリコンカーン」なる妙な響きの料理、ヌメヌメした食感が不人気の海藻サラダ、動物の顔の形をしたチーズ。
すなわち給食である。毎日のように繰り広げられる食の聖餐……もちろん好き嫌いがない人間にとって……は、多くの小学生を虜にした*1ことだろう。
私の学校は給食がおいしかったところ*2なので、毎日おかわりまでして食べていた。班をつくって会話しながら楽しむのも、給食の好きな点だった。
幼心に、「学校に行って友達と話せて、昼ご飯まで食べられるなんて、なんてゼイタクなのだろう」と思っていた私だったが、S君はそうではなかったらしい。というのもS君は過度の偏食だった。
過度、カド、かど。字のごとく、好き嫌いのない私と違い、S君はそう、好き嫌いがとても激しかった。その日の給食はスープだったのだが、入っていたキャベツも、シイタケも、柔らかいモチ(だったと思うが、小麦団子の可能性もある)も、S君は全て残したままだった。
私は はやる気持ちを抑え、「あんなに頭が良くて社交的で運動のできるS君に好き嫌いがあるはずがない」と信じながら、「それ、食べないの?」と尋ねた。私の盆の皿は全て空になっていた、そんな昼休み間際のこと。
彼は苦しそうにおどけてみせて、シイタケを箸でそっとつまんで、「いる?」という顔をした。私はそっと首を横に振る。それは「いらない」ことへの意思表示というより、まさかM君がという驚愕によるものだ。冬にセミが鳴いているような、秋に桜が咲いているような。
私が図書室への恒例ヒジュラを行い、教室に帰ってきたところ、S君がすごい勢いで先生に怒られていたのを覚えている。
その時の先生のことばも、また耳に残っている。S君は目に涙を浮かべていた。きっと給食時間が昼休みに食い込み*3、苦痛と悶絶のアディショナルタイムを過ごしたのだろう。
キャベツやモチやニンジンなどの具材はなくなっていたが、ラスボスのシイタケ。あの憎き菌糸類と、大人の手の平サイズの逆コロッセウムで死闘を繰り広げて、負けた。
相変わらずあの日の刻みシイタケは、私の頭に満たされたスープの中で、少し悲しそうな顔をしてぷかぷか浮いている。
……という長い前置きから今日のお話が始まります。
先生が言ったこと
先生は確か、
「好き嫌いが多すぎ!」
「残すってのはねえ、失礼なことなの!!失礼だと思わないの?」
というようなことを繰り返し叫んでいた。S君は泣いていた。
私自身偏食に対する理解がないことをお許し願いたいが、今なら言える。先生のことば、ちょっと疑問だ。
失礼ってのは何に失礼なのか。食材、育てた人、作った人、運んだ人。
おそらくその全てだろう。聞いておけばよかった。
じゃあ失礼だと本当に思うなら、謝りに行けばいい。「農家の皆さん給食配膳の皆さん、ぼくはシイタケが嫌いですみません。失礼ですが残します」
でもきっと、先生はそんなことを言いたかったんじゃないと思う。謝りに行くとかそういうんじゃなくて、思考原理としての相容れなさから、単に失礼と形容したのだろう。
先生は、残さない=礼儀正しい が頭に染みついているから、食べ物を残す人を失礼だと感じるのだろう。でも、失礼でしょ、で一喝するよりも、することがあったんじゃないか。
どうして食べ物を残すと失礼になるのか、それをS君に説明すべきだったんじゃないか。
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大事なのは自発性
まずそもそも、「食べ物を残すことが失礼なのか?」という疑問はある。
が、それに関しては本当に個人的な意見になってしまうので(議論のすり合わせが難しそうなので)あまり触れないことにしよう。*4
でも、本当に失礼かどうかなんてのはあまり大事じゃない。
「残すこと=失礼」ならば、なぜ残すことが失礼なのか、残すとどんなことがあるのか、そういう面について、考えたいね、と言いたいのである。考えることは割と自発的な行為であり、議論の平行線化を防ぐことができる。
いただきますの話と似ている。「いただきますを言うべきか否か」というくだらない問題で、この前友人と盛り上がったのだが、大事なのは自発性ではなかろうか。
どうしても教育では目先のこと、「いただきますを生徒に言わせること」を目的としがちだが、いただきますの本当の意味は、それを言うところにではなく、気が向いたときに、自分の心の中にある、他の命を奪って食べることとは何なのか考えられる、とか、食べ物への自発的な感謝を意識できる、というところにあると思われる。
だから、いくら強制していただきますを言わせるようにしても、それがいやいやながらだったり、あるいはまったく食べ物のことを考えていないようでは、する意味がないんじゃないかなと。
言っている、言っていないというのは表面の問題で、むしろ根っこの、「食べ物への感謝があるか」が大事だと思う。そもそも、感謝があったから何なのか、というのも、考えるべき事柄だろうけど。
で、食べ物を残すことが失礼云々もこれと同じで、失礼だと思ってたらどうするべきなのか?ということを考えることのほうが、むしろ大事なのではないか、と。
偏食はあるよりないほうが良いってのは確かに正しいし、その正しさを生徒に「失礼」というわかりやすいことばで教えることの、一定の正当性や効果、論理性は認める。
でも、正しいが、正しいゆえに何の解決にもなっていない。失礼だからという理由で食べられるようになるなら、この世から偏食は消えているだろう。
大事なのは、失礼なのを承知で残した後、何と言えばいいか、とか、偏食の激しい人とどのようにうまくやっていくか、とか、偏食をなくすためにどうすれば効果的か、とか、直らない自分の偏食とどう付き合うか、とか、……そういうのを自発的に考えていくことだと思う。
そうすれば、「残すことは失礼だ!」という絶対的な思い込みを抱えたまま生きたせいで、ますますその野菜のことが嫌いになる……というような例を、ある程度防げるのではないか。
でもまあ、どうしても「自発的」というのは身につけさせるのが難しい。
おそらく教育において、もっともみんなが苦労してるところだろう。
それは、自発性の度合いを測るのが、とても困難だからだ。
例えば無理やり口に詰め込んで完食したから、じゃあ食べ物に感謝してるか、というとそういうことはない。私が表現したように、S君は"憎き菌糸類と、大人の手の平サイズの逆コロッセウムで死闘を繰り広げて、負けた"のだ。
本来おいしくいただくはずの食べ物と戦えば、シイタケを好きになるどころか、もっと嫌いになる可能性もある。
仮にこのとき彼が無理やりシイタケを口に突っ込んでいれば、先生は自発性を認めるだろう。でもそれがS君にとって本当に良い選択肢だったかといえば、疑問だ。
食べ物という取り扱いの難しい素材は、画一的で模範的な生徒を求める学校教育とは相性が悪い。
こういうテーマはどうしても、「失礼だ!」「いや失礼じゃない!」という部分に注目がいきがちだが、私はそれをもっとメタ的に見たかった。失礼云々であれば一体どうなのか、偏食とうまく付き合うにはどうしたらよいか、そういうことを皆さんに考えてもらえるような問題提起にしたつもりである。
文章としてきちんと表現できているかは疑問だが、これを以って、私の脳味噌スープに浮かんだシイタケ君への鎮魂歌となれば幸いである。
追記:雑煮食べたい。