こんにちは。
ママの実践ギフテッド教育のHiromiです。
今年も残すところ、数時間になりましたね。
今年も皆さんからたくさん応援していただきありがとうございました。
この時間帯、コタツに入ってみかんでも食べながら、テレビを見ている人が多いのかな??
大掃除、皆さま、お疲れ様でした!!
イギリスは、日本のマイナス9時間なので、まだまだです。
今年も大掃除は、9月ごろから始めていたので、特に年末の大掃除はしません。
でも・・・・
いまだにクリスマスツリーやら、デコレーションはそのままです。
日本の皆さんは、クリスマスが終わると片付けながら、大掃除もやって、御節の用意をして、新年の準備もできて、本当に素晴らしい主婦がいっぱいですよね。
我が家は、夫の体調が優れなかったこともあるのですが、クリスマスに呼んでいた知人のお父様がイブにお亡くなりになった悲しみで、パーティーどころではなくなってしまいましたが、日本のお友達から私の送ったクリスマスカードが届いたと喜んでもらえたのが私も嬉しかったです。
今年のブログでは、本当に某ブロガーさん達(複数形に注意!)からの嫌がらせに本当に嫌な思いをさせられました。
こういうことを公の場所で言うことは大人げないと思われるかもしれませんが、私は、セミナー受講者様にもお伝えしているように、自分の感情を否定したり、捻じ曲げて覆すことをしないように教えています。
私は教えている立場もありますが、それを単に伝えるだけではなく、私自身がいかにそれらを実践しているのかを見せる必要があるのです。
ですから、このブログを面白半分やからかい半分で通り過ぎる方からみたら、なんと口の悪いブロガーだろうと思われても仕方ないかもしれませんね。
でも、人から意地悪をされて良い気持ちをする人などいませんよ。
私は聖人ではありませんので、自分を攻撃してくる人を笑顔で歓迎できる心の領域を持ちません。
仮に私がそれをできたとして、自分にできることだから、あなたのお子さんも虐めに遭っても、虐めをしてくるお子さんに笑顔でされるがままに我慢していなさいと言うようでは、ギフテッドの子供たちを導くことなどできません。
されて嫌なことは嫌だと本人に伝えなければならないのです。
虐めをしてくる人や攻撃してくる人というのは、自分が攻撃を受けないための画策を事前に用意しておいて攻撃してきますからね。
ブログの表では”良い人”のように見えても、影では人の悪口を言ってせせら笑っている人のなんと多いことか。
自分の考えに反論されたり、批判をされることはまったく問題はないと思いますが、個人の人格を否定することは、反論でも批判でもない、単なる中傷です。
中傷というのは、意識的に人を傷つける目的の行動で、無意識の状態ではありません。
そのような中傷に、私は断固、これからも名指しで声をあげていくことにします。
今年は、そういう方に複数遭遇しまして、いろいろな方に相談したり、アドバイスをもらってきましたが、黙って我慢するというのでは、何も問題は解決しないということを世間に見せて伝えていかなければ、虐めもなくならないし、不正行為というものを見逃していては、世の中何も変わりません。
これまで何年とあーちゃんママを巡ってトラブルが続いております。
ええ、悪いのは私なんですよ。
そもそも私が口を挟み過ぎてます。
私があーちゃんママの悪口を言いふらしている人にあーちゃんママを援護していることに対して、なぜか、毎回のようにあーちゃんママが私を攻撃してくるので、これは一体どういうことかと思えば、あーちゃんママ自身の激しい妄想で、私が書いていることがあたかも私があーちゃんママを攻撃していると勘違いするんです。
基本的に私は、悪口を言う行為が嫌いです。
特に陰でコソコソと言うのは最低です。
私はここであーちゃんママの悪口を言いたいわけではありませんので、私個人の感情に共感をしてもらうための扇動はしません。
ただし、この方を巡って、かなり2Eについての情報が独り歩きしているために、日本におけるギフテッド、およびギフテッド教育に対する波風が立っている(さすがに名指しではありませんが、本のなかでも取り上げられていますしね。)のですが、何しろ、ご本人は関係ないの一点張りです。
確かにそうですよね。
私も、その批判の記事をみたんですが・・・・・あーちゃんママのせいではなく、その著者の方なり、読み手方に2Eに対する偏見を私は感じました。
あーちゃんママというハンドル名の方の情報をギフテッドの正しい情報と神々しく崇める必要などないんですから、ギフテッドの子供やその親に向けられた偏見を少しでも変えてほしくて私が記事をあげるのですが、あーちゃんママは私が攻撃している、自分が批判されていると思われるわけですね。
人の親切をも吐き気を感じると受け取り、罵倒で返してくるのですから、そもそも、あーちゃんママを批判したり、攻撃している人に対して、私が援護する必要などないのです。
では、ここで問題です。
皆さんは、悪態をついて集中攻撃をされている人を「ざまーみろ!」「それみたことか!」と見過ごすことが人として正しいことでしょうか?
教室で一人の人を集団で虐めている場面をみたら、私には関係ない、巻き込まれたくないと知らん顔しているのが人の正しい選択による行動でしょうか?
私は、あーちゃんママが多くの場所で批判されている場面をみて、黙って知らん顔していれば良かったでしょうか?
もちろんあーちゃんママは、私が援護してきたことなどご存じないですから、当然、「私には関係ありませんよ!」とカラスの勝手でしょ発言をするのは良いのです。
私は私の判断で、意見を発言しますから、あーちゃんママからありがとうとお礼を言われたいためではありません。
私に対して決して友好的な態度をする方ではないけれど、私は同じギフテッドの子供の親として仲間という気持ちを持って接してきてますし、私だって人からいっぱい悪口を言われて嫌な思いを抱えてますから、仲間が声に出さずとも、空気的に寂しそうだと感じたら、声をかけるのが私は人情だと思ってます。
なにもわざわざ、ご本人に、どこそこであなたの悪口が言われてましたよとそのアドレスを教えて、さもさも偉そうに「私はあなたを援護しましたよ!」とそれこそ、親切の押し売りなどしません。
でも、私があーちゃんママの悪口を言っている人への反論記事を挙げているのを、あーちゃんママが自分のことが反論されていると誤解をして、私に毎回攻撃してくるんですから、困ったものとしか言いようがありません。
そして、私の書き方が混乱を招くとか、いちゃもんをつけるようですが、では、ひとりひとり、誰それが悪口を言っていると名指しにしたら問題が解決するのですか?
受け取ったメッセージや悪口を言っている場所のアドレスを公開して茶番劇を公表したら、誤解は解けるかもしれませんが、そんなことをしていたら、ギフテッドの子供の親ってなんてバカな集団なのかしら!こんなバカな親たちの子供など、とてもじゃないけど応援できません、支援反対という声があがるのが世論の全うな意見ですよ。
そして、信者の方たちもねぇ~。
自分の子供が学校に馴染めてない状況で、孤立するお子さんの気持ちを少しでも理解できるのなら、まずは、自分自身がブログ仲間で陰口を広めたり、コソコソ話してせせら笑っている行動はやめないと、それはだれが見ている、見ていないの問題でなくても、そうした普段の行動が日常の現実として出てくるのであって、お子さんの問題じゃなくて、母親の行動に問題があるから子供に出てくることに気が付かなければ、いつまでたっても子供が変わるのを待つばかりで、自分は変わりませんという態度には、なんの生産性ももたらさないでしょう。
私はギフテッドの子供の親ですが、私もわが子も成功者でも成功のタイプでもありません。
ギフテッドに成功型も失敗型もないんですから。
自閉症だから2Eとか、障碍のあるなしでギフテッドのレベルを分けるとか、能力ごとに分けるとか、本当にギフテッドの子供たちをみていたなら、呼び分ける必要はないのです。
自閉症や発達障がいがあってもギフテッドの傾向のあるお子さんは実在します。
IQの高さや学力、もしくは能力の高さだけではギフテッドかどうかはわかりません。
ギフテッドというのは、人の傾向なので、誕生時の赤ちゃんの状態に突出した能力で判断できるものではありません。
その傾向があっても、表に見えない場合や本人が気が付かない場合があるのです。
ですから、どの子にもその秘めている可能性をみて教育していくのがギフテッド教育です。
また、その教育において、子供の状態ごとに〇〇のギフテッド、障碍の有無で呼び分けるというようなラベルを貼る必要はなく、どの子もギフテッドとみなして問題ありません。
そして、ギフテッドというのは、必ず、その方向が自分が他者のために貢献する喜びで伸びてくる行動ですから、お子さんに無理やり他者に貢献する喜びをすり込むとか、洗脳するのではありません。
無理やり他者に貢献する喜びをすり込んでしまうと、そこには自分の本当の気持ちを我慢することで、自己犠牲をしてしまったり、自己満足な偽善に酔いしれてしまいます。
なので、子供には他者のために貢献することをしなくても良いという自由を与えたうえで、本人が他者のために貢献したいと自発的に選択した場合に、はじめてギフテッドという傾向になっていくのです。
自分のためだけに学び、収入の高い職業に就くため、自分の望む職業に就くためだけに学ぶことは、子供の自由であり、間違っていることではありません。
ただし、それはギフテッドとは呼びません。
ハイパーレクシアのお子さんなとは幼少時から文字や数字に興味を持ち、高い才能を見つけやすいのですが、高い才能があるからといって、そこだけに注目してギフテッドというラベルを貼った時、本人が望む方向や本人が自発的に社会貢献したいという気持ちが芽生える前に、さぁ、才能の開花はどこだ!!と親や教師に鼻息荒く、待ちかまえられてしまっては、どうしたってHSCの性質から恐れを感じ取り、亀のように甲羅に隠れてしまうことでしょう。。。
だから、そぉーっとそぉーっと教育していく配慮が必要なのです。
才能が突出したら、さもさも自信満々に自信が湧いてくるなんて大間違いですよ。
ギフテッドの子供が才能を開かせて大人になり、得意な分野でお仕事ができるようになっても、そこはそこで競争社会ですから、またまた自信が持てないギフテッドもたくさんいるのです。
私の考え、感じること、信じることをここに記していくことを恐れないようにしようと思います。
それが他人からみたら正しいことにはならないでしょう。
でも、それが私であり、欠陥のある自分の姿であり、私は立派な人間ではありません。
そして、愚かな自分をみては気分を害してしまうこともありますが、そこから逃げるんじゃなくて、そこからが成長というのかな。
あの人とは関わらないほうがいいよということは、何度も言われてきたし、それが自分のための徳になるのは確かです。
でも、自分だけが徳をして誰かが悲しい思いをしているのがわかっているのに、ざまーみろということは私は言えないのです。
だって、人間だから。
もしも、この記事を読まれている人のなかで、人から嫌なことをされたり、攻撃をされて悲しい思いをしている人がいたら、その嫌な気持ちはね、絶対に否定しちゃいけない。
嫌な事は嫌だよとはっきり相手に言おう!
だけどね、その相手を憎んだらダメだよ。
絶対に負けたらダメだよ。
相手の強さに自分が弱くて負けるんじゃないよ。
相手に情けをかける気持ちを忘れたら、負けということ。
あーちゃんママや信者から意地悪をされて、悔しいとき、私もいっぱい泣いた。
こんなことなら、あの人を庇うべきではなかった、あんな人たちを援護しなけりゃよかったと自分を悔いたことが何度もあります。
でも、私は人間なのですよ。
そして、ギフテッドの子供たちをこれからも応援していくためには、私は隠れないようにしたい。
だめなことはだめだとはっきり伝える!
でも、あとは許すこと。
それで今年はさようなら。
みなさんもよいお年を。