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【政治】

戦争体験平和訴え 野中広務氏死去 改憲には慎重

1998年7月、小渕内閣の閣僚名簿を発表する野中広務官房長官=首相官邸で

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 「怖そうな顔だなー」。野中広務氏の顔を初めて間近で見た第一印象だった。小渕内閣で官房長官を務め「影の首相」と呼ばれていた時だった。

 国政の舞台に上がったのは五十七歳。文字通りのたたき上げで、修羅場をくぐり抜けてきた眼光は鋭かった。「私は土の中から一枚、一枚皮をはいで出てきた」と、自分をタケノコに例えていた。

 政局対応から政策調整まで辣腕(らつわん)をふるい、当時の難題は野中氏のひと言で動いた。とりわけ、野中氏が主導した公明党との連立政権樹立は、その後自公路線として定着し、自民党の選挙や国会戦略上、欠かせぬものになっている。激動した一九九〇年代の政治で果たした役割は大きい。

 常に政治闘争もつきまとった。京都府議時代は革新府政と対峙(たいじ)し、国政では所属した旧竹下派で小沢一郎氏と激しい政争を繰り広げた。最後は首相だった小泉純一郎氏と構造改革路線を巡って対立し、政界を去っている。

 剛腕政治家と呼ばれた一方で、反戦・平和を訴え続けた言動は、多くの示唆に富んでいた。

 沖縄で米軍用地を継続使用するため、一九九七年に成立した改正米軍用地特別措置法で、衆院本会議で行った特別委員長としての発言はその一つだ。自民党のほか、野党の新進党も賛成したことを受け「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじる結果にならないように。大政翼賛会のような形にならないようにお願いしたい」と予定外に言及した。将来への異例の忠告は、最近の沖縄問題を予見していたようにみえる。

 なし崩し的な自衛隊の海外派遣に異を唱え、インド洋やイラクへ自衛隊を派遣する法律の衆院本会議の採決は欠席している。改憲にも慎重だった。

 陸軍に応召して終戦を高知で迎え、「戦争が続いていれば私もここにいなかった。生かされて、いまここにいる」とよく聞かされた。時代風潮に流されやすい日本人の気質をよく知り、迎合を嫌った。「一色に束ねられた組織は必ず間違いを起こす。生理的に反発した」と自著でも語る。

 晩年の講演の演題は決まって「昭和世代からの遺言」だった。「戦争を知らない世代が社会を支えている」と、右傾化する世相や永田町に警鐘を鳴らした言葉をかみしめたい。 (吉田昌平=元政治部記者、寄稿)

 

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