「橋をかける」 美智子
私には、憧れの女性が2人います。お一方は美智子妃殿下、もうお一方は神谷美恵子女史(心理学者でハンセン氏病患者の心のケアに尽力した方。)です。神谷美恵子女史については後に書くとして、このお二方の生き方や文章は非常に優しく女性らしく凛としてたくましい。
実は私がこの文章を知ったのは、1998年9月、インドのニューデリーで開催された国際児童図書評議会第二十六回世界大会において、ビデオテープによって上映された美智子妃殿下の基調講演をテレビで見たからでした。このスピーチは美智子妃殿下の子供時代の読書体験をもとに「子供の本を通しての平和」をテーマに書かれたものです。スピーチの内容、美智子妃殿下の優しい語り口、そのあまりの美しさに感動で涙が出てしまったような記憶があります。私の家にテレビを録画する設備がないことをとても悔しく思ったものです。
そして、そのスピーチに感動した方が多かったのか、しばらく後にその内容が「橋をかける」という題名で出版されました。私は、それを知ってすぐさま本屋に走ったのでした。
この本では、「本」が与えてくれるものは、知識のみならず、喜びや悲しみ、心を動かされる体験や癒しなど様々だと分かりやすく説明されています。また、美智子妃殿下が子供時代にどのような本を読んでどのように感じたか、また、その読書体験がご自身の考え方にどのような影響を与えたかについても書かれています。良くも悪くも、「本」は人間の人格形成に計り知れないほどの大きな影響を与えます。そういった意味で、人生においての「本」への親しみ方、たずさえ方を指し示してくれるこの本は、とてもすばらしいと本だと思います。また、美智子妃殿下独特の優しく美しい語り口も是非楽しんでいただきたいと思います。
生きがいについて 神谷美恵子
この本を書かれた神谷美恵子女史は心理学者でハンセン氏病患者の心のケアに尽力した方です。また若き日の美智子妃殿下の相談役としての立場にもおられました。ハンセン氏病=らい病について私は良く知らないのですが、容姿が大きく変わり体のいくらかの部分が膨れ上がったり色が代わったりする症状については見たことがあります。宮崎駿の「もののけ姫」で包帯をまいて銃を作っておられた方々はハンセン氏病の方たちがモチーフであると思われます。
実際には空気感染はしない病気だと後に判明するのですが、空気感染し母子感染すると考えられて時期があり、その時期はハンセン氏病患者には強制隔離政策がとられていました。空気感染するという誤解から家族から引き離され、母子感染するという誤解から子供を作ることも許されないという過酷な状況。また、その容姿の変貌から差別を受けやすく、無癩県運動(むらいけんうんどう)等により、ハンセン氏病への偏見は強まる一方でした。
そういった偏見が強まったため、ハンセン氏病の家族ですら、自分達の「家系」から「らい病」が出ことを隠したいがために、彼らの存在自体を世間に隠す、療養所に送り込んで存在そのものを消してしまうという差別を余儀なくされていたのでした。
このような「生きがい」というものを全く見失ってしまいそうな隔離社会においても、一部の患者は今現在自分の置かれている場所で、やるべきことを見つけ、あるいは作り出し、それに「生きがい」や「やりがい」と見つけていきます。そしてある人たちは、「人生など時間つぶしにすぎない。」と卑屈になりニヒルに逃げます。そういった人達の間にはどういった違いがあるのか?生きがいを失った人たちはどういった機会にもう一度生きがいを取り戻すことが出来うるのか、そういったことの書かれている本です。
これはハンセン氏病患者に限らず、一般社会でも同じようなテーゼがあるように思います。人生の「生きがい感」「無意味感」は、どこで、どういった機会に、何によってもたらされるのでしょうか。例え、それが、社会からドロップアウトしたように見えるホームレスの方々であっても、同じ公園や川辺に住み、人が集まり始めると、そこに社会ができ、秩序をたもつためにルールができてゆくようです。そしてまた、小さな共同体の中で同じような問題が起こります。
私自身も病床のおり大規模MMOというタイプのインターネットゲームに依存していました。そこに人が集まるかぎり、例えバーチャルであっても社会ができ、人間関係ができ、そこに「居場所」や「やりがい感」を求めてしまいまいた。持病があり体が動かない事情はありましたが、今となっては、実社会に実態を持たない「居場所」や「生きがい感」は非常に危険だっと思います。少し、話がそれてしまいましたが、人生の「生きがい感」「無意味感」のヒントがたくさん書いてあるので、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
生きて行く私 宇野千代
私にとって、上記のお二方は上品すぎて、とても手の届かないような憧れの存在ですが、宇野千代氏、瀬戸内寂聴氏は、まるで自分を見ているような親近感や共感を持ってしまう存在です。
私の持論で、人にとってもっとも辛いことは
・自分らしく生きられないこと
・自分に嘘をついていること
・愛されていないと感じること
だという考えがあります。
少なくとも私はこの3つの全てに当てはまってしまったら死んでしまうか、狂ってしまうのではないかと思います。宇野千代氏は明治生まれの方で、まだまだ女性に対する制約の多かった時代に、まるで現代人かのように自分の人生をいきいきと鮮やかに生き女性です。(特に男性からの)愛情を獲得することに貪欲で、自分の気持ちに正直に生き抜いて亡くなられました。
世間で一般的であるとされている道徳観や倫理観などは気にかけず、「自分の気持ちに正直に生きる生き方」は、世間様の強い反感や嫉妬をかったであろうし、多くの常識人とされている人々を不愉快にさせ、傷つけ、巻き込んでいったに違いありません。
それでも、宇野千代氏の生きる姿勢は常に悪気がなく、明るく、あっけらかんとしていて、どんなに非常識で無茶苦茶をしていても、どこか憎めない愛される何かを秘めています。「生きていく私」はそんな宇野千代氏の自伝的著書です。周りの人間が自分をどう評価しているかなど全く気にせずに「自分の人生を生きる」という、いさぎよい生き方。そして、愛するということ、創造するということに、全ての情熱を注いで、他のことに目もくれない一途な生き方。是非、堪能していただきたいと思います。
また、宇野千代氏は、どんなに年齢を重ねても、どんなに苦境に立っても自分を信じ、人生を楽しみ、「生きることは行動すること」と言い切り、その生涯に渡って、何かしら行動し続けました。ああ、何歳になっても好奇心と自己肯定感さえあれば、何とかなるもんだなぁ…と、不思議な勇気が沸いてくる一冊です。
ひとりでも生きられる 瀬戸内寂聴
人というものは社会というものに放り込まれると、おのずと自らの所属する社会の「道徳観、倫理観」と「自分の信念、自分の道徳観、倫理観」をすり合わせながら、バランスをとって生きていかねばならなくなります。
瀬戸内寂聴は、それらの体験や葛藤を(私)小説やエッセイで描くのが、とても得意な作家だと思っています。そして、あまりにも正直に赤裸々に持論を展開するため、その時代時代で波紋を呼んだのですが、その行動力がまた、爽快です。
出家なさった後だからこそ書けることかもしれませんが、彼女の人生は火のついた石ころのようなもので坂道を転がり落ちていきながら、周囲の多くの人たちを巻き込んで、さらに大きな火だるまになって、速度を上げて転がり続ける、私にとってはそんなイメージがあります。
恋愛の場数を踏んだ人間なら、恋愛に既成の道徳観や倫理観など通用しないことなど分かりきっていることでしょうし、逆に恋愛というものがそれほど収拾のつかないものだからこそ、それぞれの社会で道徳観や倫理観、法律などで厳しくそれらを戒める必要があるのだとも思えるでしょう。この「一人でも生きられる」は特に「愛」や「恋愛」について、また男と女のありようについての寂聴氏独特の持論が展開されています。
例えば上記のように倫理観や道徳感を飛び越したところで大きな火だるまに巻き込まれたとして、あるいは巻き込んでしまったとしましょう。私自身がそういうタイプだからそう思うのかもしれませんが、その時に怒り、悲しみ、深く傷ついたとしても、その一瞬に全ての情熱を注いだその時間というものは、私にはかけがえのないもので、ひとかけらの後悔もないのです。そして不思議と甘美な思い出になってしまったりするのです。そういったところが、私と瀬戸内寂聴をつなぐ共通の感覚なのではないかと思うのです。言うほど場数は踏んでませんけどね…
恋愛にしても、人生にしても、人は常に、これでもかというくらい、次々に決断をせまられます。一時的には「決断」から逃げることはできますし、「決断」を人にゆだねることもできます。ですが、決断から逃げれば状況は変わらないし、人の言うことをうのみにして失敗した人は、その相手を一生責め続け、自分をかえりみようとしなかったりします。そんなことにならないためにも、是非この本を読んでみてください。
恋愛や不倫、夫婦生活に迷う人々に、決断のヒントをもたらしてくれる良い本です。